見合い

高瀬 甚太

 麗らかな春の日差しに誘われて、繁藤洋平が妻の清美と共に花見に出かけたのは四月上旬のことだった。
 西宮市の夙川、その川沿いに続く桜並木の下に座る場所を見つけ、桜の花びらに包まれながら二人はゆっくりと腰を下ろした。
 「思い出すねえ……」
 快晴の空を見上げながら、繁藤がつぶやくように言った。
 「そうですね」
 妻の清美も相槌を打つかのように言って、空を見上げた。
 
 繁藤が清美と出会ったのは今から三十年も前のことになる。その頃、繁藤は証券会社の社員として平凡な日常を送っていた。
三十歳になるまでに結婚した方がいいと上司や親せきに勧められ、繁藤はこの頃、何度か見合いを試みている。だが、結果は芳しくなく、進展する気配もなかった。
 大学も、務めている会社、家柄も申し分なかったが、繁藤の風貌だけが見合い向きではなかったようだ。三十歳手前にして早くも前頭部が大きく禿げており、そのせいか、どうひいき目に見ても年齢通りには見えず、四十代後半、口の悪い者は五十代と評する者までいた。
 こうなれば自分で探すしかない。そう決めた繁藤は、三十歳になる、その日までに結婚相手を見つけようと決心をした。ところが、職場の同僚はもとより、行きつけの店の店員、学生時代の同級生、後輩、とにかく片っ端から声をかけるのだがうまくいかなかった。よほど結婚に不向きな男なのだなと半ばあきらめていたその時、繁藤は会社の別の課の上司から耳よりな話を聞かされた。
 「わしの学生時代の友人に吉沢という男がいて、そいつに一人娘がいるんだが、なかなか結婚が決まらずに困っているらしい。今まで十数回見合いをしたが、どれももったいないぐらいいい話なのになぜか断り続けてうまく行かないと嘆いておった。どうだね、繁藤くん。きみ、ダメ元で、一度チャレンジしてみないか?」
 ダメ元は余分だと思ったが、繁藤は振られついでに挑戦してみるのも悪くないと、その時、思った。そこで、即刻その上司に「お願いします」と頭を下げた。
 ただし、見合いをするにあたって、一つだけ条件を付けた。見合い写真を先方に渡さない。それが上司に付けた繁藤の条件だった。
 顔写真を除けば、見合い相手として繁藤は申し分なかった。今までは、会うまでの段階ですべてシャッターが下ろされることが多かった。せめて、会って一度だけでもいい話がしたい。それが繁藤のささやかな望みであった。
 写真を含め、情報を一切開示しない、出たとこ勝負の見合いが決まったのは数日後のことだ。繁藤が望んだことと同じことを相手の女性も望んだようで、繁藤は相手の女性も自分と同じように何か問題を抱えているのではないかと思った。
 見合いの日程は決まったが、繁藤の側も、見合い相手の女性の側も、どうせ今度もダメだろう、そんなふうに考えていたのか、誰も見合いの席に立ち会おうとはしなかった。
 二人だけの見合いと聞かされたとたんに繁藤は不安になった。しかも相手の女性は、ことごとく見合い相手を拒絶している強者である。どんな女性が現れるのか、こんなことならいつも通り写真を渡しておくのだった、と後悔したが、すでに後の祭りだ。悩む間もなく見合いの日がやって来た。
 梅田の超高級ホテルの最上階にあるレストラン、大阪の街が一望にできる展望のいい場所を予約した繁藤は、一時間も早くレストランに着くと、緊張の面持ちで、静かに見合い相手の女性を待った。
 午後三時のレストランは客もまばらで、ウエイトレスやボーイたちは暇を持て余しているように見えた。この日、繁藤は、散々悩んだ末、スーツではなく、ジャンパーとポロシャツ、綿パンといったラフな服装を選んでやってきた。母親と父親は相手の方に失礼だと猛反対したが、繁藤はどうせうまくいかないのなら、見合い相手と気楽に接して、わずかな時間でも楽しむことが出来ればいいと思い、あえてそうした服装を選んだのだが、こうしていざ見合いの席にやってくると、失礼だったかなと思わないでもなかった。
 繁藤にもこの年に至るまでそれなりに恋の遍歴はあった。中学時代に一度、高校時代に二度、いずれも繁藤の一方的な片思いに終わったが、大学生になってから出会った女性との恋はそれまでとは違ったものになった。相手の女性は、繁藤がよく行く喫茶店のウエイトレスで、美人というわけではなかったが、笑顔の素敵なかわいい女性だった。愛想がよく、繁藤にもよく声をかけてくれた。そのことが繁藤を夢中にさせた。幾度かデートを重ねることができたものの、結局、三度目のデートで女性から別離を告げられ、理由がわからないまま別れた経緯がある。せめて理由だけでもと思い、翌日、繁藤はその喫茶店に行ったのだが、彼女はすでに喫茶店を退職していて、連絡先さえも掴めなかった。その時の苦い思い出が繁藤をその後の恋に影響し、三十歳を目前に控えた年になっても未だに独身を託っていた。
 約束の時間が来ても、見合いの女性は姿を現さなかった。15分が過ぎても現れなかったことから、繁藤は自分を遠目に見て、嫌気がさして帰ったのでは、と勘繰った。
 30分待って来なければ、潔く引き払うしかない。そう決めると、少し心が楽になった。
 「お食事の用意はどうさせていただきましょうか」
 ボーイに聞かれた繁藤は、迷った末に、「もう少し待ってください」と答え、時計を見た。約束の時間からすでに25分が経過していた。その時、繁藤は不意に声をかけられた。
 「繁藤さんですか?」
 ぼんやりと時計を眺めていた繁藤は、声をかけられて思わず身を固くした。
 「はい。繁藤ですが」
 答えると、その女性は、
 「本日はわざわざお越しいただきまことに申し訳ございません。お嬢様が本日、こちらへ来る予定だったのですが、急な用事ができてお会いできなくなりました。そのようにお伝えしてほしいと……」
 女性は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
化粧気のない、素朴な雰囲気の女性を見て、繁藤は大学生時代に恋をした女性のことを思い出した。
 「いいんですよ。仕方がありません。それより、お願いがあります。この店でこのまま一人で食事をするのはあまりにも寂しいので、どうでしょうか。食事だけでもお付き合いしていただけませんか?」
 女性は困ったような表情を見せたものの、やがて大きく頷き、
 「わかりました。ごちそうになります」
 と言って椅子に腰を下ろした。その潔い態度を見て、繁藤は好印象を持った。
 料理が運ばれてきた。コース料理を前にした女性は、繁藤に今日の見合いについて説明を始めた。
 「お嬢さんには好きな人がいて、その方と一緒になりたいと思っているのですが、周りが許してくれません。ことごとく見合いの席でお断りしているのもそういった事情があるからなんです。どうか理解してあげてください」
 繁藤にとって、今はもう見合い相手のことなどどうでもよかった。元々、うまく行くとは思っていなかったし、期待もしていなかった。
 「いいんですよ。断られるのは慣れていますから。それより、そんなこと忘れて、今日は美味しい料理をお腹いっぱい食べましょう」
 繁藤の言葉を聞いて、女性は少し安堵したのか、料理に手を付け始めた。
 「私、コース料理なんて初めてなんですよ。田舎へ帰ったら二度と食べられないでしょうから、今日は思い切り味わせていただきます」
 女性は顔をほころばせて前菜を口にした。
 女性の名前は、安藤清美と言った。高校を中退してすぐに、今日、見合いをする予定だった深町家のお手伝いに入り、六年目になるという。
 「五年の約束だったのですが、お嬢様にもう少しいてほしいと言われて六年目に入りました。私は、もう少しこちらにいたいのですが、田舎の実家から早く帰って来て嫁に行くよう言われていて、来月には田舎へ帰る予定でいます」
 安藤清美は次々と出てくる料理に舌鼓を打ちながら自分のことを詳細に話した。安藤の話の中で気になったのは、高校を中退したということだ。見たところ問題を起こすような女性にも見えなかったし学力が追い付かずに中退したとも思えなかった。
 「安藤さん、……お願いがあるのですが、聞いていただけますか?」
 繁藤の言葉に、安藤清美は料理の手を休め、繁藤を見た。
 「今日、もう少しぼくと一緒にいてもらうことが出来ませんか」
安藤は、驚いたような顔をして繁藤を見た。
「笑われるかもしれませんがぼく、女性と一緒にこうやって時間を過ごすのって久しぶりのことなんです。出来ればもう少しお付き合いいただけないかと思って――」
安藤清美はフォークとスプーンを手にしたまま、じっと繁藤を見つめた。
「やっぱり駄目ですか?」
繁藤があきらめの言葉を吐くと、安藤清美は大きく首を左右に振った。
繁藤が再び尋ねると、安藤清美は、今度は大きく首を縦に振った。
 「そんなことはありません。実は私も、これから時間をどう過ごそうか悩んでいたのです」
 と答える。繁藤がその理由を聞くと、
「本当は今日、お嬢様は繁藤さんと見合いをしていることになっているんです。お家の方にはそう伝えて出てきましたから。お嬢様は今、大好きな彼と会っていて、多分、夜遅くにならないと私の方に連絡が来ないと思います。私、それまで時間をどうやって潰そうか、考えていたところなんです」
「では、お嬢さんから電話が入るまでぼくと一緒に過ごしていただけませんか?」
間髪を入れずに答えが返ってきた。
「はい、喜んで!」
 
 午後五時を過ぎた大阪梅田の雑踏は、会社を終えたサラリーマンやОLであふれていた。レストランを出た繁藤は、安藤清美を連れて人ごみを縫うようにして歩いた。
 賑やかな通りを抜け路地に入ると、小さな居酒屋ののれんが見えた。繁藤は迷うことなくその店ののれんをくぐり、店の中へ安藤清美を招いた。
 「ぼくは、こうしたお店の方が好きなんですよ。おでんがあって、焼き魚があって、串カツや焼き鳥がある、好きなものを好きなように食べることができるこんな店で呑むお酒の味は格別です」
 よく冷えた生ビールを口にしながら焼き塩サバに箸をつける繁藤に、安藤清美も同調した。
 「私、こんな店、入るのは初めてなんですけど、素敵だと思います。田舎にいた頃、父親が酒好きだったもので、酔っぱらうたびに迎えに行っていたことがあります。それがちょうどこんな店でした」
 酒が呑めないという安藤清美は、その代わり、串カツやおでんなど、酒の肴の類をたくさん頼み、それらを全部平らげて繁藤を驚かせてみせた。
 安藤清美の田舎は、和歌山県南紀地方の小さな町だと言った。緑色の海、磯の香が漂う岩場、ミカン農家が山の斜面に立ち並ぶ風景の美しさを、繁藤に語り続けた。
 「田舎が好きなんですね」
 繁藤の問いに安藤清美は、「はい!」とためらうことなく答えた。
 「田舎へ帰って見合いをして結婚するのですか?」
 「そうなると思います。私のような高校を中退したような田舎者は、都会の人と結婚してもうまくいきません。それに五年もこちらにいたのに、出会いいなんて一度もありませんでした」
 「安藤さん、失礼だけど一つだけお聞きしても構いませんか? 高校を中退したとお聞きしましたが、何か理由があったのですか?」
安藤清美は少しだけ黙し、喋るのを躊躇した。それを見た繁藤は、
「話したくなければ話さなくても結構です。失礼しました」
そう言って謝った。
「いえ、そうじゃないんです。高校を中退したのは、片思いの同級生に振られたのがきっかけで不登校になってしまい、それで中退してしまったのです。ショックでした。お嬢様のおうちがお手伝いを探していると親戚から聞いて、家を出て大阪へやってきました。私って本当にバカな女なんです」
繁藤は笑ってしまった。
「笑ったりしてごめん」
謝ったものの、また、笑ってしまった。
「相手の人はきっとハンサムな人だったんだろうね」
「いえ、ハンサムではなかったけど、やさしい人でした。でも気の弱い人だったと思います。私の気持ちを受け止めてくれなかった」
繁藤は、かつての自分の恋を反芻した。あの時、繁藤は好きになった女性に何も言えず、自分の気持ちすら打ち明けることが出来なかった。去ってから繁藤は慌てて女性の後を追った。だがその時はもう遅かった。はっきりと意思表示ができないような恋は恋ではない。自分の気持ちを相手に伝えなければ恋愛はスタートしない。そのことを繁藤は、安藤清美の話を聞きながら確信した。
 「お嬢様から連絡が入ったので、私、迎えに行って、一緒に帰ります」
安藤清美は笑顔で別れを告げた。
 「今日は本当に楽しかったです」
 その言葉を残して彼女は走り去った。

 繁藤の元にその後もいくつか見合い話が舞い込んだ。何度か見合いの席で相手の女生と食事をすることもあったが、楽しいと思ったことは一度もなかった。
 別れてからずっと繁藤は安藤のことばかりを考えていた。天真爛漫な笑顔、屈託のない表情……、思い出すたびに、どうしてあの時、彼女に告白して気持ちを伝えなかったのか、繁藤は後悔した。
 思い余った繁藤は、嘉藤の家に連絡をした。安藤と別れて三か月後のことだ。
 安藤清美の名を告げると、家のお手伝いのような女性は、
 「清美ちゃんは、一昨日、こちらを退職されて田舎の方へ帰りました」
 と言う。なんでも、父親が交通事故に遭い、娘を呼び返したのだとお手伝いの女性は説明をした。
 繁藤が、連絡をしたいことがあるので、安藤さんの実家の連絡先を教えてほしいと頼んだが、お手伝いは、勝手に教えると、旦那様に怒られてしまいますと言って、それには答えてくれなかった。
 もしかしたら、すぐに見合いが決まり、結婚が決まってしまうのでは……。案じた繁藤は、上司に相談をした。
 上司は、繁藤の話を聞いて驚いた。断られたとはいえ、嘉藤の娘が見合いに出席したとばかり思っていたからだ。繁藤は、そのことを表ざたにしないようにして、安藤清美の実家と実家の連絡先を聞いてくれと頼んだ。
 しかし、部下思いだった上司は、繁藤がこけにされたと思って怒り、嘉藤の家にねじ込んだ。そんな話など初聞きだった嘉藤家の主人は、娘に問いただした。
 娘は正直に、その日、繁藤との見合いをキャンセルして好きな男性と会っていたと話した。
 嘉藤家の主人と娘が二人で手土産を持って、繁藤の務める証券会社へ顔を出したのはそれからすぐのことだ。
 嘉藤家の娘、彩香は、噂にたがわぬ美女だった。彼女と彼女の父は、平身低頭して見合いの際の非礼を詫びた。
 「いいえ、そんなふうにお謝りにならなくて結構ですよ。私、あの時、とても楽しい思いをさせていただきましたから」
 繁藤の言葉に、二人は意外な顔をした。
 「あの日、そちらでお手伝いをしている安藤清美さんという方がお断りにいらっしゃいました。その時、私、安藤さんに一緒に食事をしていただけないかとお願いをしたのです。気の毒に思ったのでしょうね、安藤さんは快くお付き合いしてくれ、おまけにレストランを出てからもしばらくお付き合いしてくれました。その時、私、彼女のやさしさに感動しまして、何せ、私、見かけがこんなふうでしょ、今まで散々な目に合っていて、その分、安藤さんの優しさが骨身にしみて……。別れる時は感謝しかなかったのですが、時間が経てば経つほど、彼女のことが思い出されて、それで連絡を取ったところ、田舎へ帰ったとお聞きして……」
お手伝いに連絡先を聞いたが教えてもらえず、上司に詳細を話して協力してもらおうと思った、と繁藤は話し、
「だから、嘉藤さんの娘さんには何も思っていません。むしろ感謝しているほどです」
とそのことを強調して言った。
嘉藤さんの娘、彩香は、繁藤の話に興奮し、「そう言えばあの日……」とその時のことを思い出しながら繁藤に話した。
「清美に迎えに来てもらった時、あの子の様子がおかしかったので尋ねました。すると、あの子、お嬢様のおかげで素敵な一日を過ごすことができました。いい思い出になります、と言うの。何があったか聞いても、秘密ですと言って教えてくれなくて、それが繁藤さんとのことだったのですね」
繁藤は、嘉藤彩香の話を聞くまでは、安藤清美は単なる同情心で自分に付き合ってくれのだとばかり思っていた。だが、そうではなかった。あの子は、自分との出会いを、素敵な一日と称するほど大切に思ってくれていたのだ。
嘉藤彩香は、南紀に帰郷した安藤清美の実家を紙に記し、家の電話番号と共に、繁藤に手渡した。
「うまく行くように祈っています」
と言いながら、彩香は、
「清美が羨ましい……」
と言葉を付け加えた。繁藤に思いを寄せられる清美が羨ましいのか、素直にありのままの姿で人に接することのできる清美が羨ましいのか……、判然とはしなかったが、繁藤はその時の彩香の後姿に悲哀のようなものを感じて仕方がなかった。
その日のうちに、繁藤は清美の故郷に向かった。新大阪駅から特急に乗り、三時間足らずで最寄りの駅に到着した。意外にも短時間だったことに驚きながら、繁藤はタクシー乗り場へ急いだ。
タクシーは、海に面した道路を走り抜け、途中から方向を変えて川沿いの道を走った。
穏やかで静かな場所だった。やがて、車は、一軒の家の前で停車し、運転手が、
「ここが安藤さんのお宅だよ」
と教えてくれた。
旧式の旧い農家だった。庭を数匹の鶏が雀を追い散らかすようにして走り回る――、繁藤の知る世界とはまるで違った異空間の空気がそこには漂っていた。
「こんにちは」
繁藤が戸口で叫ぶと、入口に二匹の猫が姿を現し、値踏みでもするかのように繁藤を見た。しばらく待っても返事がなかったので、繁藤は声を振り絞って、再度、大声を上げた。
「はーい」
 明るく元気な声がして、小学生らしい女の子が姿を現した。
 「だれ?」
 女の子が聞くので、繁藤は、自分の名前を告げ、「清美さんはいらっしゃいますか」と聞いた。女の子は、珍しいものでも見るかのようにじっと繁藤を眺め見渡していたが、やがて、「ちょっと待ってください」と言って奥へ引っ込んだ。
 先ほどまで様子を見ていた二匹の猫が、繁藤のそばにゆっくり近づくと、足元にやって来て、二匹して繁藤の革靴の先をペロペロ舐めはじめた。
 「トラ、ゴン、何してるの!」
 甲高い声に驚いて、二匹の猫はくもの子を散らすようにして、繁藤のそばから離れた。
 声のした方向を見ると、安藤清美が立っていた。安藤清美は、繁藤が自分の家にやって来たことが信じられないのか、言葉もなく繁藤を見つめた。
 「繁藤さん……、どうして」
 繁藤は、突然、家を訪ねた非礼を詫び、
 「先日、あなたとお見合いをしたのに、私、返事をするのも返事を聞くのも忘れていました。それを今日、お伝えしに来たようなわけで」
 と照れながら説明をした。
 「そんな……、わざわざこんなところまで」
 先ほど、清美に怒られた二匹の猫がまた近づいてきて、今度は、繁藤のズボンの裾を噛み始める。そればかりか、鶏までもがやって来て、繁藤の靴をつつき始めた。
 「すみません。むさくるしいところですけど、どうぞお上がりになってください」
 繁藤が玄関から畳の部屋に上がると、猫たちも一緒についてきた。それどころか鶏までついて来ようとする。それを追い払って清美が座布団を置くと、繁藤はそこへどっかと腰を下ろした。
 「汚いところですみません」
 清美は恥ずかしそうに周囲を見渡すが、繁藤にはそんな風には見えなかった。繁藤の知らない田舎の生活がそこにあったからだ。
 「お父さんは大丈夫ですか?」
 繁藤が尋ねると、清美は、
 「連絡をもらった時は本当に驚いて、すぐに退職して帰って来たんですけど、単なる軽傷で、今日から畑仕事に出ています。うちの父は何でも大げさなんです」
 「清美さん。お父さんが帰られるまでに、私、あなたにお話ししたいことがあるのですが……」
 田舎の家のほのぼのとした空気が、繁藤をほんのりと包んでいた。繁藤は、お茶を口に含み、小さく深呼吸をすると、清美に向かって言った。
 「清美さん。先日はお見合いにお付き合いくださって本当にありがとうございました。私、あれから真剣に考えて、その結果、自分の嫁になるのは清美さんしかいない。そう思うようになりました。本当はもっと早くお伝えしないといけなかったのですが、連絡先がわからず、遅くなりました。申し訳ありません」
 正座し、深く頭を下げる繁藤の隣で二匹の猫がウロウロと動き回る。庭先の鶏の声が一定のリズムを伴って聞こえるのを繁藤は不思議に思いながら聞いていた。
 清美からの返事はなかなか返って来なかった。心配した繁藤が顔を上げて清美を見ると、清美の姿がなかった。どうしたのかと思い、繁藤が辺りを見回すと、隣の部屋の仏壇の前で清美が突っ伏して泣いているのが見えた――。
 
 「あの時、あなたが来てくれるなんて夢にも思っていなかったわ」
 桜の木の下で、花びらに包まれながら清美が言った。
 「後悔だけはしたくなかったから、断られても仕方がない、そう思いながら訪ねたんだ。でも、プロポーズして、おまえの返事がなかった時は、てっきり振られたと思ったよ」
 「あんなこと言われたの初めてだし、好きな人に言われたんだもの、私だって動揺して……、仏壇の前で亡くなったお母さんに報告してたのよ」
 桜の季節も終わりが近づいていた。花びらが宙に舞い、かすんだ空気が温かな風を送り込んでいた。初夏が間近に迫っていた。
 「でも、あなたと一緒になれて本当によかったわ。ここまで平穏無事にやって来れたのもすべてあなたのおかげよ」
 「いや、おまえの力の方が大きいよ。おまえがいたからこそ、おれは頑張れた。おまえがいなけりゃ、おれはひがみ根性を抱いたまま、ろくでもない生き方をしただろうよ」
 二人の人生は、風もなく波もなく、山も谷もない人生だった。平凡をそのものの結婚生活だったが、それは二人が望んだ生き方でもあった。
 それに比して、嘉藤彩香の人生は非凡を極めていた。見合いをことごとく断ってきた彩香には、妻子のある彼がいた。しかし、父親にその事実を知られ、妻子ある彼との仲が壊れてしまうと、彩香は自暴自棄に陥った。その挙句、彩香は女たらしを自認する男に引っかかってしまった。覚醒剤中毒に陥った彩香は、廃人となって四〇歳足らずの短い人生を終えた。
 桜の下から二人が立ち上がると、急に天候がおかしくなった。二人は急ぎ足で家に向かった。その足取りは、二人三脚よろしく、寸分の狂いもなかった。
<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?