おっしょさんのエヘヘのご褒美

高瀬 甚太

 その日、「えびす亭」はひどく混乱していた。店内で客同士の喧嘩が勃発したからだ。
 酒呑みの喧嘩は、いつも些細なことが原因で起きることが多い。その時の喧嘩もまさにそうだった。客の一人が間違って隣に立っている客のまぐろの刺身に箸を付けた。普通なら、「それ、わいの刺身や。取らんといて」で終わるのだが、箸を付けられた客は、酒を呑みすぎていたのか、腹の虫の居所が悪かったのか、大声で、「何するんじゃわれ! 人の刺身に手え、付けるな!」と鬼の形相で怒鳴りつけた。怒鳴られた客もまた、マンの悪いことにしたたかに酔っていた。
 「何じゃと! ケツの穴の小さいこと抜かすな。そんなに大事な刺身やったら取られんように金庫にでも預けとけ!」
売り言葉に買い言葉だ。収拾のつかない言い争いに発展して、
 「外へ出ろ!」
 「おもしろいやないか!」
 と言うことになって二人は店の外に出た。
 一触即発、大勢の酔っ払いが見守る中で、今にも取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになったその瞬間、一人の男が突然、二人の間に割って入り、いきなりお経を唱え始めた。これには、喧嘩の当事者も驚き、あきれて、言葉が出なかった。結局、気勢を削がれた二人は、渋々店に戻り、喧嘩などなかったように、その後は二人仲良く呑み始めた。
 「おっしょさんには勝てんわ」
 見守っていたえびす亭の客たちは、口々にそう言ってえびす亭に戻り、酒を呑み始めた。

 えびす亭の東側、路地を通った先に小さな墓場があり、墓場からほど近い場所に寺があった。寺の名前は『大勝寺』、住職の名前は田谷康正。浄土宗の寺であるが、この寺の康正和尚は、別名『おっしょさん』と呼ばれ、えびす亭の人気者であった。
 おっしょさんの人気の所以は何といってもその明るさにある。六十代半ばを超えてすでに老年の域に達しているのだが、とにかく陽気で明るい。つるつる頭と袈裟が無ければとても坊主とは思えない。えびす亭の誰もがそう思っているようだ。そんなおっしょさんの特技が喧嘩の仲裁だ。えびす亭の客でそれを知らないものはない。
 おっしょさんが住職を務める『大勝寺』は、江戸時代から続く由緒ある寺だが、街が様変わりした昭和の後期から檀家が減り始め、一大歓楽街となった今はさらに檀家が減少し、おっしょさんは葬儀会場と出張契約して日銭を稼ぐなどして、出稼ぎに精を出さなければならないありさまだ。
 おっしょさんが大勝寺の住職になった時期について、その出自は明らかにされていない。おそらくは、えびす亭に出入りし始めた頃がそうではないかと言われているが、えびす亭の面々にすればそんなことはどうでもいいことだった。やたら賑やかで底抜けに明るいおっしょさんが店の中にいるだけで、全員が楽しい気分になった。それこそ仏の功徳だと、店の客たちの誰もがそう言って笑った。
 しかし、立ち呑み店の中で、坊主頭はともかくとして、袈裟姿はあまりにも不似合いで、異様さを感じさせる。入って来た客が、袈裟姿のおっしょさんを見て、思わず後ずさりをして、「なんまいだー」を唱えて合掌したという話がまことしやかに伝えられているのも無理はなかった。
 何度かマスターがおっしょさんに、
 「おっしょさん、その恰好で店に来るの、やめてもらえませんか」
 と頼んだことあるが、おっしょさんは、その時だけは、
 「わかった、わかった」
 を連発して承諾するのだが、一度たりとて袈裟姿以外の姿で店にやって来たことはない。
 基本的に坊さんは精進料理が主食のように思われているが、おっしょさんに限ってはそうではない。肉や魚が大好きで、暴飲暴食が当たり前の生臭坊主である。もちろん、女性にも目がない。従って風俗通いも精力的にやっている。袈裟を着て、坊主頭のおっしょさんが、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」を唱えながら風俗に入る姿は、何ともはや、笑うに笑えない。
 小柄で小太り、お世辞にもハンサムとは言い難いおっしょさんであったが、愛嬌があって、人の良い印象を与える面相のおかげでずいぶん得をしている。その面相が幸いしてか、おっしょさんは意外にも女性に人気があった。えびす亭によくやって来る広岡妙子さん、店では妙さんで通っている人だが、その女性もおっしょさんのファンで、店に来て、おっしょさんがいると、嬌声を挙げて隣に立つ。
 妙さんは、四十代の独身女性でバツイチ。昼間は貿易会社に勤務して事務を担当している。中肉中背、顔だって決して不美人ではない。生まれついての女好きである、おっしょさんは、妙さんが近づいてくると目じりを下げて大喜びする。
 「どないや。今晩辺り、わしと一緒に功徳を積まんか」
 目じりと鼻の下を伸ばしたおっしょさんは、妙さんがそばに来ると必ずそう言って口説くが、妙さんはいつも話をはぐらかせて身をかわす。
どうやら妙さんにとっておっしょさんは、父親か兄貴か、その程度のものでしかないようだ。楽しく話はするが、それ以上、進展することはまずなかった。

 年の瀬も押し迫った時期のことだ。えびす亭にやって来た妙さんの表情が実に暗かった。そのことに最初に気付いたのがおっしょさんだ。妙さんの身の上に何かよからぬことが起きたのではないかと危惧したおっしょさんは、いつものように隣に立った妙さんに声をかけた。
 「どないしたんや。元気がないやないか。わしの法力で元気にしてやろうか?」
 妙さんは力ない声でおっしょさんに答えた。
 「おっしょさんの法力ではどうにもならんわ。うち、もうあかん」
 「恋でもしたんか? それとも借金か? それとも――」
 「おっしょさん、うち、その両方やねん」
 「男と金、両方か? そりゃあ大変や。よかったらわしに話してごらん。話を聞くことぐらいはできる」
 妙さんは、「ありがとう」とお礼を言って、おっしょさんに話を聞いてもらうことにした。
 えびす亭近くにある、深夜まで開いている喫茶店に入った妙さんは、店の中ほどの席におっしょさんを座らせると、コーヒーを注文し、ゆっくりとした口調で話し始めた。

 ――今年の秋口、うちの貿易会社の取引会社の社長である吉野から誘いを受けて食事に誘われました。吉野は四十代後半で独身というふれこみでしたから、私も興味があって、一緒に食事をしたのだけれど、その時、吉野に唐突に付き合いを申し込まれ、突然だったので驚いて、返事をしませんでした。
 吉野が私に気があるなんて兆候などまるでありませんでしたから、動揺しました。二日目に吉野から会社にいる私に「会えないか」と言って電話がかかってきました。
 前回と同じ場所で吉野に会うと、開口一番、吉野は、返事を求めてきました。
 「吉野さんは既婚者ですよね。何のために私と付き合いしようとするんですか?」
 二日の間に、私は吉野が家庭を持っていること、子供が二人いることなどを調べていました。おまけに彼が手当たり次第に女を口説いていることも――。
 「実は、家内とは離婚調停中なんだ。性格の不一致というやつで、うまくいかなくてね」
 それが吉野の常とう手段だということや、奥さんと別れると話して、女性に言い寄り、交際する。何人かの女性が吉野の口車に乗って、被害に遭っている、そのことも調査して知っていました。だから、私は吉野に断りました。話はそれで終わるはずでした。
 それからしばらくして、私は、再び吉野から連絡を受けました。
 ――先日は失礼しました。申し訳ないがもう一度だけ会っていただけませんか。
 丁寧な電話でした。仕方なく私は前回と同じ場所で吉野に会いました。
吉野は、まず、先日の非礼を私に詫び、その上で一枚の離婚証書を私に見せました。
 離婚証書は、吉野と吉野の妻のものでした。
 「これを明日、役所へ提出することになっています。私は晴れて独身です。私に関してはいろんな噂がありますが、全部でたらめです。私に振られた女たちの妄言と思ってください。私は、広岡妙子さん、あなたにぞっこんなんです。あなたと結婚したい。本気でそう思っています」
 離婚証書を見せられて、おまけに熱いプロポーズを受けると、私の気持ちも傾きます。吉野は、渋さを感じさせる、一見、誠実そうな男です。見かけもいいし、やさしく、ソフトな口調が私を惑わせました。
 交際するようになって、一週間目に男女の関係が出来ました。私が吉野に夢中になった頃を見計らって、吉野が私に言いました。
 「手形が落ちなくて困っている。お金を都合してもらえないか。一週間後には返せる」
 私は、一週間後に間違いがないか、念を押すようにして尋ねました。
 「大丈夫だ。一週後には金が入る。しばらくの間、借りるだけだよ」
その言葉に安心した私は、二百万円の金を彼のために都合しました。この時、私は銀行に二千万円近くのお金を蓄えていました。前の夫と別れる時の慰謝料があったことと、毎月、給料の中から少しずつ貯めてきた虎の子のお金です。交際して間もない彼に金を貸すことに躊躇しないわけではありませんでしたが、結婚を前提にした付き合いをしていましたから知らん顔もできない、それに一週後には返ってくる、そう思って貸したものです。
 ところが一週間経っても、彼から金は返ってきませんでした。
 「入るはずの金が、相手の都合で遅れている。あと一週間、待ってもらえないか。利子を付けて返すから。――それとまことに申し訳ないが、あと百万円、借りられないか。予定していた金が入らないので、三百万円に利子を付けて、一週間後に必ずお返しする」
 肉体関係を結んだ後に、彼は申し訳なさそうにベッドの上で言いました。私は、多分、彼を信じきっていたのでしょう。その時も、彼に煽られるようにして金を貸しました。
 一週間後、彼が血相を変えて私の元にやって来ました。
 「入金予定の会社が倒産した、きみに返済する金だが、もう少し待ってほしい。近日中に必ず都合する」
 彼の言葉を信じるしかありませんでした。でも、一週間経っても二週間経っても、彼からは何の連絡もありません。私の方から連絡をすると、
 ――後から連絡する。
 とだけ言って電話を切ります。不安になった私は、彼の会社を訪ねることにしました。彼の会社を訪ねるのはこの時が初めてです。東成区の地下鉄新深江駅から歩いて五分の場所に彼の会社がありました。五階建てのビルの三階に彼の会社の事務所があることを確かめ、ドアをノックしますと、女性が顔を覗かせました。
 「社長さん、いらっしゃいますか?」
 と聞きますと、その女性は、
 「社長は今、台湾へ出張していますが――。どちら様でしょうか?」
と逆に私に尋ねます。
 「こちらの方に来たついでに寄らせていただきました。会社の経営が大変だと社長様からお聞きしていますが、大丈夫ですか?」
 すると女性は、怪訝な顔をして私を見て、
 「当社の経営はとても順調です。主人が頑張っておりますから」
 と答えます。
 「主人? 奥様でいらっしゃいますか?」
 「そうですよ。主人とお知り合いのようですけど、お名前を教えていただけませんか」
 私の様子を見て怪しんだのでしょう。女性が厳しい口調で私を詰問しました。這う這うの体で逃げ出した私は、その時初めて、吉野に騙されたことに気付きました。。
 それでも、心のどこかで、まだ、彼を信じていたのでしょう。帰宅した私は、興信所に吉野の会社、家庭、個人の状況を調査してくれるよう依頼しました。
 結果はすべて私の期待を裏切るものでした。彼は大阪の各所に不動産を多く抱える吉野家の養子で、離婚などするはずもなく、奥さんとは普通に仲が良いというのが興信所の報告でした。また、仕事の方も今のところ順調に行っており、倒産の危険性などまるでなく、義父の援助もあって無借金の優良会社だといいます。
 彼を問い詰めて、お金を返してもらおう、そう思った私は、彼の携帯に何度も電話をかけました。でも、いつかけても留守電で、まったくつながりません。会社へ来たら捕まえよう、そう思っていたのですが、会社にも営業社員が顔を出すのみで本人は現れません。
 「帰ったら社長さんにお伝え願えますか。広岡が至急お会いしたいと言っていましたと」
 社員に何度となく伝えましたが、吉野からの連絡はありません。社員に聞きますと、確かにお伝えしました、と答えるだけでまるで要領を得ません。
弁護士に相談すると、三百万円の借用書がないと返済を要求するのは難しいと言われ、結婚の約束も同様に、口約束だけなので証明が難しい、そう言われました。
 このままでは腹の虫が治まらない、何とか彼をとっちめて、お金を取り戻す方法はないか、そう思って思案しているところです――。

 妙さんの話しぶりは冷静そのものだったが、心の中はそうでもないのだろう。涙の粒がポタリポタリとテーブルを濡らした。
 「そうですか。それは大変でしたなあ。よっしゃ、わしがその吉野という男に天誅を下してやりましょう」
 妙さんの話を聞いたおっしょさんは、そう言ってスックと席を立った。
 「天誅って――。どんなことをするんですか?」
 驚く妙さんに、おっしょさんはこともなげに言ってのけた。
 「罰を与えてやるのじゃ。妙さん、よろしいか?」
 今ではもう吉野に何の未練もないのか、妙さんは嬉々とした表情で、
 「お願いします。うまく行ったらおっしょさんにご褒美をあげます」
 と笑って言った。ご褒美と聞いて、おっしょさんの顔が思わず大きくほころんだ。
 その夜からしばらくの間、おっしょさんはえびす亭に姿を見せなかった。妙さんは、毎晩のようにえびす亭に来ていたが、いつ来てもおっしょさんの姿が見えないので、心配になってマスターや店にやって来る客たちに尋ねた。しかし、誰もおっしょさんのことを知っている者はいなかった。
 妙さんは、おっしょさんが吉野に罰を与えると息巻いていたことを思い出した。あの時、妙さんは、おっしょさんの言っていた吉野に罰を与えると言う言葉を真剣に受け止めていなかった。おっしょさんが冗談を言っているとばかり思っていたからだ。
 妙さんがおっしょさんに話して二週間ほど経った夜のことだ。その夜も妙さんはえびす亭に来ていた。相変わらず吉野は逃げていて、連絡が一切つかない状態になっていた。会社に電話をしようにも、誰が電話に出ても吉野に受け継いでくれない。会社の近くで吉野を待ち伏せするが、警戒しているのか、吉野は常に隠密行動をしているようで、一向に姿を現さない。最近では、さすがの妙さんもあきらめて何の行動も起こさなくなっていた。
 それでも吉野に対する怒りは増殖していた。三百万円もの大金を騙し取られた怒りと結婚を餌に肉体を奪われた悔しさは、いつまで経っても消えることはなかった。
 おっしょさんがえびす亭に姿を現したのは、その夜のことだ。ひょっこりやって来たおっしょさんを見て、妙さんが声を上げた。
 「おっしょさん!」
 おっしょさんは、妙さんの顔を見ると、ニッコリ笑い、妙さんの隣に立った。
 「どうしていたのよ。どこか遠くへ行っていたの? これでも心配していたのよ」
 妙さんがまくしたてるようにして言うと、おっしょさんは、すまんすまんと手を合わせ、
 「実はなあ――、吉野を懲らしめようと思ってな。秘策を練っておったんじゃ。世の中には、女を騙すことに長けた男がおってな。吉野もそういう男の一人じゃ。そういう男には普通の女では歯が立たん。そこでわしの知り合いの銀子というAV上がりの女に吉野を誘惑してもらうように頼んだ。吉野の通うスナックに銀子を務めさせ、網を張っていると、案の定、吉野は銀子に言い寄って来た。AVとはいえ、銀子も一時は劇団で修行していた女だ。隠し金を持っていて、結婚したいと焦っている、そんな女を演じることは簡単だった。しかも銀子は色気と美貌、ボディも抜群と来ている。落ちそうで落ちない、そんな銀子の色気ある態度に吉野はまんまと引っかかり、だんだん夢中になって、スナックに通い詰めるようになった。
 銀子が吉野に、田舎の母親の借金を作らなければならないと泣き言を言うと、吉野は、一瞬、躊躇したが、銀子の色気に負けたのだろう、いくらいるのか、と聞いてきた。銀子が三百万円と言うと、吉野は目を丸くして腰を抜かしたそうじゃ。そのお金を出してくれたら、あなたのものになってもいいと、銀子が言うと、吉野は渋々、三百万円を銀子の元に持ってきた。これがその三百万円じゃ――。
 おっしょさんは、カバンの中に入った三百万円を妙さんに見せた。
 「これはあんたの金じゃ。後で渡す。だが、これで終わると話は面白くない。あんたの鬱憤も収まらんじゃろう。そう思ってさらに手を打った」

 ――三百万円を銀子に渡した吉野は、当然のように銀子に肉体を要求した。銀子は吉野とセックスするのにあるホテルを利用した。そこで待っていたのは、銀子と顔なじみのAVのカメラマンだった。部屋に仕掛けをして、隠し撮りのビデオを設置したところへ、銀子と吉野がやって来た。銀子は吉野を焦らして興奮を誘い、吉野に洗いざらい、これまでのことを話させた。吉野は妙さんのことも含めて、洗いざらい白状した。二人のセックスシーンは、見事な仕上がりだった。吉野の顔もバッチリ映っているし、さすがは専門のカメラマンだ、その一部始終がAVと見まがうような出来で完成していた。
 上機嫌で帰った吉野は、翌日、届いたDVDを見て腰を抜かさんばかりに驚いたじゃろう。そのDVDには吉野と銀子のセックスの一部始終と、自分の過去の告白シーンがすべて収録されていた。そのDVDを見た吉野はすごい剣幕で銀子の元に怒鳴り込んできた。
 銀子はカメラマンを呼んで、吉野に対面させ、私たちの要求に応じなければ吉野の義父と妻、吉野の得意先すべてにこのDVDを送ると宣言した。青ざめたのは吉野だ。そんなことをされれば、吉野家から追い出されるし、義父の後を継ぐ話も五和算になる。取引先にも信用が失墜する、吉野は銀子に泣きついてきた。
 DVDを送付しない代わりに、吉野に条件を付けた。妙さんを含む、これまで迷惑をかけた女性すべてに謝罪し、女性から取り上げた金を返済し、慰謝料を支払うこと。また、銀子とカメラマンにも出演料、制作料を含む相応の金額を支払うこと。吉野は血の気の引いた顔で渋々了解したようだ。
 総額にして三千万円、吉野は、義父の蓄財を横領して用意したそうじゃ。ばれたらどうなるか、多分、その時の吉野には正常な判断が出来ていなかったのだろう。銀子に言わせると、目が飛んでいたということじゃ――。

 おっしょさんの話を聞き終え、三百万円を手にした妙さんは、涙をあふれさせておっしょさんにお礼を言った。
 「おっしょさん、呑んで。食べて。今日は私の奢りよ」
 妙さんはそう言ってマスターに酒と肴をおっしょさんのために注文した。
 「妙さん、奢りはいいけど、忘れていませんか。ご褒美、ご褒美」
 おっしょさんが妙さんの手を握って甘えた調子で言う。
 「ご褒美ですか。ちょっと待ってくださいね」
 おっしょさんのグラスに酒を注ぎながら、妙さんがニッコリ笑って言うのを、おっしょさんは目じりと鼻の下をグンと伸ばして聞いている。
 「おっしょさん、目を瞑っていただけますか」
 おっしょさんが素直に目を瞑ると、そのまん丸な頬に妙さんがチュッとキスをした。
 「これが私のご褒美。おっしょさん、本当にありがとう」
 目を開けたおっしょさん、キョトンとした顔をして、
 「これがご褒美って、頬っぺたにキスをしただけやないか」
 と不満げな声を洩らす。それを見ていたえびす亭の面々の笑うこと笑うこと。
 「よかったなあ、おっしょさん。わしもおこぼれに預かりたいわ」
 客の一人がおっしょさんを囃し立てる。おっしょさんは残念な表情を隠そうともせず、なみなみと注がれたグラスの酒を一気に呑み干して、
 「妙さん。わし、もっとええご褒美期待しとったんやで」
 と甘えたような声で妙さんに言った。
<了>


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