露天風呂闇夜の殺人事件

高瀬 甚太

 朝、急に思い付いて旅に出る。若い頃の私にとってそんなことは珍しいことでも何でもなかったが、年齢を経てからはそんなことなど、とんと珍しくなった。大人になったといえば聞こえはいいが、単に冒険心が薄れただけのことだ。
 そんな私が久々に思い付き旅行に出た。
 岡山で新幹線を降り、山陰に向かう列車に乗り換えて、山腹の途中の駅で下車した。下車する人もなく、寂れた無人駅には当然、駅員の姿もなかった。自動改札を出ると小さな広場がある。駅前らしく広場の両側に食堂が二軒あり、野菜を販売する店も一軒、軒を並べていた。季節によっては訪れる人がいるのだろう、そう思わせる旅館ののぼりが空しく風にたなびいていた。
 広場にはタクシーが一台、手持無沙汰に停まっていた。運転手はかなり年老いた老人で、窓から白髪が垣間見えた。
 「この近くに温泉宿があるんですか?」
 居眠りをしていた運転手に声をかけると、白髪の運転手は驚いたような顔をして目を覚まし、皺の多い顔で「ありますよ」と言った。
 「お願いできますか」
 と伝えると、運転手は二度、三度、目をこすり、ドアを開けて、
 「どうぞ」
 と言った。
 「ここから近い温泉宿は一軒です。そこでよろしいか?」
 後部座席に私が乗り込むのを確認して、バックミラー越しに運転手が言った。「お願いします」と伝えると、車はゆっくりと動き始めた。
 それにしても静かな町である。この駅で下車して、出会った人はタクシーの運転手ただ一人、歩いている人はおろか、車さえ出会わなかった。本当に人が住んでいるのかと、危ぶみたくなるような、墓場のような町であった。
 「この辺りは、秋と春は、紅葉と桜がきれいなところでね。遠くからたくさんの人が集まって来るのですが、十一月のこの時期はほとんど人がやって来ません。住民も年寄りばかりですしね」
 閑散とした風景の中、車は鬱蒼とした木々に囲まれた山間の道に入り、急な坂道を登る傾斜の激しい道がしばらく続いた。道はよく整備されていて、車に乗っていてもほとんど揺れを感じなかった。
 ひなびた温泉宿に到着したのは、駅を出て30分後、温泉宿は木造の二階建て、素朴な造りのいかにも田舎の宿といった趣の建物で、迎えに出た宿の人物もそれに呼応するように絣の着物とモンペを着た老婆だった。
 周囲を木々に囲まれ、その脇を渓流が流れる。渓流の脇に、人が五人ほど入れる露天風呂があった。それがこの宿の所有する温泉なのだろう。近づくと硫黄の臭いがした。
 宿泊客は三人ほどいて、私が通された二階、五室ほどある部屋の三つがすでに埋まっていた。
 「よう来なさりました。食事は午後6時になります。申し訳ございませんが、一階の食堂の方でお願いします。風呂はこの下に露天風呂がありますが、一階の奥にも風呂がございます。一日中、入れますのでどうぞご利用ください」
 老婆は流暢な口調で言うと、すぐに部屋から去った。二階の角部屋、東側と南側に窓があり、部屋の真ん中に座卓が置かれ、座椅子があった。窓から眺める景色は申し分なかった。渓流を眺め、木々を眺める素晴らしい景観が広がっていた。
 しばらく窓辺に座り、渓流を眺めた私は、露天風呂に入ることを思い付き、宿の名称が入った浴衣に着替え、羽織を羽織って下へ降りた。
 石を積み上げた階段を少し降りたところに露天風呂があった。着替えを隠す場所もなく、羽織と浴衣を脱ぎ、下着を脱いで、岩に囲まれた湯に恐る恐る足を入れると、熱くもなく冷たくもない温泉特有の温かさが肌に伝わってきた。
 渓流のせせらぎを聞きながら湯に体を浸していると、昨日までの日常が嘘のような解放感に包まれた。5分も浸かると体が温かくなり、10分を過ぎると熱さを感じるようになった。湯から出て風に体を浸していると、突然、背後から声をかけられた。
 「どこから来られました?」
 振り返ると、誰もいない。不思議に思って周囲を眺め見渡すと、笑い声がして、
 「ここですよ。ここにいます」
 と声がして、光沢のいい頭を撫でながら老人が岩の間から顔を覗かせた。気が付かなかったが、露天風呂は一つではなく岩を隔ててもう一つあったのだ。そこにその老人が浸かっていた。
 「大阪から来ました」
 と、答えると、人懐っこい顔をした小柄な老人は、岩を乗り越えて私のそ ばにやって来た。
「大 阪ですか。食べ物のおいしいところですなあ」
旅行客のようには見えなかった老人は、大阪で暮らしたことがあるのか、懐かしそうに つぶやいて、小さなため息をついた。
 「どちらから来られました?」
 今度は私が尋ねると、老人は、
 「わし、ここの宿で厄介になっている者です。時々、仕事の合間にここへ来てさぼるんです」
 歯の抜けた口を大きく開け、笑いながら私に言った。
 「まあ、ゆっくり浸かってください」
 老人は腰を折り曲げ、丁寧に礼をすると、宿の方へ向かって歩いて行った。
山間 の地の夕暮れは短く早い。しかも十一月初旬となればなおさらだ。まだ午後4時台というのに、すでに空は黄昏、夜がそこまで迫っていた。急いで浴衣に袖を通し、羽織を羽織って石段を上った。
 部屋に帰っても何もすることがない。面白いことにこの宿にはテレビもラジオもなく、窓から暮れなずむ外の景色を眺めるか、寝転がって本を読むしか術がない。私は、読みかけの推理小説を取り出して、畳の上に寝転がって読み始めた。数行読んだだけで、これも温泉の効能なのか、体がほんわかと暖かくなってきて、眠ってしまった。
 老婆の「お食事の用意ができています」の声で、ハッと気が付き、羽織を羽織って階下へ降りた。
 食堂は、玄関口に近い場所にあり、四角いテーブルが3卓ならんでいた。すでに二人の客はそれぞれ別の場所に座って食事を始めていた。残った1卓のテーブルに席を取り、待っていると、若い女性が食事を運んできた。黒髪の長い、色白の女性は、見た目に三十過ぎのように見えた。こうした宿に若い女性、しかも美しい女性が働いていることが奇異に思われ、テーブルに料理が置かれた時、思わずその女性に尋ねてしまった。
 「こちらの方ですか?」
 女性は驚いたような顔で私を見たが、笑顔を取り戻し、
 「いえ、従業員です」
 と答えた。料理を運び終えると、女性はそのまま厨房の中に入って行き、私が食べ終わるまで厨房から出て来なかった。
 こうした山間のひなびた温泉宿に似つかわしくないほど、料理は豪華で美味だった。アユの塩焼きや山菜料理といった定番に混じって、珍しい鯉の料理が目を惹いた。鯉の刺身、鯉の煮物、鯉の焼き物といった具合に、メインは鯉で彩られていた。
 思わぬ豪華な料理に感激した私は、食べ終えた後、玄関口に立っていた老婆に、
 「とてもおいしかった。特に鯉料理の数々は秀逸だった。大阪でも食べられない味に感激しました。料理を作られている方はどんな方ですか?」
さぞ有名な料理人ではないかと思い、尋ねたのだが、老婆は、一笑に伏した。
 「うちで雇っている美奈子という女の子が作っているんですよ。とても好評で私たちも喜んでいます」
 「美奈子? 女性の方ですか?」
 「ええ、先ほど食堂におりましたでしょ。あの子です」
 料理を運んできた女性を思い出し、あの若い女性が作ったのかと驚いた。
 「あの子、東京の有名な料理店にいたんだけど、なぜか、そこを辞めてこちらへ来て、私のところへ雇ってもらえないかと来たのが今年の初めです。見ておわかりのように年寄りばかりの宿ですから、若い人がいると助かります。あの子が働き始めてしばらくして、厨房を預かっていた親戚の太郎さんが病気になって入院して、困っていたところ、あの子が『よかったら料理を作りましょうか』と言ってくれて――。作ってもらったら、お客さんにえらく好評でしてね。今では、あの子の料理を食べるためにこの宿を訪れる方もいらっしゃるほどなんです」
 老婆は笑顔を絶やさずに言った。
 食堂にいた、三人の客もそうなのだろうか、とその時、私は思った。この季節、この時期にこんな山奥の宿にやって来るなんて、普通では考えられない。だが、料理を目当てに来ているのであれば納得できる。あの料理は、そうまでして食べにくるほど、値打ちのある料理だと断言できた。
 部屋に戻ると、また畳の上に寝ころがり、本を読み始める。他にすることがないから仕方がない。ガラス窓の向こうは漆黒の闇が広がっていた。
 夜になると肌寒くなる。寝ころがっていると足元が冷えて来て、私はもう一度風呂に入ろうと考えた。窓から露天風呂を見下ろすと、風呂場までの道のりと、風呂場の周囲が電灯で照らし出されており、風呂へ入るのに支障はなかった。
 電灯に照らし出された石段を降りると、誰かが入っているような気配がした。多分、三人の客のうちの誰かだろうと思ったが、食堂でちらりと見ただけで、男性客であること以外、わからない。しかし、いざ岩風呂の縁に立つと、誰も湯に入っていない。岩の向こう側にもう一つ、風呂があった。その湯を覗くがやっぱり誰もいなかった。気のせいだと思い、再び湯に浸かると、今度はがやがやと賑やかな声がした。人の話声だ。しかもそれは一人ではなく数人いるような賑やかさだった。
 周囲を見渡すが誰もいない。風の音や木々のざわめきを人の声と間違えたのだろうと思い直し、湯に浸っていると、今度ははっきりと人の声が聞こえた。
 「誰かいるのですか?」
 叫ぶと、ピタリと話し声が止み、同時に気配も消えた。
 気味が悪くなった私は、湯から出ると、大急ぎで浴衣を着て、宿に戻った。
 翌朝、鳥の鳴き叫ぶ声に驚いて目を覚ました。まだ午前5時半である。自宅では決して目覚めないこの時間なのに、山間に来ると体が自然に対応するのか、しばらく布団の中でまどろんだ後、ゆっくりと体を起こし、温泉宿の中ほどにある洗面所に向かった。
 歯を磨き、顔を洗っていると、階下が騒動しいことに気付き、下に降りた。
 警官が二人いて、老婆と昨日、風呂で会った老人がいた。何事か話しているようだ。
 「どうかされましたか?」
 と尋ねると、老人が、
 「殺しですよ、殺し」
 と青ざめた顔で私に言った。
 「殺し!? 誰が殺されたのですか」
 驚く私に警官が聞いた。
 「この宿のお客さんですね。ちょっとお尋ねしてよろしいですか?」
 「はい……」
 「昨夜、この下の露天風呂で殺人事件がありました。被害者はこの宿の客で、菊池昭雄とおっしゃる男性の方です。あなたは、菊池という方と面識がありましたか?」
 「食堂で三人の客を見ましたが、誰が菊池さんかというところまではわかりません。その菊池さんが被害に遭われたのは何時ごろですか?」
 「鑑識の結果を待たないと何とも言えませんが、だいたい、午後10時から11時ごろではなかったかと思われます。――それがどうかしましたか?」
「 私も昨夜、風呂に入っています。私が入ったのは、もう少し早くて、午後9時前後ですが――」
 「その時、誰か、怪しい人影をみませんでしたか?」
 「いえ、誰もみていません。ただ――」
 「ただ? ただ、どういうことですか」
 「風呂に近づいたところで話し声のようなものを聞きました。周囲を見回しましたが、誰もおらず、気のせいだと思って湯に浸かっていると、今度ははっきりと声が聞こえ、もう一度、周囲を見回しましたが、やはり誰もいませんでした。気味が悪くなったので急いで湯から出て、宿に戻りました」
 警官は首を傾げて私を見た。多分、精神のいかれた人間のように思ったのだろう。以後、私への質問はピタリと止んだ。
 平和な山間の宿で起きた殺人事件は、午前中に宿を出て大阪へ帰る予定でいた私を足止めした。事件の調査が終了するまで、宿から出ることを禁止されたのだ。
 山奥のしかも夜遅い時間帯である。外部からの侵入者の仕業とは考えにくく、宿の住人と泊り客である私たちが疑われた。
 被害者、菊池は、東京の住人で、岡山へ出張したついでに休暇を取り、この宿に昨日から泊まっていた。年齢は三八歳、独身であった。彼が何の目的で何のために、このような山深い宿に泊まったのか――。事件の焦点はそこにあると警察は考えたようだ。
 私以外の二人の宿泊客は、全員男性で、菊池との接点は、私と同様に何もなかった。一人は神戸から来た、加賀惣一、年齢は五五歳、宿が出す鯉料理の評判を聞いてやって来たと語った。もう一人は、相馬順平、福岡の出身で、島根県に行商に行く途中、立ち寄ったと語り、年齢は加賀と同じ五五歳だった。
 従業員は全員で五名。経営者が老婆で、老人はその下働き、樋口美奈子は料理を担当していて、この宿に住んでいる。他に通いのお手伝いに、美作よしこと津山晃子がいた。このうち、通いのお手伝いは午後8時に宿を出て家に戻るが、女将を含んだ老人と、樋口はこの宿に宿泊している。私も入れて容疑者は計六名ということになる。
 菊池は、鋭利な刃物で腹部を射抜かれていた。出血多量が死因とされたが、菊池を刺した凶器はどこからも発見されていない。また、犯人を特定する証拠品も捜査の結果、何一つ見つかっていなかった。露天風呂という場所が犯人の痕跡を隠し、事件を一層困難なものにした。
 菊池がなぜ、この宿に来たのか――。警察は、菊池が勤務する東京の会社に連絡を取って確認したが、会社は、岡山への出張は会社命令だが、途中で休暇を取っており、休暇の内容までは把握していないと回答した。出張先の子会社に連絡を取り、確認したが、そこでは、「仕事が思ったより早く片付いたので、どこか温泉でのんびりしてくる」と言う菊池の言葉しか聞いていないと証言した。
 菊池がこの地域に詳しいかどうか尋ねたが、出張先の子会社の誰も、菊池がこちらへ来るのは初めてなので、多分、詳しくはないのではないか、と答え、なぜ、その温泉を選んだのかわからないと警察に話した。岡山から近い地域には湯郷温泉や湯原温泉など、有名温泉が数多くある。それなのになぜ無名のその温泉に行ったのか、謎は深まるばかりだった。
 足止めを喰らった私は、退屈を紛らすために事件の謎を解いてみようと考えた。
 警察の発表でわかったことで、私が興味を持ったのは、彼が東京の人間であるということだった。岡山に出張してきたというものの、通常は、仕事が早く終えたら少しでも早く東京へ帰ろうとするのが普通ではないか。それなのに彼は、休暇を取ってわざわざ山間の奥深い宿に泊まっている。しかも彼は、老婆の話では一泊ではなく、数泊滞在する予定だったという。私でさえ、一泊しただけで退屈して二泊など考えられない。それなのに彼は数泊の滞在を宿に告げていたという。何か目的がなければそれほど長くいられないはずだ。彼の目的とはいったい何か? この宿は湯治の宿ではない。湯治ならそれにふさわしい温泉が岡山にはいくらでも存在する。これも謎だ。
 また、もう一つ謎があった。彼は午後10時から11時という、遅い時間帯に入浴している。なぜ、そんな遅い時間帯に入浴したのか。宿の老婆によれば、宿泊客はたいてい午後9時までに入浴を済ませるという。私もそうだったが、どうしてもテレビも何もない宿にいると眠りに就くのが早くなる。たいていの客は午後10時過ぎに眠りに入るというがそうだろうと私も思った。夜更かしを得意とする私でさえ、午後10時過ぎには眠りに就いた。それから考えると、彼が10時過ぎに風呂に入ったということに何か、別の意味合いを感じた。誰もいない時間帯を狙って、誰かと待ち合わせをしたのではないか、そういう推理が成り立った。
 ――そこで私はある仮説を立てた。
 菊池は岡山へ出張でやって来て、当初は仕事を終えるとすぐに東京へ帰る予定でいた。ところが、出張先で思わぬ何か、――情報を見て驚いた。そこで菊池はこの宿を訪ねた。多分、その時は半信半疑であったのだろう。情報が間違っていたらすぐにでも帰る予定でいたのかも知れない。だが、この宿へ来て、その情報が間違っていないことを知り、彼は――。
 その瞬間、私の中に一人の人物が浮かび上がった。私は、その人物に尋ねてみたい衝動に駆られ、老婆の許しを得て、話す機会を持った。
 最初、その人物はすべてを否定した。だが、しばらく話しているうちに良心の呵責に耐えられなくなったのだろう、美奈子はすべてを私に話した。
 
 「東京の料理店で修業していました。料理が好きで、いずれは自分のお店を持ちたいと考えていましたので必死でした。頻繁に店にやって来る客の一人に斉藤という会社経営の社長がいました。二代目で年も四十代前半と若く、見かけも悪くなかったのですが、高慢な態度が鼻について嫌いなタイプでした。
 その斉藤がなぜか私に執心して、自分の料理はすべて私に作らせるよう支配人に命じるなどして、あからさまに私に迫ってきました。料理を作らせるだけで終わっていればよかったのですが、私が何の関心も示さないことに腹を立て、部下に命じて私を襲わせ、蹂躙し、その現場を写真に撮るなど卑劣な真似をして、私を自由にしようとしたのです。絶望した私は、夢を捨て、東京を捨て、関西に来て、この宿のことを雑誌で知りました。それでこの宿へ来て、雇ってもらうようお願いをしたのです。宿の人はみな、いい人で私は救われた気持ちになりました。一生懸命働いて、恩返しをしよう、そう思った私は、この近くで獲れる鯉を食材にした料理を作り、お客様に喜んでもらおうと考え、実行しました。幸いにも好評で、私の料理を食べるためにのみ、やって来られる客もおり、女将さんもずいぶん喜んでくれました。でも、それがニュースになって、岡山のミニコミ誌に掲載されました。岡山エリアだけならと安心していたのですが、斉藤の下で働いていた菊池が、出張に来て、たまたまその記事を目にし、この宿にやって来ました。
 菊池も斉藤に指示されて私を襲った一人です。彼は私を見つけて脅しました。社長に、ここにいることを言われたくなかったら、仕事を終えた後、俺に付き合えと。しかも、彼は私の恥ずかしい写真を持っていると私に言うのです。仕方なく私は、仕事を終えた午後10時、露天風呂で菊池と会うことにしました。厨房から一本、肉切り包丁を取り出してそれを携えて彼に会うと、彼は私に一緒に風呂へ入れと命じました。こんな男、と思いました。こんな男に抱かれるぐらいだったら死んだ方がマシだ。そう思って、菊池を刺した後、私も死ぬつもりでいました。襲いかかって来る菊池の腹部に包丁を刺そうとすると、信じてはもらえないでしょうが、包丁が私の手から離れて、菊池の腹部に深く食い込んだのです。
 驚いた私は、慌てて逃げました。警察にこのことを話そうかどうしようかずいぶん悩みました。でも、あなたに指摘されて、ようやく決心がつきました。私は自首をします」
 「いや、自首は少し待ってください。あなたは今、包丁が手から勝手に離れて菊池の腹部に食い込んだと言いました。そのことを警察に伝えてもおそらく誰も信じないでしょう。でも、私は信じます」
 「どうしてですか?」
 「昨夜、午後9時頃ですが、露天風呂に入る直前、騒動しい声を聴きました。最初は気のせいかと思ったのですが、二度目に聞いた時にはっきり声が聞こえました。あれは霊現象の一種で、この宿の露天風呂に浮遊する霊たちの声です。菊池を刺した包丁には、苦渋を舐めたあなたの怨念がこもっています。その怨念が菊池を刺し、殺したのです。そのことを実証する物は何もありませんが、一つだけ方法があります。そのためには、あなたは、これまでのすべてを赤裸々に白日の下にさらす必要があります。あなたにそれができますか?」
 私の問いに、美奈子は戸惑いの表情を見せたものの、少しの間をおいて、大きく頷いた。
 
 岡山県警本部に出向いた私は、事件を解く鍵があることを説明し、実証したいので現場に一緒に来てほしいと伝えた。警察は捜査に行き詰っていたこともあって、私の提言に同調し、露天風呂へ直行した。
 露天風呂では美奈子が待っていた。私は岡山県警の担当刑事に、美奈子が語った事件の全貌を語り、美奈子の怨念のこもった包丁が菊池の腹部を突き刺したことを説明すると、担当刑事のみならず、警官たちまでもが笑って、美奈子が刺した言い訳に過ぎないといい、美奈子を逮捕しようとした。
 私は、このまま事件の起きた時間までここで待ってくれと、刑事や警官たちに頼み、そうすれば事件の全貌が明らかになると話した。事件を実証する証拠品が何もないこともあって、刑事は、私の頼みを承諾し、午後10時の時間帯まで宿で待機して待つことになった。
 確信があったわけではなかった。だが、きっと美奈子がやっていないことを証明できる何かが見つかるはずだ。そう思った私は、美奈子に、心配しなくてもいいと伝え、それよりも、斉藤の悪事、斉藤の部下たちの悪事をしっかりと警察に話し、告訴の準備をしておくよう伝えた。そうでなければ、美奈子はこの先もずっと逃げ回らなければならない。
 すでに午後6時を過ぎていたため、残りの4時間はアッと言う間に過ぎた。私は美奈子と刑事たちを引き連れて、露天風呂に向かった。
 「アッ……」
 一人の刑事が声を上げた。すると、他の警官たちも揃って声を上げ、
 「何かいる!?」
 と叫んだ。私の耳にも霊たちの声が聞こえていた。美奈子の耳にも届いていたと思う。
 私は、美奈子を露天風呂の縁に立たせ、包丁を手に持たせた。予め風呂の中に、菊池のカバンや持ち物を浮かばせておいた。美奈子は菊池の持ち物を見ると、自然に怒りが込み上げてくるようだった。露天風呂の縁に立ち、美奈子が包丁を構えると、その瞬間、美奈子の手から包丁が飛び出て、菊池の持ち物を突き刺した。
 「ここは霊が浮遊する場所です。時間帯によって霊たちが寄り集まって来ます。何人かの人が霊の声を聞いたと思いますが、ここはそんな場所なのです。美奈子さんの菊池に対する強い怨念を感知した霊が、今、見ていただいたように、美奈子さんに代わって菊池を刺した。それを実証することができたと思いますがいかがですか?」
 誰も笑わなかった。信じられない思いと、見たことを信じなければならない気持ちが微妙に交錯して、露天風呂から誰もすぐには動くことができなかった。
 美奈子の無実が正式に証明され、事件は曖昧な形で終息した。だが、その中で終息しなかったものがある。斉藤たちが犯した美奈子への犯罪だ。美奈子の告訴により、斉藤たち全員が逮捕され、証拠の数々も家宅捜索によって出てきたことで、言い逃れができなくなった。美奈子の勇気ある告訴が功を奏して、斉藤は他にも数々の余罪に問われ、長期間の拘留が明らかになった。
 美奈子はその後、病気治療中だった料理人が戻ったことで、それを機に温泉宿を離れ、再び東京へ出て料理の修行を始めた。彼女ならきっと立派な料理人なるだろう。私は今も秘かにだが、彼女を応援し続けている。
〈了〉

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