パンと愛と五五歳

高瀬 甚太

 零細出版社の常で、自費出版の相談を受け、そのお手伝いをすることがよくあった。ちょうど真夏の時期だった。電話で依頼を受け、大阪駅構内のホテルロビーでお会いすることになった。
 目印は赤い帽子と聞いていたので、少し早めにロビーに立ち、赤い帽子を探した。金曜の午後とあって人が多く、ロビーは待ち合わせをする人で混雑していた。
 約束の二時になったが、目印の赤い帽子を被った人は現れない。約束して、相手が心変わりして現れないということは、これまでも決して珍しいことではなかった。
 三〇分待って現れなければ帰ろう、そう決心したところ、突然、私の目の前に赤い帽子が出現した。なんとその人は小柄でしかも年老いた女性だった。
 「佐々岡さんでいらっしゃいますか?」
 名前を確認すると、女性は、照れ臭そうに笑い、
 「暑くてね。すみません、帽子を被るのを忘れていました」
 と舌を出し、赤い帽子を被り直した。
 喫茶店に案内し、奥まった場所が空いていたので、その席に着き、飲み物をオーダーした。
 「ミックスジュースをお願いできますか?」
 丁寧な物腰で女性は注文すると、被っていた赤い帽子を脇に置いた。
 グレーに近い髪の毛、小さな顔を皺が占領している。でも、きっと若い頃は美しい方だったのだろうなと、ふと思った。瞳の輝きにそれが現れていた。
 「自費出版をとお聞きしましたが、どのような内容をお考えですか?」
女性は、届いたミックスジュースをストローで一息吸い上げると、
 「自叙伝です。私の――。少し長くなりますが、聞いていただけますか?」
 と言った。腕時計を見た。夕方の約束の時間まで、まだ少し間があった。
 「少しぐらいなら大丈夫です」
 女性は、安心したのか、訥々とした口調で話し始めた。

  「田中さくと申します。今年で八十三歳になりました。広島県瀬戸内海の小さな島で生まれ育ち、十五歳の年に大阪へやって来ました。昭和二十二年のことです。
 終戦後二年が経ち、日本国憲法が施行され、NHKの『二十の扉』の放送開始、百万円の宝くじが発売されるなど、ようやく社会全体が落ち着きを見せ始めた頃のことです。
 私は、繊維問屋を営む藤田恵三という方の家で住み込みの女中として働き始めました。今でこそ女性の仕事はたくさんありますが、その頃は、女性の仕事といえば限られた仕事しかありませんでした。しかも中卒です。女工になるか、女中になるか、店員になるか、選択肢は限られていました。
 藤田恵三の家は芦屋の山手にある高級住宅地の一角にありました。明治時代から続く老舗で、大阪でも指折りの著名人であった藤田は、戦争で大空襲に遭い、一時期、衰退したものの、戦後すぐに焼け野原から立ち上がり、船場で繊維問屋を再興し、財を築いておりました。
 田舎者の私は、何の予備知識もなくいきなり藤田の家で住み込みの女中として働くようになったものですから、大変です。まず、家を見てびっくり、家財道具や置物の数々を見てびっくり、驚きの中で奉公生活が始まりました。田舎者の私に務まるかどうか心配でしたが、女中頭の春さんがやさしくて、一から十まで懇切丁寧に指導してくれたおかげで二週間もすると、どうにか家のことがわかるようになり、やるべき仕事が理解できるようになりました」
 「ずいぶん話が長くなりそうですね。もう少しかいつまんでお話していただけるとありがたいのですが――」
 長くなりそうな田中さくの話に閉口し、簡潔にとお願いするが、さくは動じない。私の思惑など関係なしに一方的に話し続けた。
 「藤田家には、家長の藤田恵三と奥さんの葉子さま、恵三さんの祖父母、恵三さん夫婦の息子の高志、娘の淳子の六人が住んでいました。このうち、娘の淳子は私より三歳上の女子高に通う学生で、息子の高志は、私と同じ年の高校一年生でした。
 慣れない生活に、ホームシックにかかることもしばしばでしたが、私には帰る家がなく、我慢するしかありませんでした。父親が戦死した後、私が中学を卒業する年に母が再婚、新しい父親に馴染めなかった私は、卒業と同時に家を出ました。家を出た時点で私は、故郷を捨て、家を捨てる決心をしました。だから、田舎がどんなに恋しくても、私にはもう帰る家がなかったのです。
 奥様は大変厳しい方でしたが、旦那様の恵三さまはやさしい方でした。おじい様もお婆様も煩く言う人ではなく、その分、私は幸せだったと思います。楽しく働くことができました。
 藤田家で働き始めて五年目、昭和二十七年のことです。私は二十歳になり、藤田家の皆さんに成人式を祝っていただきました。成人式の前日に、藤田家のお婆様が、私を宝塚歌劇に連れて行ってくださいました。春日野八千代の『源氏物語』です。初めて宝塚歌劇を観た私は、興奮を抑えきれず、感動のあまり涙を流してしまいました。
 奥様が成人式用にと振袖を作ってくださったり、旦那様からは、ブランドのバッグをいただくなど、私は感謝と幸福を同時に味わせていただいたこの日のことを今でも忘れたことがありません。
 でも、好事魔多しです。不幸はいつも足音もなくやって来ます。その年の四月九日、羽田から大阪へ向かう、日本航空301便「もく星号」が伊豆大島上空で消息を絶ち、大島の三原山火口付近で墜落したという情報が伝えられました。藤田健三がこの飛行機に乗っていいたことが判明し、藤田家は騒然となりますが、一時、「全員無事」とのニュースが伝えられるなど、二転三転した挙句、最終的に乗員乗客三十七名が死亡したとのニュースが伝えられ、藤田家は騒然としました。
 当時の日本は太平洋戦争の敗戦による被占領中であったため、日本航空は営業面だけを担当していて、航空機の整備と運用はノースウエスト航空に運航を委託していました。そのため、事故の原因を調査することができず、原因不明のまま調査が終了しました。
 大黒柱を失った藤田家の悲しみは想像を絶するものがありました。大黒柱の藤田を失った会社は、多くの負債を抱えて倒産を余儀なくされ、その整理のために家を手放さなければならなくなりました。女中など雇えなくなった藤田家ですが、奥様は仕事を失った私のために見合いをセットしてくださいました。相手の方は、藤田家が営んでいた会社の得意先の若旦那で、藤田家に遊びに来られた時、私を見かけ、ぜひ、嫁に欲しいと、申し出があったそうです。
 思ってもみなかった結婚話に私は動揺しました。藤田賢三の死にショックを受けていた最中でしたし、藤田家の行く末も気になっていました。私だけが結婚話で浮かれているわけには行きません。そう思って断ろうとしました。断る話を奥様にすると、奥様は血相を変えて怒りました。
 「女が幸せになるチャンスは一度か二度しかない。そのチャンスを逃してどうするの。私はあなたに幸せになってほしいの。幸い、相手の方もあなたを希望されている。会うだけでも会って、決めなさい」
 奥様の言いつけもあって、私は見合いを決心しました。
 昭和27年5月11日日曜日、今でもよく覚えています。相手の方の意向で大阪市内の老舗の料亭で見合いをすることになり、奥様に買っていただいた振袖を着て、奥様と共に料亭に向かいました。
 料亭は、休日を返上してわざわざ、私たちのために料理とお席をご用意してくださいました。相手の方のお父様がその料亭の上得意であったことと、料亭の主人と懇意にしていたことから便宜を図ってくれたのです。
 見合い相手の田中洋一はおっとりとした大人しい方のようでしたが、私はまともに顔を見ることができず、ずっと俯いておりました。何を聞かれても、「はい」としか言えず、食事もろくに喉を通りません。私の母も戦死した父と結婚した時は、見合いだったと聞いておりました。親同士が勝手に縁組をして、相手の顔もろくにわからないまま、式を挙げた。母がそんな不満を漏らしていたことを、その時、ふと思い出しました。それに比べれば、こうやって顔を合わせることが出来るだけでも幸せなのかも知れません。
 食事をして見合いが終わると、洋一と二人きりになりました。
 「二年前に、藤田家を訪れて、それ以来、ずっとあなたのことが気になっていました。今回、藤田さんが事故に遭われて、会社を整理することになって、あなたも藤田家を退職されるようだとお聞きして、意を決して見合いをさせていただくようお願いしました」
 それまで寡黙だった洋一は、二人きりになると、堰を切ったように話し始め、自分の気持ちを打ち明けてくださいました。私のようなものを思ってくださる人がいる、そのことだけで私は胸が一杯になり、「ありがとうございます」と、感謝の言葉を述べました。
 洋一は、その感謝の言葉を結婚の承諾と受け取ったようです。その後は、雪崩を打ったように結婚へ突き進みました。
 結婚式を挙げたのは、その年の十月十二日です。田舎から、母と義父、親戚の方々数人が駆けつけ、祝ってくれました。神社で結婚式を挙げ、その後、見合いをした料亭で披露宴を兼ねた食事会のようなものを開きました。
見合いから結婚まで、二度しか会っていません。それも短時間で、式の打ち合わせと、結婚してからの住まいについての話でしたが、すべて洋一に任せていましたので、私は頷くだけです。私は、恥ずかしくて顔を見ることができないまま、常に俯いていました。
 新婚初夜を市内のホテルで迎えて、翌朝、九州へ新婚旅行に出ることになっていました。セックスがどんなものであるか、予め聞かされていましたが、いざ、ホテルの部屋に着くと、恐怖が先に立ち、身がすくんで動けなくなりました。
 洋一は、そんな私を気遣って、とてもやさしくエスコートしてくださいました。洋一の顔をしっかりと見たのはこの時が初めてです。
 結婚生活は、洋一の両親と同居でしたが、藤田の家で女中として働いていたこともあって、同居は苦になりませんでした。藤田家への奉公が田中家に変わるだけだと、結婚する時、覚悟していましたから、義母の口煩さや義父の高圧的な物言いもそれほど気にならず、私は田中家に懸命に尽くしました。
 そんな私を支えてくれたのが洋一のやさしさです。洋一は、ハンサムとは言えない顔立ちで、どちらかと言えば武骨な印象を与える人でしたが、むやみに怒ったり、殴ったりするような人ではありません。穏やかな物言い、誠実な態度、大きな心で私を抱きしめてくれる素晴らしい人でした。
 義父は、一代でタオルの製造会社を興した人で、すさまじいエネルギーを擁したワンマン経営者で、他を圧倒するパワーを有していました。息子が三人いて、長男の洋一に跡を継がせるために英才教育を施していましたが、洋一は、ビジネスの世界にそれほど興味がなく、秘かに職人になることを希望していました。
 「親父は俺に会社を継がそうとしているが、俺は経営者の器じゃない。性格も地味だし、親父のような才覚も持ち合わせていない。どちらかといえば、末っ子がその器だ。俺は、経営者よりも陶芸家に憧れている。自然の中で土をこねて、陶器をものにしたい」
 陶芸の話をする時の洋一の目はらんらんと輝いていました。しかし、何事にも強引な義父は、洋一を経営者の道へどんどん押し立てて行きます。その義父に対して、洋一は一言の反論もしませんでした。
 田中タオル製造販売会社は、高度成長期の波に乗って、急成長しました。従業員二百人を抱える大所帯となり、タオル以外にも下着や洋服の製造販売を積極的に行うようになって、社名も『TKO株式会社』と変更し、時流を掴みます。
 洋一は専務になり、経営の第一線で活躍するようになると、陶芸の話は一切、口にしなくなりました。あれほど苦手にしていた営業や部下との折衝も、今は嬉々として行い、父親を上回る経営力で社員を承服させ、全国に支社を作り、海外にも支社を設けるようになりました。
 父の跡を継いで社長になるとさらに付き合いが多くなり、帰宅の時間が遅くなって、やがて月の半分も家に戻って来なくなりました。そんな時、洋一に女がいると義弟から知らされました。相手はバーのホステスで、洋一はすでにその女性と半同棲の関係にありました。
 いつの間にか私も五十歳を前にした年代になっていました。二十歳で結婚して三十年、子供も三人出来、三人共今は立派な大人になっています。社長職を退いた義父は会長職に就いていましたが、引退同然で、ほとんど家で過ごしていました。認知症が進んだ義母は時折、わけのわからない行動をしますが、それでも元気でした。
 昭和五十七年四月一日木曜日、五百円硬貨が発売されたこの日、私は、夫の洋一に離婚を申し出ました。洋一にとっては青天の霹靂だったようで、そのあまりの驚きように私の方が慌てたほどです。
 「離婚なんて、お前――」
 洋一は、私が脅かそうとして言っているように思ったようです。それで、私を説得しようとしましたが、私は動じませんでした。
 「三十年もお世話になって、本当に感謝しています。中学を出て藤田家の女中になって、あなたに乞われて田中家に嫁入りさせてもらったものの、私にとって、この三十年は、藤田家から続く、女中生活の延長のようだった気がしています。それでも、本当に幸せでした。子どもも三人生まれ、立派に成長したことで、私もそろそろ田中家の女中を引退させていただこうかなと、思うようになりました。私がいなくなっても、女中さんさえ雇えばうまく回ります。あなたにも好きな人ができたようですし、私と離婚してその方と再婚なさっても一向に構いません。この年になって遅いような気がしますが、もう一度、自分の人生を見つめ直してみたい。そんな気持ちになっています。長い間、本当にありがとうございました」
私 の人生は、藤田家に尽くし、田中家に尽くす、朝から晩まで働きどうしの毎日でした。映画の一つも観たことがなかったし、好きなテレビを満足に観たこともありません。外食もほとんどなかったし、家族でどこかへ行ったという記憶もありません。何のために生きて来たのか、自分の人生は何だったのか――。いつか、それを確かめたいと思うようになりました。五十を前にしてやっと区切りがつきました。もう一度、人生を生き直そう、そう思ったのです。
 『女を作ったことは悪かった。だが、あれは遊びの女で本気じゃない。俺が本当に大切なのはお前だ。俺にはお前が必要なんだ。悪いところがあれば直すからどこへも行かないでくれ。頼む』
 洋一は、私にそう言って詫びましたが、洋一が詫びる必要など何もなかったのです。むしろ、詫びなければならなかったのは、私の方です。自分勝手なことを言って、離婚を要求しているわけですから。
 『あなたを責めているわけじゃありません。むしろ、私は、あなたに感謝しているのですから。三十年間、本当にお世話になって、ありがとうございます』
 私の素直な気持ちでした。洋一に対する愛情ももちろんありました。でも、それ以上に私は自分の真の人生というものに興味があったのです。
洋一は、すんなりとは許してくれませんでしたし、義父も反対しました。賛成してくれたのは子供たちです。子供たちは、『お母さんの好きなように生きたらいい』、そう言って、背中を押してくれました。
 離婚したのは翌年の昭和五十八年四月十五日、東京ディズニーランドが開園したこの日、私は田中家を離れ、独立を果たしました。
 女性が一人で生きることは大変なことです。しかも、五十歳。多くの人は、アホな行動をして、後できっと後悔するぞ、そう言って笑いました。でも、私は平気でした。潤沢とは言い難い額ですが、お金も貯めていましたし、一人で生き抜く自信もありました。
 大阪市内で四畳半のアパートを借りた私は、スーパーでパートとして働き始めました。勤務時間は午後五時から十時まで、五時間の勤務です。朝から五時までは、専門学校でパン作りの勉強を始めました。田中の家は、義父がパン嫌いなこともあって、朝はずっと和食でした。逆に藤田の家の朝食はトーストとコーヒーでした。藤田の家で食べた、美味しいトーストが忘れられなくて、いつか、美味しいパンを焼きたい、そう思い続けていました。専門学校で半年学んだ後、私は、大阪市内の北区に小さなスペースを借りて、パン工房と喫茶の店を開きました。
 手作りのパンと淹れたてのコーヒー、毎朝六時に開店するカウンターだけの小さなお店『さく』はたちまち評判になり、行列を成すほどの盛況を極めました。
 子供たちも様子を見にやって来ました。私の作ったパンを食べて、三人共、目を丸くして、『こんなに美味しいパンは今まで食べたことがない』と言って手放しで褒めてくれました。
 毎朝六時から午後五時まで、たくさんの人が訪れ、とうとう私一人では賄いきれず、アルバイトの女性を雇い、半年もすると、客の要望もあって、もう少し広い場所に移転しなければならなくなりました。
 元々、金儲けが目的で開いた店ではありませんでした。美味しいパンを大勢の人に食べさせてあげたい。自分一人食べて行けるぐらいのお金が稼げれば、そう思って開いた店でした。
 噂を聞きつけて、いろんな方面から客がやって来ました。その客の中に、驚いたことに藤田家の息子、高志がいました。カウンターに座った男性を一目見た私は、すぐに高志だと気付き、『高志さん!』と声をかけました。名前を呼ばれた高志は嬉しそうな表情を浮かべて、『久しぶり、でもよくわかったね』と言いました。
 学生時代の高志とは似ても似つかないほど、頭髪が薄くなり、顔の皺も増え、めっきり老け込んでいました。それでも私には高志だとすぐにわかりました。
 ご無沙汰している失礼を詫び、奥様のことや淳子さんの近況を高志に尋ねました。
 『母は、二年前にガンで亡くなった。淳子は政治家の元に嫁いで、幸せにやっているよ。俺は、銀行員だ。毎日、金の計算に明け暮れている』
 『奥様はお亡くなりになったのですか――』
 『あれから三年ほどして再婚して、結構、幸せに暮らしたと思うよ。さくのことは、いつも気にしていたなあ。あの娘は頑張りやだから大丈夫だ、と口にしていたけれど、内心はさくのこと、ずいぶん心配していたんじゃないかなぁ』
 奥様の死がショックで、墓参りをしたいと告げると、高志は、奥様の眠る墓地の場所を丁寧に教えてくれました。
 高志には離婚したことを話しませんでしたが、三人の子供に恵まれたことだけは話しておきました。高志にも子供がいるようでしたが、親子の仲がうまく行っていないのか、子供のことをあまり話しませんでした。高志は美味しそうにコーヒーを飲み、トーストを二枚平らげると、『また来るよ』と言って店を出て行きました。
 洋一がやって来たのは、高志が来て一カ月ぐらい後のことです。
 『繁盛しているようだね』
 店に入って来た洋一は、少し疲れた顔をしていましたが、コーヒーを一口、口に含むと、
 『おいしい……』
 と至福に満ちた顔で言って、こぼれるような笑顔を浮かべました。
 その時、私と別れてから後のことを洋一から聞きました。
 『きみがいなくなって、母の認知症がさらにひどくなってね。今は病院に入院しているよ。もう、俺の顔を見てもわからなくなっているけどね。親父は相変わらずだよ。家政婦を雇ってもなかなか居つかない。親父と付き合うのは大変だよ。きみぐらいなものだ。親父と毎日、顔を突き合わせて平気だったのは――。仕事はどうにか順調だけど、下の弟があれこれ画策して、社長の座を狙っているから大変だ。きみを見ていると、あの時、親父に反抗してでも陶芸家の道を選べばよかったかな、と今になって思うよ。そうしたら、きっときみと別れずに済んだだろうし――。付き合っていた女とは先日、別れたよ。俺以外に付き合っている男がいることがわかってね。手切れ金をふんだくられて大損した。
 きみがいなくなってから張り合いがなくなってね、そろそろ社長の座を降りようかどうしようかと悩んでいる。仕事をやめて陶芸の道へ進もうかとと思うけれど、多分、俺は駄目だな。このまま、弟と骨肉の争いをしながらずるずる経営者の道を歩んで行くことになるだろうな……』
 洋一の話を聞きながらも、私はまるで他人事のように聞いている自分に気付いて驚きました。別れてまだ一年ほどしか経っていないのに、私の心はすでに洋一と、いえ、田中家から完全に離れていました。
 未練たっぷりに話す洋一を送り出した後、私の脳裏をさまざまな思いが錯綜しました。
 パン工房『さく』がずっとこの調子で行くはずもなく、これから先、どうなるのか、まるで見当が付きませんでしたが、それでも、自由に生きているのだという実感だけはありました。五十を過ぎて、ようやく得られた夢にまで見た自由な生活です。何物にも束縛されず、干渉を受けず、思ったままに生きる。この五十年間、そのことだけを考え続け、憧れてきました。
 けれど、楽しかったのは二年目、三年目頃までで、それが過ぎると何となく寂しさが募ってきました。自由というのは、手に入れるまではあれこれ楽しく夢想するのですが、一度、手に入れてしまうと、何ということはないものです。私には、やはり誰かのために尽くす暮らしが似合っている、そう思うようになりました。
 私には、恋をした、愛したという経験がほとんどありません。十代の頃は働くだけの毎日でしたし、洋一との結婚も、愛情というよりも田中家へ奉公した、そんな認識の方が強かったと思います。もちろん洋一のことは好きでした。でも、恋い焦がれると言った性質からはほど遠いものでした。

 パン工房『さく』を開店して五年目のことです。相変わらず、店は満員盛況の状態が続いていました。そんな中、毎日のようにやって来る客の一人に、松木健一という男性がいました。私よりも五歳年上の松木は、いつも、開店と同時に店にやって来る客で、コーヒーを三杯お代わりし、トーストを四枚食べて、明るい笑顔を残して帰る人でした。
 小太りで背が低く、白髪混じりの坊主頭、目が大きくて眉が太い。一度見たら忘れられない顔の松木は、決して見映えのいい人ではありません。それでも、毎朝、開店を待ちかねて入って来る松木を見ると、私はいつも笑みを返さずにはおれませんでした。
 松木はとにかく楽しい人でした。南森町で寿司屋を営んでいて、中央市場へ仕入れに行った帰りに私の店に寄ってくれるのですが、まるで落語家のように面白い人で、寿司屋に来る客の話や自分の過去の失敗談など、コーヒーを飲みながら面白おかしく話して私を楽しませてくれました。
 その松木が店に顔を見せない日が数日、続きました。開店と同時に、真っ先に店へ入る印象深い客が来なくなると、やはり気になります。楽しい話が聞けなくなると寂しいし、病気でもしているのかと気になって仕方がありませんでした。
 松木が来なくなって一週間目のことです。三十代ぐらいの男性が、開店と同時に店に現れ、コーヒーとトーストを注文した後、
 『このお店のママさんですか?』
 と聞きます。
 『はい、そうです』
 と答えると、その男性は、
 『ぼく、松木と申します。市場の帰り、いつもこの店に寄ると、父から聞いていたので寄らせていただきました』
 松木と聞いて、私は驚きました。松木と顔もスタイルも似ていなかったからです。
 『あらっ、松木さんの息子さんですか? 驚いたわ。お父さんにはいつもお世話になっています。ここ一週間ほど、お見えになっていないのですが、どうかなさったのですか?』
 『父は今、入院しています。一週間前に交通事故に遭って、命には別条ありませんが、しばらく入院しなければならなくなりました』
 『交通事故? お体の方は大丈夫ですか』
 『大丈夫です。後二週間ほどで退院できると思います。そのことで、ママさんにお願いがあって来ました』
 『私にお願い? 何でしょうか』
 『怒らないで聞いてやってください。父があなたに逢えないと言って寂しがっているんです。少しだけでも結構なので、見舞いに行ってやっていただけませんでしょうか』
 『私に遭いたい?』
 ドキンと、胸が鳴りました。
 『私が行って奥さんが気を悪くしませんか?』
 松木の息子は、手を左右に振って、
 『父は独身ですから大丈夫です。幼い時、交通事故で両親を亡くしたぼくを、親友の息子だからと言ってこれまで息子同然に育ててくれました。父が結婚できなかったのもぼくの存在が影響したかも知れません。その父が、こんなことを口にするのは初めてのことです。申し訳ありませんがお願いします。父はきっと大喜びします』
 私は松木の息子の申し出を快く引き受け、早速、今日にでも見舞いに行くと答えました。
 午後六時、店を閉めた私は、服を着替えて、病院へ行く準備をしました。お見舞いに何を持って行くか、思案した挙句、ポットにコーヒーを入れ、焼きたてのパンを用意しました。
 病院へ向かう途中、胸の高鳴りを止めることができず、息苦しさを感じて、何度か足を止めました。私は何に動揺しているのだろうか。松木が私に逢いたいと言っていることに対してか、それとも松木が独身であることに対してのものなのか――。それとも、これが愛なのか――。
 十二階の詰所に近い部屋が松木の病室でした。四人部屋の病室に足を入れた途端、
 『ママさん!』
 と大きな声が響き渡りました。松木の声でした。
 私が来ることを知らされていなかった松木は、驚きの声を上げ、
 『どうしてママさんが――』
 と絶句しました。
 『見舞いに来たら悪かったのですか』
 嫌味のように言って笑うと、松木は、
 『とんでもない。驚いただけや』
 と言って空元気を見せます。
 松木は、先ほど夕食を食べたばかりだというのに、私が持ってきたパンを頬張り、コーヒーを飲み、『やっぱり、ママさんのコーヒーが最高や』と言って絶叫しました。
 松木の純粋な気持ちが私の心を捉えたのは間違いありません。五十五歳になって、再び恋をしようなど、思ってもみませんでした。その日から松木は客から恋人になりました。
 半年後に、松木の息子と、藤田家の高志と淳子が参加して祝言を挙げ、店の客を招待して披露宴を盛大に行いました。年を取っていても、祝ってもらうのは気持ちのいいものです。
 八十を超えた今も、私は現役です。毎日、元気にパンを焼いています。松木も同じように現役です。店の方こそ息子に任せていますが、毎朝、市場に仕入れに行き、その帰り、店に寄ります。一通りパンを焼き終えた後、店を店長に任せ、松木と共に手をつないで帰ります。店を終えて帰る途中も、相変わらず松木は面白い話をして私を楽しませ、明るい気持ちにしてくれます――。
 ようやく田中さくの話しが終わった。うんざりするどころか、私は思わず手を叩いていた。さくの話に感動したのだ。
 「さくさん、その話を自叙伝にして記録しておきたいのですね。それで私の元にやって来た。そういうことですね」
 さくは小さく頷いた。
 「私が書いてあげますよ。協力します」
 さくが笑った。皺だらけの顔を、さらに皺一杯にして笑った。
<了>

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