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知識を蓄えることや、学びを深めていくこと。
これは、それそのものよりも、それをどう使うかが大切なんだろうなと、改めて感じた。

新しく知ったことを誰かに話したい、さらには、それを知らない他者に対して教えてあげたい、といった気持ちは誰にでもあるものだろう。その多寡はあれど。
見せびらかしてもどうしようもないのにな、と思う。自分の見識をひたすらに深めることにこそ面白さがあると個人的には感じる。人にそれを話すことがある場合は、それが結論なのではなく、対話の中で、話したことがどう転がっていくかや、自分の感覚が変化していく可能性に意味があるのだろう。
とくに大人になってからの学びは、与えるものでも与えられるものでもなく、望んだときに得にいくものであって欲しいと私は思う。

学ぶことは楽しいと思いながらも、すべてがそうとは思わない。学ばなくて良さそうに感じることもあれば、お前からは学びたくないわという相手もいる。そういうものだと思うし、学びたい・知りたいタイミングで、然るべきルートから仕入れた知識を、一般論や他者の見方と照らし合わせながら、自分のものとして確立させていく。その繰り返し。
例えば何かをやらかしてしまったとして、それが大事になってしまったとき。今は、方々からありがたいお言葉が降りかかるわけじゃないですか。それが、いわゆる誹謗中傷にあたらないものだったとしても、晒し上げるように、当人になのか大衆に向けてなのか分からない「学び」を振りまく連中がいますよね。あれ、見てて一番きつい「学びの与え方」だなぁ、と最近思いました。
こういうのを書くのもそれに近しいものかもしれないけど、押し付けがましい学びの強要としてではなく、観察と考察の共有として表現するにはどうするのが良いのかを、書きながら体得したい。


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