算段の平兵衛もかなわぬ、一世一代落語家の恋

高瀬 甚太

 落語には大きく分けて江戸落語と上方落語の二つの流れがある。江戸落語にある真打制度が上方落語にはなく、上方落語では内規で芸歴5年以上を中座、これは江戸落語の二つ目に相当する。15年以上を真打と同格としているのが上方落語の特徴で、真打相当からA、B、Cのランクに分かれていて、天神亭花椒はBランクに位置付けられていた。
 その天神亭花椒の話を聞く機会を得たのは、雑誌の企画取材の中でのことだ。雑誌の中の「上方落語特集・落語家の恋」で編集長が選んだ一人が天神亭花椒だった。
 世の中には落語家に対して破天荒なイメージやギャンブル、酒好きなイメージを持つ人が少なくない。実際、ギャンブルで身を持ち崩したり、酒に溺れて体を壊し、せっかくの天分を無駄にした落語家の例が後を絶たない。それが落語世界に棲む人間の特徴だとずっと思ってきた。
 天神亭花椒は、そういったイメージとはほど遠い人物だった。普通のサラリーマンといっても通じるような特徴のない風貌、いや、風貌だけでなく、立ち居振る舞いのすべてに特徴が薄かった。
 天神亭花椒に話を聞くことになった時、私は彼に対して大きな期待をしていなかった。破天荒な人間であれば、取材をしていても楽しいが、平凡な落語家には華がない。そう思っていたからだ。

 天神亭花椒は、小さく咳をして話し始めた。
 「十年前、私は寄席で中トリを演じていました。中トリは上方落語ではトリに次ぐ準主役です。高校を卒業してすぐに弟子入りし、すでに15年を数えようとしたところで、まずまず順調に推移していたと思います。
 真面目一本だった私は、落語の話術は師匠を超えるほどだと褒め称えられましたが、その反面、面白みのない落語家と評され、当時の人気は惨憺たるものでした。
 『お前の芸には艶があらへん。聞いていて飽きが来ますよって人気がおまへんのや』
 『命をかけるほどの恋の一つでもしたらどないやねん。優等生の落語なんて誰が聞きたいねん』
 『落語家やのうて学校の先生か、公務員の方がよう似合う。今からでも遅うない。商売替えしたらどないや』
 師匠連中の評価も散々でした。それでも芸一筋に懸命に生きてきた私のことです。今さら極道な遊び方など出来るわけがありません。何しろ芸人には珍しい超の付く真面目人間でしたから。
 落語家には通常、贔屓筋がいるものですが、私にはそれがありませんでした。芸人にとってそれは屈辱的なことです。それもこれも私の真面目すぎる私の芸道ゆえのことでした。
 これまで好きになった人がいなかったわけではありません。その時々にいい人はいましたが、落語の腕を磨くことに必死だった私は、あたらそのチャンスを逸してきました。
 それでも人は恋する動物だということを改めて実感しました。その年の夏のことです。33歳になったばかりの私はまるで少年のように純粋で一本気な恋をしました。
 和歌山の南紀地方にせっかちな大型台風が上陸し、大きな被害をもたらした夏のことです。南紀のT町で行われた市が主催する町おこしのイベントに招かれ、落語を披露することになりました。演目を何にするか、散々、悩んだ末、思いついたのが昭和の戦後に3代目桂米朝が先人から断片的に聞き集め、復刻したという『算段の平兵衛』でした。稽古では何度か練習したことがありましたが、客の前では一度も演じたことがありません。大ネタ中の大ネタとされるこのネタを思い切って演じることにしたのは南紀という温かな土地柄のせいかも知れません。開放的な気分になった私は、そのネタを畏れることなく演じることにしました。『算段の平兵衛』の内容はこうです。

 ――とある村の年老いた庄屋は村の中でひそかにお花という妾を囲っておりましたが、焼きもち焼きの妻にそのことが知れてしまいます。お花を村から追い出すのは忍びない、そう思った庄屋は、通称「算段の平兵衛」と呼ばれる、村の人間関係や金銭問題などの仲裁を専業としている男にお花を嫁がせることにしました。ところが平兵衛は、庄屋がお花に支払った手切れ金を自らの遊興に使い果たし、それどころかお花の着物から道具まで質に持ち出し、夫婦そろって生活に困窮してしまいます。こうなったら美人局をやるしかない、そう思った平兵衛はお花にけしかけ、色仕掛けで庄屋を誘惑し、家に呼び込みます。酔った庄屋がお花に迫ったその瞬間、身を潜めていた平兵衛が庄屋を捕まえてゆすろうという魂胆でしたが、平兵衛が庄屋を殴った途端、呆気なく庄屋は死んでしまいます。
 一計を案じた平兵衛は、庄屋の死体を庄屋の家の前まで運び、庄屋の声色を使って家の中にいる庄屋の婆に『今、平兵衛のところから戻った』と告げます。婆は、『どうせお花の元へ行って遅くなったのだろう』と悪態をつき、戸を開けようとしません。平兵衛は狼狽したふりをして、『庄屋が締め出されて謝っている、てな恥をさらされん。村の衆に見られたら、首吊って死ななしょうがない』と言うと、婆は『甲斐性があるなら首でも何でも吊れ!』と言い放ちます。平兵衛は、『よう、その一言を言うてくれた』と、庄屋が身に付けていた帯をそばの木の枝にくくり、その枝に庄屋の死体を吊るして帰宅します。
 しばらくして外の様子を見た婆は仰天します。『首吊りは変死じゃ。村の庄屋がお上の詮議を受けるようになれば家の恥、村の恥じゃ。算段の平兵衛に相談せな』。
 平兵衛の家に駆けこんだ婆は、25両を支払って庄屋の首吊りをもみ消してくれるよう依頼します。折しも隣村は月明かりの下で盆踊りの練習をしている最中です。平兵衛は死体に浴衣を着せ、自分も浴衣に着替え、頬かむりで顔を隠し、死体を背負って隣村へ向かいます。平兵衛は死体を抱えたまま踊りの輪の中へ紛れ込み、死体の冷たい手で隣村の男たちを撫でまわします。行事を冒涜されたと激昂した隣村の男たちは死体の手を掴み、一斉に殴りかかります。死体を放り出した平兵衛は闇にまぎれて姿を消します。
 隣村の男たちがぐったりしている人間の顔を確認すると、何とそれは隣村の庄屋で、しかも、すでに息をしていません。殴り殺したと勘違いした隣村の男たちは、『算段の平兵衛に相談せな』と、25両を持って平兵衛の家に駆け込みます。『明るみに出れば二つの村が敵同士になる。どうか丸い話に……』、と頼む隣村の男たちに平兵衛は言います。
 『これからわしが庄屋の家に行き、「庄屋を探しに行こう」と言う名目で婆を崖下へ連れ出す。お前らは崖の上まで死体を運んで酒盛りをしているふりをし、わしが提灯で合図をしたら、庄屋が誤って崖から落ちたように装って崖から死体を落とせ』と言います。婆には、『隣村の男を25両で買収し、もみ消す話をつけてきた』と吹き込んで連れ出し、庄屋の死体が崖から滑り落ちる様子を見せます。こうすれば、隣村の男たちがすでに庄屋の死を知っていることをお互いに関知しなくなります。川向うのやぶ医者が検死の結果、当然、事故死と診断しますから、下手人が出るはずもなく、死んだ庄屋も面目が立ち、婆と隣村の男たちはお互いに『自分が庄屋を殺した』と思っていますので、口止めがきき、平兵衛もまた双方から金をもらったこと、平兵衛こそが庄屋殺しであるという真相を誰にも気付かせないという『算段』が成り立ったわけです。
 その後、平兵衛の近所に住む盲目の按摩師、徳の市が『最近、金回りがよろしいようで……。ちょっとしのがせてもらえんか』と繰り返し、平兵衛をゆするようになります。誰もが恐れる平兵衛を金づるにする徳の市に対し、徐々に村人たちは疑問に思うようになり、『平兵衛の痛いとこ握ってるか知らんけども、こんなことしてたら終いにはどえらい目に遭いよるで』」と口々に噂します。するとその中の一人が言いました。昔から言うやないか、「盲目ヘエベエに怖(お)じず」』(「盲蛇に応じず」の地口)。
 
 少々長くなりましたが、ざっとこう言った話です。くすぐりが非常に少なく、しかも残酷な話ということもあって、人の死体やエゴに満ちた登場人物を陰惨に感じさせずに描写する必要があります。演者にとって技量の試される落語の最たるものであるといえるでしょう。3代目米朝も、『後味が悪くならないように演じるのが難しい。しかも平兵衛をどこか憎めない男、共感を覚えるように演じないと落語として成り立たない』と言うほどの難しいネタでした。普段の私ならきっと演じることを躊躇したか、選ぶことはしなかったでしょう。
 この町へ来て、会場へ入る前に眺めた海の景色、空の青、大自然の揺るぎない景観に触発されたのかも知れません。『やってみたい』と、突然、思い立ち、冒険心を掻きたてられた次第です。
 いつもの私ならクソ丁寧に話を演じるだけですが、その時の私は違いました。会場に押しかけた観客の反応が思いのほかよかったことがその一因だったのかも知れません。自在に、捨て身になって演じ切ることが出来ました。
話術だけでなく、顔の表情で笑わせたり、身振り手振りで笑わせることも時には落語には必要です。私の場合、どちらかと言えば話術で笑わせたいと思う方で、表情や動作で笑わせることを極力避けるところがありましたが、その時は、いつもと少し違いました。特に演目が陰惨さが目立つ演目でしたので、表情や動作を入れないと、話だけでは客を笑わせられないということがありました。
 動作や表情を入れ始めると、『間』というものが非常に重要になって来ます。客の空気を捕らえた一瞬の『間』、この『間』というものが非常に難しい。それまでの私は客と演者の『間』を教科書通りに演じてきただけに過ぎなかったのですが、その時の私は、表情や動作を伴っていたこともあり、いつもとはまるで違う『間』を自身と観客との間にしっかりと掴むことが出来ていたのです。
 開眼したという言葉がぴったりはまるほどの大転換を遂げた私の落語は、爆笑に次ぐ爆笑で会場が揺らがせるほどの笑いを生み、大成功を収めました。演じ終った後、鳴り止まない拍手に身を置いた私は、落語家になってよかったと、改めて思ったものです。
 壇上から降りた私の元に、突然、一人の女性が駆け寄って来て、
『お疲れさまでした。素晴らしかった!』
 満面の笑みを湛えたその女性が私の前に一枚の白いハンカチを差し出した時のことを私は今でもよく覚えています。
 芸人ですから、いくら真面目だとは言っても女性との付き合いがまるでなかったわけではありません。そのほとんどが性に関する仕事をしていたり水商売を専業とする女たちでしたからあとくされがありません。素人の女性を相手にすると後々面倒なことになり、仕事に影響することがありますからよほど割り切った相手でないと付き合い出来ません。
 その時、私は独身でしたが、当分、結婚する気はなく、また、そのような気にさせる相手もいませんでした。
 もらったハンカチで汗を拭い、その女性を改めて見直しました。白い歯が印象的な笑顔の素敵な女性でした。ハンカチを返そうと思い、その女性の前に差し出そうとしたところ、ドッと客が押し寄せ、いつの間にかその女性とはぐれてしまいハンカチを手渡し損ねたまま、私はぼんやりとその女性の幻影を追いかけていました。
 地元の人との簡単な会食を終え、旅館に着き、一人になったところで、私は今日、演じた落語の調子を忘れないために、部屋の中で一人、再び『算段の平兵衛』を演じました。すると、不思議なことに観客が目の前にいないにも関わらず、客の反応が直に肌に伝わって来ます。陰惨な物語であるにも関わらず、観客が爆笑する。先ほど演じた落語の反応がそのまま心に響いて来るのです。
 その時、演じ終えた私の耳にどこからか、パチパチと拍手する音が聞こえてきました。旅館の誰もいない部屋の中です。不思議に思って室内を見渡すと、障子の向こうに人影が見えます。障子を開けると着物を着た女性がお茶を携えて座っていました。
 『すみません。お茶をお持ちしたのですが、つい聞き惚れてしまいました。先ほども会場でお聞きしましたが、何度お聞きしても本当に面白くって』
 そう言って女性は笑います。よく見ると会場でハンカチを差し出してくれた女性ではありませんか。
 『こちらでお仕事をなさっていたんですか?』
 預かっていたハンカチをバッグの中から取り出しながら尋ねると、女性は、親しみ易い笑顔を満面に称えて応えます。
 『父がこの旅館を経営していて、その手伝いをしています。私、落語が大好きで、今日、生まれて初めて生の落語を聞いて感動しました。その時の落語家の方がまさかうちの旅館に泊まっているなんて嬉しくって――』
 T市が用意してくれた旅館が、この海亀旅館で、T町では老舗の旅館だと市の担当者から聞かされていましたがいざ訪れてみて、海岸に面しているといった特色はあるものの、あまりにも古めかしくて、都会的な近代的なホテルを想像していた私はガッカリしたものです。でも、よく見ると松の木を中心に据えた広い庭、格調の高い部屋の構造を見ているうちにその考えを改めました。よほど格式の高い旅館に違いない。そう思うようになったのです。案内してくれた市の担当者は、町の人たちは何かあるとこの旅館を利用し、宴会などを開くのだと話してくれましたが、それも頷けます。人を包み込むようなやさしいものがこの旅館には行きわたっている。そう思い、それと同じ思いを私は目の前にいる女性に感じ取っていたのです。
 『ハンカチ、ありがとうございました。少し汚れていますが……』
 丁寧に折りたたんだ白いハンカチを女性に手渡すと、女性は、
 『返さなくてもよかったんですよ。私、このハンカチ、大切にします。でも、勝手に落語をお聞きして本当に申し訳ありませんでした』
 と、胸に抱えたハンカチを握りしめながら言います。
 『潮風が心地良いですね』
 あわてて話を変えました。顔が上気して頬が熱くなってくるのを感じたからです。
 『もしよろしければ、この近辺をご案内しましょうか。今ならまだ陽が高いですから』
 市の関係者がこの旅館に集まって宴会を始めるまで、ずいぶん時間がありました。部屋の中にじっとしていても仕方がありません。
 『それではお願いしましょうか』
 女性が私を先導するかのように先に歩きます。旅館の外へ出ると、訪れた時には気が付かなかった広大な海の景色がひろがっています。
 『気が付きませんでした。こんなにも海が近いなんて』
 ため息に似た言葉を洩らすと、女性は飛び上がらんばかりに背伸びをし、幼児を思わせるようなあどけない笑顔で海の方向を指さします。
 『きれいでしょ。海だけが自慢の場所なんです。でも台風の時は大変なんです。防波堤があるのですが、簡単に乗り越えて襲って来ますから』
 浜辺へたどり着くまで五分とかかりませんでした。小さな波が砂浜に引いては寄せを繰り返しています。貝殻が波の引いた砂浜に転がり、水平線の向こう側に何艘もの漁船が小さく浮かんでいるのが見えます。広大な海を見ていると、いつの間にか自然の中に溶け込んでしまい、自分の存在などどうでもいいような錯覚に陥りました。
 『花椒さんはどうして落語家になろうと思ったのですか?』
 唐突な質問に、すぐには言葉が出ませんでした。そう言えば、私は女性の名前すら知っていません。聞こうにも聞くタイミングが掴めずにいたのです。
 『小学校の時、私は鉄道関係の仕事をしたいと思っていました。父がその関係の仕事をしていましたし、当時は列車や電車などの乗り物が大好きでしたから。ところが中学に入ってすぐに父と一緒に演芸を観に行って、そこで落語を聞いたことがきっかけで落語が大好きになりました。高校に行かず、落語家の元へ弟子入りしようと思ったぐらい落語の世界にのめり込みました。でも、落語家の師匠に高校ぐらいは出ておきなさい、と言われ、高校を卒業して弟子入りすることを決めたのです。父親は、しきりにお前は性格的に芸人に向いていないと言いますし、高校の担任も確かに落語はうまいが、プロになるのはどうかな、と言います。性格的にプロ向きではないことを私自身、よく理解していました。それでもその頃の私は必死でした。落語家になれなければ死んだほうがマシだと思うぐらい一途だったのです』
 一気に話しました。今まで誰にも明かしていない、というよりも話す機会のなかった話です。
 『素敵です。花椒さん、本当に素敵です』
 女性の言葉が意外でした。私のどこが素敵なのか、見当もつかなかったからです。
 『私が素敵? そんなこと言われたの初めてです』
 顔が赤らみました。私はすべてにおいて普通でした。学校の成績も普通なら容貌も背の高さ、体重、何もかもが平均程度の人間です。いわゆる目立たない男なんです。だから落語家に入門する時も周囲の人間の多くが止めました。華のない男に芸人は務まらない。そう言われることが多かったのです。
『花椒さんはご自分の魅力に気が付いていないだけです。花椒さんほど素敵な人に私は今まで出会ったことがありません』
 私はもう言葉がありませんでした。その後も話し続けて、ようやく女性の名前が中松頼子であることを知りました。
 散歩を終え旅館に戻ると、頼子は再び仕事に戻り、私もまた部屋に戻りました。
 宴会までのわずかな時間に私は自分の気持ちが大きく頼子に傾いていることを悟りました。今まで自分をこれほどまで持ち上げてくれた女性を私は知りません。素敵だなどと言われたことも初めてです。嘘でも冗談でも、自分の落語に感動し、自分の生き方に思いを寄せてくれた人も初めてでした。
 愛や恋にはさまざまな形があります。この町を訪れ、自分が一番いい落語を演じた日に一人の女性と出会った。そのことを私は運命だと思いました。勝手な勘違いであっても構わない。私は自分の気持ちに確固とした自信を持ちました。この町を離れるまでの短い時間に、私は頼子に気持ちのすべてを打ち明けなければならない。そう決心しました。

 宴会が始まり、市の助役や要職の人たちがずらりと並び、町の重鎮たちも顔を揃え、一様に私を絶賛します。だが、その言葉の空々しかったことこの上ありません。頼子と話した後ですからなおさら強くそれを感じました。
 頼子は宴会の席に飲物を運び、料理を運び、仲居たちに混じって忙しく立ち働いています。頼子はとびっきりの美人というわけではありませんし、その他すべてにおいて十人並みといったところが精一杯の女性でした。でも、容姿で人を選ぼうなどという気持ちは毛頭、私にはありませんでした。頼子の笑顔は、今まで私が見たこともない天真爛漫な笑顔で、頼子が言った言葉の数々のすべてが、私にとって今まで耳にする機会のなかった言葉でした。
頼子は宴席の客たちの間を縫うようにして働きながら、時折、私を見て、ニッコリ笑顔をくれました。私にとってそれはどのような宝石にも代えがたいダイヤモンドのような笑顔に見えました。
 宴会が終わり、部屋に戻ると頼子が布団を敷いています。
 『お風呂に入って来てください。その間に寝床の準備をしておきますから』
 タオルを手渡しながら頼子が言います。私は壇上を降りてすぐに頼子にハンカチをもらった時のことを思い出しました。
 『頼子さん、明日、私は早い時間にここを出ます。あまり時間がないと思いますので今、お願いしたいことがあります』
 心なしか声が震えました。頼子は怪訝な表情で私を見ています。
 『個人的にあなたと連絡を取りたいと思っています。携帯のアドレスを教えていただけませんか』
 頼子の笑顔が一瞬のうちにくしゃくしゃになりました。ポロポロ涙をあふれさせながらポケットから携帯を出し、おずおずとそれを私に手渡しました。
 『ありがとう』
 礼を言って、その携帯に私のアドレスを打ちこみ、鳴らしました。私の携帯がスーツの胸の中で大きな音を立てて鳴っています。停止ボタンを押し、携帯を頼子に戻すと、頼子が私を見てか細い声で聞きました。
 『電話をしていいんですか?』
 すぐさま私は答えました。
 『いえ、今夜、私の方から電話をさせてもらいます』
 その夜から私と頼子の長い長い旅が始まったのです。

 半年余の交際期間を経て結婚に至ったのが翌年の春のことです。地味な私に相応しい神社での結婚式になりました。参列者もごく親近の者たちばかりです。新婚旅行も仕事の関係ですぐには行けず、ようやく出かけられたのは一カ月後のことです。信州で二週間、山を見て二人で過ごしました。
 『算段の平兵衛』は今でも私の大切な大ネタの一つで、演じるたびに一歩一歩、確実に成長している、そんな気がする大切なネタの一つになっています。頼子は今も私の落語の大ファンで、いつも最前列に陣取って誰よりも大きな声で誰よりも大きな拍手を私に送ってくれます。誰の為でもなく、頼子のために落語を演じている。そう思われてもおかしくないほど、私は頼子を喜ばすために落語を演じているのです。今もこれからもずっと――」

 天神亭花椒の取材を終えた後、私はなぜか清々しい気分にさせられた。普通で特色の薄い人間が落語をやる、そのことに偏見を持っていた私は自らを恥じた。普通だからこそ、演じられる落語がある。真剣で純粋な恋がある。そう思い、特集記事のタイトルに『算段の平兵衛もかなわぬ、一世一代落語家の恋』と記した。
<了>

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