その冤罪の果てに

高瀬甚太
 
 毎日のように利用する喫茶店がある。主にモーニングサービスが目当てだが、私はその店のコーヒーとパンが大好きだ。その店「すずらん」の定休日は日曜日で、そんな時、仕方なく他の喫茶店に行くのだが、そのたびにやっぱり、あの店のコーヒーとパンがいいな、と再認識させられる。
 「すずらん」のマスターは五十代半ば、私とあまり年が違わないこともあり、時折、マスターと世間話をすることがある。ウエイトレスは三人いて、曜日ごとに入れ替わる。
 何の変哲もない普通の喫茶店だが、コーヒーの淹れ方が秀逸で、いろんな種類の豆を選んでミックスしていると聞いたが、その種類については教えてくれなかった。パンも同様で、仕入れ先などすべての情報がシークレットで教えてもらったことがない。
 事務所の周辺には合計五軒の喫茶店があった。ビジネス街でもあり、古くからの住人も多いので、どの喫茶店もよく繁盛していた。それぞれに特徴があるのだが、最終的にはコーヒーの好みで決まってしまうところがある。私の友人は、少し酸味の強いコーヒーが好きなので、そうしたコーヒーを飲ませてくれる店に毎朝、顔を出す。私もいろいろ回った挙句、七年近く、この『すずらん』という店を利用している。
 ある日の朝、いつものようにコーヒーを飲んでいると、ウエイトレスの静ちゃんと呼ばれる女性に声をかけられた。
 「作本さん、ちょっとお願いがありますねんけど、聞いてくれません?」
 申し遅れたが、私の名前は作本浩二という。エッセイストの看板を掲げて、その仕事で飯を食っている。
 静ちゃんは二十代半ば、三人いるウエイトレスの中では一番年長で、しかも美人だった。それにしても彼女が私にお願いなど、珍しいことだった。
静ちゃんは、マスターに断って、私の前の席に座り、エプロンを外した。
「作本さんしかいません。だからぜひ聞いていただきたいんです」
 まさか愛の告白ではないだろうと思いながら、私は、ここでいいのかと、静ちゃんに聞いた。
 店内は朝のモーニングが一段落した後で、空いていた。これから昼まで少し時間がある。もし、話しにくいことであったら別の場所でと思ったのだ。
 「そうですね。マスターに断りますので、少し外へお願いしてもいいですか?」
 静ちゃんと私は、そのまま店の外へ出た。
 商店街の中の店である。月曜の午前の時間帯とあって人通りはいつもより少なかった。
 静ちゃんは、ケーキ店のウインドウを覗き、
 「作本さん、ここに入りましょうよ」
 静ちゃんは店に入ると、ケーキと紅茶を頼み、私にもケーキを注文するよう促した。
 ケーキ店の奥に、10席ほどのテーブルがあり、私と静ちゃんは一番奥まった場所に席を取った。
 「お願いしたい話というのは――」
 静ちゃんは、席に着くなり、堰を切ったように話を切り出した。
 「私の妹のことなんです」
 静ちゃんは、そう言って、自分の妹の話を始めた。
 「妹の名前は葉子です。私より二歳年下で、今は本町の会社に勤めています。その妹がつい先日、結婚をしたいと言って、私のところに相談にやって来ました」
 ケーキと紅茶が届いたが、それには見向きもせず、静ちゃんは話し続けた。
 「おめでたい話なので、私も喜びました。相手の男性は? と聞くと、答えにくそうにするので、もしかして、言えないような相手なの? と聞いたら、そうじゃないと怒ります。おかしいなと思って、もう一度聞き直すと、妹はようやく答えました」
 一息入れた静ちゃんは、紅茶に口を付け、再び、話し始めた。
 「妹は、自分の結婚相手は今、警察に収監されていると言うのです。なんでまた、そんな人と――、私が聞くと、妹は、彼は冤罪で収監されていると言うのです。妹の話によると、彼は、妹と同じ会社で働く同僚で、真面目でやさしい男性だと言います。交際を始めたのは三年前で、この秋に結婚するべく準備をしているところだったと話し、そんな時、彼が突然逮捕されたと言うのです。なぜ、逮捕されたのかと聞きますと、彼の住まいの近くで傷害事件が起こり、深夜、事件のすぐ後に通りかかった彼が犯人と間違えられて逮捕されたと言います。逮捕するにはそれだけの理由があると思ったので、妹にその点はどうなのと聞きますと、妹は、彼はそんなことをする人ではないと言うだけで……」
 「――彼の冤罪を私に晴らしてくれと言うわけですか?」
 「そうなんです。私には作本さんしか思い浮かびませんでした。それでお願いしたいと思って……。お願いです。妹の彼を助けてやってください」
 自分は一介のエッセイストで――、と言いかけてやめた。静ちゃんの真剣な表情を見ていると、断れなくなってしまったのだ。私は、『すずらん』に足を運ぶ、もう一つの理由として、静ちゃんに会いたい、という気持ちが心のどこかにあった。そんな静ちゃんの依頼だ。無下には断れない。
 「その冤罪について、妹さんから詳しく話を聞かせていただくことはできますか」
 静ちゃんは、私の質問に即答した。
 「もちろんです。午後に妹が会社を休んで、作本さんにお会いするためにこちらへやって来ます」
 どうやら静ちゃんは、私が頼みを私が断るはずがない、と端から確信していたようだ。自分の思いを静ちゃんに見透かされているようで、恥ずかしいな、と思った。
 ランチタイムが過ぎたらまた、ここに戻ると言い残して静ちゃんは喫茶店に戻った。妹が来るのが午後2時と聞いて、ここで時間を潰すわけにはいかなかったので、妹が来るまでの間、事件の詳細を調べるために、図書館へ行くことにした。
 図書館は、一駅、地下鉄に乗った場所にあった。四日前と聞いていたので、その日の各紙の朝刊と夕刊を探し出し、事件の記事を確かめた。すると、その日の朝刊に、
 『○月○日午後11時過ぎ、××市××町の路上において、近所で不動産会社を営む梶浦兵吉さん(68歳)が暴漢に襲われ、重傷を負った。犯人は逃走したが、すぐに逮捕され、警察に保護された。容疑者の名前は福西良一(32歳)、現在、容疑者は犯行を否認している』
 とあった。
 新聞記事をコピーした私は、その足ですぐに知人である大阪府警の佐藤警部に連絡をした。
 佐藤警部は多忙のようで、一回の電話では電話に出なかった。少し時間を置いて再び電話をした。
 ――おお、どうした?
 携帯の電話越しに気さくな佐藤の声が聞こえた。佐藤と私は大学時代の同僚で、その頃から現在まで切れずに付き合いが続いている。
 ――〇月〇日午後11時過ぎに起きた暴行障害調事件について聞きたいのだが。
 ――俺の担当じゃないからすぐにはわからないが、調べて電話を掛け直す。と、言って一旦、電話が切れた。
 再びケーキ店に行き、朝と同じ場所に席を取り、コーヒーを注文したところで佐藤警部から電話が入った。
 ――容疑者の福西が逮捕されたのは、傷害事件のあった近くで、福西がバットを手に立っていたそうだ。襲われた梶浦さんは意識不明の状態なので、とりあえず、警察が福西を拘束したそうやが、本人は、道の真ん中にバットが転がっていたので拾ったと言い、自分の犯行ではないと否認しているようだ」
 佐藤警部は、私にそれだけ伝えて、慌ただしく電話を切った。
 凶器であるバットを拾っただけで逮捕されるとは、理不尽過ぎると思ったが、もう少し事件の詳細がわからないと何とも判断できない。そうするうちに静ちゃんと妹が店に現れた。約束の時間ピッタリだった。
 「作本さん、お忙しいところ、本当に申し訳ありません。私の妹の葉子です」
 妹の葉子は、私の前に歩み寄ると、
 「葉子です」
 と挨拶をして、大きく頭を垂れた。
 「詳しくお話を聞かせていただけますか?」
 と、四人掛けの椅子、私の前の席に座った二人に言うと、静ちゃんが、葉子に話すよう目配せした。葉子はか細い声で話し始めた。
 「私の彼の福西良一は、私と同じ会社に勤める同僚です。彼は営業部で私は総務部ですが、営業部は今、忙しい盛りで事件のあった日も彼は夜遅くまで残業していました。途中、彼はいつも私に電話をしてくれますが、その時も、『今から会社を出て、どこかで食事をして帰る』と電話がありました。確か、午後10時10分過ぎだったと思います。彼の住まいは豊中市で、会社は市内の本町ですから、40分もあれば帰れるのですが、どこかで呑むか、食べるか、していたのだと思います。ただ、事件が起きたのは大阪市内で、しかも本町より南の上本町界隈でしたから、彼の帰る方向とは少し違っていました。
 彼は、上本町の人通りの少ない路上を歩いていて、悲鳴を聞いたと言っています。何かあったのだと思い、駆け付けようとした時、道路に転がっていたバットに足を掬われそうになり、危ないなと思いながらそれを拾ったところを、犯人を追いかけていた警察官に拘束されました。拘束された当初、彼は、俺は犯人じゃない、通りがかりのものだと弁明したようですが、犯行を目撃した女性が、彼を見て、この人が暴行していました、と証言したことで、彼は、その場で逮捕となりました。
 彼と、暴行されて意識不明の被害者とは何の面識もありません。彼がそのことを説明し、目撃者に再度確認してくれるよう頼みましたが、彼女は怖いと言って、彼を直接見ようとはしませんでした。――それが現時点でわかっていることのすべてです」
 目撃者がいて、凶器を彼が持っていた。多少、短絡的すぎるが彼はそのことによって警察に逮捕された。疑問点はいくつかあった。一つは、不動産業者である被害者の怨恨関係を警察が正しく調査をしているかどうかということ。また、もう一つは、目撃者の女性の証言だ。彼女の証言は果たして正しいのか、もう一つは、住まいとはまるで違う方向に彼はその時間、何のためにいたのか――。
 「彼は会社を出る時、今から会社を出て、食事をして帰ると言ったと、話しましたよね」
 「ええ……」
 「彼が事件のあった場所にいた理由がわかりますか?」
 葉子は、少し考え、
 「多分、食事か何かで、と思うのですが――」
 と答えた。
 「彼はあのあたりによく食事に行かれるのですか?」
 「――いえ、私が驚いたぐらいですから」
 通常、仕事を終えて帰宅前に食事をするとなれば、時間も時間だから、会社の近くか、せいぜい、住まいの近くで済ますのが一般的でだ。わざわざ反対の方角に出かけていることが気になった。
 「被害者とは一面識もないということですが、葉子さんは、被害者の名前を一度も耳にしたことはありませんか?」
 「名前には心当たりがありませんが……」
 「え?」
 「不動産業界なら私たちの会社の関係先の一つですから、業界自体には少しは関連があるかも知れません」
 「では、明日でも、今回の被害者が会社の関係先であるかどうか、調べていただけませんか?」
 「……わかりました」
 「それともう一つ、目撃者の女性ですが、心当たりはありませんか?」
 「心当たりと申しますと?」
 「彼の知人ではないかということです」
 「彼の知人?」
 「偽証している疑いがあると考えた場合、そこに何か怨恨のような含みがあるのではと考えるのが普通です」
 「初めてお聴きする名前です」
 「そうですか。わかりました。そこで、一つ、総務課のあなたにお願いがあります」
 私は、彼女に被害者である不動産業者の調査とは別に、三年ぐらいの間に、会社を退職した人の中に、今度の目撃者の名前がないかどうか、確認してくれるよう依頼した。
 「作本さん、よろしくお願いします」
 ずっと葉子の傍にいた静ちゃんが私に頭を下げる。仕事が忙しくて、こんな探偵のようなことをしている場合ではないのだが、乗りかかった舟だ。仕方がないと思った。それにこれを解決すれば、静ちゃんとの仲が一気に深まる可能性がある。そんな下卑たことを考えながら、私は二人と別れた。
 
 被害者の梶浦兵吉の容態は一進一退だった。意識は未だに回復せず、深刻な状況が続いていた。調査をしてみると、梶浦の評判はすこぶる悪かった。梶浦が暴行を受けたことを、内心、ざまあみろと思っている者が多いのに驚かされた。金の亡者で、ケチでと、あからさまに言う者もいた。葉子の勤める会社との関連性はまだわからなかったが、私は思い切って、梶浦の経営する不動産会社を訪ねることにした。
 「出版社の者ですが」
 と、仕事を偽って受付で挨拶をすると、受付の女性は、
 「社長は現在、病院にいて、対応することはできません」
 と丁重に断った。
 不動産をテーマにした本を制作する予定でいると話し、社長のお知り合いに適当な人はいないだろうか、と聞いた。それを聞いた受付の女性が専務を呼んだ。
 専務は五十代後半の痩せぎすの神経質そうな男だった。権藤豊と名乗り、名刺を私に差し出した。
 「社長はこの業界にあまり親しい人はおまへんのや。独立独歩の人ですさかい」
 皮肉めいた言葉を口にした後、社長と違って自分は何人か、有力な人を知っていると話した。
 「有力な人と申しますと――」
 「G不動産の新見社長、H不動産の城谷社長、P不動産の相場社長が、関西の業界ではトップクラスです。もちろん、うちの社長もその一人ですが、この三人は器が大きくて、人望も高い。それに比べて――」
 専務ともあろう者が、自社の社長の悪口を言うのに私は呆れた。
 「社長は現在、意識不明の重体とお聞きしましたが、もし、亡くなるようなことになれば大変ですよね」
 「うちの会社はたちまち倒産です。この会社は社長のワンマン会社ですさかい……。わしら専務とは名ばかりで何の権限もおません」
 「潰れたら大変じゃないですか」
 「ところが捨てる神あれば拾う神ありというやつで、G不動産の新見社長が、後のことは面倒みると言ってくれているんですわ。ほんま、神さんみたいな人や」
 専務は、社長の死を確信し、他の不動産会社に売り込みをしているのではないだろうかと疑った。この会社の持っている不動産すべてを持って、G不動産になだれ込んで行きそうなそんな予感がした。
 側近にここまで嫌われている梶浦とはどういった人物なのだろうか。専務が去った後、私は受付の女性にもう一度、確認した。
 「専務さんと社長は、普段から折り合いが悪いのですか?」
受付の女性は、専務が近くにいないか、慎重に辺りを窺って、私の耳元に口を近づけて言った。
 「よく口喧嘩をしています。専務は社長の親戚筋の人ですが、社長との仲は最悪です。以前はそうでもなかったのですが、専務が何度かミスを冒して会社に多大な損失を与えてからは、社長が専務を無能扱いするようになって、ことあるたびに言い争いをして険悪になっています。特に、社長が襲われた日の夕方、専務が不動産の売買でかなりの損失を出し、それを隠していたことが発覚して、社長が激怒して、専務に辞表を書けと強い口調で宣告しました」
 女性は、そのことを話した後、
 「犯人が捕まったからよかったものの、捕まっていなかったら、専務が犯人になっていたかも知れません」
 と私に告げた。
 その話を聞いた私は、すぐさま佐藤警部に連絡を取り、被害者の会社の専務である権藤豊のアリバイを調べてくれるよう依頼した。
 最初こそあまり気乗りのしない様子だったが、佐藤警部は私の説明を聞き、担当部署の課長に連絡をすると約束した。
 翌日の午後、葉子から連絡があった。
「 被害者の不動産会社ですが、当社とはまったく関係がありませんでした。よく似た会社名が多いので混乱していたようです。申し訳ありません。それと、目撃者の栗山留美さんですが、作本さんのご指摘の通り、二年前まで当社の社員で営業部に勤務していました」
 私は、目撃者の栗山留美を訪ねることにした。栗山は、事件のあった場所からそう遠くないところにあるワンルームマンションに住んでいた。
 マンションを訪ねると栗山は不在で、マンションの管理人に尋ねると、帰宅はいつも午後7時頃ということだった。
 栗山が帰宅する時間まで数時間あったので、私は、原野警部に連絡を取り、その後の進捗状況を尋ねるために携帯を手に取った。その途端、携帯が鳴り、着信名を見ると佐藤警部だった。
 「作本、お手柄だよ。被害者の会社の専務を聴取したらあっさり吐いた。社長に辞職勧告されて頭にきてやったらしい。行きつけのスナックのママを言い含めて、予めアリバイを用意するなどしたが、痛めつけるだけの予定がカッと来て殴りすぎ、社長が血を流して倒れたので、怖くなって慌てて逃げたと言っていた。バットはその途中、落としたようだ」
 「じゃ、福西良一の冤罪は晴れたのですね」
 「ああ、申し訳ないことをしたと、所轄の担当が詫びていた。もう釈放されているはずだ」
 たまたま、専務と会話ができ、受付の女性に聞いたからよかったものの、そうでなければ前途有望な青年の人生が閉ざされるところだった。警察は目撃者の証言と、福西がバットを持って路上にいたことで犯人と特定してしまったようだが、敵が多かった被害者とはいえ、まさか専務の犯罪だとは思ってもみなかったようだ。
 
目 撃者の栗山は、福西の釈放をまだ知らないはずだ。帰宅時間の午後7時、栗山は帰って来た。入口で呼び止めた私は、出版社の名刺を見せ、栗山に言った。
 「あなたが目撃した事件の犯人が捕まりました。真犯人は福西くんとは似ても似つかない年齢、背格好の男性でした。もうすぐ、警察が事情聴取に来るでしょうが、その前に聞かせてください。どうしてあんな嘘の証言をしたのですか?」
 栗山は、葉子より少し年齢が上に見えた。美しいがどこか冷たい感じのする女性で、能面のような表情を崩さず、私に対した。
 「もしかして、あなたは福西くんと付き合っていたのではありませんか?」
 私の言葉に、能面のような彼女の顔が突如、崩れた。
 「福西とは入社以来の付き合いです。同期ということもあって、すぐに仲良くなりましたが、男女の関係になったのは、五年前です。結婚をするつもりでいました。彼もそのつもりでいて、結婚式の話や新婚旅行の話も出ていたぐらいです。様子がおかしいと思い始めたのは、三年前のことです。彼はその頃から、入社して間もない重村葉子と交際し始めていたのだと思います。彼女と交際しながら、私と付き合い、二人を両天秤にかけていたのです。二年前、彼とそのことで言い争いになり、私は会社を退職して、彼との結婚に備えることを宣言しました。優柔不断な彼は、はっきりと私に断ることもできず、かといって相手の重村にもはっきりした態度を示すことができず、二人の間をウロウロしていました。そのうち、彼が重村と婚約したことを社内にいる同僚に聞き、この間、彼を呼び出しました。彼はすまない、と言って私の前で土下座をしましたが、私の気持ちがそれで収まるはずはありません。逃げるようにして部屋を出て行った彼を追いかけているうちに、あの暴行事件に出くわしました。
 私は、彼が犯人だと偽証しました。彼が私にしたことは、あの暴行と同じぐらいむごいものです。入社して以来十年近く、私は青春を棒に振って、彼のおもちゃになっていたのです。もう少し私の愛が強ければ、もしかしたら、彼を殺していたかも知れません」
 栗山の感情が一気にむき出しになり、涙の粒を溢れさせると、彼女はその場にへなへなと崩れてしまった。
 
 事件は解決した。福西は釈放されたが、葉子は迎えには行かなかった。栗山留美とのことを知り、かなりショックを受けていた。
 翌朝、いつものように『すずらん』に行き、モーニングセットを頼むと、トーストと卵の他にオムレツと野菜サラダが付いていたので驚いた。
 マスターに、これはどうしたのか、と尋ねると、静ちゃんからの伝言で、作本さんが来たら、サービスしてくれと言われていた、とマスターが笑って答えた。
 「今日は静ちゃんの入る日だと思うけど、いないのはどうして?」
 と聞くと、マスターは頭を掻きながら私に言った。
 「今日の午後、葉子ちゃんの結納なんです」
 「えっ……、あの彼と結婚するんですか?」
 「女心はわからんねえ。愛というのは本当に不思議なもんです」
 「結納に出席するために、今日は休みなんですね」
 「いろいろ支度があるようでね。うちも午前中一杯で午後から休みです」
 「えっ? 午後から休みって、マスター、どうかしたの?」
 「いやね、えへへ……」
 照れまくるマスターがおかしくて私も笑った。
 「マスターが照れると、何となくユーモラスですね。ゴリラが粗相をして怒られているみたいに見えますよ」
 冷やかすと、マスターは顔を赤らめて、私の耳元で囁いた。
 「実はね、作本さん、女房が亡くなって十年、ようやく私にも春が来ました」
 「春って――。マスター、もしかしたら結婚でもするの?」
 驚いて聞くと、マスターは大照れに照れて、
 「ええ、はい」
 と言う。よく相手が見つかったものだと思い、
 「相手は人間? それともゴリラ?」
 と冷やかすと、マスターは、鼻の穴を膨らませて、
 「もちろん、女性です。しかも二五歳下!」
 と臆面もなく言う。呆れ果て、言葉もない私にマスターが追い打ちをかけた。
 「相手は何と、静ちゃんです。葉子ちゃんの結納に私も一緒に行くことになって」
 その言葉がトドメになった。
 もう「すずらん」には二度と行かない。そう決心した。
 店を出てからどこをどう歩いたか、その後の意識はない。私はゴリラに負けた。そのショックが長く尾を引いたものの、『すずらん』にはその後も相変わらず足を運んでいる。
〈了〉

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