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意味は後からついてくる

コロナ禍によって、いろんなものの価値が問い直され、それぞれの個人の中の価値観も揺らいでいます。

人が集まること、家族との時間、仕事の進め方、通勤や住む場所、料理や食べ物、服装、音楽、スポーツなど、いままで当たり前だと思っていたものがどれだけ貴重か、そして当たり前だと思っていたものがどれだけ無駄だったか。そんな「当たり前の変化」が次々と起こっています。

リーマンショック以降言われていた、行き過ぎた資本主義への反省。株主価値の最大化ではなく、従業員や地域社会まで含めた多様なステークホルダーと価値を共有する、旧くて新しい「三方よし」的な考え方へのシフトも、これを機に急速に進んでいる気がします。

一方で、データを蓄積し、ロボットやAIで効率を高めた私たちの暮らしは、今後どのように変化していくのでしょうか?

悲観的ニュースで溢れるメデイア、誰かを叩いたり自己顕示的な言説で溢れるネット上の議論に触れていると、我々は生き急いでしまっているように思えてなりません。

なんとなく、思ったこと感じたことを書いたり、誰かと話す。だらだらと時間を過ごす。ふらっと旅に出てみる。何も調べずに気になったお店に入ってみる。自分の感覚や感性に身をまかせる。そんな無目的な時間の過ごし方が、私たち人間本来の感覚を呼び覚ましてくれるのかもしれません。

もちろん、コロナ対策で今できないこともたくさんあり、やらなければいけないことも目の前にはたくさんあるのですが、合理的な行動や効率に縛られた生活を一度あえて崩して、自分の感覚や気持ちに素直になる時間を過ごしてみることも、すごく大事だと思うのです。

人は、語れる部分と語れない部分の両面から成り立っています。一見意味のないようなことにも意味がある。意味に縛られずに、自分の今を生きる。意味は後からついてくるくらいの感覚でいたいものです。

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