青色仮面

高瀬甚太

 杦田香織の病状が悪化したのはここ数週間のことだ。以来、三田ひとみはずっと付きっきりで香織のそばにいた。香織は一年前まで風邪一つひかない元気な女の子だった。施設のムードメーカーのような存在で、いつもみんなを笑わせ、楽しませていた。そんな香織が倒れたのは去年の暮れのことだ。
 五歳から十五歳までの、親に捨てられた子や親のDVなどで隔離する必要のある子供が集められたこの養護施設には、常に十五人ほどの少女が住んでいた。ひとみがこの施設にやって来たのは五歳の時だ。母親が病気で働けなくなって長期入院を余儀なくされたため、退院するまでという約束でこの施設に預けられた。
 しかし母親の病気はなかなか快方に向かわず、三年目にようやく退院したが、ひとみを養うだけの体力がなく、もう少し預かってほしいと施設に連絡があったのを最後に一切の連絡を絶って今に至っている。ひとみはすでに七年もこの施設で暮らしていた。
 ひとみが施設へやって来た時、香織はそれより一週間早く、施設の住人になっていた。
 ひとみと同様に香織も父がおらず、母親の手で育てられていたが、その母親が再婚したことで義父の暴力を日常的に受けることになり、そのDVのあまりのひどさに、ある時、香織は意識不明の重体に陥った。それをきっかけに警察が介入し、義父は逮捕、母親も戒告を受け、香織は施設に預けられることになった。以来、香織は父母と音信不通のまま現在に至っている。
 年齢が同じで境遇もよく似ていたことから、ひとみと香織はかけがえのない結びつきを持った友だちでいた。どこへ行くのも一緒で、何をするのも一緒のまるで双子のような関係がその後も長く続いた。
 ただ、ひとみと香織には決定的な違いがあった。それは学業の成績で、ひとみが学年でも五番以内であったにも関わらず、香織は後ろから数えた方が早かった。しかし、スポーツでは立場が逆転して。香織がスポーツ万能でどんなスポーツをやらせても抜群の運動神経を発揮していたにも関わらず、ひとみは何をやっても満足にできない運動音痴だった。二人はそれでお互いのバランスを取っていたのだろう。お互いの欠点をうまく補い合って友情を深めていた。
 小学校六年生になった時、ひとみと香織は初めて同クラスになった。クラスメートの中には、施設から通っている生徒を偏見の目で見るものが多くいた。明るくて陽気だった香織はそれでもクラスにすぐに馴染むことができたが、引っ込み思案のひとみはクラスに慣れず、苦労した。勉強ができるひとみをやっかむクラスメートの何人かは、大人しいひとみをいじめのターゲットにするようになった。
 今までも同じような境遇にいたひとみは耐えることに慣れていた。五年の時も四年の時も、それ以前もさまざまないじめに遭遇してきた。しかし、六年になってからのそれはひどかった。ひとみの教科書が隠されるなど序の口で、時にはカバンを捨てられたり、ノートを破られたり、無視されるなど、陰湿を極めた。香織は最初、ひとみがいじめられていることに気付いていなかった。ひとみが何も言わなかったからだ。だが、クラスメートの行動がおかしいことに気付き、問い詰めて初めてひとみがいじめに遭っていることを知った。香織はひとみをいじめた首謀者を集めて袋叩きにした。この時、いじめを図った女の子たちは、ひとみが香織に相談してこうなったのだと思っていたようだが、ひとみは自分がいじめられていることなど、誰にも話してはいなかった。だから香織がいじめの首謀者たちを糾弾したことも知らなかった。
学校全体の朝礼で香織は校長の前に立たされ、激しい叱責を受けた。それをみて、ひとみは初めて香織が自分をいじめたクラスメートたちに暴力をふるったことを知った。
全校生徒の前に立たせた香織を前にして、校長は「このような生徒はろくな大人にならない」と言い、激しく罵倒した。教育者にあるまじき暴言であるにも関わらず、誰もそれを咎める風はなかった。
 なおも暴言を吐き続ける校長は、自分の前に歩み出た一人の生徒を見て驚いた。この春に行われた全国小学校模擬試験で全国で三番に入った名誉ある生徒が、香織のそばに並んだからだ。
 「三田くん、どうしたんだね」
 校長は香織に対する叱責をやめて、ひとみを見た。
「校長先生、わたしも香織と同罪です」
ひとみの言葉に校長は絶句した。
「きみのような生徒がなぜ……」
 問いかけようとして校長は口を閉ざし、それ以上、叱責することをやめた。
 目の前に立つ香織とひとみがしっかりと手をつなぎ合い、叱責をものともしない明るい表情で自分を見つめていたからだ。

 香織の病気は深刻だった。医師の診断では生まれつき心臓に欠陥があって、それが昨年、何かの拍子に急に露呈したのではないかという。血液の流れが次第に途絶えて行き、やがて死に至るその病気は世界でも類のない珍しいもので、治療の方法も限られていた。そのため医師も手の施しようがなかった。心臓手術を行うといった方法もあったが、それでも回復に向かうかどうか非常に確率は低いと医師は語った。
 日に日に香織は衰えていった。より深刻になったのはこの数日のことだ。学校から帰るとずっと香織のそばに付き添ったひとみだったが、ここ数日は、学校へも行かず、二十四時間、香織のそばに居続けた。

 「会いたい……」
 ベッドに横たわる香織がその言葉を口にし始めた時、ひとみはてっきり母親に会いたいのだと思った。それで、施設長に香織の母親を呼んでほしいと頼んだほどだ。ところが、そうではなかった。香織は父親に会いたかったのだ。そのことがわかった時、ひとみは驚いた。香織の父親は死んだとばかり思っていたからだ。
 「わたしが三歳の時、両親は離婚したらしいの。どんな事情があったのか、なぜ別れなければならなかったのか、母から聞かされたことは一度もなかった。三歳の時だから父の思い出なんてほとんどないし、写真だって残されていないから顔もわからない。でも、一つだけ記憶に残っていることがあるの。それはわたしの父が青色仮面だったってこと」
 「青色仮面?」
 「そうよ。青い仮面を被っている、そのことだけが目に焼き付いているの。だから青色仮面の夢をよく見たわ……。会いたいなあ。青色仮面のお父さんに」
 痩せこけた頬に笑みを浮かべて香りが言った。
 ひとみは香織に約束をした。何としても香織に父と会わせなければ、そう思い、すぐに行動に移した。
 香織が五歳まで住んでいた場所に出かけると、そこで香織の母親のことを尋ねた。古くからある香織が住んでいた文化住宅は香織が住んでいた時と何も変わっていないようで、当時住んでいた人も昔のまま住居していた。ひとみが香織の母親について尋ねると、隣人は、捨てられた娘が探しに来たものと同情してくれ、ひとみに詳しい話をしてくれた。
 「五年前の夏だったかな。旦那と喧嘩になって刃物沙汰の事件になったことがあるのよ。
 原因は旦那の浮気だったんだけど、その事件をきっかけに離婚して、奥さんはここを出て、一人で堺の方へ行ったわ。香織を迎えに行かなきゃと口癖にように言っていたけど、あの調子じゃ無理だろうなってみんなで噂していたんだよ。だって、パチンコに入れあげて、普通じゃなかったものね。堺へ行ったのだって、サラ金で借金してそのあげくの夜逃げだからね。出て行く前の日、長い間、世話になったねって言って、私にだけ挨拶してくれてね。少し寂しかったね」
 香織の母親と同年代らしい隣人は、松島藍子と言った。松島は少し表情を曇らせ、ひとみに語った。
 ひとみは松島に、自分は娘ではないが、娘の香織が生死の境目にいることを伝え、本当のお父さんに会いたがっていると伝えた。
 「幸三さんのことだよね。あの人は本当にいい人だったよ。娘の香織ちゃんをかわいがって、よく肩車して散歩していたのを見かけたもんだよ。香織ちゃんが生まれて三年目かな。奥さんの初枝さん……、香織ちゃんのお母さんだけどね。初枝さんが事故に遭ったんだ。自転車が車にぶつかってね。その事故が原因で、初枝さん、車の男に付きまとわれるようになって。結局、言い寄られて関係ができちまって、幸三さんと別れることになった。その時の相手が再婚した男さ。幸三さんは香織ちゃんを引き取りたかったようだけど、初枝さんが承知しなかった。あんなふうな目に香織ちゃんを遭わせて、施設へやるんだったら、幸三さんに預けた方がよっぽどよかったのに……」
 「香織ちゃんのお父さんの幸三さんのことについて何か知っていることがあったら教えてくれませんか」
 ひとみはすがる思いで松島に言った。松島は、しばらく考えていたが、
 「幸三さんはそれっきりここへ来ることはなかったね。どうしているんだろうねえ」
 とひとり言のように言った。
 「香織ちゃんはお父さんのことほとんど覚えていないんですけど、わたしにお父さんは青色仮面だったって話してくれました。青色仮面てどういうことですか?」
 青色仮面と聞いて、松島が突然、けたけたと笑い出した
 「幸三さんは腕のいい仮面職人だったからねえ。香織ちゃんはそのことを覚えているんだろうよ」
 「仮面職人?」
 「そうだよ。仮面といっても夜店で売っているようなセルロイドの仮面じゃないよ。能で使う立派なものさ。日本でも数少なかったと思うよ。幸三さんのような技術者は」
 ひとみは、目の前の闇が一度に開け放たれた思いがして松島に言った。
 「じゃあ、能狂言をやっているところで聞けば、香織ちゃんのお父さんの居所がわかるかも知れないですね」
 松島は、「ああそうだね。そうしなさい」と言ってくれたが、肝心の能狂言については全く知識を持っていなかった。
 施設に帰ったひとみは、施設長の狭間寛治に、香織の父が能の仮面を作っていたようだと話し、能狂言の施設を知らないかと尋ねた。
 狭間寛治はすぐにインターネットで検索してくれた。それで大阪に二か所、能狂言の施設があることがわかった。ひとみはすぐに一か所の施設に電話をかけ、杦田幸三という面を造る作家を知らないかと尋ねた。
 電話に出た担当者は、即座に「存じていますよ」と答えてくれた。香織の父は、その世界では名の通った人だということが、相手の反応ですぐにわかった。
 事情を話し、住所と連絡先を聞いた。住まいは阿倍野区になっていた。養護施設と遠い場所ではないことを知り驚いた。
 幸三に電話をかける前に、香織にこのことを話しておこうとひとみは思った。ぬか喜びをさせてはいけないと思い、これまで今回のことはあえて伏せておいた。
 ひとみが、ベッドに横たわる香織に幸三のことを話すと、青黒く澱んでいた香織の顔が一瞬輝いた。そして、一言、「会いたい……」とつぶやくように言った。
 松田幸三の自宅に電話をすると、
 「はい、松田幸三能面製作所です」
 と元気のいい男性の声が聞こえた。ひとみが、
「松田香織の友人で三田ひとみと申します。松田幸三さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 と尋ねると、「失礼ですが、どのようなご用でしょうか」と聞かれた。
 「松田幸三さんの娘の香織さんがお父さんに会いたがっています。香織さんは明日をも知れない病気で……」
 そこまで言って言葉が続かなかった。
 「わかりました。少々お待ちください」
 電話の保留音が耳に響いた。単調な保留音楽は、すぐに止み、中年らしい男の声がひとみの耳に響いた。
 「松田ですが……」
 幸三だ。香織のお父さんだ。そう思うと、ひとみは実の父に出会ったような錯覚を覚え、心が震えた。そのせいか、上ずった声になり、おまけに何の脈絡もなく、
 「香織ちゃんが死にそうなんです! 助けてください!」
と大声で叫んでいた。

 香織は、それまでの病院から日本を代表する心臓病の権威がいる、総合病院に転院した。そこで心臓の手術を受けた。世界でも類のない特殊な病気だったため、手術は困難を極めたが、医師の技術と香織の生命力が勝り、成功した。
 あの後、すぐに幸三は香織の元へやって来た。そして間髪を入れず、香織を知人だという高名な医師の元に委ねた。
 幸三が香織の元を訪れた時、すでに香織は意識不明で生死の境を彷徨っていた。香織が幸三と顔を合わせたのは、手術前、奇跡的に意識を取り戻したその瞬間だった。
 幸三はひとみが想像したようにやさしい父だった。香織の手術が成功したのも、手術の前に父と出会ったからではないか、そう思ったほど、香織は幸せな笑顔を浮かべて手術室に入った。
 ひとみは香織が退院するまで病院に休まず通い続けた。香織は日を追うに従って元気になっていった。幸三もまた香織を見舞った。ひとみが心配した、幸三がすでに家庭を持っているのではないかという危惧も、幸三の「退院したら一緒に暮らそうね」の言葉で雲散霧消した。
 香織が幸せになれば、ひとみはそれでよかった。退院したら香織は施設を出るだろうし、学校も変わるだろう。自分とは違う世界に棲むようになる。それはそれで寂しかったけれど、香織が幸せになるのならひとみには何の不服もなかった。ただ、寂しいと思う気持ちだけはどんなに努力しても拭うことはできなかった。
 やがて退院の日がやって来た。香織は以前の香織に戻っていた。病後を感じさせない香織は、ひとみの手を固く握ると、
 「ありがとう」
 と言葉少なに言って、ひとみの肩を抱いた。
 「よかったね、香織」
 ひとみも香織の肩を抱いた。
 退院した後、香織は父親の元で暮らすことになった。香織のいない施設での生活は心細く寂しいものだった。施設には他にも仲間がいたが、香織ほどの友情は築けていなかった。学校へ行く時も帰る時も、ひとみはいつも香織と共にいた。施設に帰った後もずっと一緒だった。香織のいない生活に慣れていなかったひとみは、時間の過ごし方さえわからないほどになっていた。
 「杦田がいなくなって寂しいだろう」
 香織がいない部屋の中で、ぼんやりと本を読んでいたひとみに施設長の狭間が声をかけた。
 「杦田はよかったな。三田、おまえだってそんな時がきっと来る。家族が迎えに来てくれなくても、おまえがいつか幸せな家族を築けばいいだけの話だ。おまえならきっと頑張れる。きっと幸せになれる」
狭間はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
 ひとみは、香織のいない寂しさの中で、今まで香織に頼りすぎていたことを猛省していた。これからは一人だ。しっかりしないとダメだと、何度も言い着かせた。
 朝、ひとみは鏡に映る自分の顔を見て、「しっかりしろ! ひとみ」と念押しするように口に出して強く言い聞かせた。
学校へ行き、教室に入ると、ひとみをいじめていたクラスメートの女子たちが絡みつくような視線をひとみに向けてきた。香織が転校して、助ける者が誰もいなくなったひとみをもう一度、いじめようという魂胆がその視線にみえた。
 席につき、座ろうとしたひとみの椅子を、近づいてきた三人のクラスメートの女子が座らせまいとして、奪い取ろうとした。今までのひとみだったら、それに対して何のアクションも起こさず、されるがままになっていた。だが、今日のひとみは違った。三人のクラスメートに近づくと、その頬を思い切りぶっ叩いた。驚いたのは頬を叩かれた女の子たちだ。頬を抑え、唖然とした表情でひとみを見つめた。
 「今度、こんなことをしたら承知しないからね」
 大人しくて、何をしても抵抗しなかったひとみの思わぬ反撃は効果を発揮した。以来、ひとみに対するいじめはなりを潜めた。

 中学を卒業したら施設を出ようとひとみはその頃から考えるようになっていた。自立して自分の道を歩みたい。その決意がひとみを強くした。
香織は転校した学校に馴染めず苦労していたようだが、それも最初のうちで、一カ月もしたらすっかり慣れて、友だちもたくさんできたと、ひとみに報告をしてきた。
 施設を出てからもひとみと香織は時々、会って友情を深めていた。会えない時は電話で話し、会える時は公園で待ち合わせをして、延々と話し続けた。
 十五歳になって中学を卒業したひとみは、施設を出ると、計画通り、美容院に就職し、住み込みで働いて、夜は定時制高校に通うようになった。香織からは、自分の家で一緒に住もう、お父さんも賛成してくれているからと、何度も連絡をもらったが、ひとみはその気持ちに感謝しながらも、自分の力で生きていきたいと断り、働きながら学ぶ生活を続けた。やがて高校を卒業したひとみは、夜間の大学へ進んだ。
 くじけそうになったり、弱音を吐きそうになると、ひとみは決まって「青色仮面」を思い出した。香織の「青色仮面」はお父さんだったけれど、自分の「青色仮面」は誰だろうか。そんなことを思いながら頑張った。
 香織は高校を卒業した後、短大に進み、教育者を目指して勉強を始めた。ひとみに影響を受けたと香織は語ったが、ひとみはそれだけではないだろうと思った。施設で育った香織ならではの思いがそこにあったと思う。ひとみもまた香織と同様に、教育者への道を歩むようになった。離れ離れになっていた二人の気持ちが、年齢を経て、再び結びつこうとしていることにひとみはある種の感慨を覚えた。
 教育者への道を歩み始めて一年後、ひとみは同僚で三歳上の男性から交際を申し込まれた。その時、ひとみは、自分の前にようやく「青色仮面」が現れたと思った。秘かに思いを抱いていたその青年は、香織の父、幸三にどことなく感じがよく似ていた。
<了>

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