ノッポとチビの物語

高瀬 甚太

 場末の立ち飲み屋「えびす亭」にやって来る客の中で、首が痛くなるほど見上げなければならない男が一人いる。おそらく2メートル近く、いや、2メートルを超えているかも知れない、そんな大男が客の中にいた。その男のことをえびす亭の客たちは親しみを込めてノッポの太郎と呼んでいた。
 ノッポの太郎は、大手建設会社に勤める設計技師で、酒はあまり強くないが、えびす亭には毎日のように顔を出す。年齢は三三歳、性格は至って大人しく、彼が怒ったところなど見たことがない。ノッポの太郎が温厚でやさしい人間だということは、彼の顔を見れば一目瞭然で、いつもニコニコして、それを嫌味に感じさせない魅力が彼にはあった。
 ノッポの太郎と対照的なのが1メートル55センチの泰平だった。年齢は太郎と同じ三三歳だが、太郎に比べると、とてつもなく性格が悪い男だと客たちから噂されていた。それが如実に現れているのが彼の顔だ。いかにも憎たらしい、悪漢顔丸出しなのだ。しかも異常に底意地が悪い。何から何まで太郎と対照的な泰平だが、二人は意外と仲がよかった。
 
 春先のことだ。桜の花がほころびかけた頃、えびす亭にほど近い場所で、中年男が道端に伏していた。最初に見つけたのがえびす亭の常連、市会議員の泣きのベンさんだった。ベンさんは、男を見つけると、
 「こんなところで寝とったらあかんよ」
 と言って男を揺り動かした。市民に役立つ市会議員として、見て見ぬふりなどできるはずがない。何度か揺り動かしたが、男は一向に反応しない。おかしいと思ってもう一度揺り動かしたところで、ベンさんは、「ギャーッ」と叫んだ。酔っぱらって寝転がっているとばかり思っていた男は、血を流して倒れていたのだ。
 ベンさんはすぐに警察に連絡し、その後、救急車を呼んだ。通報を受けた警察と救急車の両方が同時にやって来て、周辺は一時、騒然となった。
 「刺されて、ここまでやって来て、意識を失って倒れていたんだ。どうにか一命は取り留めたようだが、かなり重傷だね、あれは」
 警察に発見した時の状況を話し、救急車へ運び込まれるのを確認して、えびす亭に入ったベンさんは、しばらく、その説明に大わらわだった。客たちはひどく関心を持ち、どこで刺されたんやろか、どうやってここまで来たんやろかと、犯人捜しに躍起になっていた。
 そんなところへ不意にノッポの太郎が入って来た。青ざめた顔をして暗い表情をしているので、客の一人が聞いた。
 「太郎、どないかしたんか?」
 すると、太郎は店の入り口に呆然と立ち尽くし、血糊の付いた包丁を手に持ち、血で汚れたシャツを露わにして立っていた。
 「まさか、太郎、お前がやったんやないやろな!?」
 客の声に、放心状態のノッポの太郎は一瞬、顔を歪めせた。
 
 ノッポの太郎が殺人未遂で捕まったという報せを聞いて、「何かの間違いや!」と声を荒げて叫んだのは泰平だった。その思いは、えびす亭みんなの思うところだったが、現実に、血糊の付いた包丁を手にえびす亭にやって来たノッポの太郎を目撃した面々は、太郎がやったと信じないわけにはいかなかった。
 事件の全貌が明らかになったのは、翌日のことだった。
 刺されたのは、建設会社重役の室田栄吉五六歳、彼はこの日、部下のノッポの太郎を連れて得意先回りをしていた。途中、室田は、得意先であるK社で、先方の社長から叱責を受けた。設計が依頼していた内容と違っていることが、叱責の内容だったが、設計担当者の太郎のミスと勘違いをした室田は、その場で太郎に土下座をさせ、謝らせた。太郎のミスに怒り心頭の室田はその後も怒りが収まらず、行く先々で太郎を罵倒し続け、挙句の果てに、逆切れした太郎に包丁で刺されてしまった――。
 これが室田の警察に説明した内容だったが、泰平はそれを疑った。性格の悪い泰平は、いつもまず人を疑うところから始める。この時も、室田の言葉を疑った。太郎は、のんびりして鷹揚な性格だったから、どんなに叱られ、罵倒されてもそれぐらいのことで激高したり、逆切れするような男ではない。
 不審に思った泰平は、興信所と偽って、室田と太郎の足取りを追った。
 この日、室田と太郎は、四軒の得意先を訪問している。一軒目は得意先の社長が忙しく、挨拶だけで帰ったと、総務課の課長が証言した。二軒目も挨拶程度で終わっている。三軒目は、少し長く滞在したようだったが、特に問題はなかったと、秘書が証言した。
 問題は四軒目だった。四軒目の社長のところでトラブルが発生した。社長が、設計ミスがあったと言って、室田を罵倒した。この時の社長の剣幕がすごかったと室長が証言している。室田は、社長に対して、太郎を突き出し、「こいつのミスです」と言って太郎に土下座をさせた。すると、社長が、「お前も土下座しろ!」と怒って、室田に土下座を強要した。仕方なく土下座をした室田だったが、この時、総務課長が助け舟を出している。
 「社長、この設計図は、違う会社が設計したもので、木下(太郎)さんの設計したものではありません」
 怒った室田は、得意先であることを忘れて、社長に猛抗議した。しかし、社長は謝らなかった。謝るどころかさらに室田を罵倒した。罵倒された室田は、太郎が止めに入ったことで、その場は鉾を収めた。だが、怒りが収まらなかった室田は、会社を出てからしばらくして、険悪な表情でその会社の社長に電話をした。話を付けようということになって、その会社の近くのレストランで落ち合うことになった。血相変えてやって来た社長は、元々は自分が悪いことなど棚に上げ、室田の顔を見るなり再び罵倒した。室田は、社長に一言でもいい、詫びてくれと迫ったが、短気で気位の高い社長はそれを突っぱね、罵詈雑言を繰り返して室田の怒りに火を点けた。激怒した室田は、相手が得意先の社長であることを忘れ、危うく取っ組み合いの喧嘩になるところを太郎が防いだ。しかし、よほど腹の虫が治まらなかったのだろう、室田は、レストランの厨房へ行き、包丁を奪い取って、それで社長を刺そうとした。それを見た太郎が慌てて包丁を奪い取ろうと飛びついたが、誤って、その包丁で室田の腹部を刺してしまった。社長はすぐさまその場を逃げ出し、刺された室田は、夢遊病者のように腹部を抑えながら店を出ると、駅に向かって歩き始め、途中で倒れてしまった。血の付いた包丁を手にした太郎はパニックになり、包丁を手にしたまま、室田の後を追い、えびす亭に入った――。
 これが泰平の調査した事件の全貌だった。
 室田は、得意先に迷惑をかけてはいけないと思い、太郎を犯罪者に仕立てたようだ。土下座のことといい、包丁のことといい、最低の上司だと、泰平は思った。
 すべての証言をビデオに収録していた泰平は、それを持って警察に行き、太郎の無実を訴えた。当初、泰平の話をまともに取り上げなかった警察も、ビデオを確認して納得がいったのか、太郎を過失傷害とし、虚偽の証言をした室田を厳しく叱った。
 幸い室田の傷は軽傷で、一週間も入院すれば退院できる程度のものだったが、太郎は、この事件を契機に大手の設計会社を依願退職することにした。サラリーマンでいることに嫌気がさしたのだ。当然、会社は太郎を慰留した。腕のいい設計技師を失うことは痛手であったし、太郎には何の落ち度もなかったからである。会社は室田を左遷する方向で検討していると太郎に語り、翻意を図ったが、太郎の意志は固く、その月を持って、十年務めた会社を退職した。
 一通り落ち着いたところで、太郎は事件以来、初めてえびす亭に顔を出した。太郎がやって来るのを心待ちにしていたのが泰平だ。泰平は、えびす亭に現れた太郎を見て、殊の外喜び、太郎に大瓶のビールを一本提供した。
 「泰平、いろいろすまんかった。おおきに。何もかもあんたのおかげや」
 太郎は泰平に感謝した。泰平の調査がなければ、室田の証言だけで流れてしまっていた可能性があった。太郎は、お返しに大瓶のビールを一本、泰平にプレゼントした。
 「返されたら意味ないやんか」
 そう言って泰平は悪漢顔を崩して笑ったが、すぐに真顔になり、
 「会社、辞めたそうやけど、仕事はどないすんね?」
 と聞いた。太郎は、少し考えた後、
 「独立しようかと思っているんや。いずれそのつもりだったし、独立するんやったら早い方がええかなと思って」
 と言い、「サラリーマンはもうコリゴリや。ぼくに向いてないと思った」と答えた。
 「部下を守り切れん上司は、本当の上司やない。そんな会社、やめて正解やったん違うか。わしも応援するさかい、頑張ってな」
 泰平の言葉が太郎の胸に染みた。しかし、独立するといっても突然のことで、太郎はまだ何も決めていなかった。
 「太郎、もしよかったらええ人紹介できるかもしれんで」
 泰平がそう言った時、太郎は久しぶりに呑んだビールの酔いが回って、ほとんど耳に入っていないほど朦朧としていた。
 一週間後のことだ。あとわずかで退職という日、仕事を終えた太郎は、いつものようにえびす亭に出かけた。場合によっては、どこか別の土地へ行くことになるかもしれない。また、設計の仕事を断念して、違う仕事に就くことも視野に入れなければならない。さまざまな思いが去来して、憂鬱な気分に陥っていた。
顧客もおらず、営業も何もできない自分が独立してどうなるのか、不安が先に立って、ネガティブなことばかりが脳裏を駆け巡った。
 えびす亭に入ると、泰平が待っていた。泰平は、太郎を見ると、
 「太郎、待ってたんや。この間、言うとったやろ、紹介したい人がいるって、その人、連れてきたで」
 と大声で言った。店は相変わらず満員で、顔なじみが酒を呑んでいる。カウンターの前に立つ人の中をかき分けて、太郎が泰平のそばに近づくと、泰平は、傍らに立つ男性を紹介した。
 「太郎、東原さんや。東原栄吉さん、設計士の大将や」
 東原栄吉と言えば、設計業界では名の知れた有名な人だ。その人がなぜ――。
 「東原さんに太郎のことを話したら、独立を前提に自分の事務所で働かないかと言ってくれてな。会社勤めからいきなり独立しても、何かと難しいから独立の下地が整うまで、東原さんのところへ来ないかと言うてくれてんのや」
 太郎にとっては願ったり叶ったりの話である。だが、著名な設計士、東原さんに本当にその意志があるのだろうか、太郎は不安になって東原に尋ねた。
 「東原さん、もしその話が本当なら、ぼくにとっては願ったり叶ったりですが――」
 東原は、顎鬚を撫でながらメガネの奥の目をへの字にして太郎に言った。
 「木下くん、きみのことは泰平くんに散々聞かされていてね。もし、きみを雇わなかったら、私はきっとこいつにひどい目に合わされる。頼むから私の事務所へ来て、手伝ってくれないか。自分の事務所を開くまでの間でいいから」
 おどけた調子で言う東原の言葉に、太郎の緊張した気持ちが一気にほぐれた。
 「どうかよろしくお願いします」
 太郎が頭を深々と下げると、東原もまた、頭を下げ、
 「よろしくお願いいたします」
 と言った。
 泰平と東原は、釣り友だちで、二人でよく夜釣りに出かけるらしい。釣りでは、泰平が師匠で、東原は弟子なのだと泰平が得意げに語った。
 それにしても太郎は、泰平がなぜこんなにも親切にしてくれるのか、不思議でならなかった。それを泰平に尋ねると、泰平は首を傾げて「なんでやろなぁ」ととぼける。
 マスターが太郎に言った。
 「泰平は太郎の身長に憧れてるんや。太郎に親切にしとったら、そのうち自分も背が高くなるんやないか、と淡い期待を抱いてまんのや」
 その言葉を聞いて、泰平が怒った。でも、すぐに笑った。
 「当たらずとも遠からずや」
 と言って大笑いした。それを見て。店の客たちがつられて笑った。底意地が悪くて、人を見たら疑うことしか知らない泰平が、太郎に出会って変わったと思うのは、マスター一人ではなかった。客の多くがそう思っていた。素朴でいつもニコニコして笑顔を絶やさない、心のやさしい太郎の心が、泰平の歪んだ精神に光を与えてくれた。そう思っている客もいた。いつの間にか、泰平にとって、太郎はなくてはならない親友になっていたのだ。

 太郎は、泰平の世話で、東原設計事務所に雇われることになった。温かで和みのある建築設計をすることで知られている東原の元で修行することは、太郎の設計士としての成長に大いに役立つに違いない。
 太郎は、東原の快諾を得たことでそれまでの悩みが解消し、その後も、泰平と二人で酒を酌み交わした。泰平は、相変わらず意地の悪い視線でえびす亭の面々を見渡し、
「この店にはろくな客がけえへん。マシな客といえば、わしと太郎ぐらいなもんや」
 と言って、ノッポの太郎を見上げるが、太郎は、泰平の言葉に返事ができなくて、しばらくモゴモゴしていたが、頷きかねて、話を逸らした。
太郎は泰平にこう言いたかった。
「えびす亭の客はみんないい人ばかりだ」
太郎はいつもそう思っているが、それはきっと泰平も同じだろうと思っている。そうでなければ泰平が毎日のようにこの店にやって来るはずがない。
<了>

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