すももさんの悲しい犯罪

高瀬 甚太

 立ち飲み屋「えびす亭」にやって来る客の中には特技を持った人が少なくないが、すももさんこと、周防正もそのうちの一人だった。
 彼は口笛を吹くのが非常にうまい。その芸を披露することは滅多になかったが、時たま、客の要請で口笛を披露することがあった。哀愁を秘めたすももさんの口笛を聞くと、誰もが一瞬、押し黙り、視線を遠くにやる。過去の思い出に心が誘われてしまうのだ。

 ――八月の暑い日のことだ。
 くたびれた靴を履いた中年の客がえびす亭のガラス戸を開けた。男は、えびす亭の店内に入ると鋭い視線で店にいる客たちを一瞥して言った。
 「こちらに周防さんがよく出入りしていると聞いたのですが……」
 白いカッターシャツに黒いネクタイ、上着を小脇に抱えた男は、標準語でマスターに尋ねた。
 「周防さん?」
 名前を聞いて、首をひねったマスターに、客の一人が助け舟を出した。
 「マスター、すももさんのことやんか」
 それを聞いて、マスターは、
 「ああ、すももさん。ところですももさんに何の用でっか?」
 と逆に質問をした。
 「ちょっとお聴きしたいことがあってお寄りしました。今日はいらっしゃっていませんか?」
 「すももさんは、今日はまだ来ていません。店に顔を出すのはいつも八時過ぎですね」
 マスターが答えると、男はそっと腕時計を見た。八時までまだ一時間近くある、どうしようか考えているのだろう。思案している様子が窺われた。
 やがて男は、カウンターに立ち、カッターシャツを腕まくりして言った。
 「では、ビール一本、お願いします」
 男はグラスに注いだ冷えたビールを一気に呑み干すと、プファーと大きな息を吐き出した。
 「今日は暑かったですなあ」
 男の呑みっぷりを見て、隣りの客が声をかけた。
 「ええ、暑かったですね。ビールを呑むと生き返った気がします」
 男は笑顔でそう言うと、空になったグラスに再び冷えたビールを勢いよく注ぎ込んだ。
 呑むばかりではない。男は食べる方も勢いがあった。豆腐の冷奴を一つ平らげると、焼き鳥を五本、一気に平らげ、ブタキムチを追加した。
 えびす亭の混雑するピーク時間は午後七時から九時、店内は入れ替わりが激しいとはいえ、かなり混雑してきた。立ち呑みだからカウンターに立ったまま、どんどん奥の方へと追いやられてしまう。入口に近いところに立っていた男も、いつの間にか奥の方まで来てしまった。
 八時前になると大半の客が入れ替わる。八時が近づくと、男の鋭い視線が入口に向かい始めた。
 「お客さん、すももさん来やはりましたよ」
 マスターが男に声をかけた。男とすももが旧知の間柄とでも思ったのだろう。マスターは、店に入って来たすももに声をかけた。
 「すももさん、お友達が先ほどから待ってまっせ」
 その瞬間、入ってきたばかりのすももと奥に立って呑んでいた男の目が合った。
 すももの顔に怯えが走り、次の瞬間、すももは身を翻して店から走って出て行った。
 それを見て、奥にいた男が財布から金を取り出し、
 「マスター、お勘定してください」
 と言って千円札を二枚取り出し、
 「これで足りますか? 足りたらお釣りは結構です」
 と言いおいて、すももの後を追って急いで外に出た。
 
 えびす亭の前に人が往来する道路があり、そこから少し離れたところに商店街があった。その商店街を抜けると広い国道に出る。男は、すももの足取りを予測すると、慣れた様子ですももの後を追った。ほどなく男は、へばって道路に座り込んでいるすももを見つけた。
 「探したぞ周防」
 男が一喝して言うと、すももは頭を大きくうなだれて、神妙な顔をして男を見た。
 「新藤さん、なんで俺の居場所がわかったんですか?」
 「それがわしらの仕事だ。警察を舐めたらだめや。お前ほどの口笛の達人は、そうはいない。噂がどこかしこから伝わってくる。今回もそうだ。大阪のえびす亭という立ち呑みの店に口笛の達人がいる。その噂を聞いて、はるばる名古屋からやって来た」
 すももは思わず、唇を抑えた。恐れていたことが起こった。そんな顔をしていた。
 「それにしても、おまえほどの男が何であんなことをしたんや」
 新藤の問いに、すももはあきらめたかのように投げやりな口調で答えた。
 「借金が重なって、どうしようもなくなったんです」
 「そうか。しかし、お前を信じていた連中はとても残念がっていたぞ」
 新藤の言葉がすももの胸を射た。――すももの脳裏に二年前の出来事が思い浮かぶ。

 ――二年前、名古屋で学習塾を経営していた周防は、結婚を控えて順風満帆、充実した日を送っていた。
 婚約者は、斉藤美和といい、周防の経営する学習塾に通う生徒の姉だった。美和の父親は名古屋で手広く焼き鳥のチェーン店を営む経営者で、結婚後は周防も義父の経営する焼き鳥チェーン店の経営に参画する予定でいた。
 すべてが順調で、幸せだったことが周防の心の緩みを生んだのだろう。学生時代の友人に誘われて入ったクラブで周防は闇カジノに誘われ、そこでたまたま思わぬ大金を獲得した。ギャンブルなどやったことのなかった周防は、その時の興奮が忘れられず、それ以後、どんどんぬかるみに嵌って行く。
 気が付くと、数千万の借金ができていた。すべてカジノでのギャンブルが作った負債だった。闇カジノは、おいしい客を見つけると、お金を無尽蔵に貸し付ける。周防もその手に引っかかり、一転して借金の取り立てに追われる毎日を送る羽目に陥ってしまった。
 追い詰められた周防は、周囲の人間にお金を借りまわるが、それでも追い付かない。婚約者や義父に知られたくなかった周防は、何とかしようと金策を試みるがどうにもならなかった。
 利子が重くのしかかり、取り立てが厳しくなったことで、一計を案じた周防は、婚約者の妹の子供を誘拐して、義父にお金を出させることを思いつく。
 婚約者の妹の子供は女の子で幼稚園に通っていた。幼稚園に電話を入れ、急用ができたと偽って子供の連れ出しに成功した周防は、その子供を自宅に連れ込み、婚約者の妹に電話をした。
 声を変えていたから周防だと知れることはなかったが、子供を誘拐したと告げると、婚約者の妹は一瞬ひどいパニックに陥り絶叫した。慌てて電話を切った周防が二度目に電話を入れると、婚約者の妹に変わって義父が出た。
 「子供は預かった。二億円用意しろ。わかっていると思うが、警察に知らせれば子供の命は保障しない」
 手短にそれだけ言って電話を切ると、周防は部屋で遊んでいる子供に声をかけた。女の子らしく、周防が予め買ってきていた人形を手にご機嫌な様子でいた。周防を見ても一向に怖がるそぶりなど見せなかったので、逆に周防の方が不安になった。
 「お腹が空いてないか」
 周防が聞くと、子供は、首を振って、お腹は空いていないと答え、家に帰りたい、と言った。
 「もう少ししたらおうちに帰れるからね」
 周防は子供をなだめすかしつつ、金を無事受け取っても、自分の顔を知っているこの子供をどうすればいいか頭を悩ませていた。お金のことで頭がいっぱいになっていた周防は、その時はそこまで思いが及ばなかったのだ。
 冷静になって振り返ると、簡単にわかることなのに……、周防は、今さらながら誘拐などという大それたことを犯したことを後悔し始めていた。しかし、今となってはもう後戻りすることなどできない。いざとなればこの子を殺すしかない。周防はそんなことを考え始めていた。
 妹の家の様子は、婚約者に聞き出して知ることができた。警察が妹の家に張り付き、義父も妹の家で様子を窺っていた。お金の用意ができていることもわかった。
 午後五時、妹の家に周防は電話を入れた。
 「金の用意はできたか?」
 「できました。娘は元気にしていますか?」
 一時のパニックから立ち直った妹は気丈に言った。
 「元気だ。では、今から受け渡しの方法について連絡をする」
 そこで一度、周防は電話を切った。警察による逆探知を心配したのだ。
 しかし、この時、警察はすでに犯人の特定を固めつつあった。変装していたとはいえ、幼稚園に来園した男の特徴を幼稚園の先生がよく覚えていたことが犯人の割り出しに役に立った。
 十分後、妹の家に二度目の電話を入れた周防は、電話に出た妹の様子から異変を感じた。
 あまりにも落ち着いた様子の妹の対応に、もしかしたら自分の存在が明らかになったのでは、と危惧した。それを思い過ごしだと感じさせないほど、電話の向こう側の空気に緊張感が欠如しているように思えた。
 周防は計画を頓挫させることを決意し、身の回りのものをバッグに詰めた。
 「今からおうちに帰るからね。すぐに用意をして」
 妹の子供は周防の言葉に素直に従い、家を出る用意をした。周防が車を発進させた直後に、道路の向かい側からパトカーが数台、群れをなして走って来るのが見えた。
 周防は、子供が歩いて帰れる距離まで送り届けると、そのまま車を捨てて逃走した――。

 「お前が犯人だということはすぐに特定できた。しかし、家のものが納得しなかった。まさかそんなはずはない。何かの間違いだと言って強硬に反対した。しかし、幼稚園の先生の証言や、お前が幼稚園から子供を連れ出す姿を目撃した人たちの証言を集めると、お前しかなかった」
 新藤はそう語り、強硬な反対にあってお前のところへ急襲するのが遅れたために、そのことに気付いたお前に逃げられてしまったと残念そうに語った。
 「しかし、あまりにもずさんな誘拐だった。誘拐した子供に顔を知られていて、おまけに変装もメガネをかけて帽子を被っただけのものだった。まるで捕まえてくれとでも言わんばかりの誘拐劇に、警察の連中も呆れていたぞ」
 新藤の言葉に、周防は深くうなだれ、
 「金に追われて苦しくて、死んでしまいたいほどでした。頭がパニックになってしまい、誘拐を思いついたものの、どこまでやれるか自信なんてなかった。婚約者と義父には本当に悪いことをしました」
 としょげ返って答えた。
「 今日は非番の日でな。たまたま友人のところへ遊びに来ていて、お前のことを知った。えびす亭に口笛のうまい男がいるってな。それでもしかしたらと思い、訪ねてみたんだ」
 新藤に肩を叩かれた周防は立ち上がり、新藤の後に従った。
 駅か最寄りの交番に向かうと思った新藤だったが、そうはせず、周防を連れて、再び、えびす亭の暖簾をくぐった。
 「いらっしゃい。鬼ごっこはもう終わりましたか」
 マスターが二人に声をかけた。
 「ええ、おかげさまで私が勝ちました。すみません、マスター、こちらにビールを一本、お願いします」
 新藤は、周防を隣に立たせると、周防のためにビールを注文し、焼き魚を注文した。
 「ど、どうして……」
 戸惑う周防を後目に、新藤が言った。
 「今日は非番で仕事じゃないと言っただろ。今さらお前が逃げるとは思っていないよ。一杯呑んだら名古屋へ帰ろう」
 周防は、小さな吐息を洩らすと、グラスに入ったビールを一気に呷った。
 「すももさん、口笛、お願いできまへんか」
 店によく顔を出す下田という老人が周防に声をかけた。周防が店で呑んでいると、時々、そうやって声をかけてくる人がいる。
 「すももさん、頼みます」
 羽田という男も周防に対して両手を合わせた。
 「すももさん、やったってえな」
 マスターが周防に言った。周防は新藤を見た。新藤は小さく縦に首を振った。
 周防さんは、『朝日の当たる家』を哀切を込めて吹いた。口笛ならではの哀切を込めた曲の流れが、えびす亭にいる客の胸を捕らえて離さなかった。
周防は口笛を吹きながら、生涯忘れることのない婚約者のことを思い出していた。涙が自然に頬を伝い、胸が張り裂けそうなほどに熱くなっていた。
口笛が終わると、えびす亭は一瞬シンと静まり返り、次の瞬間、大きな拍手が店の中全体に響き渡った。
 えびす亭を出た新藤と周防は、JRで新大阪駅まで行き、そこから新幹線で名古屋に向かった。
 車中、新藤は周防に言った。
 「名古屋から逃走してもうすぐ二年か……。よく二年も待てるものだ」
 感心したように言う、新藤に、周防は、
 「えっ……?」
 と声を上げた。
 「おまえの婚約者のことだよ。今でもおまえのことを信じて待っているんだ。いくらでもいい男が見つかりそうなほどいい女なのに……。まったく信じられないよ」
 周防の顔に驚愕の色が浮かび、次の瞬間、その口から嗚咽の声が洩れた。
<了>


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