愛溢れるトリセツ

高瀬 甚太

 1970年、大阪万博が開かれた年のことだ。その頃、林田洋一郎は30歳になったばかりで、大阪の東成区の金属工場で工員として働いていた。
 「いい人がおるんやけど、見合いしてみないか」
 と、同じ工場で働く主任に話しかけられた時、林田は迷いなく二つ返事で了解した。それでなくても女気のない毎日だ。女性と知り合うチャンスもなく、せいぜい一杯呑み屋のおばちゃんと話すぐらいが関の山だった。そんな毎日だったから、結婚への憧れは常に強く抱いていた。
 釣書や写真など、面倒なことはすべて省いて、
「 とにかく、いっぺん会うてみて決めろや」
 と鷹揚な主任の言葉に後押しされて、林田が見合いを決めたのが、その年の九月だった。
 見合い前日まで仕事に追われていた林田は、散髪する暇もなく、服を買いに行くことも出来ず、一張羅のスーツを取り出して、普段、まったくしないネクタイを用意し、深夜一時近くまで悶々として眠れない夜を過ごしていた。
 顏も知らなければ年齢も知らなかった。情報など何も与えてもらっていない。何事にも大雑把でのんきな主任に、「どんな人ですか?」「背は?」「太っていますか? やせていますか」など、あれこれ尋ねても、「まあ、会うてからの楽しみや」と言うばかりで、はっきりと答えてくれない。一時は、あれこれ考え過ぎて、もしかしたら、とんでもない女ではないか。相撲取りのような女ではないか、おばあちゃんではないか――などと考え過ぎて、見合いの話を断ろうかと思ったほどだった。
 それでも、一度は見合いをする、と返事をしているわけだから、約束は守らないわけにはいかない。
 見合いの前日に、林田は主任に、
 「明日、一緒に来てくれますよね」
 と尋ねている。すると主任は、
 「アホか、お前、三十面下げて、一人で行かんでどないするんや」
 と、林田を罵倒するありさまだ。
 「でも、俺、相手の顔も名前も知らへんのですよ。どうして探せばいいんですか」
 と、抗議した。主任は一瞬、腕を組み、考えるそぶりをして、林田に言った。
 「待ち合わせの店に行ったら、首に名札をぶら下げといたらええ。相手が見つけてくれるわ」
 「何をアホなことを言ってるんですか。名前ぐらい教えてくださいよ」
と言うと、ようやく主任は、
 「しゃあないなあ。名前は佐藤みゆきや。店でその名前の女を訪ねたらええ」
 と、ようやく名前を教えてくれた。本当に見合いが出来るのどうか、林田は心配で仕方がなかった。

 目を覚ますと雨が降っていた。強い降りではなかったが、細かな雨、いわゆる小ぬか雨というやつだ。
 不安はあったが、それでも林田はウキウキした気分でいた。丁寧に髭を剃って、白いカッターシャツを身に着け、ネクタイをして、スーツを着る。じっくり時間をかけて用意した。鏡を見ると、いつもの髭面、作業着姿の自分とはまるで別人の自分がそこにいた。
 自信を持って外に出た林田は「佐藤みゆき、佐藤みゆき」と、名前を連呼しながら待ち合わせ場所に向かった。
 佐藤みゆきと落ち合う場所は、キタの茶屋町にある喫茶店『カーネギー』だった。何の変哲もない小さな喫茶店だった。ガラス戸に『カーネギー』と店名が書かれており、林田は、折りたたんだ傘の雨のしずくを振り落し、ガラス戸をゆっくり引っ張って店内に入った。
 「いらっしゃいませ」
 ウエイトレスがやって来て、席に案内された。約束の時間より10分も早く着いたので、来ていないだろうとは思ったが、念のため、林田は店内を見渡した。四人掛けの席が全部で10卓、そのうち5卓が埋まっていたが、女性客は一人もいなかった。
 コーヒーを注文し、緊張して待ったが、約束の時間になっても佐藤みゆきは現れなかった。5分過ぎたところで、もしかしたら来ないのでは――と林田は思い始め、10分過ぎたところで、騙されたのでは、と思い始めた。
 「お客さん、林田さんでいらっしゃいますか?」
 ウエイトレスに聞かれたので、林田は、
 「はい、そうですが……」
 と、答えた。すると、ウエイトレスは笑顔を浮かべ、
 「佐藤みゆきです。初めまして」
 と挨拶をした。
 「入って来られた時、そうじゃないかと思ったのですが、岸岡さんに聞いていた印象とずいぶん違っていたので、声をかけるのをためらいました。申し訳ありません」
 岸岡というのは、林田の会社の主任、今回の見合いをセッティングしてくれた人だ。
 緊張していたせいもあって、ウエイトレスの顔を林田はあまりよく見ていなかった。それにまさか見合い相手がこの店のウエイトレスだったなんて、思ってもみなかった林田は、それならそうと言ってくれればよかったのに、と主任を恨んだ。
 「岸岡さんは、私のことをどんなふうにおっしゃっていました?」
 気になったので林田は聞いた。佐藤みゆきは、白いエプロンを外しながら、
 「ちょっと待ってくださいね。着替えてきますから」
 と言って厨房の中へ入って行った。
 感じのいい人だな、と林田は思った。年齢は自分と同じぐらいか。落ち着いた物腰に林田は好感を持った。だが、その反面、あんなステキな人が自分なんかと――と思う気持ちがあり、林田は自信がなくなり、とたんに落ち込んだ。
 「お待たせしました」
 林田の前に座った佐藤みゆきは、改めて笑顔で林田に挨拶をした。ショートカットの髪の毛が小さな顔によく似合っている。笑顔が素敵な爽やかな印象の人だった。
 「岸岡さんは、この店の常連さんなんですよ。結婚したいと冗談半分で口にしたら、見かけは悪いけどいい男がおる、会うだけでも会ってやってくれないかと言いましてね。どんな顔をしていますか? と聞いたら、ゴリラ、いや、ゴジラかな。とにかく見かけは悪い。断然、悪いと強調して言うものですから、私、恐々、待っていたんですよ。そしたら、まるで違うから驚きました」
 ゴリラ、ゴジラ―、断然、見かけが悪い。何ということを言うんだ主任は、と林田は思ったが、だが、そのおかげで、佐藤みゆきは、ゴリラやゴジラよりいいと言って褒めてくれた。やっぱり、主任に感謝した方がいいかな――と林田は思い直した。
 「だって、ハンサムだし、紳士なんだもの」
 佐藤みゆきの言葉を聞いて、林田は思わず赤面した。ハンサム、紳士――、今までそんなこと、言ってもらったことがなかったからだ。
 「岸岡さんは、あなたのことをとても買っていますよ。いい奴だ、いい男だ、といつも言ってます。それで私もつい、会ってみようかなと思って、岸岡さんに、会ってみようかなって言ったら、岸岡さん、さっさと今日の日時を決めてしまったんです。岸岡さんは、見合いというようなものじゃなく、ちょっと会う、そんな感じでいいからと仰ったので、私、OKしました。見合いとか結婚とか、そんなつもりはなかったので、林田さんには本当に申し訳ないと思っています。どうか気を悪くしないでくださいね」
 やっぱり駄目か。林田は思わず肩を落とした。そりゃあそうだろう、こんないい人が自分と一緒になってくれるなんて、考えた方がバカだった。そう思ったのだ。
 「私の方こそ、申し訳ありません」
 コーヒーを口に流し込み、佐藤みゆきに深く礼をすると、席を立った。長く、話していると、ますます未練が募る、そう思ったからだ。
 レジで金を払おうとすると、佐藤みゆきが飛んできて、
 「林田さん、代金は結構です。今日は私がお呼び立てしましたから」
と、言う。
 それでも林田は、「そういうわけにはいきません」と頑なに断って、代金を払った。
 店を出て阪急電車の方に向かうと、いつの間にか、小ぬか雨は土砂降りの大雨になっていた。傘をさすのも忘れるほど、林田は気の抜けた人形のようになって、雨に打たれながらトボトボとアスファルト舗装の道路を駅までどこまでも歩いた。

 翌日、工場に行くと、主任が笑顔で林田を待ち受けていた。しょんぼりとしょげた林田の顔を見て、主任は、大きな声で言った。
 「どうだった? いい女だっただろう。お前には勿体ないと思ったが、泣く泣く紹介してやったんだ。どうだった。うまく行ったか?」
 林田は答える気になれなかった。見合いではなかったのだから、返事のしようがなかった。林田は主任を無視するようにして仕事に就いた。
 「そうか。ふられたか――。林田、気を落とすなよ。また、いい女、探してやる」
 林田の気持ちを理解しない主任は、林田の肩を思い切り叩くと、ガハハと大きな笑い声を上げて持ち場へ戻った。
 佐藤みゆきに会っていなければ、こんなにも落ち込まなかったのにと林田は思った。正式に見合いをして断られたのであれば、それはそれで納得がいく。だが、こちらが見合いでいたのに、向こうはちょっと会う、その程度だったことにショックを受け、気持ちの持って行き様がなく、混乱していたのだ。
 しばらくの間、食事が喉を通らず、夜も眠れない日が続いた。日に日にやつれていく林田を見て、さすがの主任も気になったのだろう。あの手この手で声をかけてくるが、林田は愛想のない返事をするだけだった。
そんなある日、主任が林田を誘った。
 「林田、今夜付き合え」
 と、半ば強制的に誘われたが、一緒に行く気がしなかった林田は、主任の申し出を丁重に断った。
 だが、この日の主任は、簡単に引き下がってくれなかった。
 「来んかったら、引きずってでも連れて行くぞ」
 と、すごい剣幕で言う。結局、林田は主任と一緒に会社を出ることになった。
 昼間はそうでもなかったのに、会社を出る時になると、途端に大雨が降ってきた。嫌な気分に囚われながらも、主任の後ろをついて歩いた。
 近くの居酒屋に寄るのだとばかり思っていたら、そうではなくて、主任は駅に向かい、電車に乗った。
 「主任、どこへ行くんですか?」
 と林田は尋ねるが主任は答えない。腹が立った林田は、よほど途中で帰ろうかと思ったぐらいだ。地下鉄を乗り継ぎ、三つ目の駅で下車した時、林田はハッとして駅の名前を確認した。佐藤みゆきの喫茶店『カーネギー』がある駅だったからだ。
 「主任、もしかしたら佐藤さんの店に行くつもりじゃないでしょうね?」
 早足で歩く主任の背中に林田は声をかけた。しかし、主任は黙って、何も言わない。
 林田は、これ以上、恥の上塗りはしたくなかったので、主任に言った。
 「カーネギーへ行くのなら、俺、帰らせてもらいます」
 すると、主任は立ち止まり、大きな声で林田を一喝した。
 「何をうじうじしとんのや。ほんまに好きやったら、何べんでもチャレンジしてみんかい。お前みたいなのは、女どころか男にも好かれへんぞ」
 そう言うと、主任は林田の腕をガッシと掴み、引きずるようにして喫茶『カーネギー』の中へ入って行った。
 「いらっしゃいませ――、あっ、岸岡さん」
 佐藤みゆきは、主任と林田を見て驚いた声を上げた。みゆきと目が合った林田は、ペコリと頭を下げ、
 「先日は失礼しました」
 と小さな声で挨拶をした。
 「いいえ、こちらこそ」
 と、みゆきは笑顔で応じ、「どうぞ奥の方へ」と林田たちを案内した。
店内には10人ほどの客がいて、テーブルのほとんどが埋まっていたが、みゆきは、わずかに空いている奥の席に林田たちを案内すると、その席に座らせた。
 「ホットコーヒーでいいですか?」
 主任は、コクンと頷き、林田に「いいよな」と確認した。久しぶりにみゆきに会ったことで緊張を隠せなかった林田は、まともに顔も上げられない。小さく頷くのが精一杯だった。
 林田たちが店を訪れた時間が、ちょうどこの店の忙しい時間帯だったのだろう。みゆきは一人で店内をあたふたと走り回り、ようやく落ち着いたのが半時間後だった。
 「ごめんなさいね。バタバタして、でも、ようやく一息つきました。それにしても岸岡さん、珍しいですね。こんな時間にやって来るなんて」
 いつの間にか、店内には林田たちを除いて五人ほどの客しかいなかった。それほど大きくない店だったが、結構、繁盛しているようだ。林田は最初、みゆきを雇われ店員のように思っていたが、どうやらそうではなく、この店の経営者であることを知った。
 「みゆきちゃんに会いたかったんだよ」
 主任がからかうように言うと、みゆきは笑って、
 「またまた、冗談ばかり言って」
 と主任の肩をポンと叩いた。
 すると、主任は急に大真面目な顏になり、
 「みゆきちゃん、冗談じゃないんだよ」
 と言う。
 エッというような顔をして、みゆきが主任の顔を覗き込み、聞き直した。
 「冗談じゃないって、岸岡さん、どういうことですか?」
 「俺じゃなく、こいつだよ。林田がみゆきちゃんに会いたい、会わずにおれないって言うんだよ」
 主任の言葉に驚き、主任の腕を掴んで、「主任!」と林田が声を出したのと、みゆきが林田を見たのは同時だった。
 「こいつ、先日、お前に会って以来、ずっとふさぎ込んで元気がないんだ。食欲もなければ、夜もろくろく眠れないようで、仕事をしてもミスばかりしている」
確 かにみゆきに会って以来、林田は落ち込んでいた。仕事のミスも、そこから来ているといっても決して過言ではなかった。だが、そんなこと、みゆきの前で喋ることではない、そう思った林田は、主任に抗議をしようと思ったが、できなかった。みゆきが林田の前に座ったからだ。
 「林田さん、ごめんなさいね。でも、私、あの時、決してあなたを嫌いだとか、そんなつもりで言ったわけじゃないのよ。岸岡さんと話した、結婚したいというのはあくまでも冗談で、見合いもするつもりじゃなかった――と言うことを説明したかっただけなの。そのことをわかってくださいね」
 思った通り、みゆきはやさしい女性だった。林田を傷つけないよう配慮して気遣ってくれている。林田はそう思った。みゆきの言葉を聞いて安堵した林田は、みゆきに、
 「ありがとうございます」
 とわけのわからないお礼を言って、コーヒーを口にした。
 「俺は、どうしてもみゆきちゃんにお前を合わせたかったんや。こう見えてもみゆきちゃんは苦労人でな。二十歳の頃に一度、結婚して失敗して、苦労してこの店を開いた。男はもうこりごりだと、いつも口にしている。そんなみゆきちゃんに、俺は、男にもいろいろある。素朴で気の付かん奴だが、めっちゃ、ええ男がおる。いっぺんでいい。会ってやってくれへんか、と頼んだんや。真面目で何をやるにも一所懸命で手を抜くことを知らん。みゆきちゃんのことをきっと一生大事にしてくれる、俺はそう確信したんや。見合いやと嘘をついたのは悪かったが、そうでも言わんとお前はこの店に来んかったやろう」
 主任の思いも知らずに腹を立てていたことを林田は改めて恥ずかしく思った。
 「主任、申し訳ありません」
 主任に深々と礼をした林田は、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
 「あの後、俺は気になって、みゆきちゃんに聞いたんや。林田という男が訪ねてきたやろ。どうやった? と。すると、みゆきちゃんは、一度会っただけでは何もわからないわ、と言った。そりゃあそうだろう。みゆきちゃんは外面を見ただけで判断する女やない。付き合ってみないとわからない、そう思ったのは当然やないか。それやのにお前は、振られたと思い違いをして飯も喉を通らん、眠れない、仕事も手に付かない状態になってしもうた。――林田、それほど思うんやったら、何でアタックせんのや。みゆきちゃんに嫌いや、とはっきり言われたら別やけど、そうやなかったら、もっとぶつかってみてもいいんやないか」
 主任の言う通りだと林田は思った。あの時、林田は、見合いではなかったことを知り、ショックを受けたのと、みゆきに結婚などする意志のないことを知ってダブルショックを受けていた。それに、みゆきのような素晴らしい女性が自分を好きになるなんてあり得ない、その気持ちが林田に絶望感を与えていたのだろう。自分を卑下する気持ちがさらに自身を追込み、林田はこの数日間、深い泥沼の中へ落ち込んでいたのだ。
 「林田さん、私はバツイチの女です。最初の結婚は、一年で破綻しています。信じて愛した男が、浮気をしてその上、私に暴力を働いた。それが原因でした。別れた後、必死で働きました。男に頼らない生活をしたかったのです。でも、寂しがり屋の私は、すぐに次に現れた男の人を好きになりました。三年付き合って、再婚を考えましたが駄目でした。その男性には妻子がいたのです。ずっと私に黙って、独身と偽って私と付き合い続けていた。そのことを知った時、私は自分の男を見る目のなさをはっきりと痛感しました。自分はきっとまた、おなじ過ちをするに違いない。そう思うと恋したり愛したりすることに臆病になってしまいました。岸岡さんに結婚したいと漏らしたのは、半分冗談だったかも知れませんが、半分は本音です。自分では見つけられなくても、他人になら自分に合う男の人を紹介してもらえる、その期待感が多少はありました。だから岸岡さんにあんなことを言ったのだと思います」
 みゆきが林田を前にして言った言葉だ。だが、林田の腹はその時、すでに決まっていた。
 「みゆきさん、ほんの少しの間で結構です。俺とお付き合いしていただけませんか。俺は、見ての通り、何もない平凡な男です。でも、あなたを思う気持ちは、誰にも負けません。あなたと初めてお会いして以来、俺は、あなたのことばかり考えていました。付き合って、嫌だと思えば、いつでも結構です。はっきりと断ってください。でも、悪くないなと思ったら、その時はぜひ、俺と一緒になってください。俺は一所懸命、あなたを愛します」
 林田の熱意が功を奏したのか、主任のバックアップが良かったのか、みゆきは、
 「少しの間でよかったら」
 と控えめな返事をして、林田の申し出を受け入れた。

 以来、林田はみゆきと二年に亘って親しく付き合いをした。
 「少しの時間でよかったら」
 と、付き合う前にみゆきが言った言葉は、おそらく、その時のみゆきの本音だったのだろう。主任の手前、無下に断ることも出来ず、土下座せんばかりに交際を願う林田の気持ちに負けて渋々了承したというのが、みゆきの偽らざる気持ちだったと思う。
 五度目のデートの時、林田は、日曜日を利用して六甲山へ二人でハイキングに行った。
 みゆきから、休日によく一人でハイキングに行くと聞いていた林田は、その日、みゆきを六甲山へ誘った。そろそろ、断られる頃だと思っていた林田は、何とか、みゆきの興味のそそる場所へ案内して少しでも気を引きたかったのだ。
 その日は上天気で、この上ないハイキング日和だった。阪急梅田駅で待ち合わせをした林田は、約束の時間より早く着き、みゆきを待った。林田の計画では、阪急芦屋川駅で下車し、舗装道路を歩いて高座の滝へ行く。そこから登山道へ入る、そんな計画を立てていた。約束の時間ちょうどにみゆきが現れ、その姿を見て林田は驚いた。本格的な登山スタイルだったからだ。みゆきに比べて林田は、ジーパンとシャツにリュックを背負っただけの街歩きと変わらないスタイルだった。靴も彼女は登山靴なのに林田は運動靴を履いていた。
 ガイドブックを見て綿密な計画を立てたつもりでいたが、実際に行ってみると、なかなか計画通りにはいかない。ウロウロしている林田を見かねたみゆきが、林田に変わって道案内をした。たかが六甲山と高をくくっていたが、実際に登ってみると結構、体力を使う。岩場を登るコースは特に激しく、岩場をよじ登るような感じで登って行かなければならない。みゆきの足について行けず、遅れ気味ながらも、ようやく標高447mの風吹岩に到着した。風吹岩からはなだらかな登山道が続く。途中、雨ケ峠で休憩を取った。
 「どうぞ、喉が渇いたでしょ」
 と、みゆきがリュックからよく冷えたお茶を取り出して、林田に勧める。林田は、飲物さえ用意していなかった。
 「このコースは、林田さんには少しきついかも知れないけど、岩場の登りもあるし、木々の間を行くバラエティに富んだコースだから、六甲のだいご味を味わえる。ここから頂上まで約1時間程度よ、頑張って、そこで食事をしましょう」
 食事と聞いて、林田はハッとした。お茶も弁当も、途中で買えばいいやと思っていたので、何の用意もしていなかったのだ。
 「ごめん、俺、途中で弁当買おうと思って買えなかった。頂上にお店があるかな」
 みゆきは笑って、「何とかなるわ」と答えましたが、林田は申し訳ない気持ちで一杯だった。
 山登りなんて初めての経験だ。小高い丘へのハイキング程度なら何回かあったが、そんな時でも、今までどこかの店で調達することができた。その時とそう変わらないだろうと林田は甘くみていた。
 雨ケ峠から先は急こう配の登り道になる。疲れの出始めた林田のためにみゆきは、お茶を手渡し、飲むように言い、林田のために休憩を多く取った。最高峰の手前近くに、ようやく食事の出来る茶屋やトイレがあった。
 「よかった。みゆきさん、ここで食事をしましょう」」
 安堵の吐息を洩らしながら林田がみゆきに言うと、みゆきは、リュックを指さして、
 「大丈夫よ。このリュックの中に弁当が入っているから」
 と、笑う。トイレだけ済まして、舗装道路を歩いて六甲山最高峰に向かった。
 最高峰に到達した林田は、その広場に腰を下ろした。山頂を流れる風に額を伝う汗が自然にひいて行く。リュックから弁当を取り出したみゆきは、そのうちの一つを林田に手渡し、もう一つを林田の前に広げた。一つは林田用のおにぎり、もう一つは二人で食べるフライや玉子焼き、煮物などのおかず、みゆきが昨夜、作ったという手づくりの弁当だ。林田は感激した。みゆきが自分のために弁当を作ってくれるなんて思ってもいなかったからだ。梅干し入りのおにぎりを一つ口にすると、不覚にも涙がこぼれ出た。
 「どうしたんですか、林田さん?」
 林田がポロポロと涙を流しているのを見て、みゆきが聞いた。
 「おいしい――。おいしいすぎて涙が――」
 涙まじりのおにぎりは、本当に美味しかった。だが、自然に涙が噴き出たのは、それだけが理由ではなかった。手作りの弁当なんて初めてだった。これまでお袋にも作ったもらったことがない。もしかしたら、これが最初で最後の手作り弁当になるんじゃないか、そう思うと自然に涙が湧き出て来たのだ。

 その日、梅田に戻った林田は、弁当を作ってもらったお礼をしようと、みゆきを食事に誘った。だが、どこへ行ったらいいのか見当がつかなかった。もしかしたらこれが最後になるかも知れない、そう思ってお洒落な店を探したが、普段、行き着けてない林田にはわからなかった。
 「どうしたの、林田さん?」
 店がわからなくて困っている林田を見かねて、みゆきが聞いた。
 「ごめん。ご馳走しようと思ったんだけど、あまりいい店、行ったことがないからわからなくて」
 林田は正直に伝えた。いい恰好をしてもたかが知れている。ハイキングの時と同じだ。散々、調べたつもりでいたのに、現地に立つと迷ってしまって――。それで最後はみゆきにリードされて登山道を登った経緯があった。
 「無理しなくていいのよ。でも、私もお腹が空いているから、適当な店に入りましょうよ。そこにうどんの店があるでしょ。あの店にしましょうよ」
みゆきの言葉に従ってうどん店に入った。何の変哲もないうどん店、デートで入るような店ではなかった。少し抵抗があったが、反対する理由もなかった。
 みゆきはきつねうどん、林田は玉子とじうどん、それでは足りなかったので親子丼を追加した。
 「こんな店で申しわけありません。もっと素敵な場所にご案内したかったのですが……」
 食事を終えた後、林田がみゆきに謝ると、みゆきは笑って、
 「よかったです。おいしいうどんが食べられて、私は十分満足していますから安心してください」
 みゆきはやさしい人だった。林田は、一回目より二回目といった具合に、デートを重ねるたびにみゆきのことがさらに大好きになっていた。
 だが、多分、この日が最後だろうと覚悟していた。五度も付き合ってくれ、林田は本当に幸せだったと満足していた。いつ最終宣告を受けても多分、快く受け入れることが出来るだろう、そう思っていた。
 別れる間際、林田はみゆきに言った。
 「今日もありがとうございました。俺、とっても楽しかった。この日のことはきっといつまでも忘れないと思います」
 すると、みゆきはキョトンとした目で林田を見て、
 「どうしたの、改まった挨拶をして。今日でお別れみたいな言い方をして」
 と、林田の手を握って言った。
 「林田さん、私、付き合う時に言ったわよね。少しの時間でよかったらって。でも、あの言葉、訂正させていただくわ」
 林田の胸がドキンと鳴った。いよいよ別れの日が来たのだ。そう思うと自然に体が硬くなった。
 「私、もっと林田さんとお付き合いしたいと思っているの。そしてもっと林田さんのことを知りたい」
 エッと思い、林田はみゆきを見直した。聞き間違いかと思ったが、そうではなかったようだ。みゆきは笑顔でいた。
 再び涙が噴き出した。思いがけないみゆきの言葉が林田の胸を震わせたのだ。
 「俺こそ、ずっとずっとお付き合いしたいと、心から思っています」
 噴き出る涙をそのままにして、林田は深く深くみゆきに礼をした。

 結婚式を挙げたのは、三カ月後のことだ。主任他、両方で十名あまりの親しい人だけを呼んでの簡素な結婚式だった。新婚旅行は、一泊二日の白浜温泉旅行だ。出来るだけ金を切り詰めるようにしたのは、しばらくの間、みゆきの住まいに二人で住むけれど、そのうち、遅くても一年後にはマンションを買う予定でいたからだ。
 林田は幸せだった。好きな人と一緒に暮らすことが、こんなに幸せなことだなんて、言葉で言い表すことなんて出来なかった。二年後に子供が産まれた。女の子だった。四年後にもう一人、今度も女の子だった。二人の子供に恵まれて林田は本当に楽しい毎日を過ごすことができた。
 みゆきは、二人目の子供が産まれたのをきっかけに、喫茶店を知人に譲り、家事に専念するようになった。林田は、来る日も来る日も懸命に働き、家族を養っていけるよう頑張った。
 平凡で何のとりえもない生活だったが、本当に楽しい毎日だった。林田は、幸せってこういうことを言うんだなあと、その時、思ったものだ。
 でも、そんな幸せな生活もいつか終止符を打つ日がやって来て、暗転した。
 みゆきが乳がんにかかり、入院したのは、下の娘が中学を卒業して高校に入学した年の初夏のことだった。切除すれば治癒すると医師に言われ、安心していたが、しばらくして転移していることがわかり、あっという間に重篤な状態に陥った。手術を繰り返し、そのたびに長期入院を余儀なくされたみゆきは、とうとう家に戻ることなく病院のベッドの上で生涯を閉じた。
 妻が亡くなった日、林田は放心状態でいた。一緒に死にたい、ずっとそう思い続けていた。みゆきに対する愛の深さを自覚した林田は、このまま生き続けても屍同然だ、そう思い自殺を図った。睡眠薬を大量に飲み、服毒自殺を試みたが、上の娘に発見され、すぐさま病院へ運ばれ、一命を取り留めた。
 「母さんのところへ行きたい」
 その言葉を病院のベッドの上でずっと繰り返していたと、娘たちは言った。退院した林田は、娘たち二人に説教された。
 「お父さんが亡くなったら、お母さんが悲しむよ」
そ う言って、娘たちは、みゆきが残した手紙を林田に見せた。便箋5枚の娘たちに宛てた長文の手紙だった。
 その手紙の中には、林田の好物、あるいは嫌いな食べ物、糖尿病に対する対策、酒は一日、ビール一本に留めること、夜更かしさせず午後11時になったら布団に入るよう促すこと、一日一万歩を心掛けるよう口煩く言うこと、出来るだけ話しかけてやってほしい、一緒に笑ってやってあげること、歯磨きは寝起きと就寝前に必ずさせること――などがぎっしりと書かれていた。
「母さんが作ったお父さんの取扱説明書だよ。母さん、自分が亡くなった後のお父さんのことがよほど心配だったと思うよ。もし、お父さんが自殺して亡くなってしまったら、母さんが作ったこの取説、無意味になってしまうじゃない」
 娘二人はそう言って林田を叱った。林田は、みゆきの書いたその手紙、正しくは取説ですが、何度も読み返し、ボロボロと呆れるほどの涙を畳の上に垂れ流した。

 今、林田は一人で過ごしている。娘たちはそれぞれ家庭を持ち、家を出た。何度か、一緒に住まないかと声をかけられたが、林田にはそのつもりはなかった。みゆきと暮らしたこの家を出て、よそへ行くなど考えられなかったからだ。
 娘たちに送ったみゆきの手紙、林田の取扱説明書だが、それは今も林田の手元にある。この取説に従って、林田は毎日を生きているようなものだ。もし、取説に違反するようなことがあれば、天国にいるみゆきに叱られてしまう。娘たちは家を出て行く時、「母さんが見ているからね」と念を押して、みゆきの手紙を林田に渡した。
 みゆきと暮らした年月よりはるかに長く林田は生きてしまった。だが、心はずっと天国のみゆきと共にいた。そう永遠に――。

<了>


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