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無性に何か書きたいときがある

 無性に何かが書きたくなるときというのがたまにある。
 指がうずうずして、キーボードの上で踊りたいという欲だ。
 ツイートなどでは収まらない、長文、それも500字を超えかつまとまりのある文章を書かなければ収まらない欲である。
 今日もそれに囚われた。
 それで。
 日記は夕方になってからにしようと決めていたのに書いてしまっている。現在時刻は13時半、朝から何か書きたくて書きたくて仕方がなかった。しかし日記を朝書くわけにもいかないと思って我慢してSNSなどを見ていた。
 結果、無為に数時間が吹き飛んでいった。

 今日の昼食は月見うどん。適当にささっと作った。出汁は買ったものを使ったが、正直自分で作った方が美味しかったと思う。

 なんでも自分で作った方が美味しくできる。それはそう。自分の味の好みを一番よくわかっているのは自分だからだ。しかしながら、「他人に作ってもらったご飯が一番美味しい」という言葉もある。それもそう。料理の労力を知っているからこそわかることだなどと知った風なことを言ってみる。
 かくいう私は料理は全然ダメである。わはは。

 noteは割と改行しなくても読みやすく作ってあるような気がする。行間が広めに取ってあるからであろう。私のサイトなどはPCからだと行間が詰まり気味かつ字が小さいので大変読みにくい。悲惨すぎて笑ってしまう。わは。

 己の技量が低いというつらさに囚われて、SNSを見続ける時間がじわりじわりと増えている。
 SNSを見続けるということは、そこに微量程度含まれている毒を摂取し続ける、ということでもある。だんだん気分が悪くなり、不安定になっていく。社交不安やら何やらの発動である。心安らかであろうとするならばSNSは閉じておいた方が肝要なのかもしれない(XとMisskeyが同時に開かれているタブを横目に見ながら)。

 Pixivなどを見ながらどうして私ではない、とか、私は頑張っているのになぜ、とか思って焦って何も作れなくなっていくのが「創作負のサイクル突入」である(造語)。
 そういう気持ちを作品に昇華できれば良いのだが、現実はそう上手くは行かない。悲しいものである。
 何かを諦めきれない、何がって評価がである。
 評価、評価に私はずっと囚われてきた。なぜこうも囚われるのか、それは、私がプロを目指していない≒創作を仕事にしていないからなのだと思う。
 総評や金銭的リターンがないから、見ているヒトからの評価を求めるのだろう。
 ニンゲンは何かしらのリターンがなければ何事も続けることはできない、と言う。何でもいいから脳の報酬系を刺激するような何かが。
 0いいねが私を蝕んでいく。いやもうそんなくだらないことで蝕まれるなという感じだ。

 とここで書籍の校正を残していることを思い出したので作業に戻ろうと思った。
 悲しいかな、創作の民は休んでいても休めない。

 いつものようにため息を吐いて、

 おわり。

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