伝説の大鎧が夜半に動く

高瀬 甚太

 数年前、取材を受けて知り合った桐野敦という新聞記者がいる。四十代後半の遊軍記者で、時折、暇を見つけては私の事務所にやって来ることがあった。そんな時、桐野はいつも自分が出会った不思議な事件の話をしてくれる。出版企画の参考になればと気遣って話してくれるのだが、未だかつて本にしたことはない。記事にする時はそうでもないのだろうけれど、私に話す時は、興味を持たせようと思って大げさに話すせいか、信憑性に欠ける嫌いがあった。
 その桐野が事故に遭って入院したと、同僚の記者から私に連絡があったのがこの週末のことだ。しばらく面会謝絶になっていたが、ようやく一般病棟に移ったから見舞いに行ってやってくれないか、と言い、「桐野が頻りにあなたに会いたがっている」、とその同僚は言った。
 どんな事故に遭ったのか、どんな状態なのか、皆目見当がつかないまま、連絡を受けたその日の午後、桐野の入院する病院へ向かった。
 近鉄上本町駅からほど近い場所に立つ総合病院の十階に桐野は入院していた。学生時代、ラグビーをやっていたことを普段から吹聴している桐野は、剛健な筋肉質の肉体を持つ体格のいい男であった。その桐野が面会謝絶になるような事故に遭ったということが信じられず、桐野の同僚から連絡を受けた時は、てっきり担いでいるのではと思い疑ってしまったほどだ。
 四人部屋の一番奥のベッドに、頭を包帯でぐるぐる巻きにし、点滴を施した状態の桐野が眠っていた。重体から脱したばかりなのだろう、深刻な状況を見て慄然とした。一体何があったというのか。起こすのもどうかと思い、ベッドの横に置いてある椅子に座って待つことにした。
 桐野の眠る十階の窓際のベッドから大阪の街を見渡すことができた。街もそうだが、窓一杯に広がる青空もまた素晴らしかった。大空を浮遊する雲の姿が季節を反映して、綿のように空に散らばっていた。静かな病室で、のどかな風景を眺めるのは不思議な気分だった。
 「来ていたのか――」
 いつの間に目を覚ましたのか、ベッドに横たわったまま、桐野が私を見た。
 「大丈夫か? 今日、連絡を受けて、驚いてやってきた」
 「そうか、悪かったな。身体の方はもう大丈夫だ」
 「交通事故にでも遭ったのか? ひどい怪我のようだな」
 「――大変だったよ。でも、交通事故じゃない。落石に遭って、命を取り留めたのが不思議なくらいの大惨事だった」
 「落石? 一体、どこに行っていたのだ。まさか山登りじゃないだろう」
 「実は、それを井森に話したくて、同僚に連絡してもらったんだよ」
 桐野は、一度、目を瞑り、小さく深呼吸をした後、天上を眺めながら事故の一部始終を私に話し始めた。
 
 ――山間の民家で大火があり、死者が出た。そのニュースを聞いて、場所を知らされた時、俺は過去にその場所に行き、不思議な体験をしたことを思い出した。それで、どうしても取材に向かわなければという気持ちになった。
 三年前のことだ。一通の投書が新聞社に届いた。犯罪に関する情報ではなかったし、記事にできるようなものでもなかったから、誰も気に留めず、放っておいた。俺も同様だった。誰が置いたのか、たまたま俺の机にその投書が置かれていたことから、改めてその投書を読んでみることにした。
 「当家に戦国時代の昔から伝わる鎧があるのだが、それが近頃、怪しい動きをする。夜中に散歩に出かけたり、頻りに家の中を歩き回っているようなのだ。ようなのだと言うのは、確信がないからだが、鎧を置いている場所を見ると、少しずつだが動いている気配がする。誰かが鎧を着用して、とも考えたが、私の家は、当主の私と妻の二人暮らしだ。何も盗まれたものがないから、鎧を着用するためにわざわざ人がやって来たとは考えにくい。記者さんにお願いしたい。一度、我が家に来て、鎧に怪しい要素がないかどうか調査してもらえないか。こんなことを頼むのはお門違いだが、他に頼める人が思い当たらないので――」
 書かれていたその内容を見て、俄然、興味を持った俺は、休日を利用して投書の主の家に車で向かった。兵庫と京都の狭間にある山間の小さな集落にその家があった。どの家も現代離れした旧い家屋ばかりで、集落の雰囲気も独特のものがあった。投書の主は八十に近い老人で田原賢三と言った。俺が訪ねると、彼は大そう喜んでくれた。
 田原の家屋は田の字で構成され、北東の部屋は食事や団らんに使われていて、土間の台所に隣接している。南側、玄関横にある部屋は居間のようで、親しい客や家の者がゆっくり過ごす場所なのか、テレビが一台と炬燵が一式置かれていた。北側奥の部屋は寝室になっており、客間の西側縁側に面した客間に、問題の鎧が飾られていた。
 農家に鎧があることを不思議に思った俺は、田原に尋ねた。田原は、先祖伝来伝えられてきたもので、詳しくは知らないと答えた。
 鎧は、大鎧と呼ばれるもので、かなりの重量だ。この鎧を現代人が身に着けて歩くことなど果たして可能だろうか。田原は、この鎧は身に着けるものではなく、うちの家の守り神だと説明をした。
 「ここを見てください。動いた跡があるでしょう」
 鎧を指さして、田原が言った。確かに鎧の置かれていた場所に微妙にずれているような跡がある。しかし、だからと言って鎧が動いたとか、動かされたと判断するのは早計だ。
 俺はさらに詳しく田原に聞いた。田原の思い違いである可能性が高いと思ったからだ。
 「つい最近のことです。何やら奇妙な音がするので目を覚ましたんです。でも、しばらくして止んだので、再び目を閉じて眠ろうとしましたが、なかなか寝付けなくてトイレに立ちました。その時、何となく気になって客間を覗きました。覗いた私はびっくりしました。鎧が消えていたからです。大変だと思い、女房を起こしました。女房の奴、なかなか起きなくて、ようやく起きたので、大変だ、鎧が盗まれた! と言ったんです。女房も慌てて飛び起きて――。見に行ったら、何と鎧が元の場所にあったのです。寝ぼけるのもいい加減にしてと、女房が怒って、その時は、私も寝ぼけていたんだなと思いました。
 次の夜のことです。何となく気になって鎧が無事かどうか、夜中に見に行きました。すると、また、鎧が消えていたのです。私は頬をつねって、よし、今度は間違いない。そう思って、女房を起こしました。昨夜の騒ぎで怒り心頭の女房はどんなに言っても起きてくれません。そうするうちに時間が経って、私はもう一度、念のため、部屋を覗きました。すると、――いつの間にか鎧は元の位置に戻っていたんです。
 翌朝、私は鎧の位置を確認しました。少し動いているような気がしましたが、やはり気のせいだろうと思いました。鎧が動くなどあり得ない。そう思ったからです。
 それでも夜、眠る前になるとやはり気になり、鎧の位置に白墨で印を付けておきました。こうしておけば、動いたか、動いていないか、確認できる。そう思ったからです。
 その夜、私はそれまでの疲れが出たのか、夜中に目覚めることはありませんでした。朝、起きた私は気になって、すぐに鎧の位置を確かめました。するとどうでしょう。私が印した元の位置からわずか数ミリですが、鎧が動いていたのです。
 夢を見たのでもなければ、寝ぼけていたのでもない。確かに鎧は動いている。私はその確信を持ちました。女房にそのことを話しても信じてもらえません。近所の人に話しても大笑いされ、それで、新聞社なら興味を持って調べてくれるかも知れない。そう思って投書をさせていただきました」
 田原の話に信憑性を求めるのは無理があった。正直言って信じがたかった。鎧が動いていたと言ってもわずか数ミリだ。何かの加減で動いた可能性がある。鎧が歩いたなどという話はさらに論外だと思った。それで、田原に言った。
 「田原さんの思い込みからくるものではないかというのが私の結論です。鎧をどうこう言う以前に、田原さんの精神状態を一度、医者に診てもらった方がいい。申し訳ないが今日はこれで失礼します」
 ずいぶん失礼なことを言ったと後になって思った。こんなところまで来て、収穫がなかったことに憤りを感じていたこともあって、ついきつい言葉になってしまった。田原家を後にして、車に乗り、スタートさせて集落を抜けようとした時のことだ。ヒンヤリしたものを背筋に感じて、バックミラーを見た。一瞬だったが、見えたんだ。血だらけになった戦国武将の顔が――。俺は驚いて急ブレーキを踏み、慌てて背後を見た。何もなかった。誰に言っても信じてもらえないだろうけれど、俺は確かに見たんだ。青白い顔で額から血を流したザンバラ髪の武将の顔を――。
 つい最近のことだ。田原さんの家が火事で燃えているというニュースをテレビで観た。場所が場所だけに時間がかかったのだろう。火事は他の民家にも類焼して、まれにみる大火となった。それを見た俺は、鎧のことを思い出し、田原さんのことが心配になって、大急ぎで車で駆けつけた。集落の近くまで来た時のことだ。突然、山の上から大きな落石が――。そこから先は記憶にない。気が付いたら病院に運ばれていた。
 落石で事故に遭う直前、俺は前方に信じられないものを見た。道の真ん中に鎧を着た武将が立っていたのだ。その瞬間、田原さんの話が甦った。
 井森、お前にお願いがある。鎧の真実を突き止めてくれないか。あの村にはきっと何かがある。大火だっていかにも不自然だ。人智を超える何かが存在する、俺はそれを直感した。井森、頼む。あの集落へ行って、調査してほしい。――こんなことを頼めるのはお前しかいない」
 桐野はそれだけ言うと、眠りに就いた。看護師が慌ててやって来て、まだ、無理をさせてはいけないのにと、大声で叱られた。
 病院を出た私は、桐野の言葉を反芻していた。問題の土地へ行くべきか、行かざるべきか、しかし、私が行って果たしてどうなるものか――。私は一介の編集長だ。何ができるというわけでもない。そんな私があの土地へ行って、何を見つけられるだろうか。
 思案した挙句、結局、私は湧きあがって来る好奇心を抑えることができず、大火に遭った集落に向かうことにした。桐野から頼まれたと言うこともあったし、鎧の謎を解き明かしたいと言う気持ちもあった。翌朝、早朝に事務所を出た私は、車を走らせて現地に向かった。
 想像以上の山間の地だった。集落に入る前に、桐野が落石に遭った場所を見た。すでに岩は取りのけられていたが、落石の恐れがあるような場所には見えなかった。
 集落に近づくと、火災からずいぶん日が経っているというのに焼け焦げた臭いが鼻を突いた。よほどの火事だったのだろう。集落の大部分の家が焼失し、わずかに炭のようになった柱を残すだけの家もあった。
 田原の家を探した。火元となった田原の家はおそらく焼失して無くなっているだろう、そう思いながら車を停車させ、集落を歩いた。火災から逃れた家屋が数軒存在する。その一軒の家を訪ねて、田原の消息を聞いた。
 「田原さんなら奥さん共々、集落の北端にある親戚の家に厄介になっているよ。それにしてもひどい火事だった。二十数軒ある集落の家の半分ほどが焼けちまった。出火の原因はまだわかっていないらしいけど、本当に――」
その家の主人は、火災の原因を作った田原さんを責めるような口ぶりで話し、愚痴をこぼした。
 田原さんの親戚の家は、集落の一番奥まった場所にあった。車を停車させて家の戸をノックしようとすると、一人の男が顔を出した。
 「記者の人なら何も話すことないよ」
 男は、つっけんどんに言って私を敬遠した。
 「記者ではありません。こちらに田原賢三さんがいらっしゃるとお聞きしたのですが」
 私を舐めまわすように眺めた男は、警戒の視線を崩さず、言った。
 「田原賢三は私だが、あんたは何者だ?」
 「大阪の極楽出版の井森と申します。新聞社の桐野さんから頼まれてやって来ました」
 「新聞社の桐野? ああ、以前、来てくださった方だね。あの人がどうかしたのかね」
 「こちらへ来る途中、落石に遭って病院へ運ばれました。幸い、命は取り留めましたが、しばらく動けないので、私に田原さんの様子を見て来てくれと――」
 田原は、そこで初めて相好を崩し、警戒を解いた眼差しで私を見た。
「落石で事故に遭った人がいたと聞いたが、あれは桐野さんだったのか。私を心配して来てくれたんだな。それは申し訳ないことをした」
 田原は、私を家の中に入れ、奥まった客間のような場所に私を通した。
 「火事の原因は何だったのですか。ニュースでは田原さんの家から出火したとありましたが」
 「それが不思議なんだよ。夜中に目を覚ましたら奥の客間が燃えていて。出火する要素などまるでない部屋なんだ。火など扱っていない。それなのに気が付くと、手の付けられないほどの猛火となっていて――。女房と共に必死になって外へ出て、近所の人にも連絡して、消火に励んだが駄目だった。こんな場所だから消防車が到着するのも遅いし、消防車が到着する頃には集落の半分ほどが焼けていた」
 幸い死者も怪我人も出ていないということで、安堵したそうだが、出火の原因は今でもまだわかっていないと、田原は気落ちした様子で話した。
 現在、世話になっている家は、田原の弟の家で、家を建て替えるまで、弟の家にいる予定だと田原は話し、金がいる、とため息混じりに嘆いてみせた。
 「ところで、桐野が気にしていたんですが、田原さんのお家にあった鎧はどうなりましたか?」
 「鎧? ああ、あれは無事だった。鎧の置いてあった場所で出火したのに、鎧は何ともなっていなかった。火事に遭った形跡もなかったなあ」
 「その鎧は今、どこに置いているのですか?」
 「弟の家の納戸に入れてある。先祖伝来伝わるものだから、粗末に扱えないんだが、弟の家に飾るわけにもいかなくてなあ」
 「どうしてですか? 何か不都合なことがあるのですか」
 「いや、不都合というほどでもないが、弟の家にも同じような鎧があってな。と言うよりも、この集落の家の数軒に鎧が飾られてある。だから、うちの鎧は遠慮して納戸で休んでいただいている」
 「桐野に聞いたのですが、田原さんは鎧が夜中に歩いたとか、動いているとおっしゃっていると――」
 「私はそう信じているが、誰も信じてくれないよ。桐野さんだって信じてくれなかった。まあ、それが当然だとは思うけどね。あれ以来、鎧のことを気にするのはやめることにした。夜中に目を覚ますこともなくなったしね。そんなところへ、突然の出火だろ。最初は鎧の仕業じゃないかと疑ったよ。でも、そんなことあり得るはずがないし」
 「でも、その鎧が無事だったということが少し気になりますね。火災に遭った形跡がないということもおかしな話ですし――。鎮火した後、鎧はどのような形で発見されたのですか?」
 「それがおかしな話で、置いていた場所で見つかったのではなく、庭で横倒しになる形で見つかったんだ。まるで火から逃れるかのようにして」
田原は首を捻って腕組みをした。鎧に対する懐疑心が話しているうちにふつふつと湧いて来たのだろう。その後、しばらくの間、口を開かなかった。
納戸に置いてある鎧を見せてもらえないかと田原に頼むと、田原は快く応じ、私を納戸に案内した。
 家屋と少し離れた位置に木造の納戸が建てられていた。錠前を開けてドアを開くと、納戸特有のすえた臭いが鼻を射る。農具や家財道具などと混じって、奥の方に鎧が立てかけられていた。
 大鎧であった。大鎧は、日本の甲冑・鎧の形式の一つで、騎乗の上級武士が着用したと言われ、鎧の中でも最も格の高い正式な鎧とされているものだ。
 「このような鎧がなぜ、田原さんの家に?」
 「桐野さんも不思議がっていました。先祖伝来からのもので、なぜ、私の家にという理由は私も知っていません」
 「どなたか、この集落で、鎧に関することでも、また、この集落の成り立ちについてでも構いませんが、詳しい方はおられませんか?」
 「集落で一番の長老が氏家という方です。その人なら、もしかしたら知っているかも知れません」
 「氏家さんですか?」
 「集落の東南の位置にある家です。氏家さんは九十歳を超えていますが、まだまだ元気ですから、訪ねて聞いてください」
田原は、氏家の家の場所を丁寧に教えてくれた。早速、私は東南の位置にあるその家まで車を飛ばした。
 集落は盆地になった場所に集中しており、そこに田畑や家が点在している。半分ほどが火災で焼失したことで、焼失した家屋の住人は、集落の親戚の家にそれぞれ仮住いしていると、田原は話していた。氏家の家は、すぐに見つけることができた。田原の弟の家の二倍はあるような邸宅で、ここにも、火災で焼失した氏家の親族が移り住んでいるようだった。家の戸をノックすると、たくさんの人の声が聞こえてきた。
 しかし、子供はいなかった。熟年、老人といった人たちが多いようで、戸を開けて私を迎え入れてくれたのも七十過ぎの老婆だった。
 「氏家さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 尋ねると、老婆は気のいい笑顔を浮かべて、
 「おじいちゃんのことですか?」
 と聞いた。
 「九十過ぎの方だと聞いています」
 と答えると、老婆は、「どうぞお入りください」と言って私を家の中に招じ入れた。
 客間に通された私が正座をしてしばらく待っていると、腰の曲がった老人が杖をつきながら現れた。
 「お待たせしました。どうぞ、膝を崩してください」
 皺の多い顔を私に向けて老人が言った。
 「私に何かご用があるとお聞きしたのですが――」
 「この集落の成り立ちについてご存じであればお聞きしたいと思いまして」
 「集落の成り立ち? どうしてまた――」
 「先日の大火のこともあるし、私の友人が集落の入口近くで落石に遭ったという事件もあります。考え過ぎかも知れませんが、それらに集落の成り立ちが影響しているのでは、そう思い、興味本位といえば失礼ですが、お聞きしたいと思ってやってきました」
 老人は、しばらく私を値踏みするかのように眺め、やがて口を開いた。
 「正長元年、室町時代のことじゃが、その年、日本で初めてと言われる農民による一揆が起きた。『正長の土一揆』と呼ばれるものじゃ。天候不順がもたらした凶作、流行病、足利義持から足利義政への将軍の代替わりなどで社会不安が募り、近江の坂本や大津の馬借などで、徳政を求める一揆が起きた。それが畿内一帯に伝播して、酒屋、土倉、寺院を襲うなど、私徳政が次々と起こった。これに窮した室町幕府は、制圧に乗り出したが一揆の勢いは衰えず、やがて一揆は奈良、京都へも波及した。結局、幕府は徳政令を出さなかったものの、土倉などが持っていた借金の証文などが破棄された。
 幕府と戦った一揆の首謀者が幕府の攻撃を避けるため、一時期、この地に移り住んだことがある。首謀者を抹殺するために幕府はこの地に押し寄せてきた。盆地になったこの土地は、戦略的に非常に戦いやすい場所で、幕府は集落に住む農民の抵抗を受け、撤退を余儀なくされた。その時、勝利の成果として、集落に住む農民たちは、騎乗の武士の鎧兜を奪い取った。その鎧が、この集落に住む家々に飾られ、代々受け継がれてきたというわけじゃ」
 「なるほど、そういういわれがあったんですね」
 鎧の怨讐かと一時は考えたが、それにしては時間が経ちすぎている。しかし、鎧が夜中に動き回る、大火が発生する――、これには深い理由があるはずだ。桐野の落石も同様に考えていいだろう。私はなおも老人に問いかけた。
 「田原さんの家の鎧が近頃、不穏な動きをしていようだと、お聴きしました。今回の火災も田原さんの家の鎧を飾っている部屋から発生しています。一四二八年の正長の土一揆から五百八十年余も経過した今、鎧を奪われた武将の怨讐が始まったとは考えにくいのですが、そうとしか思えない事態が次々に発生しているようで気になっています。これについて、氏家さんはどのように考えられますか?」
 老人はしばらく視点を宙に移し、言葉を発しなかった。それはそうだろう。鎧の怨讐などあり得るはずがない。誰もがそう思うだろう。口に出した私でさえも恥ずかしい思いをしている。だが、一連の流れを見ていると、中世の霊魂が甦ったとしか、私には考えられなかった。
 「面白いことをいう人じゃな、あなたは――」
 老人は、私を見つめて笑った。
 「集落の住人によって、騎乗の武将たちは奇襲を受け、およそ武士らしくない無様な死に方をしたと伝えられている。それは、この集落の祭に如実に表れている。この集落の祭は、武将との戦いで勝利した様を、自分たちの誇りとして昇華した祭りじゃ。だが、奇襲に遭い、農民たちに惨殺された武将たちはどうだっただろうか。その武将たちが怨讐を抱いたとしても決して不思議ではない。――だが、これまでそのような兆候はまるでなかったし、報告されてもいない。それがここへきて一気に噴き出すとはにわかには信じがたい」
 老人は大きくため息をついて言葉を閉じた。
 「氏家さん。一つだけお聞きしてよろしいですか?」
 「……」
 「この集落は、拝見する限り、先祖代々、この地で住んできた方ばかりだと思います。家も土地も大きく変化した様子が見えません。こうした土地では、先祖を供養する墓が大切に守られているはずです。その墓地の場所を教えていただけませんか」
 「墓地? 墓地で何を見るのじゃ」
 「先祖代々受け継がれてきた墓地に、私は今回の謎を解く鍵があるのでは、そのように考えました。もしよかったら、集落の住人の方、有志で結構です。私と一緒に行ってくださる方がおられましたらご同行をお願いしたいのですが」
 老人は立ち上がると、曲がった腰に手をやって私に言った。
 「わかった。私が声をかけよう」
 氏家老人の連絡で十数人の村人が集まった。ほとんどが老人で、墓参りの時期でもないのに、揃って墓地に行くことを不審に思っているようだ。
 墓地は集落から少し離れた高地にあり、集落を見下ろす見晴しのいい場所にあった。新しく建てかえられた墓石もあったが、苔むして古い墓石も多数並んでいた。私は墓石を一つひとつ慎重に観察し、やがて、墓地の外れの場所で横倒しになった、苔で包まれた古い石を発見した。
 「この石はどなたのものですか?」
 横倒しになったその石を見ても、誰も名乗りを上げない。
 「それは墓石じゃないんじゃないか」
 一人がそう言うと、数人の村人がそれに賛同した。確かにその石は墓石のようには見えなかった。ただ、私は、その苔むした石の古さが気になった。単なる石のようには見えなかったからだ。
 石の前に座り、それを眺める私の前に、氏家老人が立ち、「もしや……」と呟くように言った。氏家老人は、苔むした石を熱心に見つめ、石にまとわりついた苔を払うようにして取りのけた後、「アッ――!」と小さな声を上げた。
 「どうかしましたか?」
 私が尋ねると、それには返答せず、老人は村人たちに向かって言った。
 「みんな、ここへ集まれ!」
 十数人の村人たちが集まると、老人は、苔むして横倒しになった石を指さして、
 「この石を洗って立ち上げて、この土にしっかりと埋もれさせるのじゃ」
と叫ぶようにして言った。村人たちは、わけがわからないといった表情で、石に取りついた苔をタワシのようなもので剥がし、立ち上がらせると、土の上にしっかりと埋めた。
 「明日、町から住職を呼んで、この場所で法要を執り行う」
 氏家老人はそう告げると、村人の一人に法要の段取りをするよう言い渡した。
 「長老、なんで、ここで法要なんかするんです?」
 段取りを命じられた村人が、氏家老人に聞いた。村人の多くがそうであるように、私も、一連の氏家老人の行動を読めずにいた。
 「この石は、正長土一揆の際に、この地で命を落とした武将たちを葬った墓石じゃ。この石の下に、当時の村人たちが武将たちの亡骸を埋めたのだろう、石には、武将たちの死を悼む墓碑銘がかすかに記されている。武将たちの怨讐を、この墓石が封じて来たのかも知れない。だが、この墓碑が倒れたことで、武将の怨霊が目を覚まし、今回の一連の騒動が起きた。いや、今までのことは前哨で、これからもさらに大きな事態が発生する可能性があった。井森氏が墓地に着目したことで、武将の亡骸を埋めたと思われる墓碑を発見することができた。怨霊たちが安らかに眠れるように、墓碑を元に戻すことができた。正式な法要は明日、行うとして、今日、ここで私たちは怨霊たちのために祈ろう」
 氏家老人の先導で、長い祈りが始まった。
 土一揆で幕府の武将たちを倒した村人たちは、殺害方法こそ、残虐であったが、その後、武将たちの亡骸を丁重にこの地に葬った。村人たちは戦果を自慢して鎧を飾ったり、祭を行ったわけではなかったのだ。鎧を飾ることで、自分たちが死に至らしめた武将たちの霊を慰め、祭をすることで、権力に負けなかった自分たちの力を再認識したのだ。
 墓地に氏家老人が村人を誘ったものの、私に確信があるわけではなかった。だが、一連の騒動は、村人たちに何かを気付かせるためのものではなかったか、と私は推測した。
 墓地に出向いたのは、私の単なる勘にしか過ぎなかった。直感で、氏家老人に墓地へ同行してくれるようお願いをしたことが幸いした。しかし、これで本当に事件が解決したかどうかはわからない。
 墓地での祈りを確認した後、私は村人に別れを告げた。集落を離れ、車を走らせていると、ひんやりとしたものを首筋に感じた。桐野が見た、武将の幽霊が後部座席に乗っているのだろうか。背筋が凍るような感覚に、思わず心臓の鼓動が高鳴った。だが、振り向かなかった。振り向かず、歌を歌い続けた。恐怖は、心の持ちようでどうにでもなる。歌っているうちに集落を遠く離れた。いつの間にか、首筋の冷たさは消えている。それでも私は歌を歌い続けた。
 桐野は三週間後に無事退院した。墓地での一部始終を話して聞かせたが、今一つピンと来ないようで、そんな馬鹿なと言って、なかなか信じようとしなかった。その後、あの集落で何かが起こったというニュースは伝わって来ない。
〈了〉

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