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藍坊主 "みなぎるシルバー" 渋谷WWW X 2024/07/21

ミズカネ再現ツアーのファイナルに行ってきました。
ライブはもちろん最高で、当時の思い出・当時感じたミズカネというよりも、まさに今この時に鳴る音を全力で楽しみ、そこに思いをはせる時間でした。
そこでのぶつかり合いの記憶は、その場限りでガッツリ昇華されてしまった!
だから逆に、ここでは思い出を軸にしてみようと思う。

私としては、『ミズカネ』のツアーのファイナル公演に参加できたこと、これに対する感慨がとても大きい。
発売後のレコ発は、恵比寿リキッドの公演に行った。たしかその後、野音で追加公演が行われることが発表された記憶がある。当時大学生中盤だったんだけど、ちょうどその時期が一番金がなかったころで、泣く泣く野音のチケットを断念した。
その後、ライブDVDが発売される頃には少しマシになっていたので購入した。観るたびに悔しさが募っていった。このライブDVDについては別途再現ライブが行われ、それには参加できた。それはもちろん最高の公演だった。
しかしやはり、『ミズカネ』のツアーのファイナルに参加する、というのは一つ違った高揚感があった。
ライブ中に思い出すことはなかったけど、終わってから改めて思い返した。あの頃に感じた、金を理由にあらゆる音楽体験を諦めたくないという感情!
これは間違いなく、今の私の生活における行動原理になっているし、その思いのままに生きてきて良かったなと思えた。

藍坊主は、私が初めてライブハウスで観たバンドだ。2008年末のコーストでのライブ。
ライブハウスで観る・聴く音楽は、それまでに私が感じてきたものとは異なる趣があった。それ以降、音楽の聴き方もどんどん変化していった。突き詰めて聴くようになった。その感覚は今も加速し続けている。
ライブハウスを教えてくれた藍坊主には格別の思いがあり、ライブに通うようになってから初めて発売された藍坊主のアルバムが『ミズカネ』だった。
当時はそこまで数多くライブに通っていたわけではない。だから、音源を聴いてその感覚を基にライブで楽しむ、といった向きでの印象が強かった。
しかし例えば、『ミズカネ』に収録されているうち、”創造的進化”は”シータムン2”という仮題で何度か演奏されていたし、”沈黙”はシングルc/wで音源化される前に、曲の原型の状態でまずライブで演奏された。これは当時の私にとっては、とても新鮮な体験だった。

『ミズカネ』は、フルアルバムとして完成されている一枚、というのが当時から変わらない思いだ。
1曲目の”低迷宮の月”は、当時の藍坊主にあまりなかったタイプの曲で、それでいて素晴らしい曲でもあり、一気にこのアルバムの世界に受け入れられるような感覚があった。ライブで聴く回数はそこまで多くないのだけれど、この日もまた、ギターソロのパワーがものすごかったです。
アルバムに収録されているすべての曲に対してさまざまな想いがあるのだが、”マザー”に対しては格別のものがある。私は家族との関係が悪く、それまで、少しでも家族愛のような匂いを感じる創作物を避けてきた。この曲に触れて、何度も何度も歌詞を読み込んでいくなかで、すべてを受け入れることはできなくても良さを感じることは出来ることがわかった。とくに、「なぜそうなってしまうのかっていうこと」という考え方は、今なおとても大切にしている。
『ミズカネ』以外の曲で言えば、”小さな哲学”が聴けて嬉しかった。藍坊主は、作品ごとに最高を更新し続けているバンドだ。だから私は、フルアルバムでは『Luno』、ミニアルバムを含めれば『月の円盤』を最も好んでいる。
その中でもこの曲は、コロナ禍を経て自分なりもいろいろなことを考える中で、強く強く刺さるものがあった。ぜひこの曲が、今後のライブにおけるキラーチューンになってくれないかと願ってやまない。それほどに好きな曲だ。

藍坊主には、ライブに纏わるいろいろな感情・向き合い方を芽生えさせてもらっている。
とにかく音楽を楽しむこと。音源とライブの双方向的な関係。
そして、素晴らしい音が鳴っていれば、どんな空間でも楽しいということ。
ライブハウスは私にとって、お世辞にも全てが素晴らしい空間だとはいえない。しかし、その場で負の感情が生まれた場合でも、そこで鳴る爆音が素晴らしければ、その感情ごと吹き飛ばしてくれる。だから、ライブに通い続けられている。
このことは、特に藍坊主から教わったことだ。
この日は、それを改めて認識することができたし、それが『ミズカネ』のリバイバルツアーファイナルであったことにも、何か意味があるんだろう。

年末の百景が心から楽しみだ。今年こそリクエスト通ってくれ!

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