シネマの夜

高瀬甚太

第四回

 思い出の詰まった商店街を抜けると、途端に賑やかなオフィス街になった。
 高校を卒業した私と加奈子は、卒業式のその日、結婚を約束してホテルに入り、そこで初めて結ばれた。
 加奈子はそのまま、それまでの会社に勤め、私は夜間の大学に入学したのを契機に、今日まで勤めてきた会社に就職をした。
 小さな炊事場とトイレ、四畳半の木造アパートに移り住んだ私の元に加奈子が足しげく通い、食事や洗濯、掃除などしてくれ、時には泊まって帰ることもあった。
 しかし、順調だったのはその頃までで、私は次第に他の女性に目移りするようになった。
 都心の会社に勤め、夜間の大学に通ううちに、これまでとは違い、多少高額と思える給与を得るようになった私は、それまで口にしなかった酒を呑むようになり、他の女性と食事に行ったり、時には部屋で待つ加奈子を放ったらかしにして、他の女性と共に休日を過ごしたりするようになった。
 正式に加奈子に別れを告げたのは、就職し、大学に入学したその年の秋だった。
 「好きな女ができた」
 と、私が告げると、加奈子はうつむいたまま、しばらく顔を上げなかった。
 私の勝手な心変わりを加奈子は許さないだろう、そう思っていた。怒られても泣かれても仕方がない。それだけの仕打ちを私は彼女にしてきた。
 西陽の入る四畳半の部屋の真ん中に置かれた卓袱台に、味噌汁とご飯、焼き魚を並べていた加奈子は、少しの時間を置いて顔を上げると、気丈な声で私に言った。
 「着替えはすべて押入れの衣装ケースの中に入っています。通帳や印鑑、あなたの大切なものは、ミニタンスの一番上の引き出しに入れています。これはその鍵です」
 鍵を私の前に置くと一瞬の間を置いて加奈子は静かに立ち上がった。
「すまなかった」
 と、謝ると、加奈子は小さく首を振った。半分開放した小さな窓から秋の風が吹き下りてくる。
 加奈子は木製の入口のドアノブに手をかけると、
 「柴谷さん、ありがとう」
 と、言い、深々と礼をすると、振り返ることなく去っていった。
 加奈子が去った部屋の中に一瞬、空虚な感覚が漂った。秋だというのに寒々しい空気が支配した。
 加奈子の作った料理を食べながら、私は不思議な気分でいた。
 ――本当にこれでよかったのだろうか。
 好きな女性が出来たことは確かだった。その女性に自分を取るか、彼女を取るか、二者択一を迫られていたこともまた確かだった。
 地味で目立たない加奈子に比べ、その女性は派手で都会的な雰囲気を漂わせ、洗練したものを感じさせた。食事をするにしてもホテルのディナーか、一流料理店を好んで選択した。もったいないから私が料理を作ってあげる、そう言って節約を心掛ける加奈子とは大違いだった。
 美人でスタイルもよく見映えのいい彼女に、私はすぐに魅入られ、たちまち虜になってしまった。
 加奈子と別れて、その彼女と付き合い始めて半年が過ぎた頃、私は彼女と他愛もないことで喧嘩をした。これまで散々彼女のわがままに付き合って来たが、とうとう我慢できなくなって言い返したのが原因だった。一つでも綻びが目立ち始めると、呆気なく壊れてしまう。私と彼女の場合がまさにそうだった。
 彼女と別れた時、私は悲しい気持ちになれなかった。むしろ清々しい気持ちに支配され、解放された気分になったのが不思議だった。
 ――途端に加奈子を思い出した。

 夢を見ていたのだろうか。ハッと気が付くと、西天満の交差点に立っていた。
 脳裏をかすめたさまざまなことが、まるで昨日のことのように思い出され、私は一人、泣き笑いをしていた。
 時間はまだ二時だ。難波からまっすぐ御堂筋を歩き始めてから時間はまだ幾ばくも経っていない。シネマを観たこと、商店街を歩いたこと――。あれは幻想だったのか。
 定年退職をした実感がその時になってようやく湧いてきた。すると、不意に涙が溢れ出てきた。拭っても拭っても涙が止まらない。
 梅田駅から電車に乗り、昼下がりの窓外の景色を感慨深く眺めながら、私はふと思った。
 人は人によって支えられ生きている。言葉で態度で、ある時は愛で――。今度は自分が支える番ではないか。さらに深く愛するべきではないか。脳裏をかすめたさまざまな思いに触発され、私は今まさに第二の人生の扉を開けようとしていた。

 「ただいま」
 ドアを開けると妻が奥から飛んできた。
 「お帰りなさい。お仕事ご苦労様でした」
 玄関で妻は、私のカバンを手に取ると、深々とお辞儀をした。
 その日の夜の食事は豪華だった。テーブルの上に鯛の刺身が盛られ、その周りに私の好物であるカボチャの煮物とジャガイモの煮物、そして焼肉が並べられていた。
 妻の愛情が溢れ出たメニューだった。
 「私と暮らして幸せだったか?」
 食事の途中、妻に聞くと、妻は少し沈黙し、次には笑みを湛えて私を見つめ、小さく、
 「はい」
 と言った。
 小柄で素朴で、決して美人ではないが、やさしい女――。私のイメージは妻と初めて会った時からずっと変わっていない。多少、脱線したことはあったが、私の愛もその時からずっと変わっていない。
 「これからもどうかよろしく」
 頭を下げると、妻、加奈子は神妙な顔をして、
 「こちらこそどうかよろしくお願いします」
 と、頭を下げた。
<了>

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