パチプロが恋をした
高瀬甚太
「今までいろんな女に出会ったけれど、あれだけの女はちょっといないよなあ」
立ち飲み屋「えびす亭」で時折話すパチプロを職業としている荻野孝彦が隣に立った。その荻野がひとり言のように言ったので、真面目だけが取り柄の石やんが荻野の話に興味を持った。
石やんは、荻野に酒をすすめながら、
「萩野さん、それ、どこの女のことを言ってるんですか?」と聞いた。
荻野はよく聞いてくれたと言わんばかりに相好を崩し、石やんが注ぐ酒を一滴もこぼさないように注意しながら、コップを傾けた。
「今年の初めの頃だったかな。競馬の金杯で3連単を当てて、思わぬ大金を手にしたものだから気が大きくなってね、ミナミへ先輩のサブちゃんと共に繰り出したんだ。
サブちゃんはミナミの生き字引のような人で、女遊びの激しい男だったからちょうどよかった。以前、ずいぶんご馳走になっていたからお返しをしなければ、そんな思いもあって二人で「ジャンキー」というラウンジに行ったんだ。
サブちゃんに言わせると、この店はミナミで一番美人が多いということで、おれは胸をワクワクさせながら店に入ったよ。でも、期待外れだったね。おれの思うような女はいなかった。それでお金を払ってサブちゃんだけその店に残して、おれ一人、店を出た。
上着の右の内ポケットに百万円、左の内ポケットに百万円、財布の中には五十万円入っていた。計二百五十万円を持ち歩くなんておれにとっては生まれて初めてのことだ。
東心斎橋界隈を歩いたけれど、これといった店に出会わなかった。腹が減ったので、とりあえず何か食べようと思ったけれど、金があるくせに安い店ばかり目につくんだね。結局、うどん屋に入ってきつねうどんを食べたよ。時計をみると十時を少し過ぎたくらいだった。おれは独り者だし、帰っても待っている人なんか誰もいないから時間を気にする必要なんてなかったけれど、何となくその日は時間が気になって、時々、時計を覗いていた。
アメ村へ足を延ばして、三角公園を横目に見ながら歩いていた時のことだ。このあたりは十時を過ぎても人の多いところで、しかも若者ばかりだから、四十を超えたおれなんか誰も相手にしない。だから足を速めて歩いていたんだ。その時、急に背後から声がして呼び止められてね。驚いて振り返ると女性が一人立っていたんだ。おれは思わず、おれのこと呼んだ? と聞いたよ。だって場所が場所だし、おれ、女に声をかけられるようなタイプじゃないしさ。でも、その女は、「うん」と首を振って頷くんだ。よく見るとこれがまたいい女なんだ。
「すみません、このあたりに『ライトハウス』というお店があると聞いてきたんですけど、ご存じありませんか?」
と女が聞くので、おれは持前の親切心で、
「住所わかりますか?」
と聞いたんだ。
女がバッグから一枚の名刺を取り出して、「ここなんです」というので住所を見ると、確かにこの近くに間違いないということがわかった。たぶん雑居ビルか何かに入っているだろうと思ったからビルの名前を探して歩いた。ビルの名前は昇竜ビルだった。
「すみませんねえ…」
と女が申し訳なさそうに言うので、おれは言ってやったよ。
「いいんです、どうせ暇していましたから」
女は笑ったね。その笑顔がまたいいんだ。何といったらいいのかな。嘘のない笑顔でね。こんな女と一晩過ごせたらいいなあって女の笑顔を見ながら思ったものさ。
ネオンが眩しくてビルの名前を見つけにくかったけれど、それでもようやく見つけたんだ。昇竜ビルを。おれは女に言ったよ。
「ここですよ。このビルですよって」。
女は喜んだね。おかげで助かりましたって、おれに深々と頭を下げて言うんだ。おれは嬉しかったよ。おれみたいな人間でも少しは役に立つことがあるんだって思うと。
女がビルの中に消えるのを見送って、おれはまた一人でとぼとぼと歩き始めた。
いくらお金があったって、貧乏性のおれはなかなか金を使いきれない。いい店に入ろうと思っても、もったいないと思ってしまうし、いいものを食べようと思ってもやっぱりもったいないなあと思ってしまう。
パチンコを職業にしていると、人間がいじましくなるxって聞いていたけれど、本当だね。パチンコ台にはいくらでも、持っているだけのお金をみさかいなくつぎ込んでしまうのに、食事や遊び、何をしてもお金を使うのがもったいないと思ってしまう。こんなケチな根性だから嫁にも逃げられてしまうんだろうなあって一人前に反省するんだけれど、パチンコ台の前に立つと元の木阿弥さ。
仕方がないから飛田へでも行って女と遊ぼうかなと思いながら歩いていた時のことだ。後ろからまた声がしたんだ。おれのことかな、と思って振り返ると、先ほどの女がおれを呼んでいた。
「どうしたんですか?」
おれが尋ねると、女が、
「もし、よかったらお寄りになりませんか」と言うんだよ。
女が探していた「ライトハウス」はゲイバーで、そこは弟が経営している店らしくて、女が弟に、親切にしてもらったと話をすると、弟が、
「お礼をしたいから呼んできて」と言ったらしいんだ。
お礼だなんてとんでもない。そう言って断ったんだけれど、女がさあ、どうしても、と言うんだよ。そこまで言われるとおれも断りきれなくなって、女と一緒に「ライトハウス」に入ったよ。
「ライトハウス」は昇竜ビルの五階にあって、五階には「ライトハウス」以外にも八軒ほど飲み屋が入っていた。一番奥まったところに「ライトハウス」があって、女がドアを開けておれを店の中へ案内してくれた。
カウンターとテーブル席が二つの小さな店だったけれど、なかなかいい感じの店だった。
「義彦、この方が親切に案内してくださった方よ」
女がカウンターの中にいた和服の女性におれを紹介した。本当に男なのか? 目を疑うほど和服の女性はきれいな人だった。その女性はカウンターから出てくるとおれの前に立ち、
「『ライトハウス』のママのよしこです。姉がお世話になりましてありがとうございました」
と丁寧に挨拶をしてくれるんだ。確かに声は男だったけれど見た感じはまるっきり女性なんだ。うっかりしていたらだまされる、本気でそう思ったね。
客は数人いて、おれも今晩はこの店で腰を据えて呑もうと思い、カウンターの空いている席に座った。おれの隣に女がやってきて、おれと女は酒を呑みながらゆっくり語り合った。
二時間ほど飲んだかな、少し酔いが回ってきたので、そろそろ出なきゃと思って勘定をしてくれるよう、ママに言ったんだ。するとママは「今日は結構です。姉がお世話になりましたから」、そんなことを言うので、おれは、それは困る、次から来れなくなるからと頑張ったんだが、ママは「それなら次来られた時、いただきます」と言ってお金を取ってくれない。仕方なく店を出ようとドアを開けると女がおれの後を追いかけてきて、「私もホテルへ帰りますので、そこまで一緒に行きます」と言うのでおれたちは一緒にビルから出て歩いた。
女は名古屋に住んでいて、休みを利用して弟を訪ねてきたと言った。年齢は三十で、おれより十歳若かった。一度結婚したのだが、折り合いが悪くて二年ほどで別れて、今は電話の交換手をして生活していると言った。
あらためて見直すとやっぱりきれいな人だった。細面で色白で、唇の形がよかった。おれより少し背が低いくらいだったから女性としては高い方なのだろう。こんな人と一緒に暮らすことができたら、おれもパチンコをやめて真面目に働くんだが……。一緒に歩きながらそんなことを思ったよ。
しばらく歩いたところで、急に女が立ち止まるのでおれは驚いた。
「どうしたんだよ」
と尋ねると、女はお腹を押さえてうずくまるんだ。急激な腹痛に襲われて動けなくなってしまったようで、おれも少し焦った。脂汗を流して苦しむ女を見ているとどうしていいかわからなくなって……。すぐ近くにラブホテルがあったので、おれは女を担ぐようにしてそこへ飛び込んだ。
なぜ、ラブホテルに飛び込んだのか、おれにもわからない。ただ、少し横になってゆっくりさせてやれば治るだろうと思ったことは確かだ。
ホテルの部屋に入り、ベッドの上に女を寝かせると、女はエビのように丸くなってしばらくの間は眉をしかめて苦しい表情を浮かべていたが、そのうち少し収まってきたようで、穏やかな表情になってスースーと寝息を立て始めた。
おれは女の寝顔に見とれながらもそれ以上どうすることもできず、ソファの上に横たわり、女の腹痛がぶり返さないか、静かに見守っていた。
一時間経ち、二時間ほど時間が経ったところで、もう大丈夫だろうと思った。女はスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。安心したおれはソファの上で眠り始めた。
夜中、人の気配がしたので目を覚ますと、目の前に女が立っていた。
「大丈夫ですか?」
ねぼけまなこのおれが女に尋ねると、女は何も言わず無言のまま、おれの手を掴み、ベッドへと誘った。おれは一瞬、夢をみているんじゃないか、そんな気持ちになったよ。だって信じられなかった。こんな展開になるなんて夢にも思っていなかったから。
女の手は暖かく柔らかくて、ベッドの上の女の体はそれ以上に柔らかく暖かだった。
朝、おれが目を覚ますと女はもういなかった。走り書きで白いハンカチに「ありがとう」という文字が口紅で書かれていた」
「それだけの話さ」と言って荻野は話を締めくくった。
「それでその後、ライトハウスという店には行かなかったのかい」
石やんが聞くと、荻野は「行ったよ」と表情を変えずに言った。
「それでどうだった?」
「ママに会ったよ。ママに会ってお姉さんのことを尋ねた。できたらもう一度会いたいと思っていたからね」
「ママは何と言ったんだ?」
「姉はしばらく来ませんが、春になったらまた来ますよ、と言ってくれて…」
「春? 今、春じゃないか。女性に会ったのかい?」
「いや、春の声を聞いて一度訪ねたんだが、まだ来ていなかった」
「そうか、残念だなあ」
「一応、お姉さんがきたら、おれは毎晩、京橋にある『えびす亭』という店にいるから、もし時間があれば寄ってほしい、そうママにお願いしておいた」
「ここへ来るだろうか?」
石やんの言葉を荻野は言下に否定した。
「来るはずがないだろ。ありえない話だよ。でも、もし来てくれるようなことがあったらおれはパチンコをやめてまともな勤め先を探して働くよ」
荻野はそういって寂しい表情を浮かべて笑った。
「さて、そろそろ帰るとするか」
午後十時半を過ぎたところで、荻野が言った。石やんもその言葉に合わせて「おれも帰るとしよう」、荻野に応えるように言って財布を取り出した。
その時、入口のガラス戸をみた石やんが、小さく「あっ…」と声を上げた。
「荻野さん、あれ、あの人、もしかしたら…」
と慌てた声で石やんが言うので、荻野も石やんの視線の先を追った。
荻野はガラス戸の向こうを見て思わず息を飲んだ。信じられなかった。女がガラス戸の向こうに立っていたからだ。
女の嘘のない笑顔がガラス戸の向こうに広がっていた――。
<了>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?