得た時間と失ったもの



台風のせいか

満月のせいか体が、気持ちが重くて


鍋で煮だしたミルクティーが飲みたくて

生ぬるい風が入る台所で

小さい鍋を出して豆乳ミルクティーをつくる。

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ふとハーブとかスパイスを入れたくなって、

ハーブの棚を見て

今まで入れたことないけど直感で選んだ、

ジュニパーベリーを軽く潰し、

ダンデライオンをお茶パックに入れて一緒に煮込む。

満月だし、だるいし、デトックスだし。



あまりグツグツしちゃいけないから、

鍋を離れず見つめていると、

暑い💦汗が流れてくる。インドかよここ。



本当はロイヤルミルクティーのお湯を入れて作るパウダーも買ってある。


簡単で面倒くさがりの私には有難く、よく使う。


でも

鍋でグツグツ作ると美味しい気がする。

それは小さい頃、母が冬に作ってくれた熱々の

膜が張ったココアを思い出すからかもしれない。

信州の冬の寒い夜に、鍋からカップにつがれたココアは

白い湯気がいっぱい上がって

家族がパッとうれしい顔になる。


そんな思い出の温度をまた味わう幸せがあるのかもしれない。



でも、普段から煮物を作るのにも、

玉ねぎを炒めるのにも、

鍋に張り付くってしんどい。長い!!

今なんか暑い💦

でも見つめ出すと、鍋の外側からふつふつと出てくる泡や、

膜が張ってきたり、

今から飲ませていただく食物の完成までの変化が見れる。


色や匂いで、

まだまだだ、とか、

もうちょっと!とか

よし!今!!

みたいな。



おばあちゃんの時代には味噌も煮豆もジャムも

とにかくグツグツ手作りが多かったから、

台所にはいつも鍋で何かが煮込まれていて、

ずらした蓋の隙間から湯気が出ていたなぁ。

鍋みてて!って頼まれたり。

その度に、なかなか待てなくて、

「もういーい?」

「どれ、あぁ、まだだたよ」

退屈で待てなくて何度も繰り返したっけね。



私はこんな昭和の暮らしを見た事がまだある世代だけれど、

私の子供世代は、新しい家電やオートなシステムしか体験がない。



いつからか、ご飯は

「はじめチョロチョロ中パッパ、赤子なくまで…」ってしなくても

炊飯器がタイマーで朝に炊きあげてくれて、



2層式だった洗濯機は全自動で乾燥までしてくれる。


洗いの時に、

泡が縦に盛り上がり、それを手につけて遊んだり、

脱水器にかけるまでのカウントダウン、

澄んで冷たそうなすすぎの流水を見つめたなんか清々しいあの時間。



ゆったりしながらも、

でも注意深く、そのことだけに集中してる。

スローな暮らしにはそれがあったのかな、と思う。


豆が柔らかくなりすぎず、プリっとするその瞬間を。

ジャムの水気がスっとひいた、その瞬間を。

漬物がしんなりして、色が少しづつ変わるその変化を。


経験と勘を研ぎ澄ませて

自分自身の五感で作り上げていた。



オートなシステムの今は

見つめるその時間を機械に任せて、

別の事、それもたくさんのタスクをこなす為につかい、

結局なににもしっかり集中できなくて

どれだけ短い時間でたくさんこなせたか、

効率だけが基準になってしまってる気がする。

私も日常の料理はいかに早く!!がマストだ。


でも、その代わりに得た時間は

本当に喜びやリラックスを与えてくれたのだろうか。

結局、数ばかり達成してないだろうか。

今、目の前の人に優しくできる余裕ができたんだろうか。



早い故にが適当になると、

結局、中途半端な仕上がりになったり、

「なんか、私って…💧」

自己嫌悪に陥ったり。



今は忙しいから、

明日も忙しいから、、





この世の中はどんどん変わってしまったし、

これからも変わってしまうけれど、

なにを大事に生きていきたいか

今、どんな体験を味わいたいのか


今からでも10分後からでも

自分で決めていい。


選択肢はいつも自分の前にある。

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グツグツした豆乳ミルクティー

豆の味が濃くて、紅茶が負けていたけど

煮込んだからなんだか優しかったよ。




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