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二十歳、自○しようとして。

これは僕の青春の暗い1ページです。青春が過ぎた今、過去を振り返って自分の愚かさや失敗から、教訓を文字化してハッキリさせたいと思いました。
自○したくなった時、何でそうなってしまったか?その答えを僕なりに考えてみました。




食品工場へ

 二十歳くらいの事だ。

 僕は一年行った東京の大学を中退した後、実家から離れた同じ県にあるボロアパートに引っ越した。そしてバイトの短期離職を何回かした後、近くの食品工場で派遣社員として働く事になった。仕事は適当に決めた。

その工場では主にカップ麺やスープの素が作られていた。勤務はフルタイム。俺が入社した時期は繁忙期で隔週で週6日勤務でした。

 俺は検品を担当する事になった。中国から送られてきた乾燥ネギに、異物が入ってないか確認する作業でとても簡単な仕事だ。
その作業は二人一組でするのですが、工場に入った当初の相手は同じ派遣の普通のおばさんだった。長時間他人と作業するのは苦痛だったけど、なんとかやっていけそうだと思っていた。


おばあさんからのイジメられる



 しかし、その方は直ぐに退職し、代わりにその工場で勤続20年以上のパートのおばあさんと作業する事になった。

 話は逸れるが、20才の僕がそれまで会ってきたおばあさんは皆優しい人ばかりだった。実家の祖母には子供時代よく可愛がってもらっていた。
だから、“おばあさん”と言うものに対して「優しい」と言うイメージを持ってた。しかし、このおばあさんはそれが偏見をだった事を気付かせ、「優しい」と言うイメージを覆す存在になりました。驚く事に、僕は自分の三倍近い年上のおばあさんにイジめられたのだ!!


 
 そのおばあさんは60歳くらいで背が低く太っていて、カバみたいな顔のよく喋る人でした。以後、「カババァ」と呼ぶ事にします。カババァとは緊張しないで働けそうなので、最初の印象は悪くありませんでした。
(働く中で知ったのですが、カババァは“新人クラッシャー”として工場内で有名だったそうです)


 しかし、そのカババァには癖があって、話す事が無くて沈黙が続くと攻撃的になります。しばらく無言で一緒に作業していると、頻繁に注意してくる様になったり、僕のやり方が気に入らないと「あんた、ビッコ(足に障害がある人への蔑称)か?」とか「これは男がやる様な仕事じゃない」等の暴言を吐いて来くる様になりました。

 僕の仕事ぶりは最初の頃は少し雑だったかもしれません。しかし、注意された所を直していっても、カババァの攻撃性は増していった。
相手は60歳のおばあさんですが、僕はビクビクしながら話のネタを作業中に考えていた。と言うのも、カババァはおしゃべりしてる間は無害だったからだ。カババァはおしゃべりしてる時は僕を注意したり、暴言を吐くことも無くなります。しかし、ネタは尽きる。そうなると次第にカババァの暴言は増えていきます。
特にカババァの顔色が悪い日は暴言が多かった。赤と紫のシミがモザイクみたいに拡散した血色の悪い顔色をよく覚えている。

 検品作業は基本的にペアの人とずっと一緒です。1日6時間はネギの異物を探す器具を挟んで向かい合った体勢で過ごします。
僕は攻撃されないために、自分の負の感情を掘り下げて話のネタを搾り出し、家族への恨みを語ったりしていました。
カババァは「うんうん」と目を見開いて聞いていました。カババァは愚痴を喋るのも、愚痴を聞くのも大好きでした。
その結果、おしゃべりはネガティブな内容がほとんどになりました。一方で暴言や理不尽な叱責も毎日の様にありました。


限界が来る



 こんな状態が2ヶ月くらい続き、俺にも限界が来た。そして、勇気を出して若い女の派遣の担当に仕事が辛いと伝えた。そんな事にさえ勇気を出さないといけない程、当時の俺は臆病だった。
すると、翌々日くらいに元ヤン系の工場の俺の責任者から、「一週間待ってくれたら配置を変える」と言われた。
俺は諦めの境地で「分かりました」と答えた。
その時の精神状態だと一週間が無限に感じられたので、瞬時にバックれるしかないと思った。現場の責任者に「一週間は長いよ!」と言い返す勇気はない。そんな選択肢さえ浮かばなかった。

 次の朝普通に出勤し、ロッカーに借りていた洗ってもネギの臭いが取れない作業服を入れてそのまま帰った。当時の俺はバックレを軽く考えるクソガキだった。その後に派遣会社から来ていた電話は無視していた。

 その日の夕方頃、突然母親から連絡が来る。「突然辞めたらダメでしょう!」と母は言う。俺はビックリした。と言うのも、派遣会社登録の際に緊急連絡先にしていた親の電話番号はウソを書いており、バックレが原因で親から連絡が来るのはあり得ないと思ってたからだ!!

多分、派遣の担当が「安否確認」と言う名目で、俺のアパートの不動産屋から親の連絡先を得て伝えたんだと思う。



自分をコロす“無敵の人”


 今までもバックレた経験があるが、それが親に伝えられたのは初めてだった。
俺は大学を辞めてから、バイトが続かなくて自分を責めたり、親に金銭的援助を頼んで叱られる事も増えていた。それとアパートの隣室(なんと6畳の1Rにカップルで暮らしていた?!)の騒音問題もあり常に寝不足で疲れていた。そんな時に、思ってもみない親バレでキャパオーバーした。

衝動的に「もう4のう」と思った。
今の仕事を辞めたら親から見捨てられるかもしれないが、かと言って仕事を続けるのも無理だった。
20才で童貞だったけど未練は全然無かった。友達もいなかったし、大切なものも無い。俺は他人を無差別に攻撃するのではなく、自分をコロすタイプの“無敵の人”だった。

 僕はコンビニで適当に8000円くらいを適当に下ろし、ドラッグストアや薬局で24日分の睡眠導入剤を買った。俺が4んだ後、親が残金を下ろせるようにクレジットカードの暗証番号をメモした紙を財布にいれた。そして、ドンキで薬を飲むための飲み物と夕食としてランチパックを買った。ランチパックは焼き肉カルビ味だ。最後の晩餐になるかもしれないのが、ランチパックの焼き肉カルビ味なんて貧乏臭過ぎると我ながら思った。

錠剤を飲む場所は直ぐに決まった。よく散歩してた海沿いの道だ。普通の道より低くなってて、車や通行人からは見えにくくなっている。そこに着いた頃には外はもう真っ暗だった。

 目の前には真っ黒な海が規則的に揺れていた。夜の海の真っ黒さは恐ろしい。
そこに飛び込むには、固い鉄に向かって突進するのと同じくらいの勇気が必要だろう。

 俺は夜中の海を眺めながら、24日分の睡眠導入剤を、ドンキで買った「おーいお茶」で流し込んだ。24日分だと48錠くらいだ。OD経験がある人だとたいした事ないと思うだろう。でも俺はOD経験が全く無いのだ。

 俺は今から自分の“甘さ”を白状する。
俺は48錠ごときで4ねるとは思ってなかった。俺は楽観的にも、48錠も睡眠導入剤を飲んだら、頭がラリって簡単に冬の海に飛び込めると思ってた。薬を飲んだ結果ではなく、薬を飲んだ後の俺の意思の力で4ねると思っていたのだ。

 「何て楽観的なんだ!?」と思う。それくらいアホだったとしか言えないが、本当の事だからご容赦願いたい。

 48錠の薬は案外簡単に飲み込めた。その直後、俺の派遣の担当から電話がかかってきた。会話内容は、あんまり詳しく覚えてないがさっき薬を沢山飲んだ事は伝えた。そしたら、何故か自分が急に可哀想に思えて気持ちがたかぶり、号泣しながらこの仕事を辞めたいと伝えた。
「とりあえず明日は休みの連絡をしておく」と担当は言った。

 
 派遣担当との電話を切った後に、母親からまた電話がかかって来た。「病院に行け」と言うので(母親にも薬を飲んだのは伝えていた)、近くの大きな病院に歩いて行った。連続して二人から電話がかかってきて、もう死ぬ気は無くなっていた。号泣した勢いで、少しは自分の気持ちを言えてスッキリした部分があったからだと思う。
病院に着いたが、受付の人と話すのが面倒だと思って結局ボロアパートに帰宅した。

 そして眠りにつくのだが、翌日の昼に誰かがドアをノックする音で目が覚めた。俺は薬の影響でちゃんと歩けず、這って玄関に行った。足の間接が機能せず、突っ張るしかできない棒の様だった。意識も朦朧としている。

鍵を開けると、玄関で座り込んでる俺に目を丸くした派遣の担当がいた。俺が仕事を辞めたいと伝えると、「分かりました…」と言い逃げる様に去っていった。
俺は布団に引き返してまた寝た。

トイレのために起きる事も2回あった。頭が薬でダメージを受けてるはずなのに、「おもらし」しないのは不思議だと思う。狂った足でのトイレは難しかったが、なんとかなった。薬を排出するためか大量の尿が出た。トイレに起きた後も直ぐ寝た。

結局、しっかり覚醒するまでは合計40時間寝たと思う。


生きちゃった!

 俺は生きた。しかし、たいして薬を飲んでないのだから当然だ。そしてコンビニに行き飯を買い、タウンワークを持って帰った。もう普通に歩けた。部屋に帰った俺は、明太子スパゲッティを頬張りタウンワークをペラペラとめくり平然としていた。

俺は愚かにも、自○を経験したのだから心理的に強くなったと自惚れてさえいた。しかしその自惚れは、後々当然の如く砕け散る。当たり前だ。普通は自○未遂で人は成長しない。あの時の俺、なんて愚かだったのだろうか?


見逃していた大事な事


 俺は工場でカバみたいで攻撃的なおばあさんに遭遇したのだが、良い人達もいた。カバのおばあさんは欠勤を割りとする人だったので、そんな日は別の人達とペアで仕事をしたのだが、皆さん優しい方達だった。もし、この人達とだけと仕事するのなら、もっと仕事を続けられてた思う。仕事内容も嫌では無かったし。

 そこから俺は、「仕事を長く続けるには人間関係の運が良い事が大切だ」と考えた。
今思うと、この考えは間違ってないとは言え浅はかだった。もっと大事な事を見逃している。

自分の意見を伝えれるようにならないといけないと言う事。それが、一人で生きていくために絶対に必須な条件だと当時は気付いてなかった。


認識を変えろ!!

 

 俺はもっと早く派遣の担当にカババァの事を相談するべきだった。そして、職場の俺の責任者にカババァとの仕事が辛いとハッキリ伝えるべきだった。俺の職場の責任者は元ヤン系だったし、カババァはその人と仲が良かったから、俺がカババァの苦情を言うのは勇気がいる。しかし、現場の責任者は俺に様子を聞いてきたりしてチャンスはあったのだ。それを活かすべきだった。

俺は「自分の意見を言う事」をないがしろにし過ぎていた。その時の俺にはそれが一番大事だったのに。一人で生きているのなら、何も言わずに助けてくれる人なんて存在しないのだ。

 結果現実に負けて4にかけ、たいして何かを学習する事もできず、狂った自惚れを抱えたまままた歩き出した。

 








 



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