結城さんが変わった!

高瀬 甚太

 驚くような早口でしかも休みなく喋るものだから、何を言っているのかまるでわからず、みんなが思わず聞き直す。するとさらに早口になって話すものだから、ますます理解不能になる。立ち呑みの店「えびす亭」に時々、顔を出す結城健二は、早口なだけでなく、恐ろしくせっかちな男だった。三十代前半という年齢のせいもあるだろうが、早口でけたたましく喋る結城と話すことを、えびす亭の客たちはどうしても敬遠しがちになる。

 夕方からひどい雨降りになった日のことだ。えびす亭はその日、珍しく空いていた。客も常連が少なく、雨宿りに立ち寄った新規の客が多かった。それもあっていつになく店内は静かでプロ野球を実況するテレビの音だけが小さく響いていた。
 通常、立ち呑みの店は、カウンターに立って、呑んで食べ、それが終わると、さっさと帰ってしまうことが多い。一人でやって来る客が大半だからどうしてもそうなってしまうのだが、時によっては隣の客と話が弾むことがあり、それもまた立ち呑みの店の特徴といえば特徴と言えた。
 雨に降られ、やむなくえびす亭に入った岡島忠は瓶ビールを注文し、焼き魚のホッケの半身を注文した。雨はますます強くなり、しばらく止みそうになかった。
 グラスにビールを注いだ岡島は一気にそれを喉の奥に流し込んだ。その気持のいい呑みっぷりに痛く感動したのが、隣に立っていた結城健二だった。
 「兄ちゃん、ええ呑みっぷりしますなあ。気持ちええわ」
 文章で書けばよくわかるのだが、結城が喋ると、早口過ぎて何を言っているのかよくわからない。岡島にすれば、誉めてくれているのだろうなということぐらいはうっすらとわかるのだが、返事のしようがない。戸惑っていると、片側に立っていた客が、通訳してくれた。
 岡島は塾の講師である。生徒に教える時、ゆっくりと丁寧に喋ることが基本になっている。生徒にもそれを心掛けさせている。そんな岡島にとって結城はまるで異次元の人間であった。見たところ岡島と年齢の違わない結城は、なおも岡島に話しかけてくる。結城もまた、同世代の岡島に親近感を覚えたのだろう。しかし、岡島にはまったく話が通じない。早口すぎるのだ。すると、また、片側の客が通訳してくれる。
 「それにしても今日は雨がよく降りますね。いつになったら止むのでしょうね。お宅はどこから来られたのですか? 私は――」
 そんなことを言っているのだと片側の客が丁寧に訳してくれた。
 「生野区の方からこちらへ用があって来たのですが、雨降りに遭って雨宿りをしています」
 岡島が丁寧に結城に説明をすると、結城はまた、何事か、けたたましく喋る。やっぱり岡島にはちんぷんかんぷんだった。
 「お仕事は何をされているのですか――と聞いています」
 片側の客の説明がなければとてもわからなかっただろう。結城は話せば話すほどスピードが増してきて、ますます、意味不明になって行く。
 結城と話すことをあきらめた岡島は、ビールの追加と、おでん盛りを注文し、呑むことと食べることに専念した。
 結城は、早口な癖に人と話すのが大好きなようで、その後も、隣に立つ人に片っ端から話しかけ、それはもうとどまることを知らない。
 雨が少し小降りになったところで、岡島は勘定を払い、店を出た。店を出て駅までの道を走っていると、背後から声がした。振り返ると結城だった。駅に着いたところで追いかけてきた結城を待ち、「何でしょうか?」と聞くと、結城が早口でペラペラまくし立てる。今度は通訳してくれる人がいない。岡島は、結城の両肩を掴むと、
 「結城さん、ゆっくり、ゆっくりと喋ってください」
 と結城を落ち着かせるようにして言った。大きく頷いた結城は、深呼吸を一つして言った。だが、スピードは変わらなかった。
 「言葉が早くて、何を言っているのかわかりません。大切な話でなければ失礼したいのですが」
 岡島は本当に急いでいた。雨さえ降らなければ早く家に戻って用事を済ませたいところだった。それが突然の雨のために予定していた時間が大幅に遅れた。塾の講師は、授業のための用意に時間を取られる。準備が大変な仕事だった。
 結城の元を去ろうとする岡島の服の袖を掴んで結城が呼び止め、真剣な顔でけたたましく喋った。
 仕方なく岡島は、駅近くの喫茶店に結城を誘った。
 賑わう喫茶店の一角に席を見つけた岡島は、その席に結城を座らせ、カバンからノートを取り出すと、ペンと一緒にそれを結城に手渡して言った。
 「結城さんの言葉がうまく理解できません。筆談のようになって申し訳ありませんが、用件をここに記していただきませんか」
 結城は少し戸惑った表情を見せたが、素直に頷き、ノートに記し始めた。駅に隣接した喫茶店とあって混雑を極めていた。ウエイトレスが忙しく走り回り、岡島たちのところへやって来るのもかなりの時間を要した。
 結城は、ノートに記したものを岡島に渡した。そのノートには、言葉と同様に、かなりせっかちに書かれた文字でこう書かれていた。
 『岡島さんはどこで塾の講師をなさっているのですか。場所と塾の名称を教えていただけませんか』
 「わかりました。ぼくは地下鉄谷町九丁目駅近くの塾で講師をしています。塾の名称は、『サクセスロード塾』ですが、それがどうかしましたか?」
 岡島が答えると、結城は話そうとして途中で辞め、再びノートに書き始めた。
 岡島の目から見て、結城は落ち着きのない人のように見えた。常に焦っていてゆとりというものがない。年齢的にももっと落ち着いていいはずなのだがと岡島は不思議に思った。
 『私、現在、中小の金融会社に勤めています。でも、仕事が性に合わなくてうまく行っていません。転職を考えているのですが、私に塾の講師は難しいでしょうか? ちなみに私は、国立大学の教育学部を卒業しています。教師としての資格は持っているのですが』
 ノートを読んだ岡島は、目を挙げて結城を見た。資格はあっても結城の言動では講師の仕事は難しいだろうと思った。今も結城は、苛々と貧乏ゆすりをし、ひどく落ち着かない。
 「紹介はできますが……。こう言っては何ですが、結城さんの早口とせっかちなところは講師には不向きなのではないかと思うのですが……。塾の講師は、学校の教師と違い、学力アップだけが目標の授業です。成績を挙げられない講師はすぐにクビになってしまいます」
 結城は再び、岡島に向かって喋ろうとして、途中で気が付き、またノートに何事か急いで書きはじめた。
 『昔から人にものを教える仕事が大好きでした。教育学部を選んだのも先生になりたかったからです。しかし、教育実習で生徒に猛反発を喰らい、自信を喪失し断念しました。それで現在の金融会社に就職したのですが、いまだに教育の仕事をしたいという夢を捨てきれないでいます。教育実習で失敗したのも、岡島さんの言われるように、早口とせっかちな態度が原因でした。私にもよくわかっているのですが、なかなか改善することができずにいます。やはり無理ですよね』
 岡島は、結城のことが少しかわいそうになった。多分、今の職場でも疎まれているのだろう。何とか力になってあげたいが、自分にはどうすることもできない。たとえ紹介したとしても、今の結城では恥をかくだけだろう。そう思った岡島は、結城に助言をした。
 「結城さんの講師としての適性は、私には判断できませんが、アドバイスできるとしたら、早口を直し、せっかちな態度を直すこと、それをまずやらないといけませんね」
 結城さんもそのことは充分、わかっているのだろう。大きく頷いてみせた。
 「結城さんにはえびす亭という、いい勉強場所があるじゃないですか。もっと落ち着いて、一語一語、慌てずゆっくり喋る練習をしてください。私も時々、えびす亭へ行って、様子を拝見します」
 結城さんは大きく頭を下げて、早口で「ありがとうございます」と言った。その言葉だけは、岡島にも理解できた。

 どんなことにでも原因と理由が存在する。結城の異常な早口とせっかちな態度にも、やはり、そうなるまでの原因と理由があった。
 結城の祖父は厳格な教育熱心な人で、幼い頃に父を事故で亡くした結城は、祖父の元で育てられてきた。
 「ぐずぐずするな。早くやれ。遅くやるのだったら誰にもできる」
 幼児の頃から結城は祖父にそう教育されてきた。厳しい祖父の教育に怯えながら従ってきた結城は、祖父に怒られまいと行動こそ早くなったが、その分、早口になりせっかちな行動をするようになった。幼児の頃はそれでもまだ、少し早い程度だったが、中学生になった頃から異常に早口になる。病気のため、祖父が異常に短気になり、ことあるごとに結城に暴力を奮うようになった。中学時代の三年間、結城は祖父の暴力に怯え、恐怖のあまり萎縮してしまい、言葉が以上に早くなり、行動もオドオドとして落ち着かなくなり、せっかちな行動を繰り返し、周囲の不評を買うようになった。
 結城が中学を卒業するのと同時に祖父が他界したが、結城の早口とせっかちな態度は一向に改まらなかった。亡くなってもなお、結城は祖父の亡霊に怯えていたのだ。
 結城は、岡島に指摘された早口とせっかちな態度のことを十分理解していた。直さなければならないということも頭ではしっかりとわかっていたのだが、どうしても直すことができない。是正しようと思い、心理学の教室にも通ったが、一時的によくなっただけで、しばらくするとまた元通りになった。
 「えびす亭という、いい勉強場所があるじゃないですか」
 岡島はそう言った。結城はこれまでそんなことを考えたこともなかった。なぜ、えびす亭がいい勉強場所なのか、結城は理解に苦しんだ。そして決心した。えびす亭に行けば、何かが見つかるかもしれないと――。
 結城がえびす亭に行くのは、これまでだいたい、週一回程度であった。酒は嫌いではなかったが、馴染んでしまうと馬鹿にされることが多かった。えびす亭でもそうなるのではと危惧し、週一回程度に抑えていた。だが、岡島の言葉もあって、結城はしばらく毎日、通ってみようと決心した。
 仕事を終えて、えびす亭に行き、一人で立ち呑みをしているといろんな人がいることに結城は改めて気が付かされた。癖のある人が異様に多い。吃音のため、はっきりと言葉が利き取りにくい人もいたし、声が小さすぎて言葉がうまく聞き取れない人もいた。逆に声が大きくて聞き取れない人もいた。そうかと思えば、時々、奇声を発する人もいたし、のんびりした喋り方で、聞き取るのが厄介な人もいた――。
 しかし、えびす亭の人はそんなことなど平気で楽しく話をしている。嫌な顔もしなければ、嫌な態度も見せない。話す方も一向に気にしていない。
 ――そういえば、自分もそうではなかったか。結城は、岡島と話をしている時、自分の言葉の意味を岡島に話してくれた人がいたことを思い出した。他の店ではそんなことなど一度もなかった。
 えびす亭が勉強場所――の意味がようやくわかったような気がした。そうすると、不思議と自信が湧いてきた。無駄な自信ではなかった。自分をしっかりと見つめ直すという意味での自信であった。
 結城は今まで以上に積極的にえびす亭の客たちと話すようになった。中には首を傾げ、「何を言っているかまるでわからない」と匙を投げる客もいたが、大半の客は、結城の話に耳を傾けてくれた。
 「結城さん、もう少し落ち着いて、ゆっくり喋ってください。早く喋らなくても大丈夫です。どこにも行きませんから」
「アクセントをしっかり――。一つひとつの言葉に責任を持って」
 「抑揚をしっかり取って、大切なことは気持ちの入った言葉を発することですよ」
 それぞれがそれぞれの立場に立って、結城に助言をしてくれた。
 結城はそんな中で、相手に思いを伝える話し方の大切さを知った。内容を伝えるのではなく、気持ちを伝える。難しいと思ったが、やってみると案外、簡単なことだった。
 一語、一語、しっかりと気持ちを持って喋る。そのことだけでずいぶん変わった。もちろん一朝一夕に行くものではない。だが、えびす亭の客たちから得たアドバイスはどれも貴重なものだった。それは、その言葉の中に愛情があったからに他ならない。
 もう一つ、結城さんは、もっとも大切なことをえびす亭の客に教えられた。
 「上手に話したいなどと思わないことだ。それよりも上手に相手の話を聞いてやるよう努力することだ。そうすると、自然に上手に話せるようになる」
 最初に聞いた時は首を傾げた結城だったが、相手の話を真摯に聞くようになると、結城の話し方もずいぶん違ってきた。その時、結城はなるほどなあ、と思った。今までは、せっかちに自分から相手に話をするのに精いっぱいで、相手の話を聞こうとする余裕などどこにもなかった。相手の話を真剣に聞いていると、自分もまた相手に真剣に話ができるようになった。つまり対話ができたというわけだ。
 岡島が言ったように、えびす亭は結城にとって恰好の勉強場所になった。一カ月も立たないうちに、結城の話し方はずいぶん変わった。――そんな時だ。岡島がやって来たのは。
 
 えびす亭の暖簾をくぐった岡島は、ガラス戸を開ける時、不思議な光景を目の当たりにした。結城が客たちと一緒になって笑っているのだ。以前の結城にはそんな雰囲気などまるでなかった。余裕のない表情で、岡島に早口でしゃべりかける。そこには笑顔など微塵もなかった。それがどうしたことだろう。結城が笑っている。
 岡島が店に入って来たことを知った結城は、大きな声で、
 「岡島さーん。こちらこちら」
 と呼んだ。はっきりしたいい声だった。
 「お久しぶり。一カ月ぶりですかね」
 結城の隣に立った岡島が言うと、結城がそれに同調して、
 「いや、正確には一カ月と三日です」
 と言って笑った。それを聞いて、岡島は思わず声を上げた。
 「結城さん、どうしたんですか? まったく普通じゃないですか」
 以前は、話が聞き取れなくて通訳を必要とした。それが今はまったく普通に会話ができる。こんなことってあるのだろうか。岡島は不思議に思って結城に尋ねた。
 「岡島さんのおかげですよ。岡島さんが、えびす亭をいい勉強場所だと言ってくださった。あれがなければ、今頃、まだ、私は悩んでいたでしょう」
 岡島はキョトンとした顔で結城を見た。そんなことを言ったかどうか、すっかり忘れていたからだ。
 「岡島さんに言われたように、あれから毎日、えびす亭に通いました。ここにいらっしゃる皆さんが、私の師匠です」
 結城が大きな声で言っておどけてみせた。
 「私は自分が話すことに一生懸命で、会話をしているということを忘れていました。そのことに気付かせてくれたのは、岡島さん、あなたです」
 呑んでいた客たちから期せずして拍手が起こった。岡島は驚いて周りを見回す。何という店だ。この店は――。岡島は一瞬、戦慄した。
 幼児の頃から変わっていなかった結城の早口、せっかちが、わずか一カ月ほどできれいに治っている。
 岡島は思い出した。初めて結城とこの店で会った時、異様な早口で話す結城の言葉がわからなくて戸惑っていた時、隣にいた客が通訳してくれた。その時、あんな言葉、よくわかるものだと感心した。それで結城に言ったのだった。えびす亭は勉強場所だと――。
 その日、岡島はえびす亭で、結城と共に痛飲した。酒に強い方ではなかったが、その夜はしたたかに酔っぱらい、家に帰った。妻と子供が二人がかりで、玄関で眠ろうとする岡島を寝室に運び込んだ。そこで岡島の記憶はバッタリと途切れている。

 岡島の務める『サクセスロード塾』は、関西でも有数の進学塾である。塾生も二百人を超え、大半が有名大学に進学している。講師も優秀な講師が顔を揃えていて、岡島もその優秀な講師の一人に祭り上げられている。
 先日、結城は講師の打診をして来なかったが、岡島は、結城の様子を見て、今の状態なら結城を塾に紹介してもいいのではと思った。しかし、なかなかそのチャンスがなかった。講師の仕事は意外と忙しく、塾の経営者もまた忙しかった。
 授業を終えて資料を片づけていると、塾長が岡島を呼んだ。ちょうどいい機会だと思って塾長室に入ると、開口一番、塾長が言った。
 「去年、雇った講師のNだが、駄目だな。授業に工夫がない。あれでは来年、進学率がぐんと下がってしまう。岡島くん、きみ、誰かいい人知らないか?」
 渡りに船とはこのことだと、岡島は思った。岡島はすぐさま、結城の存在を告げた。
 「大学はどこだね」
 「○○大学です」
 「国立の○○大学かね」
 「ええ、そこの教育学部を卒業し、実習経験もあります」
 「優秀なんだな。○○大学の教育学部と言えば大したものだ。で、今、どこの学校で教えているんだ?」
 「今は金融会社に勤めていますが、本人は塾で講師として働きたがっています」
 「金融会社? 教育の現場にいないのは、何か理由があるのか?」
 「学生時代、ちょっとしたことで教育の現場に嫌気がさしたようです」
 「まあ、塾と学校は違うからな。とにかく一度、面接してみよう。それからのことだ」
 塾長はそう言って面接試験を承諾した。
 その日、塾を終えた岡島は、面接の報告を伝えるためにえびす亭に向かった。
 月のきれいな夜だった。ネオンの隙間から白色の月が顔を覗かせていた。えびす亭は相変わらず繁盛している。暖簾をくぐってガラス戸を開けると、先日よりさらに元気な結城の声が迎えてくれた。この分なら面接もきっと大丈夫だ、岡島はそう思いながら、結城に向かって手を振った。
 <了>


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