見出し画像

音故知新 BUMP OF CHICKEN 前編

過去の思い出話が多分に含まれるけれど、これは紛れもなく私とBUMP OF CHICKENとの関係の記録です。

来週、バンプのライブに行く。
初めて行ったのは2006年のrun rubbit runツアー幕張メッセ。
しばらく空いて、2014年のWILLPOLISツアー東京ドーム。
それ以降はコンスタントにライブに通っている。

これを書こうと思ったのは、今回のライブを迎えるにあたって並々ならぬ気合いで聴き込みをするにあたって、昔のことを思い出したからだ。
この気合いの理由は、ここ数回のバンプのライブに臨むにあたって、甘えているなと思ったのが大きい。高校生のうち、2年ほどの期間、狂ったようにバンプの音楽ばかりを聴いていた。そのときの蓄積に寄りかかりすぎているなと感じることがあった。
だから今回、そのときから15年ほど経って覚えた聴き方をフル動員して、改めてバンプの楽曲を聴き込んでいる。

バンプとの出会いは、高校一年生の初め頃。
当時の同級生Kが周りに貸して回っていたMDに入っていた"オンリーロンリーグローリー"を聴いたのがきっかけだ。大袈裟でなく、一瞬でこの曲に取り憑かれた。既発の作品を可能な限り入手し、以降の作品からフラゲ日にCD屋に走る生活を始めた。
この時期にバンプに出会えたことは、今振り返れば私にとって本当に大きな出来事だった。
高一の終わり頃から、人間関係であったり色々なことが軒並み上手くいかなくなった。友達というものが何なのか、心から分からなくなった。そんな日々に寄り添ってくれたのが、他でもないBUMP OF CHICKENの曲たちだった。その時も、当時できる限りのアプローチをもって楽曲を理解しようと試みた。聴くだけでなく、写経のように歌詞を書き写したりもした。
この姿勢は、間違いなく今にも生きていて、無理に人間と上手くやらなくても、音楽がある。でもそれは生半可な気持ちで出来ることではなくて、作り手が魂込めて作っているものを理解するために、こちらも出来うる限りのことをしようという向き合い方として続けているつもりだ。

私が初めて行った2006年のライブの同行者は、私を爪弾きにするメールマガジンのようなものを回していた(と思われる)人物だった。
確定でないのは、確定させなかったからだ。2005年の秋ごろ、ある日の放課後、対象を伏せた形でニチャりながら茶化すような文面が届いた。複数人に送信されており、私を含め同じ部活のメンバーに送られていた。それも、わりといつも行動しているメンバー宛てに。私は派閥的なものに属していなかった、もとい受け入れられていなかったのだろうから、その集まりには居たり居なかったりだったし、なぜ送信先に私が入っていたのかは分からない。しかし、そこに書いている内容は十中八九、私のことだろうなと推察出来た。
そのメールが届いた時のことは今でも情景が浮かぶ。部活のない日の放課後の談話室で駄弁っていた時のこと。「第簏号」というタイトルのメールが届いた。送信者も、私を含めた5人の送信先も、全員がその場にいた。前述の通り、私のことだろうなという悪口が面白おかしく書かれていた。第簏号というからには6本目で、少なくとも5回分は、こいつらは私の悪口で楽しんでいたのか、とその時に思った。
「なあお前らケータイ出せ。このメールは何だ?」と問いかけると、全員が気まずそうに口を噤んだ。箝口令が敷かれていたのだろうか。せっかく獲物が目の前にいるのだから、イジメをしたいのならばすれば良いのに、多勢が無勢を相手に声一つ上げられないのだ。何だったのだろう?とりあえず帰って、音楽を聴いた。

もちろん冷静ではいられない。時間の経過とともに怒りは沸々と増していった。しかし私の通っていた高校は系列の大学への推薦があり、反撃にうって出ても私の推薦が飛ぶだけだということは想像がついた。何も出来ない連中を締め上げても損をするだけだと頭では分かっていても、込み上げる怒りや悲しみを抑えるのは難しい。もちろん誰のことも信用出来なくなるわけで、そんな心境で他者とどう付き合えばいいのかという引き出しも当時の私にはなかった。私は部活を辞めなかった。ダブルスのペアを組むのにも苦労し、部活以外の交友が狭かったから修学旅行やイベントごとの班・チームへの所属へは忸怩たる思いがあった。当然、そんな思いで生きる学校生活は、何一つ楽しいものではなかった。
後になって気付いたのだが、こういった出来事はまさに呪いである。
時が経つにつれ、そのものに対する感情は薄らいでいく。それに反比例するように、「推薦を理由にそいつらを見逃した自分」に対する苛立ちが育っていく。そちらを受け入れることの方が、苦労した記憶がある。誤解を招かないように書き記しておくが、メルマガに関与した全ての人間を、私は生涯許してやるつもりはない。


誰も信用出来ないのなら、音楽にのめり込み信じれば良い。そう思わせてくれたのが、BUMP OF CHICKENの楽曲である。その中でも特に、ハルジオンという曲に、どれほど救われたことだろう。文字を連ねておいて申し訳ないが、言葉では容易に表せないだけの感謝があることだけを記しておく。


疑念が大勢を占める人間関係は続いていく。そんな中、バンプのライブチケットが余っているという誘いを受けた。同じ部活のほぼ幽霊部員で、佐倉市に住む男からだった。2枚余ってるんだけど誰かどう?みたいな感じだった。
私はもちろん、いの一番に飛び付いた。しかし私が飛び付くと、後に続かないわけですよ。そうこうするうちに残りの1枚を手にしたのが、他でもない、例のメルマガの送信者だった。
不思議と迷うことはなかった。音楽を聴くことにのめり込む様になって、まだそれ程時間は経っていなかったはずだ。しかしその時点で、負の感情は音楽体験に優越しないことに、どこかで気付けていたのだろうと誇っておく。憎しみも怒りも超越した、大切なものになってくれたBUMP OF CHICKENの音楽に重ねて感謝したい。
当日は部活の試合終わりに会場に向かった。初めてのライブ。もちろん記憶は、凄かったなぁ、という感覚に支配されている。当時の私に忠言をするならば、どうせ喋らないんだから始まるまで音楽聴いとけよ、だろうか。


高校三年生になる頃には、開き直ったような人付き合いを覚えた。あれは何だったのだろう?今では逆に難しく感じるようなものだった。それまでとは異なる環境に身を置きながら、推薦を勝ち取るための勉強を乗り越えた。時間と心に余裕が生まれたことで、少しずつバンプ以外の音楽も聴くようになっていった。そこで出会ったバンドの一つが藍坊主である。

高校生活の終わり頃、orbital periodが発売された。
絵本仕立ての歌詞カードと共に描かれる、壮大な巡りの話。
頭のどこかで、たしかに28歳を意識する様になった。とても前向きな気持ちにしてくれた。
言ってしまえばクソみたいな日常を乗り越えられた自信は過信となり、その過信と共に私は大学生になった。
そんな私を見送るように響き続けてくれたアルバムだ。このアルバムを境に、私はあれほど大切に思い、しつこい程に感謝を述べていたBUMP OF CHICKENから少し離れることになる。時間をかけて色々な音楽を聴き、バンプの曲を聴く時間は減っていった。過去の自分がずっと嫌いだったから、それに重ねるようにその時期聴いていた曲たちにまで否定的な思考を持つ期間があったかもしれない。


そんな期間を、それでもBUMP OF CHICKENを自分ほど嫌うことは出来ずに過ごし、COSMONAUTが発売された。
2010年。
このアルバムと向き合い続けた時間が、自分勝手ではあろうが、私とBUMP OF CHICKENとの関係における現在に至る関係に通じている。
趣味と向き合ううえでの大切なことは今でも、"イノセント"という曲に教えられたと思っている。



後半に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?