今泣いたカラスがもう笑った

高瀬 甚太

 場末の立ち飲み屋「えびす亭」にカラスと呼ばれる客がいる。年がら年中、黒い衣服に身を包んでいるのと、陰気な雰囲気を漂わせていることからそう呼ばれているのだが、本人はそう呼ばれていることにまったく気付いていない。
 カラスの本名は大池幸次と言い、年齢は四十三歳、職業は不明だ。えびす亭には週に三度顔を出すが、誰とも会話を交わさず、一人黙して酒を呑むのみ。ほとんどの人がすぐに打ち解けてしまうえびす亭の中にあって、誰とも打ち解けることなく黙々と呑み続ける人は珍しい。声をかけても無視を決め込むことから、最近では声をかける者すらいなくなった。
 大池を見て、客たちが、
 「カラスのやつ、最近、よく呑みに来ているな」
 と、ひそひそ話をしても、大池はまるで気付いていなかった。

 十月の晴れた日のことだ。休日の後とあって、えびす亭は混んでいた。常連のメンバーの他に、この日はなぜか初めての客が多かった。午後八時を過ぎて、ようやく混雑が一段落した時、カラスが顔を覗かせた。
 「あんた!」
 店にやって来たカラスを見て、客の一人が声を上げた。カラスが声のした方向に顔を向けると、再び声が飛んだ。
 「こんなところにいてたんか!?」
 声の主は中年の女性だった。女性を見たカラスは一瞬、身体をすくませ、放心状態になった。中年の女性は、カラスの立つカウンターの反対側から足早にカラスの傍に近付くと、カラスの右腕をしっかりと掴んだ。
 「どないしたんや清ちゃん。知っている人か?」
 女性の連れの男性が声をかけた。カラスより十歳は年上と思われる男性であった。
 「知っているも何も、三年前、うちを捨ててトンズラしたひどい男なんよ。こんなところで会うなんて、思ってもみなかった」
 カラスは、右腕を掴まれたまま、うなだれてじっとしている。
 「清ちゃん、ここでは他の客に迷惑になる。どっか喫茶店でも行ったらどないや」
 清ちゃんの連れの男性が、清ちゃんを促した。
 「話の具合によったら、わしが一緒に行ってもええで」
 「それには及びません。うちの問題やさかい、きっちり話を付けます」
 清ちゃんは、カラスの腕をしっかり掴んで、店の外へ出て行く。
 路地を抜けて駅前に出た清ちゃんは、喫茶店を見つけると、カラスの腕を引っ張るようにしてさっさと中へ入って行った。
 ウエイトレスに案内され、四人掛けの席に向かい合わせで座ると、清ちゃんは、飲み物をオーダーするのも忘れてカラスに問いただした。
 「あんた、なんでうちを捨てたんや?」
 怒りと悲しみの混じり合った清ちゃんの表情は、今にも泣き出さんばかりに深刻だった。
 カラスは、先ほどから一言も言葉を発していなかった。清ちゃんに問いただされている今も、俯いて黙したまま、何も語らない。
 「捨てられた女の気持ち、あんたにわかるか? わからへんやろな。わかっていたら捨てたりせえへんわな……」
 カラスと同年代か、少し上に見える清ちゃんは、少し小太りだが、結構、可愛い女だ。
 「お金はええ。うちの金を持って逃げるのはまだええ。そやけど、うちの心をぐちゃぐちゃに切り裂いて、トンズラするのはあんまりやと思わへんか?」
 コーヒーカップが二つ、清ちゃんとカラスの前に置かれた。清ちゃんは、フレッシュをカラスのカップに注ぎ、シュガーを一匙入れ、続いて自分のカップにフレッシュを少し多めに注ぎ込んだ。
 「何か言ったらどないやの? それとも、うちとはもう話すのさえ嫌なんか」
 清ちゃんが熱いコーヒーをゆっくり口に入れると、それを待っていたかのように、カラスがようやく神妙な表情で口を開いた。
 「すまんかった」
 「謝ってもらっても何も嬉しいことないわ。それより、何で逃げたか、話を聞かせて」
 「仕方なかったんや。あのまま、清ちゃんの傍に居たら、きっと清ちゃんに迷惑をかけてしまう。そない思うたんや」
 「うちに迷惑? 何の迷惑やねん」
 「俺、賭博に手を出して、えらい借金背負うてしもうたんや。逃げるしかなかった。職場にも追込みがかかって、実家にも追込みが来た。清ちゃんと同棲していたことは内緒にしてたから、すぐには追込みはかからへんと思うたけど、それも時間の問題やった。このまま一緒にいたら、清ちゃんに迷惑がかかる。その前に姿を消そうと決心したんや」
 清ちゃんが笑った。大笑いしながら、一筋、涙の粒を頬に垂らした。
「作り話にしては秀逸やなあ。うち、あんたが逃げた後、あんたを探し回ったんやで。そこで、あんたが若い女と逃げたという話を聞かされた。そのことはどない説明するねん」
 カラスは小さく首を振った。首を振り、清ちゃんを見た。
 「職場の主任には、借金の追込みで迷惑をかけるから会社を辞めるという話をしておいた。その時、俺は主任に相談をしたんや。同棲している女に迷惑をかけたくない。でも、このままやったら、やつらは同棲している女に追い込みをかける。どないしたらええやろか、と聞いたんや。すると、主任が、他に女を作って逃げたと、追込みの連中に話しておく。その女が、大池をそそのかしたようや、と話せば、同棲している女には迷惑かからんと思う。もし、それでも追込みをかけるようやったら、わしが言うたる。捨てられた、かわいそうな女をこれ以上、いじめたんなって――、言うてくれたんや」
 カラスの話を聞いていた、清ちゃんの表情が途端に険しくなった。カラスは、声を絞り出すようにして再び清ちゃんに言った。
 「俺、清ちゃんとのこと大好きやった。嘘やない、ほんまのことや。ほんまに好きやったんや――」
 カラスが泣いた。清ちゃんは、そんなカラスをずっと見つめていた。
駅前、繁華街――、夜の喫茶店の店内は意外に静かだ。
 「わかった。うち、あんたの言うたこと、信じることにする。それで今、あんた、どないしてんのや?」
 清ちゃんが聞いた。
 「どないって……」
 「一人なんか、そうやないんか? 聞いてるのやないか」
 カラスは冷めたコーヒーを口にして、カップをゆっくり皿の上に置いて言った。
 「清ちゃん以外、俺のような陰気で無口な男を相手にしてくれる女はおらん。あれからずっと一人で来たし、これからも一人でおると思うわ」
清ちゃんは、フッとため息をついて、カラスを見た。
 「もっと早う、その話を聞きたかったわ。うちには今、男がおる」
 「わかってる。清ちゃんのようなええ女、誰も放っておかへん」
 「どんな男か、知りとうないんか?」
 「知ってもどないもならんやろ。俺は清ちゃんを裏切った男やさかい」
清ちゃんがゆっくりと立ち上がった。それを見てカラスも席を立った。
 レジに向かった清ちゃんが、コーヒー代を払おうとするのをカラスが必死になって押しとどめた。
 「清ちゃん、今日のところは俺に払わせてくれ。頼む――」
 清ちゃんは、しばらくカラスの顔を見つめていたが、あきらめたかのようにレジを離れた。
 喫茶店の外に出ると、十月とは思えない、生温かな空気が漂っていた。
 「うちは店に戻るけど、あんたは?」
 清ちゃんがカラスに聞くと、カラスは首を振って、
「俺はここでさよならする。清ちゃんに会えて、ほんまによかったわ。俺、少し気が晴れた。清ちゃん、元気で頑張ってな」
 カラスが作り笑顔で清ちゃんに言った。清ちゃんは、黙ってカラスを見ている。
 「さいなら」
 手を振って別れようとするカラスの作り笑顔が、その瞬間、見事に壊れた。清ちゃんがカラスに声をかけようとしたが、カラスは足早にその場を去って、すぐにネオンの中へ消えた。

 一カ月余り、カラスはえびす亭に姿を見せなかった。カラスが店に来なくても気にする人などほとんどいなかった。えびす亭は相変わらずたくさんの人を飲み込み、今日も繁盛している。
 「最近、大池さんは来ていないようね」
 時々、顔を見せる清ちゃんが、マスターに尋ねた。
 「大池さん?」
 名前を言われてもピンと来なかったマスターは、しきりに首を傾げて考えた。
 「黒い服を着た、ちょっとハンサムな中年よ」
 清ちゃんの言葉を聞いて、隣に立っていた客が声を上げた。
 「マスター、カラスのこと言うてんのと違いますか」
 黒い服と聞いて、ようやくマスターも気づいたようだ。
 「そうか、カラスや。ハンサムかどうかは別にして、黒い服を着た中年と言ったら、カラスしかない――。そういえば、カラス、いや、大池さんはここ一カ月ほど現れていませんね」
 と、マスターが女性に答える。その時、ガラス戸が開いて、一人の客が入って来た。客は清ちゃんを見つけると、大きく手を振って、
 「清ちゃん、お待たせ」
 と言った。すでに酒が入っていて、顔を赤くして上機嫌だ。
 「こんな安もんの店なんかで呑まんと、もっとええ店、行こう」
 男は清ちゃんの肩を抱いて出て行こうとする。その手を振り払って、清ちゃんが言った。
 「安もんかどうか知らんけど、うちは、この店がええねん」
 「この店のどこがええねん。たかが立ち呑みの店やないか。それよりわしがもっとええところ、連れて行ってやる」
 それでも清ちゃんは動かなかった。
 「お前、自分を捨てた男がやって来るのを待っているんやな。話はついたんと違うんか」
 「……」
 「あんな、くそ陰気くさい男のどこがええねん。貧乏たれの男やないか。あの男にはこの店がよう似合うとる。さあ、こんな店、二度と顔を出すんやないぞ、ええな」
 再び男は清ちゃんの肩を抱いて動かそうとした。だが、清ちゃんは動じない。
 えびす亭の常連たちの敵意に満ちたまなざしが男に注がれた。男は、周りの雰囲気に怖気を感じたのか、清ちゃんの腕を取って慌てて出て行こうとする。清ちゃんは、男の腕を振り払い、大声で叫んだ。
 「うちは、うちの好きなようにする。あんたの言いなりになんかなるつもりはない。こんな店、こんな店とあんたは言うけど、うちにとっては、どこよりもこの店の方が酒を美味しく呑めるんや。あんたとは今日でお別れや。さいなら!」
 呆気に取られた表情で男が清ちゃんを見た。しかし、清ちゃんの意志の固い表情を見て、えびす亭の客たちの非難のまなざしを受けて、男はすごすごと去って行った。
 「お姉さん、あんなこと言ってよろしかったんでっか?」
 マスターが心配して清ちゃんに声をかけた。
 「ええねん、ええねん。ちょうど別れたいと思っていたところやったから、ええきっかけになったわ。お騒がせして本当にすみません」
 期せずして客たちの間から拍手が湧き起こった。
 「お姉さんの啖呵、ほれぼれしたわ。最高や」
 何人もの客が清ちゃんを褒め称えた。
 その夜から、清ちゃんはえびす亭の人気者になった。

 カラスがえびす亭に姿を現したのは、それからさらに三カ月を経た後だった。普通なら、カラスの存在など、マスターをはじめ、客たちもまったく気にしないのだが、この時ばかりは違った。清ちゃんが、カラスが来ていないかどうか、えびす亭に来るたびに尋ねる、そのことを知っていたからだ。
「久しぶりでんなあ。どないしてましたんや」
 客の一人がカラスに尋ねた。いつものカラスなら、問いかけなど無視して、黙々と酒を呑むのだが、この日のカラスは違った。
 「しばらく大阪を離れていまして、今日、ようやく帰ることが出来ました。やっぱり、えびす亭で呑む酒は美味しい。離れて見て、しみじみそう思いましたわ」
 饒舌に話すカラスを見て、マスターをはじめ、客たちが驚いた。
 「どこへ行っていたんですか?」
 別の客が興味本位に尋ねた。カラスは、無視することなく笑顔で答えた。
 「私、昔、建設会社にいましてね。事情があってやめたんですが、四カ月前、そこの会社の主任に偶然、お会いしましてね。どうしている、と聞くので、半ばプー太郎で、時々、日雇い仕事をしています、と答えたら、それやったらもう一度、うちの会社に勤めないかと言われて――。大変な迷惑をかけて辞めているし、再就職してもまた、迷惑をかけることになる、そう言って断ったんです。すると、その主任が賭博の借金だったら心配することない。あの後、警察の取り調べがあって、追込みをかけていた暴力団事務所が解散した。他にもたくさんの被害者がいたようだが、そのおかげでみんな助かったようや、と言うのです。俺、働いていたその会社が大好きでしてね。もう一度、勤めることができたら、こんなに幸せなことはない。そう言うと、主任が、わしがうまくやってやるからうちの会社へ帰って来い、と言ってくれたんです。再入社して、すぐに、東北にある支店の方へ行き、そこで今日まで勤めていました。明日からしばらく本社勤め、えびす亭にも通えそうです。それが一番うれしい」
 明るい表情で生き生きと語るカラスを見て、えびす亭の客たちは驚きを隠せなかった。そう言えば、服装も変わっていた。常に黒い衣服を身に着けていたのに、今はグレーの作業着に変わっている。もう、カラスと言うニックネームは相応しくないのでは、誰もがそう思ったに違いない。
 しかし、清ちゃんがカラスを探しているという話は、誰も口にしなかった。二人の事情もよくわからないのに、他人があれこれ口出しするべきではないと、全員が思っていたからだ。カラスが大阪へ帰り、えびす亭に顔を出し始めたことで、そのうちきっと、このえびす亭で清ちゃんと出会うことだろう。成り行きに任せた方がいい、えびす亭の全員がそう思っていた。

 清ちゃんは、午後八時を過ぎた頃、いつも一人でやって来た。今では客の誰もが「清ちゃん」と呼び、清ちゃんが店にいるだけで、えびす亭はいつもの数倍、明るくなった。
 「やっぱり今日も大池さん来ていないわね」
 店に来て清ちゃんが最初に発する言葉がそれだった。あきらめにも似たその言葉を聞いて、客の一人が言った。
 「カラスなら、昨日、来てたよ」
 清ちゃんの顔色がサッと変わった。
 「何時頃? 元気そうだった」
 「ずいぶん感じが変わっていたので驚いたよ。昨日の午後九時頃だったかな。以前は、声をかけても無視されたのに、昨日は、よく話してくれたよ。何でも、借金をしていたところが摘発されて、逃げなくてもよくなったのと、以前の会社に再び勤められるようになったと、嬉しそうに話していた」
もう一人の客も言う。
 「ほんと、ずいぶん感じが変わっていたなあ。カラスという名前が似つかわしくなくなった」
 清ちゃんは、その話を聞きながら安堵のため息をついた。清ちゃんは、前回、偶然、この店でカラスに会って以来、ずっとカラスのことを心配していた。
 「じゃあ、そろそろ失礼するわ、お勘定してちょうだい」
 店に来て、間もないというのに、ビールを一本呑んだだけで帰ろうとする清ちゃんに驚いて、客たちが引き止めた。
 「清ちゃん、九時になったらカラスがやって来る。それまで待ったらどない?」
 清ちゃんは悪びれずに答えた。
 「ちょっと用事を思い出したから、今日はこれで失礼するわ」
 勘定を払い、店を出て行こうとする清ちゃんを、もう誰も止めることが出来なかった。清ちゃんが店を出て、しばらくしてカラスがやって来た。
 「清ちゃんに会わなかった?」
 店に入って来たカラスを見て、客たちが思わず聞いた。
 「清ちゃんに? いや、会わなかったけど……」
 客の一人が、カラスが来なくなってから、清ちゃんは、毎日のように「大池さんは今日も来ていないのね」と聞き、来ていないと知ると、いつもがっかりしていたという話をした。
 それを聞いても、カラスは冷静で、動揺などしなかった。
 「清ちゃんはやさしくて思いやりのある女性やから、昔、面倒を見た俺のことをそうやって心配してくれているだけなんや。別に深い意味はないと思うよ」
 そんなふうに説明をした。それでも、酒を呑み始めると、カラスは、妙に清ちゃんのことが気になって来た。清ちゃんには男がいる――。清ちゃんから離れて三年余、清ちゃんに男が出来るのは当然のことだ。しかも、カラスは清ちゃんを裏切って逃げた。
 あの日からずっと、清ちゃんのことを考えない日はなかった。清ちゃんの笑顔、清ちゃんの大阪弁、清ちゃんの温かな肉体、一つひとつがカラスの脳裏から離れなかった。
 小学生の時、病気で母を亡くして、姉と父親との三人暮らしになった時、母親が恋しくてメソメソと毎晩のように泣いていたカラスは、高校を出て、建設会社に就職をし、三十歳の時に三歳年上の清ちゃんと知り合った。清ちゃんは、カラスがよく行く大衆食堂で賄い婦をしていた。最初は、その店の料理の味が好きで通っていたが、やがて、清ちゃんに惹かれて通い詰めるようになったのが縁だ。
 はじめて清ちゃんとデートをして、ふっくらとした手を握った時、何ともいえない懐かしさを覚えたことをカラスは昨日のことのように覚えている。
一緒に暮らすようになってから、カラスはさらに清ちゃんに夢中になった。清ちゃんに抱かれて眠る時、カラスは毎晩、至福の思いで眠ることができた。本当に幸せだった。清ちゃんにダイヤモンドのネックレスを買ってあげたい。そう思ったことがケチのつき始めだった。賭博に誘われて手を出し、借金を重ねて追いかけられるようになった。あの頃のカラスは、それまでのカラスとは何から何まで違っていた。焦りと恐怖の中で、清ちゃんの金を持ち出し逃走した。
 カラスは、清ちゃんのもとを離れてからも、ずっと清ちゃん以外の女には興味が持てなかった。だから今も一人で、これからもずっと一人でいるつもりでいる。
 それでも、もう一度、もう一度だけでいい、清ちゃんに会いたいと思った。えびす亭で清ちゃんの話を聞いたカラスは、一層、その思いを強くした。
 翌日、カラスは、午後八時にえびす亭に現れた。清ちゃんがその時間帯にえびす亭に現れると聞いていたからだ。清ちゃんの男と顔を突き合わせるのは辛かったが、それでも、もう一度だけでも顔を見たい。その思いが強かった。
 だが、その日、いくら待っても清ちゃんはえびす亭に現れなかった。その翌日も、そのまた翌日もそうだった。一週間、十日とそんな日が続いたある日、カラスは決心した。
 多分、もう働いてはいないだろうと思ったが、清ちゃんが以前、働いていた大衆食堂に行ってみようと考えたのだ。
 有給休暇を取ったカラスは、昼の時間に合わせて、大衆食堂の暖簾をくぐった。昼時とあって店は混雑していた。空いた席を見つけたカラスは、その席に座ると、清ちゃんを探した。しかし、清ちゃんはいなかった。
 注文を取りに来た店員に、定食を注文し、そのついでに、清ちゃんはもう働いていないのか、と聞いた。
 「清ちゃんなら風邪をひいてお休みです。ずいぶん調子が悪いみたいで一週間近く、休んでいます」
 店員の言葉を聞いたカラスは、食事もそこそこに大衆食堂を出て、以前、同棲していた清ちゃんのアパートに急いだ。
 きっと男が傍にいるだろうが、なあに構わない。清ちゃんの無事を確かめたら、すぐに家を出ればいい。カラスは清ちゃんのことが心配でならなかった。
 問題は、同棲していたそのアパートに、清ちゃんが今でも住んでいるか、どうかだ。
 ドアに辿り着くと、見覚えのある傷がドアの取っ手のところに残っていた。カラスが鍵を無くし、清ちゃんの帰りを待っている時、暇つぶしに付けた傷だ。
 ピンポーンとインターホンを鳴らした。
 ――どなたですか?
 せき込むような声がして、聞き覚えのある声が聞こえた。
 ――清ちゃん? 俺、大池です。
 インターホンの向こうの声がピタリと止んだ。
 ――清ちゃんが風邪をひいて寝込んでいると聞いて、心配で、心配で……。
 ガチャリという鎖の外れる音がして、静かにドアが開き、寝間着姿の清ちゃんが顔を覗かせた。
 「清ちゃん、大丈夫? 俺、すぐに帰るから心配しなくてもいいよ。中に男の人がいるんだろ。清ちゃんの無事な顏を見ることが出来たら、俺、それでいいから――」
 ドアを開けた清ちゃんが、
 「入って」と言った。
 躊躇するカラスに、清ちゃんがまた言った。
 「ありがとう。どうぞ入って」
 カラスはおそるおそる清ちゃんの部屋の中へと入って行った。

 木曜日のえびす亭は、常に盛況だ。開店から閉店まで混雑が途切れることはない。
 清ちゃんが顔を覗かせると、混雑したカウンターに自然に隙間が出来た。
 「ひさしぶりやね、清ちゃん。どないしてたん?」
 女性客の一人が聞いた。えびす亭は女性客にも人気があるのだ。
 「風邪をひいちゃってね。長風邪でまいったわ」
 他の客の声が二人の会話に紛れ込む。
 「清ちゃん、カラスと会っていない? 一時期、清ちゃんが来るのを待っていたカラスがここしばらく姿を見せていないんだ」
 「たぶん、もうすぐ現れると思う」
 清ちゃんが笑みを浮かべて言った。客たちは思わず声を上げた。
 「えっ!?」
 その言葉通り、ガラス戸が開いて、カラスが姿を現した。カラスは、混雑した清ちゃんを見つけると、その傍に自然に身体を潜り込ませた。
 今日のカラスは白いシャツに黒いズボン、色鮮やかなブルーのブレザーを身に着けていた。
 「いいブレザーやないか、誰にえらんでもろうたんや」
 客がカラスを冷やかした。すると、清ちゃんが満面に笑みを浮かべて答えた。
 「うちに決まっているやないの」
 客たちの驚きは半端ではなかった。カラスと清ちゃんは、肩を寄せ合い、互いにグラスを傾け、喉を鳴らしてビールを呑んだ。超満員のえびす亭の中に、不幸を乗り越えた幸せな二人がいる。それだけで客たち全員が幸せな気分になった。
<了>

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