涙に濡れたウェディングドレス

高瀬 甚太

 紀伊半島を南下すると海の色が徐々に緑色に変化して行くことに気付く。特に夏場はそうだ。この日、目加田寛子は墓参りのため、JR天王寺駅から列車に乗り、紀伊半島の最南端にほど近い駅で下車した。幼い頃、父母と共にこの町を何度か訪れたことがあったが、一人で訪れるのは初めてのことだった。
 駅の改札口を出るといとこの小山大輔が待っていた。
 「ひさしぶり」
 市役所に勤務する大輔は、この日、寛子が帰ってくると知って役所を休み、待ってくれていた。背も高くなり顔も大人っぽくこそなっていたものの、寛子はすぐに大輔だと見分けがついた。
 「ありがとう。迎えに来てくれて。大ちゃんも元気そうね」
 寛子が懐かしそうに大輔を見上げると、大輔は照れた表情で寛子に言った。
 「寛子ちゃんと会うの何年振りかなあ。あの頃、寛子ちゃんはまだ中学校に入ったばかりだったものなあ……」
 「十年ぶりよ。大ちゃんは私より二歳上だったよね。私は今年、二十歳を迎えたばかり。早いわね、年の経つのが」
 駅を出ると十年前と変わらない駅前の景観があった。土産物売り場もそのままだし、食堂もお菓子屋もパチンコ店も変わらずあった。
 大輔の車に乗ると、クーラーがよく利いていた。ずいぶん早くから自分のことを待っていてくれていたんだなと、寛子は十年ぶりに会ったいとこに感謝した。
 大輔の運転する車は、駅から垂直に海に向かって進み、突き当たりを右折して海岸沿いの道を走った。
 駅周辺こそ変わっていなかったものの、駅を少し離れると町は大きく変化していた。見知った店や街並みが姿を消し、田舎とは思えないほど大きなフランチャイズの外食店やショップが国道沿いに立ち並んでいた。
 「変わったわねえ……」
 助手席で外景に見入っていた寛子がため息のような声を洩らすと、大輔が、
 「大阪と田舎の区別がつかないほどいろんな店が進出しているよ。古くからある店は撤退を余儀なくされて、この町の特徴が失われてしまうのも時間の問題だな……」
 役所に勤める大輔にとって、この町の色が失われていくことは深刻な問題のようだった。
 「寛子ちゃんがお父さんやお母さんと一緒にこの町に住んでいた頃が、この町の一番いい時だった。警察に昼寝の時間があったぐらい平和な町だったからね。でも、今は警察も忙しい。犯罪の絶えない町になっているし、人の気持ちもそれと共に荒んできた」
 と、ため息に近い声を洩らしてハンドルを大きく右に切った。
 海から山へ方向を変え、川沿いに大輔は車を走らせた。目指す方向に小高い丘のような山が見えた。
 「川が枯れているわね。子供の頃、よく泳いだ川なのに面影が残っていないぐらい」
 「森林が伐採されたり、山の宅地化が進んでいるからね」
 寛子が問いかける一言、一言が大輔のため息を増やす。変化が果たして本当に町の進化につながっているのか、劣化させているだけではないのか、崩壊していく自然のありさまを見ていると大輔の中に少なからず疑問が生じた。しかし、町の変化は政治や経済の趨勢に左右される。一職員の大輔にどうこうできるものではなかった。
 墓は入り江を見下ろす小高い丘の上にあった。この場所に寛子の母と父母の先祖の墓があり、寛子にとって墓参りは十年ぶりのことだった。
 「楓おばちゃんが亡くなって十年か。早いね」
 墓にお参りをしながら大輔が言う。楓おばちゃんというのは、寛子の母のことだ。
 線香の煙が墓石を取り巻くようにして流れて行く。母を失って泣いた日を寛子は昨日のことのように思い出した。
 「恵一おじさんはどこへ行ったんだろうね。楓おばちゃんが亡くなってからすぐに行方をくらませて……。寛子ちゃんのところにも連絡が来てないんだろ?」
 風が凪ぐと途端に蒸し暑さが戻ってくる。額から噴き出した汗をハンカチで拭いながら寛子は、これまで一度も墓参りに来ていなかった非を母に詫びた。
 「お父さんは風みたいな人だから、不意にやって来て、不意に消える。お母さんはよく嘆いていたわ。でも、不思議だった。離婚してもおかしくなかったのにお母さんはそうしなかった。きっと帰ってくる、そう言って待っていた……」
 「昔から恵一おじさんは自由人で、束縛されるのが嫌いな人だったからね。でも、それなら結婚なんてしなきゃよかったのに」
 「私ならあんなお父さん、待たないわ。すぐに離婚していると思う。お母さんにも何度かそう言ったけど、いつも笑って、ああ見えてもいいところのたくさんある人なのよと言って……」
 寛子の脳裏に父を待つ母の姿が蘇った。寛子が幼い頃から父は一旦家を出ると、数か月、数年帰って来ない時があった。女と駆け落ちをしたとの噂もよく耳にした。ギャンブルの借金で逃げているといった噂もあった。どれもよくない噂ばかりだった。
 それでも不思議だったのは父のことを悪く言う人がそれほど多くなかったということだ。
 何をやっても人並み以上にできる多彩な能力を持ちながら、父は何もせず無為に人生を過ごしていた。しかし人は悪くなかったようだ。近所の人が父のことを悪く言うのを寛子は聞いたことがなかった。でも、寛子の記憶の中に存在する父は、背中を丸め、景色をじっと見つめる漂泊の人としての姿でしかなかった。
 そんな父を母は心底愛した。なぜ、母が父をそこまで愛するのか、寛子にはずっとそれが理解できなかった。
 「寛子ちゃん、そろそろ行こうか。親父が寛子ちゃんと会うの楽しみにしているし、ご飯の用意もできているから」
 大輔の言葉に我に返った寛子は、丘を流れる風に長い黒髪をなびかせながらゆっくりと立ちあがった。
 大輔の家は墓のある丘を下った集落の中にあった。以前は梅の山とかなりの土地を持つ地主だったようだが、大輔の父、寛子の叔父の放蕩で没落し、今はそのほとんどを手放して、わずかな土地を利用してほそぼそと農業を営んでいた。
 寛子が玄関先に顔を出すと、叔父と叔母はたいそう喜んだ。
 「寛子ちゃん、えらくきれいになって。元気そうでよかったわ。まあ、上がりなさい」
 相変わらず叔母はやさしかった。寛子の手を引くようにして土間から上に上げ、
 「佳子、寛子ちゃんが帰って来たよ」
 と奥に向かって叫んだ。
 奥からバタバタと走ってくる足音がして、佳子が姿を現した。
 「いらっしゃい。寛子ちゃん。よく来てくれたわね」
 エプロン姿の佳子は寛子を見ると満面の笑みを浮かべ、寛子の手を強く握りしめた。
 佳子は中学生の頃とほとんど変わりなかった。相変わらずおかっぱ頭で化粧っ気のない顔にそばかすが目立っていた。佳子は寛子と同じ年だった。幼い頃から寛子とは喧嘩一つしたことのない大の仲良しで、二人でよく遊んだことを寛子は懐かしく思い出した。
 「佳子ちゃん、これお土産」
 寛子は、手にした紙バッグを佳子の前に差し出した。
 「嬉しい。何かしら?」
 「Tシャツよ。気に入ってくれればいいんだけれど……。その袋の中にTシャツではないけど、叔母さんと叔父さんのお土産も一緒に入っているわ」
 紙バッグから紙包みを取り出した佳子は、早速、寛子の目の前で開けて、ワッという声を上げて喜んだ。佳子の好きな色を熟知していた寛子は、橙色の派手な柄のTシャツを選んで、それを佳子への土産にしていた。
 「ありがとう、寛子ちゃん。わたし、こんなTシャツ一枚欲しかったからちょうどよかった」
 佳子の喜ぶ顔を見て、寛子も嬉しかった。母の葬儀の後、佳子のやさしさに寛子はどれだけ助けられたか知れない。
 奥の部屋に食事が用意されていた。海が近いこともあり、魚を主にした料理が中心だったが、子供の頃の寛子が好きだった山菜の煮物もいくつか食卓に並べられていた。
 父が行方知れずだったこともあり、母は朝早くから夜遅くまで仕事をし、生計を立てなければならなかった。一人で待つ寛子のために母は食事の用意をしてくれていたが、そんな寛子をかわいそうに思ったのだろう、叔母が時折家に呼んでくれて、ご馳走してくれた。寛子は叔母の作る山菜料理が大好きだった。
 母は三十代半ばの若さで亡くなった。肝硬変から肝臓ガンになり、病気が判明して半年足らずであの世に召された。
出奔して行方不明だった父は、どこで聞きつけたのか、母の葬儀には戻ってきた。
だが、葬儀が終わると寛子を置き去りにして再びどこへともなく去ってしまった。
 ひとりぼっちになった寛子は、大阪に住む母の妹の家で暮らすことになり、葬儀を終えてしばらくすると一人で大阪へ出た。
 「恵一さんから相変わらず何の連絡もないのかい?」
 食事をしながら叔母が寛子に聞いた。
 「葬式の時、会って以来、ずっと音信不通でどこにいるかわからない状態です」
 寛子が答えると、叔母は、
 「困った人ね」
 と大きくため息を洩らした。
 寛子の中での父の面影はすっかり希薄になっていて、今はもう顔さえ思い出すことが困難になっていた。
 「寛子ちゃん、結婚するんだって?」
 佳子が唐突に寛子に聞いた。
食卓を囲んで輪になって食べる。そんな楽しい雰囲気の中での食事だったから自然に会話が生まれた。大阪に移ってからも寛子は叔父の家での食卓を懐かしく思うことがよくあった。
 「ええ。この秋です」
 すでに結納を終え、新居も決まっていることを佳子に告げ、叔父や叔母にも「ぜひとも結婚式に来てほしい」と告げた。
 叔父の家族にはすでに結婚の話は伝えていた。だが、それは日取りのことが中心で、細かなことは何も話していなかった。
 「もちろん喜んで行かせてもらうよ。相手の人はどんな人なの?」
 叔母の問いかけに佳子が興味深げに身を乗り出した。同世代の寛子の結婚に一番興味を持っていたのが佳子だった。
 「五歳年上の普通のサラリーマンです。真面目でやさしい以外、何の取り柄もない人ですけど……」
 寛子は謙遜しながらそう言った。
 「真面目でやさしい人が一番よ。恵一さんのように、どんなにハンサムでも自分勝手のエゴイストはだめなんだから」
 父がハンサム……? 叔母の口からその言葉を聞いて、寛子は父の顔を思い出そうとしたが、やはりはっきりと思い出すことができなかった。
 「父はそんなにハンサムだったのですか?」
 「恵一さんは美男子だったわよ。ねえ、あんた」
 叔母が叔父に聞いた。叔父は「ああ、美男子でようもてた」と大きく首を振った。
 「だから寛子ちゃんもお父さんに似て美人なのよ」
 叔母は、「そうだ、寛子ちゃんに写真を見せあげよう」と言って立ち上がると、しばらくしてアルバムを手にして戻って来た。
 「寛子ちゃん、これがあんたのお父ちゃんの若い時、お母ちゃんと一緒に写っているだろ。見てごらん」
 叔母はアルバムを広げて一枚の写真を指さした。
 二十代と思われる母が恥ずかしそうに下を向くその隣に長身で目鼻立ちのはっきりした映画俳優と見まがうような男性が立っていた。
 「その恰好いい男があんたのお父ちゃんだよ」
 「この人がそうなんですか? 私、幼い頃、よく遊んでもらったけれど、少し大きくなってからはほとんど父が家にいなかったので、よく覚えていないんです。でも、本当に美男子ですね」
 寛子が感心したように言うと、隣に座っていた叔父が、
 「恵一のやつ、なまじっか美男子に生まれたもんやから女にもてて苦労しとるんや。ほんまに代わってやれるもんやったら代わってやりたい」
 と言うと、叔母がすかさず、
 「あかん。あんたじゃ代わられへん。同じ兄弟でもえらい違いやもん」
 とツッコミを入れて二人で大笑いした。
 一泊して帰ったら、としきりに誘う叔父や叔母に丁重に断りを入れた寛子は、午後九時過ぎの電車で大阪に帰阪するため叔父の家を出た。帰りも行きと同様に大輔が送ってくれた。
 「寛子ちゃん、お土産ありがとうな」
 お土産は、駅に到着して大輔に会った時、すでに渡してあった。子供の頃から野球が好きだった大輔のために寛子は阪神タイガースの野球帽を買っていた。大輔はよほど嬉しかったのだろう。その野球帽を車の後部座席に飾り物のようにして大切に保管していた。
高校を出て、市役所で働くようになった大輔は、小学校時代に始めた野球を中学、高校と続け、二十二歳になった今も草野球で続けていた。
 「寛子ちゃんの結婚式、おれも出ていいかなあ?」
 「もちろんよ。ぜひとも来てください」
 「結婚式に出たら、おれ、寛子ちゃんの彼に言ってやるよ。おれの大切な寛子ちゃんを奪いやがって、幸せにしなかったら承知せんぞって」
 頬を赤らめながら大輔が言った。窓を開けると磯の香がぷんと漂い、潮騒のざわめきが寛子の耳にやさしくなだれ込んだ。

 結婚式まで一カ月を切った頃、寛子は打ち合わせのために結婚相手の毛利聡史の家を訪れた。聡史は実家に住んでおり、実家は堺市内でレストランを営んでいた。
 二人兄弟の長男であった聡史は、家業を継ぐよう子供の頃から両親に切望されていたが、それを断って大学を卒業した後、大阪の書店に勤務していた。
 レストランは弟が継ぐことで両親も了解したが、聡史が書店で働くことには納得がいかない様子だった。
 幼い頃から本が好きだった聡史は、いつか自分の店を持ちたいと夢見てきた。その思いを両親に伝えていたが、両親は、出版不況でどの書店も厳しい状態にあることを知っていたこともあり、心配が先に立ったのだろう、聡史に、できたらもっと違った道を歩むようにとことあるごとに進言していた。
 寛子との結婚も、両親ははじめのうち強く反対していた。年が若いということと、寛子が片親で、しかも父親が蒸発しているということを聞いて、心配になったようだ。
 頑固な聡史は、両親の反対にもめげることなく、結婚への準備を進めてきた。結納の際も両親がへそを曲げて大変だったが、寛子が挨拶に出向き挨拶をすると、とたんに風向きが変わり、寛子のファンになって聡史の結婚を後押しするようになった。
 この日も、寛子がやって来るとあって、毛利家はレストランを臨時休業した。
結婚式は仲人を立てず、聡史の友人たちの世話で行うことになっていた。その友人たちの中でも特に中心にいる三人の男たちもこの日、打ち合わせのために毛利家を訪れていた。
型にこだわらず陽気で明るい結婚式にしようということになり、堅苦しい挨拶は抜きにして、二人の結婚を祝う短いスピーチをたくさん届けようということで話は進み、式次第の内容は順調にすすんでいた。
「でも、これだけは外せないなあ……」
式次第をすすめていた友人が声を上げた。
 「そりゃあ、そうだ。両親への感謝の場面は結婚式のクライマックスだ。外したら罰が当たるわよ」
そう言ったのは聡史の母親だった。問題になっていたのは、式の最後に花嫁花婿がそれぞれの両親に花束を捧げ、感謝を伝えるシーンだ。
聡史の両親には問題はなかったが、問題なのは寛子の両親のことだ。寛子は、母の死後、母の妹の叔母ところで世話になっていたが、高校生になった頃、叔母と旦那の仲が険悪になり、協議離婚をしてしまった。それを契機に寛子は自立するようになった。通っていた高校も退学し、夜間に編入して、昼間は金属会社の事務員として働くようになった。
「誰か、代役を立てるしかないな」
結局、友人の提案で代役に寛子の勤務先の社長夫婦にお願いしようとこということになった。
 何もかもすべてが順調にすすんでいた。
結婚式を二日後に控えた夜のことだ。すでに新居に越していた寛子は、食事の後片付けをして眠りに就く準備をしていた。休暇は二日前からもらっており、新婚旅行も入れて二十日間休むことになっていた。その中にためていた有給も十日ほど含まれていた。
午後十一時を過ぎた時間、テレビを消したとたんに電話が鳴った。こんな時間に誰だろう、そう思って急いで電話に出ると、すぐには応答がなかった。
「もしもし、どちら様でしょうか?」
二度ほど寛子が尋ね、ようやく相手は返答した。
『寛子か……?』
沈んだ暗い声だった。
「はい……」
寛子が警戒しながら返事をすると、電話の声が、
『おめでとう』と言った。
「えっ?」
 『結婚おめでとう。父さんだよ』
 「おとうさん……?」
 寛子は驚きのあまり声が出なかった。父がどうして自分の連絡先を知ったのか、結婚を知ったのか、不思議に思ったが、それよりも思わぬ電話に気が動転していた。
 『こんなことを言って何だが、おまえの結婚式、出席させてもらってもいいだろうか? おまえの花嫁姿が見たいんだ』
 「……」
 その時、叔母が言っていた言葉を思い出した。あんたのお父ちゃんはエゴイストで自分のことしか考えない人だと。あまりにも無神経な父の言葉に寛子は苛立って声を上げた。
 「考えてもみてよ。お母さんだけじゃなく、私にまで苦労をさせて……。十歳で父親に捨てられた子供がどんなに不幸か、あなたにわかりますか? 十七歳の年から自活して一人で生きてきた私の寂しさがあなたに理解できますか?」
 寛子の涙声が受話器を濡らし、嗚咽が電話線を支配した。
 『すまなかった……』
 そう言うと、父は電話を切ろうとした。
 「父さん、父さん!」
 寛子は電話の向こう、どこにいるかわからない相手に向かって叫んだ。
 『……』
 「結婚式の日時は……、場所は……」
 寛子はそれだけ伝えて電話を切った。電話で父の声を聞いた時、今までおぼろげだった父の顔が急に鮮明によみがえった。父の眼差し、父のぬくもり、すべてがはっきりと思い出された。
 父に肩車をしてもらい、祭りに出かけた日のこと。動物園で遊び疲れて寝入った時に感じた父の温かな背中。魚釣りをしていて川に転げ落ち、父が血相を変えて飛び込み助けてくれたこと……。さまざまな父との思い出が一瞬のうちによみがえった。
 母がずっと、死ぬまでずっと待ち続けた父。母が亡くなる寸前まで愛し続けた父。母の死を聞きつけてあわててやって来た父は、放心したような顔をして、棺に入るその瞬間まで母のそばを離れようとはしなかった。
 寛子の知り得る限りの父の姿が走馬灯のように寛子の脳裏を巡った。果たして父は結婚式にやって来るだろうか……。
父から電話があったことを寛子は聡史には知らせないでおこうと思った。聡史は心配性だ。変な心配をさせない方がいいだろうと考えた。
 寛子が聡史と知り合ったのは、寛子が梅田の書店に本を買いに出かけた日のことだ。その頃、寛子は高校四年生で定時制高校最後の年を迎えていた。
 日曜日だった。混雑した書店で目的の本を探し出すことは困難だった。しばらく探し回ったが見つけられず、あきらめて帰ろうとしたその時、店員に声をかけられた。
 「何かお探しですか?」と。
 驚いた寛子は、一瞬迷ったが、その店員の屈託のない表情に安心して、本を探しているが見つからなくて困っていると伝えた。
 「しばらくお待ちください」
 店員はそう言いおいて、五分としないうちに本を持って戻って来た。
 「この本で間違いありませんか?」
 と寛子に本を手渡しながら確認した。
 「間違いありません。この本です。ありがとうございました」
 寛子が本を手にお礼を述べると、その店員は、
 「その本がお好きなのですか?」
 と聞いた。寛子が「はい、大好きです」と答えると、店員は嬉しそうな顔をして、
 「ぼくも大好きなんです」
 と答えた。それが二人のなれそめだった。
聡史は店内を循環していて、本を探し回っている寛子を目にした。滅多にあることではなかったが、寛子の姿に関心を持った聡史は迷った末に声をかけた。そこで寛子が探し回っていた本が自分の好きな本であることを知った。縁を感じた聡史は、この機会を逃してはならないと思った。聡史は以後、寛子に積極的に接し、二年目の冬、プロポーズをした。
 寛子もまた、最初から穏やかで親切な書店員に好感を持っていた。付き合ってみるとそのやさしくて穏やかな人柄が寛子の寂しい日常を温かく癒してくれた。愛を告白され、結婚を申し込まれた時は、言葉もなく泣き崩れたほど嬉しかった。
 
 結婚式当日は秋晴れの好天気になった。結婚式は大阪の旧い神社で行い、披露宴は六〇名ほどを集めてホテルで行うことになっていた。
 純白のウェディングドレスに身を包んだ寛子の美しさは神社の境内に一羽の白鳥が舞い降りたかのような美しさで式に集まった多くの人の目を射た。寛子は式に集まった人たちの中に父が来ていないかと、目で追った。すると、黒い礼服に身を包んだ男性たちの中にぽつんと一人、薄汚れたジャンパーを着用した中年男性が立っていた。その男性は周囲を気にすることなく、先ほどからずっと寛子だけを注視していた。寛子がその男性に視線を向けると、中年男性は顔をほころばせ、寛子に向かって小さく手を振った。
 父だった。薄汚れたジャンパー、油のシミのついたズボン、それでも今日のために寝押しでもしたのだろう、しっかりと折り目だけはついていた。辛くもシャツだけは真っ新でそれだけが白く輝き、そこに白いネクタイが申し訳程度にぶら下がっていた。
 「すみません。式場には関係者以外入れませんので」
 父を見つけた係員が父に声をかけていた。その瞬間、寛子はウェディングドレスを翻して急いで父のそばに近づき、
 「すみません。私の父なんです。私のたった一人の肉親なんです」
 と叫ぶように言って父の手を引っ張った。
 式に集まった人は二人を見て驚いていた。それを見かけた聡史が寛子のそばに走り寄ってきて言った。聡史は、父に近づくと、
 「はじめましてお父さん。私、寛子の夫の毛利聡史です」
 と快活に挨拶をした。
 父は一瞬、驚いたように聡史を見たが、次の瞬間、聡史に向かって、
 「どうかよろしくお願いいたします。寛子をどうか幸せにしてやってください」
 と言って深く頭を下げた。
 聡史は式場の係員に、寛子の父親のためにモーニング一式を用意するように言い、着替えさせるように言うと、父を式場に案内した。
 結婚式、披露宴と寛子の父は、じっと寛子だけを見つめ続けていた。
やがて最後の儀式である花嫁、花婿からの感謝の言葉を受けるシーンになった。
寛子の勤務する会社の社長夫婦が寛子の両親の代わりをすることになっていたが、急きょ、父がその場に立つことになった。
父は、その前にと断って、挨拶をさせてほしいと司会者に頼み、司会者もそれを快く承諾した。静まり返った式場内の目が新郎新婦から寛子の父に注がれた。父は臆することなくマイクを握り話し始めた。
「本日は毛利聡史、寛子の結婚式にお集まりいただき、本当に感謝しています。私、寛子の父親でございます。いや、父親というのが本当に恥ずかしいぐらい、できそこないの父親でございます。寛子の母親である、私の妻が亡くなった時、寛子は十一歳でした。愛する妻の死に目にも会えず、放蕩を繰り返し、ただただ全国をさ迷っておりました私は、その頃、まだ夢の途中を生きておりました。そのため、しっかり私の手を握って離さなかった寛子の手をふりほどき、寛子を捨て去って、旅に出たのです。
 それから十年が経ちました。母を失った寛子は、その瞬間に父をも失い、途方に暮れたことと思います。でも、寛子はどんな苦境にあっても明るさを失わず、常に前向きに元気に生きてきました。全日制の高校を退学し、定時制高校に編入し、働きながら学ぶ生活を続けてきた寛子に、さすがの自堕落な私も敬服の念を禁じ得ませんでした。聡史さんという素晴らしい伴侶を得て、私はもう思い残すことが何もございません。二人が末永く幸せに暮らせますよう、皆様、どうかお力添えくださいますよう、よろしくお願い申し上げます」
 父の挨拶が終わっても会場からは何の反応もなかった。家族を顧みず、娘を捨てて、好き勝手やってきた男が何を言っても人の心を動かすことなどできない。
 だが、一人だけ、拍手をして父親に近づいた男がいた。聡史だった。
 「お父さん、ありがとうございました」
 その拍手につられるようにして、ようやく会場内に拍手の音が響き渡った。
 父は近づいてきた聡史に握手を求められると、それまで我慢していたのだろう、堰を切ったように涙をあふれさせ、膝を折って人前も構わずその場に泣き崩れた。
 父はなぜ、家に居つかず出奔を繰り返したのか、中学生の寛子を置き去りにしてまで行かなければならなかった場所はどこだったのか、寛子には父のすべてが理解できなかった。単にエゴイスト、自分勝手といった言葉で片付けるにはあまりにも不自然なことが多すぎた。
披露宴が終わった後、聡史は寛子の父としばらく談笑していた。しかし、寛子は父と少し距離を置いた場所にいて、佳子と叔父、叔母たちと話していた。
やがて、しばらくすると元の薄汚れたジャンパーと油のシミがついたズボンに履き替えた父が聡史と共に寛子のそばへやって来た。
「寛子、美しかったよ。父さんは感動した。幸せに暮らすんだぞ」
寛子は父が差し出した手を見て驚いた。木工でもやっているかのようにその指が異常に節くれだっていたからだ。
「お父さん、これからどこへ行くの?」
寛子が聞くと、父は、
「飛騨だ……」
と答えた。
「飛騨で何をしているの?」
父はしばらく黙した後、
「木彫りの仕事をしている」
「木彫りの仕事? それを今までずっと?」
「ああ、父さんのそれが仕事だ。ずっと取り組んでいるが、まだ旅の途上だ。もう少し時間がかかる。父さんの勝手な夢のためにおまえたちに迷惑をかけて本当にすまない」
母は知っていたのだろうか。父が夢を追いかけて飛騨の里で木彫りの仕事に精を出していたことを。そしていつか父が名作を作り上げるに違いないと信じていたというのだろうか……。
父は寛子の手を固く握りしめると、笑顔でその場を去ろうとした。
その背中に、聡史が、
「お父さん!」
と呼び掛けた。振り返った父に聡史が言った。
「一年後には子供ができるでしょう。その時にまたお会いしましょう」
父はニッコリ笑うと、聡史と寛子に向かって深く、深く何度も礼をしてその場を去った。
<了>

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