誰が母を殺したのか 第三回

 待ち合わせていた梅田のホテルの喫茶店に入ると、茂は店の中を見回した。午後の遅い時間帯とあって混雑こそしていなかったがそれでも梅田の中心地だ。人が多い。茂は北沢雅彦の顔を知らなかった。それらしい客を捜していると、背後から声をかけられた。
「松村さんですね。はじめまして北沢です」
 振り返ると、ジーンズにジャンパー姿の青年が立っていた。青年は、直立不動の姿勢で茂を見つめた。とても少年院にいたとは思えないような爽やかなイメージが青年にはあった。
 北沢は茂の目をまっすぐに見、頭を深々と下げた。茂は、
「ああ……、はじめまして」と応えるのが精一杯だった。
 テーブルに着いたところで改めて北沢が挨拶をした。茂も挨拶を返した。好感の持てる青年だと改めて感じた。過去になにもなければこんなに反対はしなかっただろう。それが北沢の第一印象だった。
「今日はどうもありがとうございます」
 運ばれてきたコーヒーを前に北沢は落ち着いた口調で礼を言った。
「ぼくのことはすでにご存知だと思いますが、一応、紹介させていただきます。小学校へ入る前に身よりがなくなって孤児院に入り、そこを飛び出てからずっと一人で生きてきました。生きていくために、ぼくは犯罪を重ねてきました。そうするしか生きる道がないと思っていたからです。少年院の入退院を何度か繰り返したこともあります。窃盗、傷害、時には殺人にまで至りかけたこともありました」
 北沢の目は、絶望を感じさせないほど透明に澄み渡っていた。りりしい眉とはっきりした口元に特徴があり、話しぶりにも好感がもてた。
「ヤクザの道に入りかけたこともあります。自暴自棄になって悪戯に犯罪を重ねたこともありました。こんな話をするのはぼく自身の弁明をするためではありません。ぼくは悪い男ですし、ゴミのような人間です。そのことは誰よりもぼくが承知しています。今日、お話したかったのは、こんなぼくですが、お嬢さんのことを誰よりも愛しているということをお父さんに伝えたしたかったからです」
 北沢個人には好感がもてたが、それでもやはり茂は納得することが出来なかった。この男は、自分をゴミだと言っておきながらそれでも娘を好きだと言う。それではゴミに愛された娘はどうなるのだ。ゴミに騙されている娘はどうなるのだ。そう思った。
「あんたがどんなにわしの前で取り繕うとも無駄やということを知っておきなさい。わしは警察官や。あんたのような人間をぎょうさん知っている。更正が難しいということもな」
 北沢はその通りだとでも言うように頷き、それでもなお語ることをやめなかった。
「父も母もいない子供は正しい道に導いてくれる人がいません。怒ってくれる人も泣いてくれる人も……。唯我独尊、自我のまま生きるしか方法がありませんでした。腕力だけが頼りで、それさえあれば生きていけるとうぬぼれていました。でも、十八歳の時、少年院を出所する前のことですが、少年院の仲間にこてんぱんにやられたことがありました。三週間ほど入院しなければならないほどの重症を負い、その時になって初めて気が付きました。自分の弱さをではありません。今まで自分が痛みを与えてきた者たちのことをです。彼等は痛みを教えてくれたのだとその時思いました。少年院の仲間が私を襲うにはそれなりに理由があってのことです。これ以上、横暴な振る舞いをされたらたまらない、いつか殺されてしまう、その恐怖がぼくを襲わせたのでしょう。それほどぼくはひどい男だったのです。病室から出たぼくは彼等に素直に謝りました」
 北沢は水も飲まず、コーヒーすら口にせず、決して饒舌とはいえないまでも必死になって茂に語り続けた。
「すると、少しずつでしたが、ぼくに声をかけてくれる仲間が出来ました。今までとは違う関係が出来たような気がしてとても嬉しかったことを覚えています。少年院を退院の日も大勢の仲間が見送ってくれました。以前のぼくだったら誰も見向きもしなかったでしょう。心から喜んでくれる奴なんてほとんどいなかったと思います。看守にも『もう二度と戻ってくるなよ』そう言われました。ぼくは、もうこの世界には足を踏み入れたくない。その時、心からそう思いました。でも、社会に出てもろくな仕事がありません。結局はまた警察の厄介になってしまうことになるのです。これまでずっとその繰り返しでした。でも、今回は、そんなぼくに保護観察官がスーパーを経営するおやっさんを紹介してくれたのです。おやっさんはぼくをスーパーの正社員にしてくれただけでなく、小学生レベルの学力しかなかったぼくを自ら教育してくれて定時制高校へ通わせてくれました。ぼくは、そんなおやっさんの好意に報いるために必死になって働き、学びました」
 茂は、先ほどから北沢の話を苛々した表情で聞いていたが、とうとう我慢が出来なくなって、
「いい加減してくれへんか。わしはきみの苦労話を聞くためにここへ来たわけやないんや。わしは、きみにうちの娘との付き合いをやめてくれと伝えに来ただけなんやから」
と声を荒げて言った。
 北沢は、「申し訳ありません」と詫びながら、なおも話を続けた。
「もう少しだけ聞いてください。お願いします。お嬢さんと知り合ったのは昨年のこ
とです。昨年の暮れ、スーパーの近所で火事が起こりました。覚えていらっしゃいませんか、台所のガスの火が引火して一軒家が丸ごと焼失した火事です。あの時、ぼくは通学途中でした。火事を知って、自転車を飛び降りて駆けつけました。お得意様の家でしたし、家の中に逃げ遅れた子供がいると聞きましたから。その時はまだ消防車は来ていませんでした。ぼくは水を被り、湿らせたタオルを首に巻いて家の中に飛び込みました。火の周りが早くて柱が次々と倒れてきました。これはもう限界だ。そう思った時、子供の悲鳴が聞こえてきたんです。急いで声のする方向に走りました。すると二人の子供が部屋の隅に丸まって泣いていました。もう少し遅ければ駄目だったでしょう、そんな状況でした。ガラス窓を破って、二人の子供を下に下ろしました。家が火事のために倒壊したのはそのすぐ後です。命からがら窓から飛び降りたぼくはその時、左足を骨折しました。救急車も到着しておらず、火傷と骨折のため動けないでいるぼくを助けてくれたのがお嬢さんです。お嬢さんは火事になった家の近くにあるマンションを訪ねて来て、偶然、ぼくを見かけて助けてくれたのです。その時のお嬢さんの応急処置がよかったのか、火傷が軽傷であったことも幸いして、一週間ほどで退院することが出来ました。お嬢さんとはその時限りで、二度と会うことはないと思っていました。それが偶然にも――」
「娘の事故で会ったのか……」
「そうです。火事から二カ月経った頃だと思います。学校の帰り、午後十時頃だったでしょうか、自転車を走らせていた時、お嬢さんが車に跳ねられそうになるのを目撃しました。車には酒に酔った男が乗っていたようで、信号を無視して疾走し、車がやって来ることに気が付いていないお嬢さんを跳ねようとしました。ぼくは無我夢中でお嬢さんに飛びつき、お嬢さんが事故に巻き込まれるのを防ぎました。助け出した時、はじめてお嬢さんだと気が付き、不思議な縁に驚きました。お嬢さんはすぐにぼくと気が付いたようです。とても喜んでくれ、夜食をご馳走になりました。それがきっかけでぼくたちは次第にお互いを意識し合うようになりました」
 以前、茂は幸恵からその時の様子を聞かされたことがあった。その話を聞いた時は、一度、その方に挨拶しないといけないなと幸恵に言ったほどだ。しかし、それがきっかけで交際が始まったなどとは知らなかった。
「そうか、その件に関してはきみにお礼を言わないといけないな。しかし、だからといってわしはきみと娘の仲を許すわけじゃない。きみにだってわかるだろ。娘には娘に相応しい男がいる。それはきみではないことは確かだ。きみを侮辱するわけではないが、娘のことはあきらめてほしい。これが警察官の父親としての私の気持だ」
「わかります。お父さんの気持ちはよくわかります。ぼくがお父さんと同じ立場ならきっとそう思うはずですから。ぼくもそのことは十分理解しているつもりです。けれど、どうにもならないんです。この気持ちだけはどうにもならなくて――。ぼくはお嬢さんを心底愛しています。ですから、簡単に引き下がることが出来ません。それだけはわかってください」
 茂を見つめる北沢の目から涙の粒が溢れ出た。北沢はそれを拭おうともせず、茂に哀願するように視線を向けた。
 北沢の告白を聞きながら、茂は複雑な気持ちでいた。元はと言えば茂も南紀の漁村の生まれで、決して裕福な家に育ったとはいえない。父親が高校生の時に海で亡くなり、大学への進学をあきらめて警察官になった。大阪府警に勤務するようになって四十年。ようやく部長の位置にまで辿り着いたがすぐに定年退職になる。幸い、家も得、子供たちにも恵まれた。だから決して北沢を云々出来る立場ではない。それは茂もよくわかっていた。
「きみのことはようわかった。わしは少し思い違いしていたようや。少年院で入退院を繰り返し、子供の頃から悪事や犯罪を繰り返した者はまともに更正できん。ずっとそう思っていた。だが例外もあったようや。このままきみが今の思いのまま進めばきみの人生はきっと素晴らしいものになるやろう。わしはそう信じている。だが、その伴侶は娘であってほしくない。娘を取られたくないという父親としての気持ちもあるが、それ以上にきみと一緒にいて、娘に幸せがあるのかどうか、疑問なんだ。それを思うと申し訳ないがわしの答えはノーだ」
 茂が立ち上がると、北沢も同時に立ち上がった。
「ありがとうございました。お会いくださって、また話を聞いてくださって…」
 そう言って北沢は深々とお辞儀をした。
 茂は無言のまま席を立ち、そのままテーブルを離れた。複雑な思いが茂の胸中を交錯していた。茂がレジで代金を払おうとすると、レシートがない。振り返ってテーブルを見ると、北沢がレシートを手に、私が払いますのでどうぞ、と言う仕草をしている。仕方なく茂は北沢に向かって小さく首を振り、店の外へ出た。
<第四回了>

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