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“罪”というもの

人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される。
しかし精霊に対する冒涜は許されることがない。
(マタイ 12:31)

目のきれいな人に会うと、罪について考えてしまう機会が多い。

罪は犯罪と重なり合ってみえる場合も多いが、それらは明確に別物だろう。犯罪は法律に対する振る舞いの結果だが、罪は人に対する振る舞いの結果である。生涯有罪と宣告されなかった人がいたとして、それはその人の罪の有無とはまったく関係がない。

犯罪が生まれるためには、法律という、合理的で一般的な性向への志向が必要だが、罪は、いつでも個別具体的で非合理的なものである。そして何よりも、前者は必ずしも勇気と関係しないが、後者は勇気と不可分に結びついている。

目のきれいな人は、自分の犯した可能性のある罪にいつでも思いを馳せている気がする。たとえそれが無意識下であったとしても。

それはきっと、その人に多くの苦しみをもたらす。そっと目を閉じて気付かないフリをすることもできたのに、でも彼らはそれをしなかった。その一つの結果が、あの瞳なのだと思う。

罪はとても把握が難しいものだ。特に、価値や合理性といった現代的な観点の下では、あっという間に見えなくなってしまう。

しかし私にとって一つだけ間違いがないように思えるのは、罪を感じ取れるということが、真理を、そして救いを理解するための最低限の条件だということである。

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