お相撲さんのちょっと素敵な恋

高瀬 甚太

 ゆったりとした足取りで、えびす亭にやって来る宗助を見て、相撲取りと勘違いする人は多かった。えびす亭のカウンターに立っても、背が図抜けて高く、体重が一八〇キログラムを超える重量だけあって横幅も普通の人の三倍近くあった。
 宗助はすこぶる人のいい男だった。邪気のない表情にそれがよく現れていて、笑うと目が細まってその顔は子供のようにも見えた。
 御厨宗助というのがその男の名前だったが、ほとんどの人が「お相撲さん」と呼んだ。職業は公務員で大阪市役所の人事課に勤めていた。年齢は三十五歳、独身だった。
 大人しくて、人の悪口を一切口にしないお相撲さんの唯一の欠点がマザコンだということをえびす亭の客なら知らないものはいなかった。彼が結婚できない理由の一つもそこにあった。
 お相撲さんは二日に一度の割合でえびす亭に現れる。午後六時に店に入り、午後七時半に帰る。判で押したような生活は、お相撲さんの几帳面な性格をよく表していた。
 その日もいつもと同じように、お相撲さんは、午後六時になるとえびす亭にやってきた。大きな体格のお相撲さんがガラス戸を開けると、重なるように立っていた客たちは、お相撲さんのためにさらに体を寄せ合って隙間を作った。何しろお相撲さん一人で三人分の場所を取るのだ。窮屈なことこの上ない。だが、誰一人としてお相撲さんに嫌味を言うような客はいなかった。それもまたお相撲さんの人徳といえた。
 さぞや食欲も旺盛で、酒も底なしに呑むのだろうと想像する人が多かったが、案に相違して、お相撲さんはダイエットを心掛けていて、酒はビールを二本まで、酒の肴は菜食と決めていた。しかし、ずいぶん長い間、ダイエットを継続しているはずなのに、お相撲さんの体重はずっと一八〇キログラムのままで、変化がみられなかった。
 色恋沙汰にはまるで縁のなさそうなお相撲さんだったが、秘かに恋心を募らせている相手はいるようで、その人が一体どんな人なのか、えびす亭の客の多くが興味を持って見守っていた。
 
 お相撲さんは夏を大の苦手にしていた。夏になると人の何倍もの汗をかき、流れる汗で衣服がびしょ濡れになる。だからお相撲さんは常に着替えを用意して、夕方になると下着からシャツ、ズボンに至るまでトイレで一式着替えを行う。
 だが、一年ほど前、お相撲さんの母親が鹿児島の実家に帰り、留守にした時、一人になったお相撲さんは、着替えを持って出るのをうっかり忘れてしまった。母親がおれば、いつも用意して持たせてくれるのだが、この日は母親が不在で、しかも寝坊をしてしまったため、それができなかった。
 忘れたことに気が付いたのが夕方になってからだった。トイレで着替えをしようと思ったお相撲さんは慌てた。しかし、無いものはどうすることもできない。仕方なくお相撲さんは仕事を終えた後、着替えの服を買うために衣料品を扱うスーパーに立ち寄った。
 クーラーのよく利いた部屋で仕事をしているというのに、お相撲さんの汗はまるで炎天下の日差しにさらされているかのようにひどかった。病気ではないかと疑われたこともあったが、そうではなく単なる体質からくるものだとわかったが、それにしてもひどかった。
 スーパーにやって来たものの、いつも母まかせで買い物などしたことがなかったお相撲さんはたちまち困った。
 「何かお探しですか?」
 その時、女店員が汗を垂れ流して悩んでいるお相撲さんを見て声をかけた。
 「は、はい」
 と答えたお相撲さんは下着からシャツに至るまですべてを買い替えたいが、どうしていいかわからないと、正直に女店員に言った。
 女店員は、お相撲さんをクーラーの効いた休憩室に案内し、お相撲さんの全身のサイズを計ると、そこで待っているように言い、服を揃えに再び店頭に出た。
 試着室があったが、そこではきっと窮屈だろうと思った女店員が、店員の休憩する部屋に案内したのだが、その心遣いがお相撲さんを痛く感激させた。
 数種類の衣服を手にした女店員の指示に従って、休憩室のその場でお相撲さんは着替えを行った。その間、ずっとその女店員が付き添ってアドバイスを送った。
 着替えの終わったお相撲さんは、改めてその女店員の顔をみた。二〇代後半と思われるその女性は、格別の美人ではなかったが、笑顔に魅力のあるやさしい顔をしていた。
 ネームを見ると、佐藤美智子とあった。以来、お相撲さんは佐藤美智子の名前と顔、そのやさしさを一度も忘れたことがない。
 しかし、恋愛に対して極端な奥手であったお相撲さんにはどうすることもできず、一年を経た今も何のモーションも起こしていなかった。
 えびす亭の客の一人に同じ市役所に勤める山口正という人がいた。山口はお相撲さんより一歳上で、観光課に勤務していた。仕事上のつながりこそなかったが、お相撲さんとは大の仲良しで、お相撲さんも山口にだけは気を許してどんなことでも話していた。当然、お相撲さんの佐藤美智子への思いも山口はよく熟知していた。
 この山口が、お相撲さんが店にいない時、ついうっかりと店の客たちに、お相撲さんの片思いを洩らしてしまった。山口の話を聞いたえびす亭の客が、お相撲さんの恋い焦がれる相手を見たいと思ったとしても不思議ではなかった。五、六人が酔った勢いでスーパーに押し掛け、佐藤美智子を探した。だが、あいにくその日、佐藤美智子は休暇を取っていた。
 「佐藤美智子さんは独身ですか?」
 店員の一人に、探偵会社に勤務する馬場さんが聞いた。ずいぶんぶしつけな質問だったが、スーパーの店員は親切に教えてくれた。
 「今は独身ですよ」
 と言ったので馬場さんは驚いて聞き直した。
 「今は独身……? ということは既婚者だったことがあるんですか?」
 「ええ、佐藤さんは幼い子供を抱えて、本当に頑張っておられます。人柄もよくって、やさしい人です」
 店員は、馬場さんが結婚調査に来たのだと思ったようだ。丁寧に佐藤さんの内情を教えてくれた。
 「佐藤さんには子供さんがいらっっしゃるんですか?」
 「三歳になる子供さんがいます。佐藤さんは二年前、ご主人を交通事故で亡くして以来、女手一つで子供さんを育てています」
 「佐藤さんはおいくつになるんですかね?」
 「三十二歳です」
 と店員は言った後、
「佐藤さんは本当にいい人なんですよ。もし結婚の調査でしたらできるだけいいようにまとめてくださいね。よろしくお願いします」
 馬場さんは恐縮しながらお礼を言って、一緒にスーパーへ来ていた仲間の元へ戻った。
 「独身は独身でも子連れか……」
 そのことだけが引っかかったが、とりあえず、この情報をお相撲さんに伝えた方がいいということになった。
 翌日、お相撲さんがえびす亭にやって来る前に短い打ち合わせを行い、山口が代表して、佐藤美智子の情報を伝えることになった。
 何も知らないお相撲さんは、いつものようにえびす亭にやって来ると、ビールと山菜メニューを二品ほどオーダーした。
 「お相撲さん、ちょっと話があるんやけど……」
 そう言って山口が話を切り出した。
 「どんな話でしょう?」
 とお相撲さんは目を輝かせた。佐藤美智子の情報だとは夢にも思っていなかったのだろう。余裕があった。
 「きみの言っていた、あの衣料品スーパーの女性――」
 「ああ、佐藤さんのことですか?」
 「そうや、佐藤美智子のことやが……。きみ、知っていたか? あの人がバツイチやということ」
 「ええ知っています」
 お相撲さんの答えに山口が卒倒しそうなほどに驚いた。
 「えっ、何で知ってんのや? ほなら子供がいるということも知ってるんか?」
 「知ってます。三歳になる美緒ちゃんです」
 「なんと、では、年齢も?」
 「いや、年齢までは知りません」
 「年齢は三十二歳や。どや、驚いたやろ」
 だが、お相撲さんは特に驚くことはなかった。平然と、
 「いえ、別に驚きません」と答える。
 「子持ちでバツイチ、普通は選ばへんで」
 「そうですやろか? ぼくはあまり気にしませんが」
 「……」
 二人の話を周りで聞いていたえびす亭の面々は、お相撲さんが、もっと驚くか、がっかりするか、嫌な顔をするかと想像したようだが、平気な顔でいることにたいそう驚いた。
 山口がお相撲さんに確認した。
 「お相撲さんは佐藤美智子さんのこと、好きなんやろ?」
 「ええ、大好きです」
 と自信たっぷりにお相撲さんが答える。
 「そうか、でも、今のままではどうしようもないぞ」
 「ぼくもそう思いました」
 「そう思いましたって……。ほな、行動したんか?」
 「はい、行動しました」
 「どない行動したんや?」
 「一年経ったので服を買い替えたいと衣料品スーパーに行って佐藤さんにお願いをしました。すると佐藤さん、ぼくのことをよく覚えてくれていて、また、ぼくを休憩室に案内してくれて、服を一式用意して着替えさせてくれました」
 「ほう、ほう……」
 「その時、ぼく、彼女に言いました。一年間、ぼくはあなたのことを思って暮らしてきました。一年思ってきて、自分の気持ちが本物であることに確信を持ちました。結婚を前提にぼくと付き合っていただけませんか……。もっともそんなにうまく言えたわけではありませんが、そのようなことを震えながら言いました」
 「すごい。すごいぞお相撲さん。よくやった」
 「でも……」
 「でも、どうした?」
 山口が身を乗り出して聞いた。えびす亭の面々も身を乗り出した。誰もがお相撲さんの話に聞き入っていた。
 「佐藤さんが言うんです。結婚は無理ですって」
 「なんでや、その理由を聞いたか? 異常に太っているからか、それとも異常にぶさいくやからか?」
 「違います。失礼な!」
 お相撲さんが怒った。
 「佐藤さんはそんなことを言う人ではありません。佐藤さんが断ったのは、自分がバツイチであったことと、子供がいること、この二つでした」
 「それでお相撲さんはどないしたんや」
 「笑いました」
 「笑った? イヒヒヒ……、こんなふうに笑ったんか」
 「違います。そんなこと気にしませんと言って笑ったんです」
 「佐藤さんはどない言うたんや?」
 「私はあなたにふさわしい人間ではありません」
 「ふーん」
 「でも、ぼくはあなたが大好きです、その言葉を何度も彼女にぶつけました。必死でした。彼女に振られたら、ぼくはきっと一生独身だ、そんな思いでいましたから」
 「……」
 「ストーカーのように思われてもいけないし、あっさりとあきらめるわけにもいかなかったぼくは、佐藤さんに自分の気持ちをわかっていただくために、市役所の勤務を終えると、すぐさま衣料品スーパーに行き、佐藤さんを指名して、毎日のように衣服を買い求めました。それしかぼくには方法がありませんでした。三日目に、佐藤さんは怒りました。怒ってぼくを叱りました」
 「とうとう怒らせてしまったのか、最悪やな……」
 「もうこんなことをしないでください。そう言ってぼくを叱って、こんなことをしなくても大丈夫です。あなたの気持ちは充分わかりました。一度、娘に会ってくださいって言われて……」
 「えっ!?」
 「翌日、ぼくは美緒ちゃんに会いました。美緒ちゃんはぼくを見て、お相撲さんみたいと言って笑いました。笑ってぼくに抱きついて、ぼくの汗だらけの頬にキスをしてくれました」
 「ほう……」
 「それを見て、佐藤さんが言ってくれました」
 「佐藤さんが言った?」
 「合格よって」
 「えっ」
 「佐藤さんは私と一緒になることに同意してくれたんです」
 その瞬間、お相撲さんの顔が輝いた。山口さんは思わずお相撲さんの手を握り、「おめでとう!」と叫んでいた。えびす亭の面々も同様に「おめでとう!」とそれぞれ手に持つ酒のグラスをお相撲さんに向かってかざした。
 マスターから、
「ちょっと気が早いけど、お祝いです」
といって、おでん盛りがお相撲さんのドカンとカウンターに置かれた。
 
 一週間が経った。てっきり順調にいっているとばかり思っていたお相撲さんの結婚が、暗礁に乗り上げていると山口さんが暗い表情でえびす亭のみんなに伝えた。
 「お母さんが反対してるんや。お相撲さん、マザコンでお母さんに頭が上がらへんから困っているらしい」
 「やっぱり子持ちでバツイチが問題なんか……」
 えびす亭の客が聞いた。山口さんは頭を振って、
「そうや」と答えた。
 「お相撲さん、どないすんのやろ。お母さんを取るか、佐藤さんを取るか、二者択一や」
 「お相撲さんのマザコンは強烈やで。どないすんのやろ」
 「いや、お相撲さん、今度ばかりは何があっても佐藤さんを取ると思う。お相撲さんにとって初めての恋や。そう簡単にあきらめられんやろ」
 さまざまな意見が飛び出した。それぞれに共通していたのは、お相撲さんの恋が成就しますようにという心のこもった切ない願いだった。
 一週間、姿をみせなかったお相撲さんが、一週間ぶりにえびす亭に顔を出した。
 聞きたいけど聞くのが怖い。そんな思いでえびす亭の面々はお相撲さんを見守った。
 そんな空気を変えたのはマスターだった。
 「お相撲さん、うまくいきましたか?」
 と単刀直入に聞いた。
 山口さんが、マスターに向かって、小声で、
「マスターだめやないですか」と諌めたが、当のお相撲さんは平気だった。
 「ありがとうございます。うまくいきましたよ」
 笑顔でそう答えた。
 驚きのあまり山口さんはシシャモを一匹、丸ごと呑み込んでしまった。えびす亭の面々も同様に驚愕し、中には泣き出す者までいる始末だった。
 「反対する母を説き伏せるのは難しいことでした。でも、ぼくは母に喜んでもらって佐藤さんと結婚したかった。怒り心頭の母は、佐藤さんになかなか会ってはくれませんでした。佐藤さんはそんな母の気持ちをよく理解してくれていました。あわてないで、時間をかけましょうと言ってくれましたが、ぼくは一日も早く何とかしたかった。それで、昨日の夜、佐藤さん母子を家に招待したんです。母も佐藤さんに会えばきっとわかる。気に入ってもらえる。その確信がぼくにはありましたから。でも、母は会いたくないといって部屋に閉じこもったきり出て来ませんでした。
 母に部屋から出てきてもらうために努力しましたが、母は出て来ませんでした。ぼくたちはあきらめて、隣の部屋でしばらく待機して待つことにしました。
そんな時です。トイレに行くために、そうっと部屋を抜け出した母を美緒ちゃんが見つけたのです。美緒ちゃんは母を見て「見いつけた!」と叫びました。美緒ちゃんにすればかくれんぼをしている感覚だったのでしょうね。
 母は一瞬、驚いた顔をしましたが、すぐに気を取り直して、知らん顔して美緒ちゃんの前を通り過ぎようとしました。すると美緒ちゃんが「見いつけた、見いつけた」とはしゃいで母に飛びついていったのです。飛びつかれた母はどうしていいかわからず、しばらくそのままにしていたようですが、そのうち、幼い美緒ちゃんがかわいくなったんでしょうね。抱き上げて頬ずりしはじめました」
 「お母さんも美緒ちゃんのかわいさに負けたんですかね」
 「ええ、完全にノックアウト状態でした。母は渋々といった感じで結婚を許してくれました。佐藤さん、すごく喜んで……。泣いて、泣いて」
 お相撲さんが泣き出した。それにつられて山口さんももらい泣きし、えびす亭の面々の目にも自然に涙があふれ出た。

 お相撲さんの結婚式は三か月後に決まった。披露宴は何とえびす亭でやるのだという。えびす亭の定休日、マスターが特別に店を開けて、その日の午後三時から二人を祝うことにしたとえびす亭の面々に伝えた。こんな小さな立ち呑みの店で、結婚式の披露宴なんてできるのか、といった声もあったようだが、お相撲さんのお嫁さん美智子さんのたってのお願いということで決定したようだ。果たしてどんな披露宴になるものやら、心配ではあったが、その日を心待ちにしている客が意外と多かった。
<了>

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