愛する女と愛される女

高瀬 甚太

 「会いたいなあ――」
夜になると、加奈子は、決まってひとり言のようにつぶやく。いつの間にか、それが習慣のようになっていた。
 山崎惣一と別れて、一年になる。愛しさは募る一方だ。なぜ別れたのだろうか。今さらながら、加奈子は後悔した。
 「でも、仕方がなかった。あの人が悪いのよ」
 言い訳のように呟いて布団を被る。しかし、目を瞑るとまた、あの人の顔が思い浮かぶ。
 ――忘れなきゃ。あんな男を好きになった私が悪いのよ。
 来月には三十歳になる。幸せにならなきゃ。加奈子は思い直す。別れて正解だったのだと――。
 あんな人に関わっていたら、いつまで経っても幸せになんかなれやしない。未練がましく考えるのはよそう。私を愛してくれるのは、あの人、一人だけじゃない。
 ――岡本毅の顔を無理やり思い浮かべる。
 だが、少しも胸がキュンとしない。ドキドキもしない。いい人なんだけどなあ――、再び岡本の笑顔を思い浮かべたが、やっぱり何のときめきも起きなかった。明日、岡本とデートだというのに、何の興奮も胸の騒ぎもない。このままでいいのだろうか。考え始めると、岡本にとって代わって、また、山崎のことが思い浮かんだ。

 翌朝は日曜日、午前八時に目を覚ました加奈子は、朝食を食べた後、マンションの周りを散歩した。約束の時間は午前十一時、三〇分前に家を出ると充分間に合う場所だ。
 散歩を終えてシャワーを浴び、髪の毛を乾かして化粧を施す。着る服を選んで、ちょうど三〇分前にマンションを出た。
 映画を観て、食事をして、お茶を飲んで――。岡本のパターンはだいたい決まっていた。午後八時には家に帰らせてくれと岡本に釘を刺す。遅くなると、月曜日からの仕事に影響する。
 待ち合わせの場所に着くと、岡本がキョロキョロ辺りを見回していた。ずいぶん早くに来て待っていたのだろう、表情に焦りが見えた。
 十一時ちょうどに岡本の前に立った。岡本の大きな顔が笑顔で弾ける。それにしても太い眉だと、顔を合わせるたびに思う。お腹だってそうだ。三十代半ばだというのに、妊娠七か月ほどに膨らんでいる。
 「お待たせしました」
 時間に遅れてきたわけではないけれど、一応、謝る。
 「磯山さん!」
 野太い声が響く。喜色満面の顔が妙にいやらしく映る。何度も会っているのに、なかなか慣れることが出来ない。
 映画を観に行く。毎度おなじみのパターンだ。岡本は映画が好きで、泣ける映画が大好きだ。
 「いつも映画ばかりですみません。どこへ行ったらいいのか、見当がつかないもので」
 一応、岡本は謝る。今回もまた、涙、涙のお決まりの映画を観るのだろう。映画館の中で、大男が映画を観て嗚咽する姿など、おぞましいことこの上ない。
 映画館に入り、二人並んで座ると、
 「ちょっと待っていてください」
 と言って、岡本は、売店で大きな紙コップに入ったコーラ二個と、バケツのようなカップに入ったポップコーン一個を買ってきた。
 「どうぞ、食べてください」
 と、加奈子の前に差し出し、そのポップコーンをパクパクやり始める。加奈子は、映画を観ながら物を食べるのは好みではない。だからほとんど口にしない。それなのに、岡本は、加奈子が遠慮していると思っているのか、加奈子の前にポップコーンを突き出し、
 「おいしいですよ」
 とすすめる。加奈子は、岡本のポップコーンを食べる音が気になって仕方がない。食欲もなかったから、再度、断った。
 「そうですか」
 残念そうに言って、岡本はポップコーンを小脇に抱えた。すでに三分の一程度がなくなっていた。
 案の定、岡本は、映画を観ながら号泣し始めた。泣ける場面に来ると、必ず岡本は、それがお約束のように嗚咽する。三十五歳にもなってと、加奈子は、最初のうちは呆れたが、今はもうすっかり慣れてしまった。
 加奈子が岡本と交際を始めたきっかけは、半年前、友人の結婚式の式場で、加奈子の隣に岡本が座ったことからだ。その席で、岡本は、加奈子に積極的に話しかけて来て、連絡先まで聞いて来た。加奈子は適当に相槌を打ち、勤め先の電話番号を教えた。
 すると岡本は、三日と開けずに加奈子の会社へ電話をかけてきた。あまりにも頻繁なので、仕事に支障が出ると思い、仕方なく携帯のアドレスを教えた。
 岡本は鈍なイメージがあるが、鈍なイメージとは裏腹に猛烈な勢いで加奈子に迫った。岡本の勢いに押されるまま、渋々付き合うことになったのが三か月前のことだ。
 以来、加奈子は月に数回程度、岡本と会っているが、会うたびに岡本を嫌になっている自分に気付く。付き合いをやめればいいのだが、もし、下手にそんなことを口にしたら、岡本がどんな態度に出るか、それがわからないだけになかなか決心がつかなかった。
 映画を出た岡本は、加奈子を蕎麦屋に案内した。無類の蕎麦好きである岡本は、おいしい蕎麦屋をよく知っていた。
 「少し歩きますけどいいですか」
 と加奈子に確認をして、岡本が先を歩いた。大柄で太っているのに、岡本は歩くのが早い。時々、気が付いて立ち止まり、加奈子を待っていてくれるやさしさはあるが、加奈子の歩幅に合わせて歩くのは苦手のようだ。
 繁華街を少し離れた人通りの多くない場所に、「十割蕎麦 よしや」と幟を掲げた小さな店があった。十割蕎麦とは、湯を加えてそば粉のデンプンの糊化を促し、生地のまとまりをよくしたものだと、加奈子は以前、岡本から聞かされたことがある。十割蕎麦は、小麦粉をつなぎに使った二八蕎麦よりも切れやすいのが特徴だということも、加奈子は岡本の説明で初めて知った。
 店内は、古びた造りで、四人掛けのテーブルが四つ、カウンター席が七席とこじんまりとした店だった。
 席に着くと、岡本はざる蕎麦を二人前注文した。注文した後、決まって加奈子に確認をする。
 「ざる蕎麦でよかったですよね」
 加奈子が小さく頷くと、ひとしきり、岡本の薀蓄が始まる。
 「ざる蕎麦と盛り蕎麦の区別は、元々、ざる蕎麦は、竹ざるに乗せ、通常よりコクのあるつゆのものをざる蕎麦と呼んでいたですが、今は、海苔のかかっているものをざる蕎麦、かかっていないものを盛り蕎麦と呼んで区別しています」
 蕎麦の話になると、岡本は途端に饒舌になる。
「ざる蕎麦の発祥は、東京深川の州崎弁財天前にあった伊勢屋が、蕎麦を竹ざるに乗せて出したところ評判が良く、バカ売れしたところから始まったと言われ、刻んだ海苔を散らすようになったのは、明治以降と言われています。盛り蕎麦は、元禄時代に流行した「ぶっかけ蕎麦」と区別するために汁を付けて食べる蕎麦を「盛り」と呼ぶようになったそうですが、決して、ざる蕎麦の対義語として付けられたわけではありません」
 ざる蕎麦がテーブルに置かれ、それを食べようとすると再び、岡本が薀蓄を開始した。
 「近畿における蕎麦処の筆頭は、兵庫県豊岡市出石町で、皿そばで知られる「出石そば」が広く知られています。これは、江戸時代、蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主仙石政明が出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて来て以来の伝統と言われています」
 岡本は嬉々として蕎麦の薀蓄を加奈子に話して聞かせる。加奈子は、岡本の薀蓄を聞くことが決して嫌いではなかった。得意げに話すわけでもなく、知ったかぶりをするわけでもない。加奈子にもっと蕎麦を好きになってほしい、その気持ちが岡本の薀蓄に感じるからだ。
 ざる蕎麦を食べた後、岡本は、いつも加奈子を喫茶店に案内する。予め調べていたのか、それとも行きつけの店なのか、岡本が連れて行く喫茶店は、どこもBGMがクラシックで、コーヒーの香りが色濃く漂う、落ち着いた店だった。
 静かな店内で岡本は加奈子に話しかける。
 こうした喫茶店に入ると、加奈子は決まって山崎のことを思い出す。
 ――山崎は、加奈子が真剣に好きになった、数少ない男の一人であった。
寡黙で、暇があれば本を読んでいた。加奈子が話しかけると、耳を傾けるのだが、視線は加奈子に向けない。時折、哀愁を帯びた眼で視線を遠くにやった。
 加奈子は、夢中になって山崎を追いかけた。彼を愛することが自分の役目のように思っていたほどだ。彼は、加奈子を娼婦のように扱い、セックスが終わると覚めた眼で加奈子をみつめ、愚かしい女だとでもいうかのように加奈子をぞんざいに扱った。
 山崎とは三年付き合った。だが、どこまで行っても彼にとって加奈子は遊びの相手にしか過ぎなかった。彼に、他に女がいることがわかった三年目の春、加奈子から別れを切り出した。彼はあっさりと承諾し、それっきり会おうとはしなかった。
 彼が加奈子の身体に残した刻印は、深い疼きとなって消えなかった。その疼きが今はもう会えない彼を求めるのだ。加奈子が岡本と出会ったのは、そんな時だった。
 岡本は、山崎と年齢こそ違わなかったが、性格から容姿、すべてに於いて違っていた。それなのになぜ、加奈子は岡本と付き合っているのか――。加奈子は、自分で自分が理解できなかった。
 ぼんやりしていると、岡本の声が耳に響いた。
 「磯山さん、俺、近いうちに会社を退職して、和歌山の実家へ戻って蕎麦屋を開く予定です。俺と一緒に来ていただけませんか」
 唐突なプロポーズだった。
 太い眉、大きな顔、お腹の付き出たみっともない体型、どこをとってもいいところなど見つからない岡本と、どうして添い遂げられようか。
 山崎は背が高く、スリムで、孤独な陰影を偲ばせた寡黙な男であった。岡本は、身長こそ高かったが、顔と体型は比べようもないほど劣っていた。唯一、加奈子が岡本に惹かれたのは、彼の一途な性格、自然になやさしさ、加奈子に対する澱みない愛情だけであった。
 ――お前のことを愛した覚えはない。ただ、お前が求めるから付き合ってやっているだけだ。
 加奈子を抱いた後の山崎の口癖だった。加奈子はそのたびに悔しい思いをしてきた。だが、山崎の言葉はある意味、的を得ていた。加奈子はいつの間にか、山崎から離れられない女になっていたからだ。
 「頑張って、俺、きっと磯山さんのことを幸せにします。必ず幸せにします」
 力強く言い切る岡本の言葉を聞きながら、加奈子は、また、山崎のことを思った。
 ――別れるなら別れるで構わない。お前が俺から心底別れられるのならそれでいい。
 加奈子が別れを告げた日、山崎が言った言葉だ。山崎は、加奈子が自分から離れられるはずがないと、よほどの自信があったのだと思う。嘲笑するような素振りを見せて加奈子の元から去って行った。
 しかし、加奈子は別れることを決心した。それ以来、山崎とは一度も連絡を取っていない。会いたい、今すぐ会って、抱いてもらいたい――。そう思いながらも加奈子は耐えた。山崎の元へ戻れば、また、あの地獄のような苦しみが待っている。
 「結婚してほしい」
 岡本の切実な声が加奈子の耳に届いた。岡本の太い眉が、大きな体が、加奈子を前にして大きく揺れ動いた。
 愛ってなんだろう――。
 加奈子は考えた。山崎との間にあったものが真実の愛であったのか、と問われれば、それもまた、的を得ていないように思う。一方的に加奈子が愛しただけの片側通行の恋、それが山崎との愛だった。それでも加奈子は、ある時まで山崎との結婚を夢み、愛が結実することを望んでいた。
 ――あの日、加奈子は、いつものように山崎の住まいを訪ねた。山崎も加奈子が来ることはわかっていたはずだ。鍵の閉まったドアを見て、加奈子は山崎が留守にしているのだと思った。鍵を使ってドアを開け、部屋の中へ入ると、女の喘ぎ声が聞こえてきた。慌てて奥の寝室へ向かうと、そこにいたのは、裸の山崎と山崎に組み敷かれている裸の女だった。
 その現場を目撃した瞬間、加奈子の中の何かが大きく音を立てて崩れた。
 ――愛とは、互いに求めあい、互いを必要とするものだ。
 一方通行の恋は、本当の愛ではない。
 加奈子の愛の定義からすれば、山崎との愛はすでに成り立たなくなっていた。別れを決めた加奈子は、その悲しみの決断の中で、この次は、できるならば、相手に求められる愛がほしいと願った。
 求める愛に疲れ切った加奈子の前に現れた岡本は、鈍なイメージこそあったが、間違いなく加奈子の愛を切実に求める男だった。
 岡本に対する愛情は、ほとんど皆無に近かったものの、真剣に愛情を傾けて来る岡本に、加奈子は言い知れぬ心地良さを感じていた。山崎と一緒にいた頃には味わえなかった快感であった。できれば、もう少しこの快感に身を浸していたい。加奈子はそう思っていたが、岡本は性急に答えを求めた。
加奈子は、すぐには返事ができなかった。断るのなら今がチャンスだと思ったが、岡本の真剣な表情を目の当たりにすると、安易な返答ができなかった。
 以前なら、断ると岡本がどんな態度に出るかわからないと言ったような危惧を抱いていたが、不思議と今はそれがなかった。
 もし、加奈子が断れば、岡本は素直にそれに応じるだろう。
 「少しお時間をいただいてよろしいでしょうか」
 加奈子の言葉に、岡本は笑顔で応じた。
 「いいですとも。どうかゆっくり考えてください。そしてよろしくお願いします」
 岡本は、加奈子に頭を深く下げた。
 お茶を飲んで、駅まで一緒に歩き、駅で別れた。岡本との間には、まだ、男と女のそれはなかった。去って行く岡本の背を眺めながら、加奈子は、その大きな背中に、ある種の感慨を覚えた。
 ――もしかしたら、好きになっているのでは……。
 ひとり言のように言って、加奈子は思わず笑った。太い眉、大きなお腹、短足――。どこをとってもいいところなど何もない。嫌悪感さえ抱いていたほどなのに、毎回、誘われると、会ってしまう。どうしてだろう、懸命に考えるが加奈子には答えが出なかった。
 その夜、加奈子の元へ母親から電話があった。一週間に一度か二度、母親から電話がかかってくる。加奈子がどうしているか、心配でならないのだ。それは父親も同様だった。父親は一人娘の加奈子を溺愛していた。母親からかかって来た電話に、必ず父も出る。父は、いつも加奈子の将来を心配していた。
 ――そろそろ結婚しないとねえ。いい人はいないのかい? もし、よかったら世話好きの親戚がいるから、相談してもいいよ。
 ――大丈夫。私もいろいろ考えているから。いい人が現れたら、お父さんとお母さんに紹介するからね。
 ――変な人に引っかかったりしたら駄目だよ。真面目で、お前のことを真剣に考えてくれる人がいいのだけれどねえ。
 ――それより、お母さん、神経痛はどう? お父さんも腰痛がひどかったでしょ。
 最後は、お互いのことを心配し合うのが常だ。
 電話を切ると、また、加奈子の脳裏に岡本の顔が思い浮かんだ。どう見てもいい男ではない。むさっ苦しい男だ。あの顔をしょっちゅう眺めて暮らせるかしら。ああ、嫌だ、嫌だ。早く寝よう。その夜、加奈子は、何も考えず眠ってしまった。
 翌日、いつもの時間に家を出た。出勤途中、加奈子は岡本のことを考えた。岡本に早く返事をしてやらなければならない。やっぱり、断った方がいいだろう。そう思っていたが、どこかでそれを押しとどめる気持ちが働いた。
昼 休み、外食のため、同期の女子と加奈子は会社の外へ出た。ビジネス街の昼休みは、どこもかしこも人でごった返していた。
 「蕎麦でも食べようか」
 同期の女子の言葉につられて加奈子が蕎麦屋へ入ろうとした時のことだ。
 「――加奈子」
 名前を呼ばれたような気がしたので、振り返ったが、誰もいない。気のせいだと思って、店の中へ入ろうとすると、再び、名前を呼ばれた。もう一度、振り返ると、ビルの陰に山崎が立っていた。
胸がドキンと音を立てて鳴った。
 「山崎さん――」
 意外な山崎の出現に驚いていると、山崎が加奈子に近づいてきた。
 「ちょっと話がある。いいか?」
 相変わらず上から目線の話し方をする。岡本とはえらい違いだと、加奈子は思う。
 「昼休みが終わるのが一時だから、それまでなら」
 山崎は、セルフの喫茶店の中へ入り、アイスコーヒーを自分の分だけ買うと、さっさとテーブルに着く。加奈子もコーヒーを購入し、慌てて山崎の対面に座った。
 「久しぶりだな、加奈子」
 長く垂らした前髪を指で押し上げながら、山崎が加奈子に話しかけた。
 「何か用?」
 わざと、つっけんどんに話すと、途端に山崎が狼狽した。
 「俺とよりを戻さないか?」
 エッという表情で加奈子が山崎を見る。
 「振られたの?」
 「いや、やっぱり、お前の方がいいかなと思ってな」
 「……」
「 お前と別れて気が付いたよ。俺にはお前が必要だ」
 加奈子は、山崎をじっと見つめた。
 ――この人にとって私は、単なる所有物なのか。いつまでも私があなたを忘れられないでいると思ったら大間違いよ。
 「残念でした。私、もうすぐ結婚します。あなたとは、もうお会いすることはないと思います」
 それだけ言って立ち上がると、加奈子は、しきりに自分を呼ぶ山崎をそのままにして店を出た。
久 しぶりに山崎を見た加奈子は、頼りない山崎の肩幅を見て、何となくガッカリした。病的に白い肌もそうだ。男らしさを感じさせない細い眉と、へこんだお腹、以前はいいと思っていたことが、今はまるで魅力を感じない。
あれほど会いたい、会って抱かれたいと思っていた気持ちが嘘のような自分の変わりように、加奈子自身、驚きを隠せなかった。
 ――やはり、岡本のプロポーズが影響しているのだろうか。
 加奈子はふと考えた。岡本の太い眉が急に懐かしく思えてきた。岡本の大きな背中を思い出して思わず笑った。プロポーズした後、懸命に頭を下げていた岡本の姿に、自分を愛する気持ちが詰まっていたと、加奈子は振り返って思う。
 ――愛されなきゃ。やっぱり女は愛されなきゃ。
 愛することしか知らなかった加奈子は、愛される喜びに浸っている自分に気付いて驚いた。
 ――やっぱり私は、岡本を好きになっているのだろうか。
 山崎に遭わなければ気付かなかったのかも知れない。山崎に会ったことで、今の自分が誰を大切に思っているか、初めて知ることができたと加奈子は思った。自分の気持の、あまりにも大きな変化に加奈子は驚きを隠せなかった。
 その日、加奈子は岡本に連絡をして、「昨日の返事をしたい」と伝えた。
 ――わかりました。
 断られるとでも思ったのだろうか、岡本は鎮痛な声で、
 ――午後六時、いつもの場所でお待ちしています。
 と言葉少なに言って電話を切った。
 仕事場で席に着き、いざ仕事を始めようとすると、一緒に蕎麦を食べに行った同期の女子が加奈子に言った。
 「今日の人、何だか暗そうな人だったわね。それに病気持ちみたい。磯山さんのタイプじゃないわね」
 「じゃ、私のタイプってどんな人?」
 「そうね。お相撲さんのように身体がでっかくて、頼りがいのある人、そんな感じがするわ」
 思わず岡本の顔が思い浮かんで吹き出した。加奈子は同期の女子に聞いた。
 「今日の蕎麦、美味しかった?」
 同期の女子は首を振って答えた。
 「全然、駄目。蕎麦好きな私には三〇点の評価しか与えられない味だったわ」
 加奈子は、ふんふんと頷きながら、
 「近いうちに、めっちゃ美味しい蕎麦を食べさせてあげるわ」
 笑って言うと、同期の女子はキョトンとした顔で加奈子を見た。
 十四階のフロアから眺める空は、絵の具を塗ったかのようにコバルトブルーに染まっていた。加奈子は、その空を眺めて大きく深呼吸を一つした。午後六時まで後、五時間か、そうつぶやいて再び仕事に取りかかった。
<了>

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