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【ユークリッド空間の戦争4~6の解説】

 役割疎外とは廣松渉が『存在と意味』で書いていた言葉だ。
 疎外についてはいろんな哲学者が語っている。
 有名なのはヘーゲルくらいからかな。
 ヘーゲルとかマルクスとかサルトルとか。カタカナで書かれる哲学者はどこかよそよそしい。できれば、知りあいのようにひらがなで、さるとると語りたい。でも、それは私の解釈なので、それも実体と名称にギャップがある。偉い人の権威を使う。自分は偉い人の偉い言葉を知っているのだと煙に巻く。そういう効果が「哲学」にはある。だから、私が語る哲学者の言葉は、勝手な解釈だと鼻で笑ってほしい。そして、ヘーゲルをそらまめ、マルクスをえんどうまめ、サルトルをげんのしょうこうとか適当な名前で代用してもらって構わない。いやそのほうが気が楽だ。
 哲学は古代ギリシアで考えられていたとき、知を愛するという意味だった。知を愛する。自分が無知であることを知る。つねにそうだ。ほんとのことだ。世界中の知識で自分が一生に得る知識は限られている。読書量が多いことを自慢する人がいる。たかだか7万冊くらいを一生で読んだくらいで。でも、一冊も読まない人もいるしね。実は1冊と7万冊ってあんまり変わらない。知らない知識の量からすれば、目くそ鼻くそ。知識は大事。でも自分がいかに何も知らないということを知ることの方がもっと大事。
 そくらてすはそう考えた。このばあい、そくらてすはぷらとんでもある。そくらてす=ぷらとん。じょんれのん=ぽーるまっかーとにーみたいなもの。ここで、そくらてす=ぷらとんは、あまちゃづるちゃ=とりかぶとくらいに変換しておいてほしい。そのほうが気が楽だ。

 労働疎外。ヘーゲルが考えた。
 人間は何かに働きかけて何かをつくる。それが対象となる。でも、それはもはや自分ではない。別のものである。働いたものが自分のものにならない。
 それをマルクスは商品という流通するもので考えた。価値という概念で考えた。
 使用価値と交換価値。ものは使われるためにある。最初は自分が使うため、暮らすため、自分の家族が生存するため。でも、だんだん村が大きくなると、釣りをして魚を捕る人が、山でわらびを採るひととものを交換するようになる。交換価値。そう、人々はなんでも交換したがる。機織りは布をイスタンブール経由のインドの胡椒と交換するようになる。リンネルがどうしたこうした。
 人間が機械と電気を発明すると、もっと複雑になる。
 工場主はおおぜいの村人を集めて、自動織機で布をつくる。たくさんの布をつくる。工場主が服を仕立てて一生着ても着れないくらいの布を作る。誰かの布。誰の布でもない誰かの布をつくる。最初はこころを込めて。でもこころを込めなくてもほとんど同じ布はできる。
 やさしい村娘は朝から晩まで誰かのために布を作る。工場主は給料を支払う。村娘はそれで生活し、休みの日に芝居を見に行く。トランポリン舞踊団がそこで踊っている。村娘はうっとりする。
 でも、工場主は勝手に自分の取り分を増やす。村娘に断りもなく勝手に。そういうしくみ。
 フォイエルバッハは神が苦悩を奪うと思ったけど、マルクスはブルジョアジーとしての工場主がプロレタリアートとしての村娘の剰余価値を奪うととらえた。

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 サルトルは違った。マルクスの考えは否定しないけど、見る人と見られる人の問題でもあると思った。サルトルはひどいやぶにらみだった。比喩ではなく、そうふう風貌だった。コンプレックス。彼をコンプレックスが支配していた。自分はもっと賢い完璧な人間である。でも顔かたちはそうではない。他人は自分をひとりの醜い男と見る。わたしのなかのギャップ。克服しがたいギャップ。それは高須クリニックが解決できる問題ではない。高須クリニックが解決できるのは、克服したいギャップのほんの一部の問題だ。マイケル・ジャクソンはその罠にはまり、自分のアイデンティティーすら失った。
 マイケル・ジャクソンはその罠にはまり、自分で自分の命を絶った。

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 人間は生まれてきてしまう存在という避けがたい宿命。サルトルは、実存は本質に先行すると思った。1945年にそういう講演を行った。熱気あふれる講演だった。二つの世界大戦の終わりにふさわしい講演だった。
 いやいや、本質なんかない、何者にでもなれるのだとマルクス・ガブリエルは、サルトルの、サルトルの実存主義の考え方をさらに進めた。本質に実存が先行するのではない。本質などないのだ。人間に本質などない。実存があるのだ。人間はなんにでもなれる。悪魔にも天使にも。真実などない。いや真実があるなどという命題を考えることが間違いなのだ。その問いが間違いなのだ。いやそれは、実はカントも言っていたことなんじゃないのか?
 人間はなにものにもなることができる。ドイツ人のマルクス・ガブリエルはカントの道徳論を信じているのだ。それは一種の信仰かもしれない。ドイツ人がもつ信仰かもしれない。ナチスドイツを生んだドイツの反省かもしれない。人間は善を行う。類的存在として生きることが善を行う。言葉は道具である。カント、シェリング、ヘーゲルが格闘した認識論は意味がない。人間は類的存在であり、自由のイメージはすべてのドイツ人がもっている。その領土を侵されない自由の概念、自由のイメージ。
 われわれは考える前に感じる。いや感じるときに考える。考えると感じるは同じ。
 ひとはイメージを誰かにことばで伝える。そのひとの頭の中にもとのひとのイメージができる。ことばはそのための道具。そこに魂は宿っていない。ことばそのものに魂など宿っていない。
 そして役割疎外。
 これは廣松渉が、それらヘーゲルやマルクス、サルトルなどの格闘からヒントを得た。いや、PTAの集まりで自分が威厳のある父親を演じたときかもしれない。
 マルクス・ガブリエルが有名になる前に、廣松渉は死んでいた。マルクス・ガブリエルはたぶん廣松渉の存在は知らない。マルクス・ガブリエルは西田幾多郎の存在は知っていて、自分に似ていると言われていることも知っているが、廣松渉の存在は知らないのじゃないかな? いや知っているのか?
 家ではだらしない父親としての廣松渉がいる。かあちゃんに頭のあがらない夫としての廣松渉。日本を代表する哲学者としての廣松渉。
 でも、PTAの役員としてゴミ袋の配布係になったのかもしれない。ああ、そういうことにしとこう。ゴミ袋配布係としての廣松渉。
 かあちゃんの前ではだらしない廣松渉。日本を代表する哲学者としての廣松渉がゴミ袋をPTAの役員として哲学的に配布しなければならない。
 ゴミ袋における唯一存在としての文明的機能としての教室での使用価値。
とかなんとか言うわけない。PTAの人たちが引くよね。そんなひといたら。席をすこしずつ遠くにずらす。アホが伝染すると思って。
 でも、みんな現代社会では役割疎外に悩む。
 財務省公文書改ざん問題で命を絶った赤木さん。篆刻、書道、YMOが好きで趣味に生きる愛妻家の夫。こどもはいなかったけれど妻を愛していた。けれど国家を守る官僚として、公文書を改ざんしないといけない。時の総理大臣のきまぐれな言葉を、その地位を守るために。かいざんという犯罪を犯さなければならなかった。

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 役割疎外。趣味人と国家官僚の役割疎外。
 赤木俊夫とは誰か。その名前で呼ばれるものは何か?
 その言葉が表すイメージは、概念はなんなのか?
 結局、ソシュールのシニフィアン、シニフィエの問題。
 フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」がシニフィアン。
 シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味。
 日本語では、シニフィアンは「記号表現」「能動的に記すこと」、シニフィエは「記号内容」「所記」=「受動的に書かれること」「しるされるもの」という意味。
 たんなる記号としての言葉とそれが表す概念。
 そのずれがある。

 熊五郎はふたりいる。
 マニキュア族の軍曹にでもなっていた熊五郎、トランポリン舞踊団の兵士として戦っている熊五郎。
 熊五郎とは何か。シロ熊五郎的な存在とクロ熊五郎的な存在。同じ熊五郎という名前で表される。

 熊五郎は自分がなにものかわからなくなっていた。
 自分はいま物語を演じている主人公なのか。これを読んでいる読者なのか。それとも、この物語を世の中に知らせようとしている編集者なのか。いや、この物語を商品として売ろうとしている本屋の店主なのか。

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 ある人にこの物語を読んでもらいたかったんです。
 ある書店の店主に。
 三度ほど会って、取材記事を読んだり、数分間立ち話をしただけの書店の店主に。そのひとの考え方にはとても惹かれる。夢を実現している。私の夢。2km範囲内で革命を起こす私の夢。それはたんに2kmの商圏に住む人たちに本を提供するということ。ことばで書かれた物語、思想の体系、並べられた絵、古い民話、プロレスやナンセンスな文化、そんなとても大事なものを。脳で、頭とこころで考える人を増やすために。半径2kmの革命。

 この書店の店主は、昔、ほんの7年ほど前、もっと大きな書店の店長だった。雑誌も取材に来る知る人ぞ知る有名人。
 でもこの店長はその店の経営から離れた。書店が大きくなり、本だけでなく、ファンシーグッズも扱うようになった。にーずの問題。夕焼け製造会社がにーずを考えて、どんでもない緑の夕焼けを作らなければならないのと同じ問題。その店長はその店を去った。その経営者、店の人たちとシビアな議論をしたのかどうか私は知らない。だって、その店長の存在を知ったのはほんの数ヶ月前のことなのだから。
 でも、たぶんその店長の言葉は前の店の経営者、その店で働くひとたちの信念を揺るがせ、多くのひとたちを傷つけたのかもしれない。その店長は誰も傷つけるつもりなんてなかった。自分の夢、自分の信念、自分のアイデンティティーを守りたいだけだった。しかし、店長の吐く言葉は真理のロゴス。真理のロゴスはときに人を深く傷つける。信じられないくらい深い傷を相手に残す。

 熊五郎が私なら、物語を演じる私でもあり、物語を最初に読む読者としての私でもあり、本にしてそれを売る店主の私でもある。
 でも、この物語にほんとは値段をつけてはいけない。
 その店長には今その意味がわかるはずだ。
 客としての私が、あなたのレジの立ち話で話した言葉の意味が。

「あなたと話すことが私にとって貴重な時間なのです」
「えっ、それはコロナで外に出るのを自粛していたからですか。誰とも話さなかったからですか」
「いいえ、それは違う。わたしはあなたと話すためにここに来た。あなたの歩んだ道、あなたの革命、それをあらわす名前を持ったあなたと話すためにここにいる」
「・・・・・」

 この物語は無料で交換されるべきもの。
 その意味があなたには今わかる。
 これは、あなたとわたしの物語である。
 かけがえのないあなたとわたしだけの物語である。
 でも、あなたはこの物語を別のあなたとわたしの物語にもできる。
 そのまた別のあなたとわたしの物語にもできる。
 本というのはそういう存在。物語を、ひとつの物語を人類の理性にまで高めることもできる。
 革命家のあなたにはその力がある。
 その力を使っても使わなくてもあなたの自由。
 あなたには生まれてきたときから本質はない。
 人間に本質はない。
 あなたがその本質をつくるのだから。

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 でも、バンクシーの試みがそうであるように、資本主義システムのなかでは、どんな試みもそのシステムに取り込まれる。反抗すれば反抗するほど、このシステムはお腹を膨らませる。
 だから、せめてこころある編集者、心ある書店主に売ってほしい。この物語を、この詩小説を、新たな哲学書を。
 文芸批評は要らない。口の悪いおしゃべりはいらない。それはある若い女性プロレスラーを死に追いやったのと同じおしゃべり。無責任な書き込み。何の価値もないおしゃべり。自分のことばが無責任だって、テレビの取材で磨りガラスの向こうでしゃべってもとりかえしのつかない歴史。そう、あなたは心ない書き込みで歴史をつくったのだから。人は誰も人類の歴史を作っているひとつのパーツ。道徳のかけら。
 だから私は自分で解説を書く。こうやって解説を書く。私のおしゃべりが正しいイメージを損なわないように。

 正しいって設定が間違いなんじゃないか。
 あんたは真実があるという問いが間違いだと言ったじゃないか。
 すごい難問。
 そう言った。確かにそう言った。

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 でも、こう考えてほしい。
 物事を正しく見ることは必要なこと。世界は意味の場の意味の場….無数に繰り返される意味の場構造。これはマルクス・ガブリエルの認識論。
 でもそうだよね。
 宇宙とは何かという問い。
 これは一見、自然科学としての宇宙。宇宙物理学という脈絡の宇宙と、哲学の宇宙。宇宙=世界という宇宙の二重の意味のように思われる。
 自然科学としての宇宙。
 哲学としての宇宙。
 でも、自然科学としての宇宙って何だ。
 グーグルアースで地球を捉える。これはある宇宙衛星の位置の宇宙の一点から捉えている。
 では、太陽系の隅っこから地球を捉えるとどうなるか。もちろん見えないけど太陽系の端っこの一点から見た地球が見える。では、膨張している宇宙の端からみたらどうか。それも膨張している宇宙の端の一点からみた地球が見える。では、その外、膨張している宇宙の外からみた地球は? 宇宙の外って何? もはやそれは自然科学の問題ではない。哲学の世界の問題。自然科学としての宇宙と哲学としての宇宙ははつながっている。宇宙<世界。
 意味の場として正しく見る。それが正しく見るということ。
 何かの行動するとき、そこから選択肢が生まれる。

 熊五郎とロロにとっての選択肢。それはふたりで話し合って決めないといけない。どちらかが我慢することになるかもしれないけど、折り合う点を見つけないといけない。
 ロロが熊五郎のもとを去ったのはその折り合う点が見つけられなかったから。それは熊五郎側からみれば、熊五郎のせいである。けれどロロ自身の問題かもしれない。去るべき何かがあったのかもしれない。熊五郎ににはなんともしがたいロロのなかにある何かが。
 ふたりにとっていちばん善い選択をすること。それが道徳。プラトンからカントに続く人類の道徳。相手の身になって考える。その歴史を人類は歩んできた。デモクラシー、民主主義ってことばをあてたりして、概念を伝えようとした。
 でも、諦めることも大切。
 仏教では諦念っていうよね。おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し。栄華を誇るものもその終わりが来る。ロロに去ってほしくなくてもロロが去ることはある。それは諦めないといけない。
 諦めきれずに、熊五郎は代わりにトランポリン舞踊団のきれいな女性に恋をしたりする。恋はいつでも人間について回る。その対象がふさわしいかどうか?
 それは誰にもわからない。

 傷つけるつもりはないのに傷つけてしまう。
 愛している、恋していると思ってセックスしたのに、終わったらその女性とたんにセックスしたかっただけだとわかることがある。恋愛ってわからない。自分のなかで育つ愛情のマントル。誰かを求めるマントル。その対象が合っているのかどうなのか?
 すぐに違うとわかることもある。でも、何十年も連れ添って、何度もセックスして、こどもができて、こどもが成人して、結婚して、その後、自分のマントルが求めているものと違うとわかることもある。
 いや自分のマントルのほうが変わってしまったのかもしれない。
 熊五郎はトランポリン舞踊団のきれいな女性団員と恋をした。いやそれは錯覚だった。熊五郎のマントルがもとめていたのはロロだった。それは消しがたい事実だった。燃えるようなセックスで消せるものではなかった。きれいな女性団員は熊五郎のことを愛していた。マントルは間違いなく熊五郎を求めていた。
 熊五郎は何も言わずに別れた。疲れたとだけ言った。それは本当だった。きれいな女性に疲れたのではなかった。熊五郎は熊五郎であることに疲れた。自分は何者でもない。熊五郎を名乗る資格はない。そう思った。

 失恋の後、きれいな女性団員はより高く飛んだ。雲の上、いや宇宙の果てまで飛んでいたのかもしれない。見たことのない光を見ていた。
 きれいな女性団員のなかである概念は消えていた。すっかり消えていた。恋愛は永遠だという概念は消えていた。だから飛んだ。高く高く飛んだ。

 熊五郎に居場所はなかった。きれいな女性団員を深く傷つけた熊五郎には居場所などない。傷つけるとはこういうことだ。誰かを傷つけるとは、比喩ではなくこういうことなのだ。それは戦争で銃から鉄の塊を放ち、誰かの体を傷つけるよりももっと、もっと深く傷つけることになる。誰かのこころを、誰かのマントルを深く深く傷つけることになる。

 熊五郎は持っていた手榴弾からピンを抜き、投げた。それは敵陣から迫ってくるマニキュア族の無数の兎、熊五郎が支配すべきだった要領を得ないだけの無数の兎に。白い兎のひとつひとつに生命があり、肉体があり、こころがある。トランポリン舞踊団のきれいな女性団員と同じように、熊五郎が深く傷つけたこころ、マントルをもっている。そのマントルにむけて、熊五郎は手榴弾を投げた。
 爆発。
 水素爆発。

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 いや、それはたんなる水蒸気爆発。
 福島原発で見た美しい爆発。
 この世の終わりに見えた。
 この世の終わりがあんなに美しいのかと思った。
 人類が到達した科学的進歩。科学は人間の手でコントロールできると信じてきた。それはこれからも同じだろう。しかし、原子力発電というシステムは、放射能という毒を同時に生産してしまう。電気という薬とともに、放射能という毒をつくってしまう。
 それはあたかも熊五郎が誰かのなにかを愛そうとして、同時に誰かの何かを傷つけてしまうように。避けがたい世界。回避できないリスク。

 結局の所、誰も熊五郎を理解することはできない。トランポリン舞踊団の純粋野菜の団員も。心から理解したいと思っている男性団員も理解することはできない。若いきれいな女性団員も。身体で熊五郎を愛した女性団員も。
もちろんロロも。

 でも、それは「結局」という出発点。終着点が出発点なのだ。そこからすべてが始まるのだ。
 熊五郎が投げた手榴弾が爆発したのは、白い兎の大群のなかではない。熊五郎はそんなところに手榴弾を投げたかったわけではない。
 熊五郎が投げたのは、ユークリッド空間、それも熊五郎の知らないn次元のユークリッド空間。そこで、南の海で水爆実験の跡を知らせる円環の波が青い青い広がりを見せるように、n次元のユークリッド空間で、熊五郎の手榴弾が爆発した跡の円環が、いや球環がゆっくりゆっくり広がっている。
 すべてを失って、初めて生まれ変われる。
 臨床心理学者の河合隼雄はこういう意味のことを言っている。
 生まれ変わるためには死ななければならない。
 これは比喩でもあるし、本当のことでもある。生まれ変わりたいというのが口癖のひとは、結局、生まれ変わることはできない。
 自殺して、奇跡的に助かった人の多くは、なんであんなことをしたんだろうかと思う。
 そして別の人格を得たように生まれ変わった生き方をし始める。
 人を傷つけて、そのことによって自分も深く傷ついたとき、それを、はじまりと思えるのかどうか。
 投げた手榴弾の意味がわかる。
 手榴弾をむだにしてはいけない。
 手榴弾は自分が過去の歴史でつくったものなのだ。じぶんでせっせとつくった爆弾なのだ。自分の歴史でできた手榴弾をだれもが心身のなかにもっている。
 その爆弾で、ひとはいつでも自爆し、何者にもなることができる。

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