奇妙な二人の来客の偶然

高瀬 甚太
 
 秋口に近い土曜の午後のことだ。井森の元に突然、二人の客がやって来た。
 一人は三十代後半とおぼしき女性、もう一人は少しやさぐれた感じのする四十がらみの男性、同じ時間に二人同時にやって来たので、最初は、その二人が知り合いかと思ったがそうではなかった。見知らぬ他人が鉢合わせをしたに過ぎなかった。
 極楽出版は、それほど繁昌している出版社ではない。いや、むしろ全身火の車といった会社だ。したがって儲かりそうな客がやって来るはずもない。だが、この日は違った。二人とも声を揃えて、
 「お金に糸目は付けません。本を作ってください」と言うのだ。
 同時間にやって来た二人の客を相手にして、どちらも待たせては申し訳ないと思った井森は、失礼だと思いながらも、二人に断って同時に対応することにした。
 「お二人にお伺いします。作りたい本は、いったいどういったものでしょうか?」
 三十代と思しき黒いスーツを身にまとった女性は、金澤小百合と名乗り、
 「叔母の書いた自叙伝を本にしていただきたいのです」
 と丁寧な言葉遣いで言った。続いてやさぐれた感じのする、眉に刀傷のある男性は、香川恭一だと名乗り、
 「おれは、女房の話を書いて本にしてほしいんや」
 と、照れるような口調で言った。
 「どちらも自叙伝ですね。わかりました。では金澤さんにお聴きします。 叔母さんの自叙伝とおっしゃいましたが、その叔母さんはご健在ですか?」
 「いえ、一か月前に亡くなりました。叔母の書いたものをつい最近見つけて、それを本にしたいなと考えました」
 金澤が答えると、続いて香川も答えた。
 「ついこの間、うちのかあちゃん亡くなったばっかりしやねん。まだ三五歳やった。乳ガンでなあ……。何の供養もできへんさかい、せめてあいつのことを本に残してやりたい。そう思うて、ここへ来たんや」
 井森は一拍置いて、二人に言った。
 「香川さんの本は私どもが原稿を作成するとして、金澤さんは叔母さんの書かれたものがあると仰いましたね?」
 井森が問いかけると、金澤は小さく頷いた。
 「叔母の書いたものが残っていますが、それを本にできるかどうかについて、まず見ていただきたいと思っています」
 「文章チェックと同時に、場合によって文章を修正することは可能ですか?」
 「はい、それはもう願ってもない話です」
 「ちなみに叔母さんが亡くなられたのはご病気か何かですか?」
 「乳ガンでした。発見が遅れたのが致命傷になり、五十代半ばで、あっという間に――、あまりにも早くて、言葉もありませんでした」
 金澤の話を聞いていた香川が、突然「へええ」と声を上げた。
 「お宅の叔母さんも乳ガンかいな。うちの女房もそうでしたんや。ガンが見つかって一カ月足らずであの世へ逝ってしもうた。もうちょっと早く発見できていたらなあと悔やんだもんです」
 香川が鼻をすすり、涙をボロボロこぼした。
 「お二人とも話はよくわかりました。それでは本を制作するにあたっての基本的な説明をさせていただきます」
 井森は二人に向かって、まず、費用が発生することについての説明をした。
 「金額は、部数やサイズ、ページ数に左右されます。それプラス原稿制作料、金澤さんの場合は、叔母さんのお書きになった原稿を見ての判断になります」
 説明が終わるや否や、香川が声を上げた。
 「金はいくらかかってもええんや。できるだけ早う作ってほしい。どのぐらいの日数で出来るもんなんや?」
 香川はポケットから財布を取り出すと、
 「手付け金、払おうか、いくら払うたらええんや?」と言う。
 「ありがとうございます。でもその前にまず、お見積もりをさせていただきます。お金はその時で結構です。金澤さんも同様です。よろしいでしょうか?」
 金澤が頷くのを見て、井森は概算した。自叙伝ならサイズは四六判、ページ数は二百から三百までを予定しておけば大丈夫だろう。原稿執筆料や原稿チェックの費用が含まれるが、見積は立てられる。
 「後ほど、連絡をさせていただきます。値段が合えば契約していただき、その際、半金をいただくことになっています」
 井森の提案に了承した二人は、その日、そのまま事務所を後にした。
 自叙伝の制作依頼は井森のような零細出版社でも、これまでもそれなりに依頼があった。時には年間、十数冊の自費出版物を制作したこともある。人に歴史ありで、どんなに起伏の少ない人生を歩んで来たような人でも、作ろうと思えば十分作ることができる。その多くは自分の人生を後世に残しておきたいという思いで作られるのだが、中には金澤や香川のように亡くなられた方の供養のために本を作りたいと思う人も少なくなかった。
 二人に見積りを送ったのは翌日のことだ。その日のうちに二人から、金額は了承したから契約したい旨の連絡があった。
 
 奇妙なことは不思議と続くものだ。次の日、二人が特に申し合わせたわけでもないのに、同日同時刻に同時にやって来た。井森は再び、二人を前にして改めて説明をし、契約を結んだ。
 契約書は二通、一通を極楽出版が持ち、もう一通を依頼者が持つ。その場で契約を交わし、香川は井森に半額の前金を差し出した。しかし、その金額は半額ではなく、全額だった。
 「香川さん、半額で結構ですから。後の半額は本が完成してからいただきますので」
 と断ったが、香川は全額受け取ってほしいと聞かなかった。結局、井森は全額を預かることになった。
 金澤の場合は、「半金は明日、お振込させていただいてもよろしいですか?」と言い、叔母が書いたという原稿用紙の束を井森の前に置いた。
 「美しい字ですね。これはすべて叔母さんが書かれたものですか?」
 と聞くと、「はい、そうです」と金澤が応え、「闘病中の叔母が書いたものです」と言った。隣にいた香川が、金澤の叔母が書いた原稿に興味を持ったのか、
 「ちょっとよろしおまっか」
 と断って原稿の一部を手に取った。原稿を読んでいた香川は、数枚読んだところで、急に大声を上げた。
 「どうかしましたか?」
 と井森が尋ねると、
 「これは――。この原稿を書きはった人は――」
 香川が狼狽した声で聞く。井森の前で何度も説明しているのにと思いながら、
 「わたしの叔母ですが」
 と金澤が念を押すように言うと、香川はがっくりと肩を落とし、
 「この人、わし、知ってますねん」
 と呟くように言った。
 「知ってますって――。私の叔母をですか?」
 金澤が驚いて香川に聞いた。
 「糸井和江さんでしょ。よう知っています。わし、この人にずいぶん迷惑をかけましたんや。ここに出て来るヤクザ、これ、わしですわ」
 今度は金澤が驚きの声を上げた。
 
 ――金澤小百合の叔母、糸井和江の日記は、こんな書き出しで始まっていた。
 「○月○日、生まれてこの方、日記を書こうなどと思ったこともなかったのに、今日、こうして書き始めたのは、すべてあの男が私の目の前に現れたせいだ。
 その日、私は主人の浮気を知ったことで、ひどく動揺していた。主人を信頼していただけにそのショックは大きかった。夜になって家を出た私は、若い頃、何度か行ったことのあるミナミのバーに足を向けた。それほど飲める方ではなかったけれど、飲まずにはおれない。そんな心境だった。
 店の名前は同じだったけれど、バーテンも働いていた人もすべて変わっていた。私はそこでブランデーを二杯、矢継ぎ早に飲んだ。
 カウンターに座っている私の隣に男が一人現れ、私に声をかけて来た。
男は見るからにヤクザといった風体で、私の好みのタイプではなかった。相手にせず、二杯目のブランデーを煽ると店を出ることにした。気になって後ろを見たが、男はついて来ていなかった。
 久しぶりに飲んだ酒が私の気を大きくしていたと思う。家に帰ろうと思い、タクシーを呼ぼうとしたが、思いとどまって、もう一軒、店を探して飲もうと思った。
 次の店は静かな店だった。小さなスナックだったが客は一人もいなかった。店もカウンターの中にママらしき女性がいるだけで、他には誰もいない。
 カウンターに座った私は、ウィスキーの水割りを注文した。
 カウンターの女性は、「わたし、この店のチーママです」と自己紹介し、「咲」という名前を私に教えてくれた。しばらく彼女と話しながら時間を過ごしているうちに家のことが気になってきた。
 主人は夕方から出張で出掛けたが、その前に一悶着あったせいで家の中は散らかったままになっている。早く帰って片付けなければ、そう思っていたところへ、先程、私に声をかけてきた男が、ドアを開けて入ってきた。
 男はこの店の常連のようだった。私を見て驚いた男は、私の隣の椅子に腰をかけ、またもや話し掛けてきた。図々しい男だと思った。そのうち、酒の酔いが回ってきたのか、頭がフラフラし始めた。早く帰らなければ、そう思っていたが、気持ちとは裏腹にその場によろよろと崩れ落ちてしまった。
 気が付くと私は素裸のままラブホテルの一室にいた。あわてて飛び起きると、目の前にシャワーを浴びたばかりの裸の男が立っていた。先ほどの図々しい男だった。男は私に、「ねえさん、すごかったよ」と言って笑うと、再びのしかかってきた。すでに抵抗する気力を失っていた私は、気持ちとは逆に男を受け入れた。
 朝になり、男が寝ているすきに部屋を出た私は、ラブホテルを脱け出し、タクシーを拾って家に戻った。
 
 ○月○日、主人の不倫問題が尾を引いていた。相手は会社の女性で、年も二十代前半と若かった。主人がのぼせ上がっていることはよくわかったが、私は主人と別れる気はなかった。女と別れてくれるよう主人に頼んだ。そうすればすべて水に流すと言うと主人は露骨に困惑した表情をみせた。
 私の父は主人の元上司で、現在の主人の出世はすべて父のおかげといっても過言ではなかった。だから父が会社から退いた今でも主人は父に頭が上がらなかった。
 ちょうどそんな時だ。手紙が届いたのは。見覚えのない封書に驚いて開けてみると、中から数枚の写真が出て来た。素裸で男を迎え入れている、あられもない私の写真だった。
 便せんに下手な文字で、こう書かれていた。
 『この間は楽しかったなあ。奥さん、この写真をご主人に見られたくなかったらお金を用意してくれ。一千万円。それで写真もネガもすべて焼き捨てる』
 金の受け取りについては電話をすると最後に書かれていた。
 卑怯な奴だと思った。私が寝ているすきにバッグを調べて私の住所と電話番号を知ったようだ。困ったが、誰にも相談することなどできない。しばらくして男から電話がかかってきた。
 〈奥さん、この間はお疲れさま。いやあ、参りましたよ。奥さんの激しさには――〉
 男の声を聞くのも嫌だった。
 「お金は用意します。本当にこれっきりにしてくれるんですね。ネガと写真、一式、私にくれますよね」
 そう約束をして、受け渡しの場所と日時を確認した。
 
 ○月○日、夕方近く、先日行ったミナミのバーで男と会うことになった。 店は開店前だったが、チーママの咲が店を開けてくれた。
 約束の時間は5時ちょうどだった。それより10分ほど遅れて男がやって来た。鋭い目、眉の切り傷、男がヤクザであることは明白だった。これ以上、関わり合いになりたくない。その思いが強かったので、お金を差し出し、確認させた後、ネガと写真を受け取った。
 一千万円という大金を都合するのにずいぶん時間を要した。主人に知られるわけにはいかなかったし、余裕のあるお金があるわけでもない。父に打診して、大半を援助してもらうことにした。幸い、父はその理由を訊ねなかった。
 「これで本当に写真はないでしょうね」
 と確認すると、男は「大丈夫や。嘘はつかへん」。そう言って笑った。安心して出ようとすると、男が私の手首を掴んだ。
 「もういっぺんだけ、遊んで行こうや」
 舌なめずりをしながら男が言うのを振り切って、私は急いで家に戻ると、ネガと写真を焼き捨てた。
 
 ○月○日、主人から女と別れたと連絡があった。二年続いた仲だったようだ。主人は、父には知らさないように念を押して、早めに帰るからと言い置いて電話を切った。
 その日、夕刊に私を脅した男のことが記事になって載っていた。
 「女性を拉致し、犯して撮影し、金銭をゆすった罪で暴力団の男を逮捕!」
 三面記事の下の方に小さく掲載されたそのニュースは、男が私のような犠牲者を数多く出していることを伝え、今後、さらにその数が増えるだろうことを予測していた。
 スナックの咲という女性は男の内縁の妻だった。二人で共謀して犯罪を重ねていたことをその記事を読んで知った。
 あの日、あの店で私はクスリを盛られていたのだ。だから店を出ようとした時、急に意識を失った。男もひどいが女もそうだ。私は怒りに震えて思わず新聞を引き裂いた。
 男と女に仕返しをしたいと思うようになった。このままでは気が収まらない。
 
 ○月○日、体調が思わしくない。どこか悪いのだろうか。心配するが病院に行く気もしない。
 スナックのチーママ咲は、犯罪を幇助した罪だけだったので比較的早く釈放された。男にしても立件されたのが一件だけで、余罪が数多くあるにも拘わらず、犠牲者が名乗りでないために一年ほど留置されて釈放になった。何とか二人をこらしめる方法はないか。そう思った私だが、何をどうすればいいのか、見当がつかなかった。
 
 ○月○日、知人に黒魔術を使うという女性を紹介してもらった。
 黒魔術は、呪術で悪霊などの力を借りて相手を呪う術だという。私は事情を話し、二人を呪ってもらうよう頼んだ。呪術師の女性は、少し考えた末に、私の願い通り、男と女に呪いの術をかけた。
 黒魔術の呪いが本当に効力のあるものなのか、見当がつかなかったが、それでも少しは気持ちが晴れた。
 
 ○月○日、どういう理由であろうとも、人に呪いをかけるなどして悪かったのではないか。その証拠に私の体調がどんどん悪くなって行く。多分、この症状はガンではないだろうか、そんな気がする。
 糸井和江の日記はその後も続く。だが、男と女について語られているのはここまでだ。この後は、ガンの闘病記に終始している。
 「糸井和江さんの呪いですわ。間違いない。天罰が下ったんや」
 香川は天井を見上げて声を上げた。その言葉には妙なリアリズムがあった。
 
 ――香川は一年ほどで刑務所を出ると、すぐにチーママの咲、本名、里山摩耶の元に戻った。この時までは内縁の関係だったが、この後、二人は正式に籍を入れた。
 里山摩耶は香川にとってかけがえのない女だった。少し知恵の足りないところはあったが、香川を深く愛した。香川が他の女と寝た時も摩耶を乱暴に扱った時でさえ、摩耶は変わらず香川に接した。人を信じることを嫌う香川だったが、摩耶の気持ちだけは正直に受け止めることができた。
 そんな摩耶に異変が起こったのは一年前ぐらい前のことだ。急に体調が悪くなり、病院に行っても原因不明と診断されるばかりで、埒があかなかった。
 そのうち、ガンの兆候が出始め、その進行が異常に早かったため、摩耶はアッという間にこの世を去った。香川は摩耶を助けたい一心で、病院を駆けずり回ったが、どうすることも出来なかった。
 香川の体調もその頃から芳しくなくなった。摩耶が病気の時は気を張っていたせいか、耐えられたのだが、摩耶が亡くなった今は、もうそれが出来なくなっている。
 香川は自分が生きているうちに、摩耶が生きた証を残し、すべてを懺悔したいと思うようになった。それが一番の供養だと思ったからだ。
 摩耶はまるで自分というものを持たないような人生を子どもの頃から送ってきた。香川と一緒になってからもずっと変わらず、香川はそんな摩耶のために、せめて摩耶の人生をしっかり残しておきたいと考えるようになった。
 「黒魔術か――。そうとしか考えられへんなあ」
 摩耶の早すぎる死、自分の急激な体調の変化を憂いながら、香川は井森の前で静かに呟いた。
 金澤は、叔母を苦しめた張本人の香川にどういうわけか出会った。その不思議に驚いていた。
 世の中は仕組まれているのだと、何かの本で読んだことがあった、金澤はそのことを思い出していた。香川との出会いも仕組まれたものだったのだろうか、そう考えるとすべてに合点がいった。
 金澤は、できれば叔母の呪いを封印したいと思うようになっていた。摩耶は間に合わなかったが、香川だけでも助けられないものだろうか、そう思い、叔母の書いた原稿用紙にひそかに祈った。
 
 井森は、香川の話を聞き取りし、摩耶の人生を書ききった。書きながら、常に孤独で愛に飢えていた女の人生を妙に愛しく思い、切ない気持ちにさせられた。
 香川の人生もきっと同様だったのだろう。お互いが引かれ合ったのも、そうした思いがどこかで激しく交錯したのかも知れない。
 香川の病気は劇的に治癒し、健康を取り戻すことができた。暴力団を抜けた香川は、一時、故郷の山口県下関市に帰省したが、やがて再び上阪し、大阪市大東区で小さな店を始めた。『摩耶』というスナックだった。井森は、まだ一度も顔を出していない。
 金澤の本と香川の本は同時期に完成した。本来は金澤の場合、もっと早く完成できたのだが、意外に時間がかかってしまい、結局、香川の本と同時期の完成となった。
 糸井和江の主人は、和江が亡くなってしばらくして再婚をした。相手は浮気騒動の渦中にいた女性だった。別れていなかったのではないか、という話も聞かれたが、今はもう誰もそんなことを詮索する人などいなかった。
〈了〉

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