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テーマがない。

たまにある。
何かエッセイなるものを書きたい。書くテーマはいろいろとあるのに手を動かしても何も進まず、折角書いた文字も削除していくだけの無駄な時間と労力が。そんな状態が今である。最初の2.3行書いてもそのあとが続かない。このもどかしさというのか思考の浅さというのかわからないが、これはこれでなかなかの苦しい時間である。そのため今書いているのはこの感情をどこにぶつけていいのかわからないまま文字を綴っている。
以前まで僕は下書きといのかテーマは決まっていてそれについて時間をかけて自分なりの気持ちを載せていくような書き方をしていた。例えば最後のオチを決めたらそのオチに向かうように書くとか、このフレーズを使いたいがために700文字を泳がせてそこにたどり着かせるような書き方をしていた。でも今はどうだ。全く持ってそんな高望みした書き方をしていない。料理の手法で使われる隠し味みたいなトリッキーなことはせず、ただただ使った素材と調味料の味しかしない料理を作っているようなものだ。だがその料理がおいしいと感じるときがたまにある。また、隠し味を隠し切れなかったこともある。
今の僕はきっと後者であろう。自分で何か書こうとするときは、自分という人間は変わらないのだが、どこかで自分を棚に上げ、自らを称え、疑問に対して正論(のようなもの)を投げることで自分は正当化されるような気分を味わいたい自分になっているのでないかと思う。つまるところ自分は人から嫌われることを極端に嫌い、嫌われることを恐れて嫌われる自分をどこか正当化しようとしている自分がいるのも確かなのだ。勿論、自ら嫌われることに徹する人は少ないと思うが僕はそれに異常に反応してしまう癖があるように思える。なんとも軟弱な自分であることか。
僕という人物を知っている人はこの文字を読んだだけで「あ、こいつイカレテンナ」って思うかもしれないがそんなものはもうとっくにイカレテルわけで、今更のことではない。また特に病んでいることもなく至って「普通」というこれ以上もない幸せの中で生活していると思い込んでいる。
ここまでこの文章を読み返すと自分が何を言いたかったのかが全く分からない。言葉にできない何かが心の中にあって、でもその何かを表現できるほど自分の語彙力もなくその表現方法も知らない。全くの無知である。子供のころは大人になればなんでも知っているような人間になれると思っていたのに、年齢を重ねれば重ねるほど知らないことばかりで自分の知識の無さにいつもの憂いを覚えるだけである。インターネットが普及した世の中でただ一人僕は頭でっかちになって大言壮語していただけのしょうもない自分である。でも、そんな自分は生きている。生きているからには死者に恥ずかしくないような生き方をしなければいけない。死者に「あいつの命とおれの命交換させたほうがよっぽど世のため人のためだぜ」なんて言われちゃだめだ。そんな恥ずかしい生き方はしたくない。そしてそんな死者を「ぐぅ」と言わせるほどの人間に自分はなりたい。でも今の自分は「ぐうの音も出ない」愚かな人間である。

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