ウズベキスタンで一番お世話になった、ある職人さんに謝りたいこと
ずっと書きたかったことがある。ある人にお礼がしたくて、同時に謝りたかった。罪悪感から逃れたくて、書くことから逃げていた。
どうしたらいいのかわからなかった。それに、何をしてあげられるのかわからなかった。私は中途半端に優しくして、結局相手を傷つけているのかもしれない、といつも思う。
その人はウズベキスタンで知り合った人。名前はJさん。男性で30代前半。彼はウズベキスタンの伝統技術を引き継ぐ職人さんで、ミニアチュールと呼ばれる、1ミリ以下の非常に細い筆で絵を描いていた。ハスティモン広場というモスクの近くにあるメドレセの中が、アトリエ兼ショップになっていて、いつもそこで仲間と一緒に絵を描いていた。
私はそのアトリエに、ウズベキスタンにいる間ほぼ毎週通っていた。なぜかというと、職人さんからミニアチュールを教わっていたから。
派遣される国がウズベキスタンだと通知されてから、私はウズベキスタンのことを調べた。そこで青い都と呼ばれるサマルカンドの街に、美しいモスクがあることを知った。モスクにはモザイクタイルが敷き詰められていて、私は行く前からその虜になった。そして派遣される2年間の間に、このモスクを作っている職人さんから技術を教わりたいと思った。
しかし私の住む地域はタシケントで、サマルカンドはだいたい東京から大阪くらい離れていた。私はどうにかしてモザイクタイルの模様の美しさを学びたいと思った。
ウズベキスタンに住んで1ヶ月目は、隊員は現地の家にホームステイをすることになっている。その家族に、ウズベキスタンの模様の美しさを勉強できるところはないか、とまだつたないウズベク語で聞いてみたら、ミニアチュール職人のJさんを紹介してくれた。タイルではなかったけど、実際にJさんの作品を見たらその複雑さがタイルの模様と似ていて美しかった。下の写真が実際の作品。
Jさんは快くOKしてくれた。私はボランティアとしてウズベキスタンに行ったのに、逆に彼からボランティア精神を教えてもらった。レッスン料はもらわないと言ってくれたのだ。そして、狭いアトリエの中に机と椅子も用意してくれた。絵の具やそのほかの画材もほとんど貸してもらった。私はお金を払うと何度も言ったけど、大丈夫だからと押し切られた。
彼は自分の仕事で大変忙しいはずなのに、私に親切に教えてくれた。家から20分ほど車で行かなければならず、遠くはないけど近くもなくて、PCインストラクターとしての活動で疲れているときは、さぼってしまうこともあった。そんなときも彼は私を責めず、「職人はとにかく描かないとうまくなれないんだよ。君は才能があるから、来て描いてみなよ」と言ってくれたのだった。
とても敬虔なムスリムで、職場がモスクだから行きやすいのもあるけど、毎日5回モスクにお祈りに行っていた。本当に心が綺麗な人だった。「毎日、より良い人になれるように成長していかないといけないんだ」と言っていた。目が澄んでいて綺麗だった。
ムスリムではない私のことを、なぜムスリムにならないのかと責めるような職人さんも中にはいた。毎日海外の観光客が来るモスクだったから、まったく理解がないわけではないのだろうけど、無宗教である私のことを心から理解していた人はあまりいなかったと思う。
それでもJさんは私を信じてくれた。同じ部屋の仲間が他に二人いて、みんなでよくふざけて話をした。いつも笑わせてくれる人ばかりで、笑いは世界共通なんだなあと思った。日本のけん玉を持っていって、よく一緒に遊んだりもした。みんな楽しそうに仕事をしていて、お金がなくても幸せそうだった。
海外で友達とも家族とも離れて、自分の居心地の良い居場所を見つけるのは大変だと思う。私はもしJさんがいなかったら、どうなってたんだろう。活動もうまくいかなかったし、ウズベキスタン人のJさんが優しくしてくれることが、私にとっては救いだった。
コロナになって、突然帰ることになり、私はJさんとその仲間になんのお礼もできていない。一度日本から持ってきた絵の具をプレゼントしたことはあるけど、それだけでは全然足りないと思っている。
あんなによくしてくれた人に、何もせずに終わってしまうのはいやだ。私は軽率だった。私とJさんの間にはこんなに色々なギャップがあるのに、ただ一緒にいる時間が楽しくて、その先のことを考えられなかった。私の実力不足もある。もっと技術があれば、何かアドバイスできたかもしれないのに。
途上国と先進国の間にある溝は信じられないほど深い。どうしたら少しでも埋められるんだろうか。先進国に生まれた私は、どうすればいいんだろうか。協力隊に参加したのに、未だ答えが見つからない。
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