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モイラの落涙 -失楽(2)-

游揺

 

「写真?」

「はい」

 酒井は古ぼけた一枚の白黒写真を彼女に渡した。

「白衣姿の集合写真ね。どこかの大学かしら?」

「帝旺大学病院です」

「すいぶん古い写真のようですけど?」

「六十年前に撮られました」

「そう」

「福泉研究室のメンバーです」

「福泉研究室?」

「ご存じありませんか?」

「知っていますよ。当時、大脳分野の製薬研究でめざましい成果を上げていた研究室。製薬業界に身を置いている者なら知らない人間は居ませんよ。それで、この写真が何か?」

「中央に座っているの福泉教授。その左後ろに立っているのが、海野製薬の二代目社長の海野満氏です」

 クイントから渡された眼鏡を掛け、悦子は酒井の説明を聞きながら写真を見た。

「この写真。非常に興味深い物でしてね」

「興味深い?」

「海野満氏は、福泉研究室在籍中に二度結婚をされましてね。この写真には、初婚時の奥様と離婚後の奥様のお二人が映っているのです」

「そうなの?」

「満氏の右が最初の奥様の松毬早苗氏。そして左側が離婚後の奥様の海野初乃氏。当時は、山野井初乃という名前でした」

「ゴシップ写真のようね」

 悦子は写真から目を離すと、酒井を冷たく見つめた。

「それで。この写真が何か?」

「映りが鮮明では無いので見え難いとは思いますが、奥様に松毬早苗氏の顔を見て頂きたいのです」

 悦子は再び、写真に目を落とした。

「…」

「松毬早苗氏の顔に見覚えがございませんか?」

「無いわね」

 そう言って悦子は顔を上げ、酒井の目を見つめた。

「奥様。単刀直入に伺います」

「はい?」

「松毬早苗氏。彼女は奥様ですよね?」

「私は密かに彼女を、『老嬢』と呼んでいる。ここで老嬢に初めて会った時、彼女が醸し出している雰囲気に何か得体のしれない違和感を覚えたことを今でもハッキリと覚えている。でもそれは、当然のことながら何かの疑惑に結びついての事ではなく、刑事としての勘による。仕事柄、様々な人間を見て来た。その大半は当然のことながらごく普通の生活を送る市民だった。確かにその中には、政治家や芸能人といった世に顔と名の知られた人々も少なからず居たが、彼らにしても平素は市民としての個人であって、何ら特別な存在ではない。そうして見て来た市民たちの多くは、自分にとって二種類のタイプしか居ない。それは容疑者も含めた犯罪者か、捜査の必要上関わった人々。老嬢に対した時、彼女に何故か犯罪者の臭いを感じた。それも、殺人者のそれだ。確かに謎を多く持った大金持ちの夫人なのだが、数限りなく人を殺し続けた人間のように思えてならなかった。だが目の前で笑みを湛えて座る老嬢と殺人がどうしても結びつけることが出来ない。だが、自分の心の叫びは、その直感に支配され続けていた。私はその想いから逃れたくて席を立ち、浮世離れなれたした広大な応接間を散策することにした。壁を彩る重層な名画の数々、贅凝らした室内装飾。それらを、さも興味あり気に観て回りながら、自分の心の中に湧き出て止まない疑念から己自身を逸らそうとし続けた。だが一度沸き起こった疑念は鎮まるどころか膨らみ続けた。そして、応接間の片隅に置かれたビクトリア様式の長テーブルに並べ置かれた老嬢の思い出の写真の中に、あの家族たちと一緒に撮った一一枚を見つけるに至り、それまで必死に押さえ続けていた心の蓋が一挙に砕け散った。

 

『白昼の通り魔殺新事件』

『海野正満。三十八歳。海野製薬社長』

『海野明里。三十四歳。海野正満の妻』

『海野輝郎。五歳。海野夫妻の一人息子』

 

二十年前に起き、海野親子三人の命を奪った痛ましい事件。老嬢はあの写真の中で犠牲者の三人とまるで家族のように彼女は納まっていた。老嬢は三人のことを『屋敷を見学に来た見知らぬ人たち』と話していたが、私の中で彼女に対する深い疑惑が始まった瞬間ともなった。結局あの事件は迷宮入りし、私は捜査本部を外れた。だが、あの事件は、当時も今も、私の中で燻り続けている。だから、あの日、あの写真を目にして以来、私は折りに触れで老嬢を追い続けたのだった。それと同時に、老嬢自身のことを深く探り続けることに執念を燃やし続けたのだった。老嬢を知らずして『白昼の通り魔殺人事件』の解決への糸口を掴むことは出来ない。それは根拠や手掛かりの全く存在しない、勘だけが頼りの無謀な行為への一歩だったが、私は信じて歩み続けた。

 

『悦子・ノルダとは、いったい何者なのか?』

 

私は老嬢を調べ続けた。だが結果は、何一つとして得られなかった。彼女の生地、生立ち、境遇、家族、友人や知人たち。全てが分っている。実際に会う事もした。だが、何かが可笑しかった。聞けば聞くほど知れば知るほどに彼女は遠ざかって行った。それは何がそうさせているのか。何もかも完璧に情報が整っているのにも関わらず、彼女の生々しいリアリティを感じることがどうしても出来ないのだった。それはまるで整い過ぎているが故の嘘にも思われた。暗く、深い霧に包まれて顔や姿の輪郭する朧げで曖昧模糊して存在する彼女の実態、本質。それらはいつまで経っても私の中で謎のまま在り続け今日に至ってなお解消されることはない。むしろ老嬢に対する疑惑は膨らむ一方で、決して萎むことはないだろう。老嬢の核心に迫る突破口が無いまま時間が無為に過ぎて行ったが、ひょんな事から、私はそれに迫る糸口を手に入れた。それは二枚の写真で、その内の一枚を老嬢が静かに見ている。亡くなった父が帝旺大学で教鞭をとった縁から、帝旺大学医学設立百周年記念式典に私は招かれた。その折に私は医学部図書館に立ち寄り、歴史を物語る資料を見ていたのだが、その中に福泉研究室のメンバー撮った集合写真を見つけた。撮られた年月日は定かではないが松毬早苗が医学界から追放され、消息を絶つ数年前と思われる。

 

『松毬早苗』

 

彼女は、同じ研究室に在籍していた海野満、彼は当時の製薬業界のトップスリーの一画を担っていた海野製薬を率いる海野源治の長男で後に二代目社長となる人物だが、その彼と学生結婚し一児を設けていた。松毬早苗は、この事実一つでも世間の衆目を集めていた人物ではあったが、『譫妄』と呼ばれている大脳の意識症状に関する研究でも特異な生家を発表し、新進気鋭の女性研究者としても注目を浴びていた。

 

『譫妄』

 

最末期がん患者でしばし見られる症状で、妄想、幻覚などを伴う意識混濁による脳の一時的又は恒常的な機能障害を引き起こす症状である。松毬早苗は、当時としては珍しかった終末医療において譫妄に出会い、これをコントロールすることにより終末期における官需の心理的かつ精神的な不安定を除去する研究に取り組んでいた。当時としては斬新な研究取り組みとして期待と注目が大きかったが、その研究内容に『洗脳』に繋がる要素が多分に含まれているのでは無いかとの誤解を生み、それが元で彼女は世間からヒステリックかつ排他的な批判に晒され、遂には学界から追放の憂き目にあった。無理解かつ過激な世間バッシングの中、元から息子との結婚に反対であった海野源治の意向により、満と離婚せざるをなかったばかりか、最愛の息子までを海野家に奪われる事となる。傷心の彼女は人知れず大学を去って以後、彼女の消息はバッタリと途絶える。もう一枚は、松毬早苗の失踪から数年後、結婚後間もないノルダ夫妻へのインタビュー記事に載っていた悦子・ノルダの写真で、アリミア共和国の研究者から手に入れた。どちらも不鮮明な写真だったが、松毬早苗と悦子・ノルダの顔は酷似していた。近頃は、顔写真から骨格分析ができるアプリもあって、これを使って松毬早苗と悦子・ノルダの顔の比較を試してみた。一致率は、83%。勿論これ自体を捜査の根拠として使えはしないが、私にとっては闇の中を歩き続けた先に針の先ほどの光が見えたようだった。悦子・ノルダの完璧過ぎる過去の生立ちに比べ、松毬早苗のそれは彼女がこの世に存在していなかったかの様に消えていた。それはまるで、彼女の存在を抹殺してしまうかのように消し去られたようにも思えた。

 

『松毬早苗』

『悦子・ノルダ』

 

二人は同一人物だと、私は確信している。その事に対して私が何故執着するのか。それは、私が長年の間追い続けた二つの未解決事件と二人の彼女とが密接に繋がっているからに他ならない。

 

『白昼の通り魔殺人事件』

『空白の九日間事件』

 

この二つの未解決事件を結ぶホームレス。彼は他愛のない窃盗未遂事件を起こして逃走し、老嬢の館付近で九日間にわたって消息を絶った。そして再び見つかった時、彼の精神は完全に壊れ、廃人同様となっていた。あのホームレスは、何故発狂したのか。順当に考えるなら彼は屋敷内に逃れ、そこで潜む間で彼に何かが起きて気が狂ったという流れしかない。荒唐無稽な話でしかない。『空白の九日間事件』の捜査本部、この捜査員中に私や香取も居たのだが、私の突飛な発想を笑いこそすれ信じる人間は全く居なかった。だが、あのホームレスが拘束され、取調室で相対した時に彼がうわ言の様に発した『モイラ』という言葉に、私は戦慄させられる。

 

『ホームレス』

『モイラ』

 

最初の配属先だった本庁の公安一課で、私はその言葉を幾度となく耳にしていた。それは、東側で極秘裏に暗躍していた各国の要人暗殺組織のメンバーのコードネーム。その人物は潜在意識の洗脳によりターゲットとなる要人を特定のタイミングで確実に自殺させることが出来る暗殺者として知られていた。ギリシャ神話に人間の寿命を決める三人女神たちがいる。運命の糸を紡ぐクロートー。紡がれた糸の長さを図るラケシス。その糸を断ち切るアトロポス。彼女たち三人を称してモイライと呼ばれていたがコードネームとなった『モイラ』は、ここから名付けられた。その人物はアリミア共和国でも東側の人間でもなく東洋の女性で医学に精通しており、特に大脳に関するエキスパートだと言われている。ただ分かっているこれだけで、彼女が居たとされるアリミア共和国のみならず東側の主要国のイースト連邦においてさえ一握りの限られた上級幹部にしか彼女の存在は知らされていなかった。イースト連邦に敵対する国の要人暗殺のみならず、連邦内の政治権力闘争においても『モイラ』の名前が現れては消えた。そのモイラが老嬢なのか。もし、この仮説が成立するならば全てが繋がる事となる。だがそうだとして、ホームレスが何故モイラによって殺されなればならなかったのか。『白昼の通り魔殺人事件』はモイラの仕業なのか。それならば老嬢と犠牲者となった海の親子が仲睦まじい家族のように写真に納まっていたのか。先ずは、松毬早苗と悦子・ノルダとが、同一の人物だと証明する所から始めるとしよう」

 

死生

 

 老嬢は、嫋やかに笑いながら言った。

「違いますわよ。酒井警部」

「そうでしょうか。こちらは奥様がご主人様とのご結婚直後のインタビューで撮られた写真ですが、奥様と松毬早苗氏。お顔がよく似ていらっしゃいます」

 酒井は古い業界雑誌を彼女に渡した。

「懐かしいわね。このインタビュー自体は忘れてしまいましたけど、この頃の私は、とても若いわね。今では骨と皮だけ、皺くちゃの老婆ですもの。松毬さん。確かに、私と顔がよく似ているわ。そのことはね、当時も同じように言われたわよ。でも、世の中には自分と顔かたちが同じ人間が三人居るって言うじゃない。彼女もその一人なのよ」

「なるほど。松毬氏との面識はございますか?」

「いいえ。お会いしたことは一度も無いわ」

「では、松毬氏のことも存じ上げない?」

「いいえ。それなりに存じ上げていてよ」

「ほう?」

「簡単な事よ。彼女、有名な女性でしたもの。当時、日本で一、二を争う製薬会社の御曹司と学生結婚し、お子さまも設けられ。女性研究者としても嘱望されていた。日本に脳分野の研究で将来有望な女性の研究者が居るぞって、主人から伝え聞いていましたから。同じ日本人で、しかも女性と聞いてワクワクさせられましたわ」

 酒井は、老嬢を静かに見つめ続けた。

「アリミア共和国は小国でしたけど、主人はその国の製薬トップ企業であるレミノフの経営者でしたから医薬分野における世界の情勢や情報に精通していました。特に、主要各国の研究機関に属する優秀な人材については常にフォーカスしていましたから、松毬女子のことも色々と聞いていましたよ」

「では、彼女が遭った過酷な運命に関してもご存知でいらっしゃいますか?」

「…」

 老嬢は、紅茶を一口飲んでカップをソーサーごとクイントへ渡した。

「勿論、存しておりますわよ」

「奥様は、彼女に対してどんな印象を持たれますか?」

「印象。特にないわね。お会いしたことも無いし」

「…」

「でも同年代を生きた一人の女性として彼女に会えたなら、何故失踪してしまったのと問い質すかもしれないわ」

「問い質される?」

「『何故、抗い闘わなかったの?』とね」

 張り詰めた空気が、二人の間を過った。

「私なら、何があってもそうしたわ。それが、私ですから」

「奥様は、強くていらっしゃられる」

「酒井警部。執念の塊。そして、この国を象徴する優秀な刑事さん。職務に忠実にして粘り強く、事件の解決と犯人逮捕への高い情熱。彼のような捜査官が、この国の現場組織には多くいて、彼らの意欲がこの国の治安と秩序の維持に大きく貢献している。敬服に値するわ。そして、あなたは、ここまで良くたどり着くことが出来ました。切っ掛けは偶然の出会いの重なりだったかもしれないけれど、そうした偶然の運を掴むのもあなた自身の実力なのですよ。素直に褒めて差し上げます。そう。私はあなたが推測する通り松毬早苗でした。それは認めて差し上げましょう。でも、あなたはそれを本当に証明することが出来るのかしら。それにしても、こんな写真が未だに残って居たなんて。驚きであると同時に、今さらこんなものが世の中に出て来ることへの滑稽な笑いを禁じ得ない。それにしても懐かしい写真。忘却の彼方へ置いて来た筈の愛憎の思い出を今になって目の当たりにさせられるなんて、矢張り人生とは奥深いものなのかも知れない。同時に、私は夫だったクレイ・ノルダの顔を久し振りに思い出した。

 

『あの男でも完璧な仕事を望むべくもないものなのね』

 

かつて私が松毬早苗と呼ばれていて、その松毬早苗がこの世から消えようとする直前に彼に出会った。夫は私を心の底から欲した。でも、全てに絶望していた私は、自らの手で己自身をこの世から抹消してしまおうと考えていた。夫は、そんな私を見透かしていたに違いない。彼は言った。

 

『僕ならば、完璧に松毬早苗をこの世から抹消できるよ』

 

その彼の一言に私は救われた訳ではない。むしろ、そんな事が出来る筈がないと失笑し、彼へ侮蔑と疑惑の眼差しを向けた。でも完全に絶望していた私の心の片隅で、もしそんな事が可能ならば是非見てみたい。そんな好奇心が疼いた事も事実だった。だから私は、ほんの戯れに、それは私を殺すのかと訊ねた。

 

『容器としての松毬早苗を殺すのさ。そして君は全く違う人間に生まれ変わる』

 

全く違う人間として生きる。生きることに絶望し、これから自死を覚悟した私のような人間にとって、夫が放ったその一言は無意味以外の何でもなかった。失笑のもとに聞き流せば終わる会話だったが、そこでも私の好奇心は疼いた。そして私は戯れに訊いた。生き続けた先に何があるのかと。穏やかな微笑を崩すことなく、彼は静かに答えた。

 

『僕との結婚』

 

何を言い出すのかと思い、私は思わず声を出して笑ってしまった。自分がそう言えば、私が自死を思い止まるとでも思ったのだろうか。あの時、私は後に夫となるクレイ・ノルダとは初対面で彼に関することは、当然かがら無知なのである。そんな相手から結婚を要望され、しかもその相手は全く知らないだけでなく外国人なのだ。侮辱され、からかわれたと感じるのが自然で、気性によっては怒りにまかせて相手の頬を叩いて席を立つのが当然の状況でもあったのだが、図らずも私は彼に更問をしたのだった。それは、この結婚があなたへもたらす恩恵は何かと。彼は相変わらず穏やかな表情で答えた。

 

『僕は、君が持つモイライのように人の寿命を自由に操れる才能を独占できる』

 

私に人を殺せと言うの。残念ながら、私は殺人者ではない。私が心血を注いだ研究だって、末期の苦しみから人を解放し可能なら救い出すためのものであって、人を殺すための道具ではない。

 

『だから松毬早苗を捨て、全く別人と成れば良いのさ』

 

普通ならこんな事を言い出す相手に対して警戒と拒絶を向けるに違いない。そして私も、その当然の行為を彼に向けようとする筈が、心の奥底で何かが私の行為にストップをかけたのだった。

 

『人が作り出したどんな道具にも、必ず利便と殺傷を兼備しているものだよ』

 

利便と殺傷の兼備。図らずも私は、この二つのフレーズに心酔した。そしてこの瞬間、クレイ・ノルダと名乗る初対面の外国人が、私自身を一番理解してくれている人物なのだと確信した。松毬早苗がこの世から消去され、悦子・ノルダが世に現れた瞬間でもある。

 

『海野初乃』

 

あの当時は山野井初乃と名乗っていた。松毬早苗の前夫だった海野満の二番目の妻。酒井警部が提示した古ぼけた写真の中に彼女を見つけた時、私は単純に彼女ってこんな顔だったかしらと思った。松毬早苗と海野満とは大学で出会って結婚した。あの当時、私たちのような結婚は家同士の行為との気風が強く、普通なら成立しなかった筈だった。まして、人並み以上の財力と権力を持っていた岳父の海野源治ならば、二人を別れさせることなど容易かった筈だが、そうとはならなかった。岳父は二人の結婚に反対していた。だが彼は、松毬早苗という極めて優秀な女性研究者の才能に魅了された。そして彼女の才能を囲い、それを己の事業で独占しようと目論んだ。結婚には反対を示しながらも息子を放逐することは無く二人の結婚を黙認するだけでなく、松毬早苗の研究を陰でバックアップし続けた。やがて二人の間に正満が授かるに至って、漸く二人の結婚は正式に認められたのだが、既にその時二人の結婚は破綻していた。破綻の端緒は、満の早苗の才能に対する嫉妬から始まったように思う。岳父は松毬早苗の研究に入れ込み、それによって彼女はめざましい成果を発表し続けた。だから早苗は増々、研究にのめり込んでいった。夫婦の間に見えない隙間が生じ、満の心の渇きを癒したのが山野井初乃だった。早苗と満との間に正満が生まれたけれども、我が子の成長ともない夫婦の愛情は醒めていく。正満が一歳を迎える直前に、松毬早苗の研究に対する医学会からの糾弾が始まった。彼女の研究は元々、最末期のがん患者にしばしばみられる『譫妄』に対するケアとその緩和を目指していたのだが、やがてその研究対象は脳その物にある『意識』と『無意識』。更には、その二つの領域を制御へと進んで行く。脳というフロンティアにける早苗の研究は画期的ではあったけれども、それは『洗脳』だと曲解と偏見に満ちた誤解を生じさせるに至る。医学会において彼女に対する倫理的な糾弾が開始されとる、期を同じくしてマスコミによるアンチキャンペーンが展開された。『洗脳』とされた研究行為をナチの人体実験とイメージ付けて大々的に松毬早苗バッシングが展開されていく。結果として、世間の憎悪と嫉妬が松毬早苗に集中し、満と早苗の夫婦関係にも致命的な亀裂を生じることになった。離婚が現実味を帯び始めるやバッシングは最高潮に達し、世間の批判は常軌を逸しヒステリックな憎悪を助長する。その矛先は全て松毬早苗へ向けられ、得体のしれないモンスターとしてのイメージが彼女に被せられた。社会に害を及ぼす異物の排除。彼女へと向けられた狂気は魔女狩りの様相を呈した。大学を追われ、彼女の業績は封印され、海野家を敵に回した夫との離婚訴訟にも破れ、最愛の息子で三歳になって間もない正満の親権も夫の満の掌中に納まった。そう。松毬早苗だった私は、あの時に全てを失ったのよ。それまで、他人が断末魔に見る絶望を数限りなく観察してきたけれど、最後に見た絶望は自分自身のそれだったのだから何とも皮肉なエンディングよね。

 

『欺瞞』

 

私が悦子・ノルダとなってアリミア共和国の鷗城で暮らすようになった後、夫のクレイからある真実を聞かされた。それは松毬早苗に対するヒステリックなバッシングキャンペーンを陰で動かしていたのが岳父の海野源治だということだった。それ自体は薄々感じではいたので驚きもしなかったが、岳父に元夫の満も一枚噛んでいたと聞かされた時は、流石に少しばかり動揺した。そう迄して私を抹消したかった理由を夫に聞かなかったが、研究にのめり込んで家庭を顧みない妻よりも、程ほどに仕事の話もできて、それなりに家庭的な同僚かつ愛人だった初乃を妻として選びたいと、満が決断した結果だったように思う。二人の間に子供は出来なかった。だから初乃は、正満を我が子のように育てたらしい。元より初乃に対して遺恨も憎悪も無いが、正満を愛しみ育ててくれたことについては感謝している。

 

『封印』

 

松毬早苗という存在は『個人』としては抹消され、『業績』も封印された。だが、その封印された筈の業績に対する権利は全てを海野製薬が所有している。封印の大義名分を盾に岳父は松毬早苗の研究全てを独占し、自らの事業発展へ余すことなく使い切った。しかるべき時期が到来したら、岳父は如何なる手段を講じても松毬早苗を抹消し、それまでに彼女が産み出した成果の全てを独占する積りでいたのだと思う。でも、これは全ての入口でしかない。酒井警部。あなたは、私の深い闇の奥にある真実にどれだけ近づけるのかしら。あなたと過ごす残り僅かな時間を、私はとても楽しみにしているわ」

 

 

 

(END:「モイラの落涙 -失楽2-」)

(次回作:「モイラの落涙 -失楽3-」)

(次回作アップ予定:2021.12.31予定)

 

 

 

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