博士の赤いダルマ

高瀬甚太

 見るからに学者然とした男だった。白髪交じりのばさばさの髪の毛、円いメガネ、白髪交じりの口髭とあごひげ。服装はよれよれの三つ揃えのスーツ、履き古した革靴、その風体をみて、立ち飲み屋「えびす亭」の客たちは皆、その男を「博士」と呼んだ。
 年齢は四十代にもみえたし、五十代、時によっては六十代にもみえた。えびす亭にやって来ると、ボソッとした声で「水割り」とオーダーする。初めて博士がえびす亭に来た時、オーダーを受けたマスターは焼酎の水割りを出した。すると、博士が、「すみません。ウィスキーの水割りなんですが……」と申し訳なさそうに言った。立ち呑みの店でウィスキーの水割りをオーダーする客は少なかったから、博士の存在がマスターの印象に強く残った。
 風体もそうだったが、博士は博識だった。知識が豊富で、客が質問しても臆することなく即座に回答した。それで、もしかしたら本当に博士なのではないか、と言い出す者まで現れた。

 八月の暑い日だった。その日の朝早く、マスターはいつものように市場へ仕入に出かけた。野菜と魚類を買い求め、軽四に積み込んで市場を出ようとしたところで、マスターは道路とは反対側の道を歩く博士を見つけた。その姿は、ジョギングというようなものではなく、散歩というようなものでもなかった。とぼとぼと肩を落として歩くさまは人生の敗残者のようにもみえた。
 博士はその夜、店にやって来なかった。翌日もその翌日も姿を見せなかった。マスターは特にそのことを気に留めていなかった。毎日訪れる常連もおれば、隔日にやって来る客もいたし、一週間に二度、三度と不定期にやって来る客もいたからだ。博士は、不定期客の部類に入り、多い時は毎日やって来るし、そうでない時は一週間に一度ぐらいしかやって来ない日もあった。
 しかし、一週間を数えても博士はえびす亭に顔を出さなかった。
店は相変わらず忙しかった。特に午後六時から午後八時までの時間帯は殺人的と思えるほど多忙を極めた。七月の半ばから臨時で雇っていた川島やよいという二十歳になったばかりの女の子を入れて、この頃、えびす亭には五人の店員がいた。
 当所、そのやよいは皿洗いを専門にしていたが、明るくて元気なところを見込んで、マスターは客のオーダーの聞き役に抜擢した。
 やよいは意外に機転が利き、客の受けもよかった。そのため、店はさらに繁盛した。忙しさにかまけて、いつしかマスターは博士のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 秋になって衣替えの時期となった頃のことだ。午後八時半を過ぎて、少し暇になった。ずっと立ち通しで忙しく立ち働いていたやよいにマスターが10分ほど休憩時間を与えた。
 やよいは気分を変えるために店の外へ出た。吸い始めたばかりのタバコを口にして一服吸った時のことだ。突然、男がやよいの前にヌッと顔を出した。やよいは驚いて思わずタバコを吐き出した。
 「すみません。タバコを一本いただけませんか?」
 暗闇に混じって、顔の判別もつかないほどヒゲの生えた男はそう言いながらやよいの前に手を差し出した。
 裏通りの通路に当たる場所には時々、こうした浮浪者が現れる。やよいはバッグからタバコを取り出すと、男の震える手に握らせ、火を点けてやった。
 「ありがとうございます」
 男は深々と礼をするとタバコの煙を一気に吸い込んだ。
 「おいしい……」
 男は煙を吐き出しながら柔和な笑顔を浮かべた。やよいが店に戻るため、男のそばを離れた後も、男は暗闇の中にタバコの火を灯し、空に向かってゆっくりとタバコの煙を吐き出していた。
 翌日の夜もえびす亭は多忙を極めた。少し冷え込む頃が立ち呑み店は流行る。人でごった返す中、やよいは「ワンビア! ご新規!」、「たこわさ、一丁お願いします!」といった調子で、右に左に円形のカウンターに添って走り回っていた。
 この日も午後8時半を過ぎるとようやく暇になった。マスターは、昨日と同様、やよいに10分間の休憩を与えた。やよいは店の外へ出ようとして、ふと思い立ち、マスターに、
 「お腹が空きました。マスター、すみません。おでん3個いただいていいですか?」
 と尋ねた。マスターはアルミの皿にジャガイモとちくわ、コンニャクを載せると、「はいよ!」と言ってやよいに渡した。
 やよいはそれを持って昨日と同じ裏通りの通路に立った。タバコを吸うために、おでんを載せたアルミ皿を片手にして、エプロンからタバコを取り出そうとした時のことだ。
 「すみません。タバコを一本……」
 昨夜の男が立っていた。暗闇ということもあったが、上から下まで真黒で、顔すらはっきりわからない。弥生はタバコを取り出そうとして思い直し、
 「おでん、よかったら食べて」
 と男にアルミ皿を持たせた。男はしばらく躊躇していたが、「ありがとうございます」と言って二度三度、頭を振っておでんを食べ始めた。
 やよいは、男の手にタバコを一本持たせ、百円ライターを手渡してその場を離れた。背後でおでんを食べる男の口からすすり泣きのような声が聞こえた。
 翌日の夜もマスターにもらった10分の休憩時間にやよいは裏通りに立った。手には、揚げたばかりのサツマイモの天ぷらと肉の串焼きが二本あった。
 しばらく待っていると、ヌーッと男が現れ、いつものように「すみませんが……」と言った。
 やよいは、男に紙の皿に載ったサツマイモの天ぷらと肉の串焼きを渡し、タバコを一本手渡した。
 そんなことが数日続いたある夜、店の客が忙しく立ち働くやよいに言った。
 「やよいちゃん。あのホームレスと知り合いなの?」
 やよいとあまり年の違わない龍山と言う男だった。やよいが「えっ…?!」と言う顔をすると、龍山は、
 「だって、やよいちゃん、ホームレスのじいちゃんにやさしくしてるんだもの。おれ、妬けちゃったぁ」
 とふざけた調子で言う。やよいが無視して働いていると、
 「ホームレスに親切にするのもいいけど、あいつらゴミだからどんどん甘えてくるし、どんな目に遭うかわからないよ。やさしくするんだったら俺の方がいいと思うよぉ」
 と甘えた調子で言ってやよいを冷やかす。そんな龍山にやよいが怒りを爆発させた。
 「ホームレスだって人間よ。ゴミじゃないわ!」
 いつも笑顔全開で明るいやよいが大声で客を怒鳴ったものだから、マスターや店の客、店にいた人たち全員が驚いた。
 龍山はやよいに面と向かって怒鳴られたことで、少しムッとした表情を浮かべ、マスターに言った。
 「マスター、お勘定。おれ帰るわ。気分悪い」
 「すんまへんなあ。気分悪うせんといてください。またお待ちしています」
 龍山を送り出したマスターは、やよいを店の奥に連れ出して、注意をした。
 「やよい、何べんも言ってるけど、お客様は神様なんや。腹立っても我慢せなあかん。それにおまえ、ホームレスに親切にしてるって龍山はん言うてたけど、どういう意味や」
 やよいは黙したまま何も語らなかった。その夜からマスターはやよいに休憩時間を与えなくなった。

 やよいの店の休みは毎週水曜日だった。いつもは昼まで惰眠をむさぼって、交際して三年になる高校の先輩と会うのだが、その日は気分が乗らなくてデートを断った。専門学校をやめて、バイト生活をするようになって一年が経つ。えびす亭の仕事は大変だったけれど、やよいにしては長く続いた方だ。父が早死にした過去を持つやよいは、ファーザーコンプレックスというわけではなかったが、父親を連想させる人たちを相手に働くことが好きだった。タバコ臭くて酒臭くて、汗の臭いが漂う、そんなおっちゃんたちに囲まれていると、やよいは亡くなった父をよく思い出した。
 建設現場で働いていた父は、帰宅するとたいてい汗まみれ、酒まみれ、タバコまみれでおびただしい臭いがした。それなのにやよいを見つけるとヒゲだらけの頬を擦り付け、抱っこをする。「父さん、臭いからイヤ!」と泣き叫びながら逃げたことを思い出す。
 中学時代は父が大嫌いで近寄りもしなかった。高校に入ってもそうだった。そんな父が建設現場で事故に遭って重傷を負い、命を失った。その時になって初めて、やよいは父にすがって泣きに泣いた。
 えびす亭にやって来る人の多くが父のようにタバコ臭く、酒臭く、荒っぽかった。そんな人たちに触れていると、やよいは父が近くにいるような気がして懐かしい気持ちに襲われた。
 父が亡くなって二年後に、母は再婚した。父とは正反対のスーツの似合う紳士だった。近づくと香水の匂いが漂った。やさしくていい人だとは思ったけれど、やよいの父ではないと思った。それで、母の結婚を機に家を出た。専門学校をやめたのも、家を出て学費が払えなかったからだ。
 その日、夕暮れ過ぎにマンションを出た。買い物をしようと思い、えびす亭の近くまで来たところで、ふとホームレスのことを思い出した。裏通りに出ると、誰もいなかった。しばらく通路の壁にもたれてタバコを吸い、ぼんやりと暗い壁を見つめることにした。路地でぼんやりしていると、将来のことが頭を過った。先のことが何も思い浮かばない。その時、突然、父のことが思い浮かんだ。父ならどう言うだろうか。そんなことを考えていた時、暗闇から突然、声をかけられた。
 「すみません……」
 驚いて顔を見ると、いつものホームレスではなかった。
 「あのう……、私、竹さんの友だちなんですけど、いつも竹さんに親切にしていただいていた方ですか?」
 竹さん――、名前は知っていなかったが、もしかしたら自分のことを言っているのではと思ったやよいは、そのホームレスに、「はい」と答えた。
 「竹さんからことづてがあります。もし、ここへあなたが来られたら伝えてほしいと……」
 「ことづてですか――?」
 「はい、そうです。竹さんが、『親切にしていただいてありがとうございました。あなたのおかげでもう一度再起する意欲が湧いてきました。感謝しています』、そう伝えてほしいと」
 ホームレスの男はそれだけ言うと、足を引きずるようにして路地から去った。

 冬が来て春が来て、また夏が来た。えびす亭は相変わらず忙しい。やよいは変わらずえびす亭で働いていた。
 「やよいちゃん。うちの会社へ来ないか?」
 と勧めてくれる客も中にはいた。明るくて機転の利くやよいは多分どこで働いても重宝されるだろう。だが、やよいは今はまだ、どこへも行く気がしなかった。四年目になる彼との交際にも結論を出せずにいたぐらいだ。自分は将来どうすべきか、そのことについてずっと悩み続けていた。
 「いらっしゃい……!」
 と言ったマスターが驚いたような顔をして目を見張った。見覚えのある客だったからだ。
 「水割りお願いします」
 客のその言葉でマスターは、その客が誰であるかをすぐに理解した。マスターは「はいよ!」と返事をすると、ウィスキーの水割りを客に差し出した。
 すっかり様子が変わっていたがそこにいたのは紛れもなく博士だった。ぼうぼうの髪の毛は短髪に変わり、白かった肌は赤銅色に変わっていた。円いメガネは変わっていなかったが、服装は変わっていた。よれよれの三つ揃えではなく、革ジャンにジーンズ、靴は安全靴を履いていた。恐ろしく様変わりしていたが、マスターは博士に間違いないと思った。
注文を聞くためにやよいが近づくと、博士は「おでんお願いします」と言い、ジャガイモとコンニャク、ちくわを頼み、「ああ、すみません。それとサツマイモの天ぷらと肉の串焼き二本」と言って追加をオーダーした。
 「しばらく顔を見ませんでしたが、どうされていました?」
 マスターが博士に尋ねると、マスターは苦笑いをしながら、
 「零細でしたが、私、小さな翻訳会社を経営していまして、昨年、詐欺に引っかかって、会社のすべての財産を失くし、倒産してしまいました」
淡々と語った。
 「そうですか……。それは大変でしたね」
 マスターが同情気味に相槌を打つと、博士は、
 「仕事を失くし、お金もない。家族もない。そんな状態で自暴自棄になって自分を追い込み、ホームレスになってしまい、それでもこの町を離れがたくて徘徊していました。そんな時、私、天使に出会いまして――。人のやさしさに触れると、人って強くなれるものですね。私、天使のやさしさに触れて、もう一度一から出直そう、そんな気になりました。それで建設会社に勤めて、全国さまざまなところで働いてきました。以前は頭でっかちで力のなかった私ですが、おかげで筋骨隆々、少しは立派な体格になりました。今は、その経験を生かして小さいですが、工事の請負会社をやっています」
と言って、おでんを口にした。
 「えびす亭のおでんは本当においしい!」
 博士は、やよいに向かって笑いかけると水割りを入れたグラスを高く掲げた。
 マスターはそんな博士の様子を見て、「もう、博士とは呼べないな」と思い、新しい呼び名を急いで考えなければ、と思いながら客の応対に追われ続けた。
 博士は、「また来ます」と言い残して午後九時過ぎにえびす亭を去った。店を出る前に、博士は、「あのうマスター、これ、やよいちゃんにお渡し願えませんか?」と言って、紙包みをマスターに手渡した。一瞬、マスターは博士がやよいになぜ? と思ったようだが、「お預かりします」と言って紙包みを預かった。
 午後11時30分、店を閉めた後、マスターは博士から預かった紙包みをやよいに手渡した。
 「なぜ博士がやよいに……。やよいは博士のことを知っていたのか?」
 「いえ、わたし、あの人にお会いするのは初めてです」
 マスターに聞かれても、やよいは博士に見覚えがなかったし、物をもらう理由もわからなかった。
 やよいはマスターの見ている前で紙包みを開けた。
中に入っていたのは、小さな赤いダルマと手紙だった。手紙にはこう記されていた。

 「赤いダルマは今の私の心境です。七転び八起きで頑張りたい。そう思わせてくれたのはあなたです。あなたのほんのちょっとしたやさしさで、私は生きる勇気をもらいました。娘のような年齢のあなたに助けていただいたなんて、実のところ情けない話だと思いますが、あなたからいただいた一本のタバコの味、おでん、天ぷら、肉の串焼き……、書き連ねていけばきりがありません。他人の親切は百倍の勇気につながります。私はあなたにいただいた生きる勇気で頑張りました。そして一年足らずで、小さいけれど自分の会社を持つことができました。ありがとう。えびす亭の客より」
 やよいは手紙を読んで、裏通りの通路でタバコを求めてきたホームレスのことを思い出した。やよいは、あの時、ホームレスのことを汚いとも怖いとも何も思っていなかった。同情をしたわけでもなかった。ごく普通にタバコを渡し、食べ物を渡したにすぎない。それなのにそんな風に思われているなんて、返って恥ずかしい思いがした。やよいの父は、人を選別するような人ではなかった。誰とでも酒を酌み交わし、誰とでも一緒に肩を組んだ。えらい人だからペコペコするなんてことはなかったし、ホームレスだからバカにするということもなかった。汗臭く、タバコ臭く、酒臭い息を吐きながら、父はいつも陽気でいた。やよいがえびす亭をやめないで楽しく働けるのは、そんな父に似た男たちが集まる場所だったからだ。
 汚いといって逃げ回った幼児の頃、酒臭いといって嫌った少女時代。でも亡くなった時、初めてわかった。自分がどれほど父を愛していたかを。
やよいは手紙を丁寧にたたみ、ダルマと共にバッグに入れた。明日、博士がやって来たらお礼を言おう。そして、頑張ってね、と言ってあげよう。
 博士の手紙の意味がわからずクビを捻っているマスターを残して、やよいは店を後にした。明日もきっといい天気になるだろう。
<了>

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