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蟲魂2 -ガザミ(前編)-

 根津。
 夏の午後。
 虫籠売りの蛻吉(ぜいきち)は、蟲魂商いの上客の一人である御前の屋敷を尋ねた。
「虫籠売りの蛻吉でございます。御門番様。御前様にお取次ぎをお願い致します」
 裏木戸を数度叩いたが、反応がない。
「御門番様。蛻吉にございます」
 裏木戸の門番は居眠りをしていることが多い。そんな時でも、木戸を数度叩くと表に出て来るのが普通だが、その日に限って何の音沙汰も無かった。
 …こいつは妙だぜ…
 表裏のどちらの門番も蛻吉とは顔馴染みで、彼か尋ねてきたら自分に撮り継げと御前から命じられていたから、こんな時は直ぐに木戸が開いて中に入れるようになっている。ところが今日に限って木戸は開かず、その上誰一人として顔すら見せない。
 …まぁ、仕方ないね…
 そう思って蛻吉は踵を返して出直すことにしたが、一瞬鼻をついた臭いで足を止めた。
 …こいつぁ、蟲魂の臭いだねぇ…
 蛻吉、鼻をくんくんさせて辺りの空気を嗅ぐ。
 …しかも一匹、二匹じゃないようだ…
 蛻吉はニンマリ笑うと、周囲を見回して人がいない事を確認する。
 …面白そうだ。見物させてもらうとするか…
 蛻吉は小走りし、ひょいと飛び上がると木戸脇の天水桶踏み台代わりに瓦塀を飛び越えて屋敷内に姿を消した。
            *
 蛻吉は繁みに身を隠し、気配を消して様子を伺っている。
 …おいおい。ここは一体どうなっちまったんだ…
 どこもかしこも蟲魂が、跋扈している。その数の余りの多さに、流石の蛻吉も呆れるしかなかった。
 …数は多いが、金にならない蟲魂ばっかりだな…
 蛻吉、溜息。
 …どうせ、こいつら共喰いだな…
 煙草を吸いながら、蛻吉はどうするか思案した。
 …屋敷全体に結界を張っちまうか…
 我ながら名案だと、蛻吉はニンマリした。
 結界を張れば屋敷内に自分以外の人間が入れなくなるばかりでなく、屋敷内に溢れている蟲魂も外に出られない。
 弱い蟲魂が強い奴に喰われ、一番強い蟲魂が生き残る。
 蟲魂は人の心の闇が生み出す玉の形をした妖の類だが、他の蟲魂を喰らうと闇がより深くなり、綾なす心の闇の色の重なりから思わぬ色を発色する。 結界によって場を封じて共喰いさせ、最後に残った一匹を仕留めれば極上の蟲魂が手に入る。
 蛻吉、捕らぬ狸の皮算用に思わず顔が綻ぶ。
 屋敷を出ようと動き始めた蛻吉の懐に、突然何かが飛び込んだ。
 …おいおい。一体何だい…
 懐で何かがモゾモゾ動いている。
 蛻吉はそれを捕まえると懐から出した。
 …ちぇ。蝤蛑(ガザミ)かよ…
 それは岩肌のような色の蟲魂で、色がガザミと呼ばれているワタリガニの甲羅の色に似ているところからそう言われている。闇が弱くて直ぐ喰われてしまうことから目にするのが珍しい蟲魂に違いないのだが、蟲魂集めの好事家たちに人気が無いので値も安い。
 ガザミは何かに怯えているらしく、蛻吉の手の中で震えている。
 …こいつ。童心の闇の蟲魂か…
 気を許して手の力を抜くと、ガザミ色の蟲魂はスッと飛び出て蛻吉の懐深くに隠れてブルブル震え続けた。
 …窮鳥懐に入れば猟師も殺さずって奴か…
 蛻吉は懐のガザミをそのままにして立ち上がった。
 その時、異臭が蛻吉の鼻をつく。
 自分を襲う一撃。
 本能的にそれを躱し、蛻吉は身を低めて蟲鉈を構えた。
 …螌蝥(ハンミョウ)。良いじゃねえか。魂も毒も金になる…
 螌蝥は毒を吐き散らしながら、刃のついた前足と触覚で蛻吉を攻撃する。
 蛻吉は毒と攻撃を躱しながら応戦し、左の前足と右の触覚を切落すが再生した。
 …直ぐ生えてくるか。それなら一気に仕留めるしかないな…
 蛻吉は螌蝥の周囲を巡りながら蟲縄を投げて、螌蝥の四本の脚に絡めさせてその動きを封じ、虚を突いて玉虫色に輝く螌蝥の背中を駆け上った。
 螌蝥の奇声。
 一気に頭部まで駆け上った蛻吉は、蟲鉈を力任せに払って螌蝥の頭部を切落した。
 …獲ったな…
 腰につけた朱色の虫籠に手を掛けた時、傷口から女の顔が現れる。
 …えっ。何だ、コイツ…
 刹那、女の顔が毒を吐いた。
 直撃を躱すのが精いっぱい。
 蛻吉は、螌蝥の背中を転げ落ちた。
 …目が良く見えねぇ…
 螌蝥の毒が目に入ったらしく、視界が霞む。
 螌蝥の頭部に突き出た女の上半身と、彼女が手に持つ鞭が微かに見える。
 女は鞭をふるって蛻吉の蟲鉈を払い飛ばした。
 迫る、螌蝥。
 その時、懐の中のガザミが暴れ出した。
 …ちぇッ。こんな時に…
 目はほとんど効かない。
 次第に大きくなる螌蝥の殺気。
 突然、蛻吉の胸に激痛が走った。
 …ガザミ。何しやがる…
 ガザミ色の蟲魂が蛻吉の胸めり込み始めた。
 激痛。
 懐の蟲魂を掴み出そうとした時、蛻吉の頭に童の声が響いた。
 …助けるから…
「助ける?」
 …だから、心の洞に入れさせて下さい…
 螌蝥の殺気は目前まで迫っていた。
「仕方ねぇ。さっさと入りやがれ」
 ガザミが蛻吉の心の洞に入り込むや、彼の身体に異変が生じる。全身がガザミ色の鋼のように固い皮膚で覆われる。
 一瞬後、螌蝥の女がふるった鞭が蛻吉の身体を捕らえ、その触覚の鋭い切っ先が蛻吉の胸を突き刺そうとする。だがそれは、あっけなく跳ね返された。
 突然のことにたじろぐ螌蝥。
 蛻吉は、その瞬時に生じた虚を逃さなかった。
 蟲針を繰り出すと、正確に螌蝥の女の眉間を貫いた。
 …凄えッ。見えないのに急所を突いてる…
「当り前よ。こちとら玄人だぜ」
 蛻吉、ドヤ顔。
 そして彼は、長く伸びて螌蝥の女の眉間を貫いている蟲針の手元をグイッと捻る。
 すると螌蝥はガクッと脱力し、身体が崩れ落ちた。
 同時に蛻吉も、仰向けに倒れた。
 …大丈夫ですか…
「ああ」
 蛻吉を猛烈な眠気が襲う。
「毒のせいかな。少し、眠らせてくれ…」
 短く縮んだ蟲針は彼の手元で転がる。
薄れる意識の中で蛻吉は、朱色の虫籠の扉を開いた。
 灰となって崩れ落ちた螌蝥の身体が凝集し、やがて虎柄模様の蟲魂となった。
蟲魂は何かに惹かれるように転がると、朱色の虫籠の中に入って行った。
 蛻吉は無意識の中で虫籠の扉を閉め、蟲魂の感触を確認すると眠りに落ちた。
            *
 蛻吉は、母と子の夢を見ている。

 童子が母親に抱かれて眠っている。
「ははさま…」
 童子か寝言で母を呼ぶと、母は慈悲の眼差しで息子を見つめながら髪を撫で続けた。
「春之介」
 そう言って母、我が子を抱き締めた。

 だが蛻吉は、その様子を見て何も感じなかった。
 心地よさも、安堵も、温もりも。
 …母親。俺にはその記憶がない…
 蛻吉の目の前が、暗転。
            *
 土に半分埋もれている朱色の虫籠を見つけると、女はその前でしゃがんで呟いた。
「あら。虫籠じゃない」
ニンマリして彼女は、虫籠の中を覗き見た。
「残念ねぇ。螌蝥魂なのに玉虫色じゃないのね…」
 女、溜息。
「虎柄模様。あんまりお金にならないけど、貰っとこうかな」
 彼女が虫籠に触れようとすると土が盛り上がって棘となり、手を刺そうとした。
「えっ?」
 手を引っ込めて辺りを見直して、彼女は驚いた。
「あら。蛻吉?」
 土の中で眠る蛻吉。
「あらまぁ。螌蝥の毒にやられちゃったわね」
 鼻に指を当てると、彼の呼吸を感じる。
「まぁ、この程度で死ぬようなタマじゃないけど、眼に毒が入って意識失ったのね」
 女、不審顔。
「ひょっとして擬態?」
 彼女が蟲針で土の一部を刺して刺激を与えると蛻吉の身体が現れ、彼の胸元にガザミ色の蟲魂が姿を現す。
「キャーッ。ガザミ魂。カワイイっ」
 彼女がガザミ魂に触れようとすると、ガザミ魂は全身から針を出して拒否。
「ご機嫌斜ね」
 ちょっとガッカリ。
「でも、ありがとうね。あんたが蛻吉を守ってくれたのね」
 女は微笑むと、懐から小さな筒を取り出して蛻吉の瞼に当てようとする。だがそれにガザミ魂は棘針を出して阻止しようとする。
 それを見た彼女は、筒の中身を自分の目で試して見せた。
「解毒剤。害はないから安心して」
 彼女は、解毒剤を蛻吉の両瞼に垂らした。
            *
 蛻吉は違う夢を見た。

 蔵の中。
 後ろ手に縛られて襦袢姿の女が、梁から下ろした縄に吊るされている。
 和蝋燭数本が灯された明かりだけの薄暗い部屋。
 ほのかに黴臭い。
 傍らに、鞭を片手に仁王立ちする寝間着姿の武家の男が彼女を見ながら佇んでいる。
 うなじの汗に、乱れた髪が幾重にも張り付いている。
 顔を下に向けているから、女の顔は見えない。
 武家の男は、淫らな笑みを浮かべた。
 そして突然、宙づりの女の身体を鞭うった。
 呻き、打たれる度に声を上げる女。
 男が鞭うつ度に、女の身体がゆっくりと回り始める。
 男が女に何かを叫んでいる。
 声は聞こえないが、それが侮蔑に満ちた罵声だということは容易に想像がついた。
 そして、彼は何度も女を鞭うつ。
 ふと女が顔を上げ、彼女と目が合う。
 女の表情は恐怖に歪んでいるのではなく、苦痛に混濁された恍惚だった。
 虚ろな眼差しに潜む悦楽。
 女は男に鞭うたれることを望み、次の苛みを待ち続けている。
 男が鞭打つと、女の身体は緩やかに反転し、もう彼女の顔を見る事が出来なくなった。
            *
「蛻吉。ぜいきち」
 女は、何度か彼の頬を叩いて目覚めを即す。
            *
 蛻吉は、見た夢の中にもう一つの視線を感じる。

 物陰。
 童子の顔が薄暗がりの中に、ぼんやりと浮かんで映った。
 女の責め苛まれる様をジッと見つめている。
 鞭打つ男を童子は、憎悪と忍従に満ちた眼差しで睨んでいる。
 その一方で童子の視線が女へ向かう時、それは思慕と恍惚の混濁した物へと変わった。
 女と童子の視線が合い、二人は瞬時見つめ合った。
 そして、女は呻きを小さく漏らしながら言った。
「春之介…」
            *
 蛻吉はガッと目を開けると、何かから逃れたいかのように上体を起こした。
 そして女の顔を見ると、ホッとしたように女の名を口にした。
「あさり…」
「蛻吉。大丈夫かい?」
 それに応えず立ち上がると、蛻吉は彼女に言った。
「今日は帰る。日を改めて来ようぜ」
「えっ。ちょっと待ってよ。お宝探しが終わってないわよ…」
「良いから。長いは無用だ。今日のところは、屋敷全体に結界打って引き上げるぞ」
            *
 札差、泉州屋の離れ。
 泉州屋の主人の徳兵衛、蛻吉、あさりの三人は幼馴染で、江戸で仕事をする時はこの離れで逗留した。
 泉州屋は徳兵衛も含めて五代にわたって札差を営む家だが、祖父、父、徳兵衛は蟲魂を集めている好事家として知られている。幼い頃、身体が弱かった徳兵衛は父の勧めで山深くにある蟲取りの村で過ごした。そこで蛻吉、あさりの二人と知り合い、蟲魂集めの縁もあって交友が今に続いていた。
「蛻吉に懐く蟲魂なんて珍しいなぁ」
 徳兵衛は、蛻吉から離れようとしないガザミ色の蟲魂を繁々と眺めた。
「可愛いでしょう。気を失った蛻吉を護ってるの。もう、いじらしくて」
 あさり、ガザミ魂を撫でようと手を伸ばす。
ガサミ魂、全身から棘を出して断固拒否。
「ぷっ。嫌われてるねぇ」
 あさり、徳兵衛に言いっぷりにムキになって言う。
「違うわよ。ガザミちゃんの機嫌が悪いだけ」
 口を尖らせ、あさりはソッポを向いた。
「ガザミ。俺の懐に入っていろ」
 棘を納めて丸く戻ったガザミは、蛻吉に従って彼の懐に飛び込んで行った。
            *
「ところで、二人揃って来るなんて珍しいねぇ」
 徳兵衛、二人の顔を伺うように見た。
「蛻吉よ。お前、御前の屋敷に寄ったその足で江戸を後にするんじゃなかったのかい?」
「まあな」
「御前のお屋敷。何かあったかい?」
「近頃、御前のことで噂か何かあったか?」
「根岸の御前。旗本三千石のご大身の隠居。先代の日向守様。当代の日向守様が元服されるやさっさと家督を譲られ、ご自身は根岸の隠居屋敷に引き籠って蟲魂三昧の日々を送られている。人付き合いは悪い、偏屈な御仁だが何故か顔が効く。謎めいたお方だから噂の類は数限りないよ。むしろお前やあさりの方が詳しいんじゃないのかい」
「俺やあさりの上客だがこのひと月、俺とあさりは、御前に会っちゃいねえ」
「ご機嫌伺いに出向いたら、お屋敷は蟲魂で溢れっちゃって。すっかり様変わりなの。それに蛻吉ったら螌蝥にやられて昼寝してるし」
「してねぇーよ」
「蛻吉は懐かれたガザミ魂と仕留めた螌蝥魂一つ。あさりは手ぶら。普段のお前たちにしては欲のないことだ」
 徳兵衛、クスクス笑う。
「笑ってる場合じゃねえよ。あの屋敷、蠱壺となっちまってるぜ」
「ほう。蠱壺ねぇ…」
 蠱壺とは、より強い毒を得る為につかう壺のことで何匹もの毒蟲を中に入れて戦わせる。生き残った蟲にはより強い毒が備わっているとされ、この蟲欲しさに術師や蟲魂売りがこの方法をしばし用いた。
「きっと、あの屋敷の家人たちは蟲魂の餌になっちまったな」
「それで金にならない蟲魂がうようよしてたってわけね」
「すると御前も蟲魂に喰われるって言うのかい?」
 徳兵衛、他人事。
「えーっ。それ困る。お得意様なのに…」
「あー。それでか。成程ねぇ…」
「徳兵衛。何か知ってんのか?」
 徳兵衛、得心顔で話す。
「このひと月の間、御前に会ったって人が居ないらしいよ」
 蛻吉とあさり、徳兵衛の顔を見つめる。
「つまり生きている御前を誰も見てないってことさ」
「やっぱり死んじゃったってこと?」
「いいや。そうとは限らない。御前の死体を誰れも見てないからな」
「こりゃあ、何かありそうだねぇ」
 徳兵衛、ニンマリ笑う。
            *
 数日後、蛻吉とあさりは御前の屋敷の外に居た。
「静かね」
「そうだな」
 ガサミ魂は、蛻吉の肩の上で転がりながら遊んでいる。
「どうする。中に入って見る?」
「虫の目で見よう。あさり。お前、トンボを持ってたよな」
「何であたしのトンボ使うのよ」
「螌蝥の毒。欲しくないのか?」
「えっ。欲しいッ」
 あさり、アキアカネの死骸を出した。
 蛻吉はその尾に二本の蟲糸を巻き付け、一本をあさりに渡すとアキアカネを飛ばした。
 蟲糸を介してアキアカネの見る風景が二人に伝わって見えた。
「何だか静かねぇ。うようよ居た蟲魂もすっかり消えちゃってるし」
「全部喰われたな」
 蛻吉はアキアカネを母屋へ飛ばした。
 表玄関の障子戸は閉まっていた。
 蟲糸を手繰って蛻吉は、アキアカネを障子戸へ向けて全速力で飛ばす。障子を突き破って中の様子を探ろうという作戦だった。
 だがアキアカネは何かの力によって遮られ、衝突の後にその躯は三和土に落ちる。二人が見た最後の光景は、四方から湧き出た無数の油虫がアキアカネに重なる光景だった。
 蛻吉は指を鳴らしながら巻いていた蟲糸を切る。
 それは、あさりのも含めて燃えて消滅した。
「屋敷にも結界がされているってこと?」
「そうらしいな」
「あたし達以外に誰かが入ったってこと?」
「その可能性は無いだろう」
「母屋の中に生き残りが居るってこと?」
「うーん」
 二人は、ほとんど同時に人の気配を背後に感じる。
 そして、それぞれが振り向くや蟲針を投げた。
「ひぇっ」
 若い男の声。
見ると土塀の根元で侍が腰を抜かしていた。
 彼の顔の横には、蛻吉とあさりが放った蟲針が土塀に突き刺さっていた。
 二人は、その若侍をジッと見守っている。
「どちら様で?」
「ああ。怪しい者では御座らぬ」
 蛻吉とあさり、互いの顔を見合わす。
 見方によっては、どちらが怪しい者か分からない。
「拙者、日向守様の家臣。沼辺伊織と申す。虫籠売りの蛻吉殿とあさり殿とお見受け致すが相違ござらぬか?」
「日向守様のご家来?」
「左様…」
 あさり、腰を抜かしてる若侍の顔をうっとり見つめている。
 …まったく。あさりときたら。美形の若侍に見とれてやがる…
 異変がもう一つ。
 それまで蛻吉の肩で遊んでいたガザミ魂は、伊織を見るや怯えて蛻吉の懐に隠れてブルブルと震え続けた。
 …ガザミ。どうしちまった…
 蛻吉は着物越しにガザミを摩った。
「まぁ。伊織さま。大丈夫ですか」
 あさり、伊織に駆け寄ると彼の身体を支えて甲斐甲斐しく立たせた。
「済まぬ。大事ござらぬ」
 あさりと伊織、互いに見つめる。
 二人の世界。
 蛻吉、咳払い。
「あぁ。はは…」
 伊織は身繕いを整えると、二人を見て言った。
「蛻吉殿にあさり殿にござるか?」
 二人、頷く。
 そして、蛻吉が尋ねた。
「何であっしたちだと?」
「泉州屋殿より、お二人がここに居ると伺って参った」
「徳兵衛のやつ…」
 少し怪訝な表情を浮かべる蛻吉とは対照的に、あさりはウキウキしながら伊織の顔を見つめている。
「それで沼辺様…」
「あぁ。堅苦しいのは苦手でな。伊織と呼んでもらって構わぬ」
「へえ。それでは伊織さま。あっしたちに何のご用で?」
「我が主の日向守が、お二人に会いたいと申しておってな。迎えに参った」
「日向守様が?」
「左様。同道願えぬか?」
 蛻吉の返事よりも先に、あさりが即答。
「はい。伊織さま。何処へでも参ります」
            *
 日向守の屋敷。
 二人は伊織に導かれ、屋敷の奥にある主人の居間らしき部屋に案内された。
 長い庇の延びる縁側から絶えず吹き抜ける風が涼しかった。
 庇の影が途切れた先の庭は、夏の昼の強烈な日射しで輝いている。
 庭木の枝葉が項垂れ、乾いた土は水を欲しているようだった。
 寛ぎ、微睡みそうになる意識の途切れで、税吉の鼻を微かに甘い方向がくすぐった。
 …昔、嗅いだことのあるような香り…
 初めての匂いにはずなのに、蛻吉はそれを懐かしく感じた。
 懐内でガザミが、急にモゾモゾ動き始める。
 …ガザミ。急にどうした…
 着物上から懐をポンポンと叩くが、ガザミはそわそわ動く。
 …こら。おとなしくしてろ…
 だがガザミは増々忙しく騒ぎ、遂には蛻吉の懐から飛び出す。
「こらっ」
 蛻吉が慌ててガザミを掴もうと手を伸ばすがそれをすり抜け、居室の外の畳廊下まで転がって止まった。
「ガザミ」
 蛻吉が腰を上げようとした時、日向守が部屋に入って来た。
 仕方なく平伏しながら蛻吉は横目でガザミの様子を見ていたが、廊下を転がってどこかへ行ってしまうガザミを見送るしかなかった。

「日向守である。面を上げよ」
 二人は顔を上げるが、眼を伏せて顔を見ない。
 そんな二人の様子を見て日向守は、傍ら座る伊織に目配せした。
「殿は、直答を許される。ご両名、お顔を上げられよ」
 それでも緊張を緩めようとしない二人に、日向守が言った。
「その方たち、父上の前ではそのように堅苦しくあるまい。ここには儂と伊織以外に家の者はおらぬ。無礼講で良い」
 二人は、顔を上げて日向守を見た。
 日向守の風貌が、御前に似ていないことに二人は驚いた。
「如何致した?」
 四十過ぎの穏やかな風貌の殿様である。
「父上に似て居らぬ故、吃驚致したか?」
 戸惑う二人。
「儂は、生まれて間もなくに横嶋の家から養子として入った。父上に似ておらぬのは、そのせいである」
 横嶋家。
 四千五百石の大身旗本で名門の一つに数えられる。日向守の家よりが格上で、先々代が日向守よりも格上の伊予守を守名乗り出来たのも横嶋家から正室を迎えて縁戚関係を結んだからである。御前も伊予守を名乗っていたと聞いているが、当代はそれを名乗らず日向守を名乗った。
 …養子だから遠慮したのか…
 蛻吉は勝手に憶測したが、初対面の日向守に人間としての好意を抱いた。
 ふと隣の座っているあさりへ目をやると、相変わらず伊織を見続けている。
 …わかりやすい女だ…
 苦笑を押し殺して、蛻吉は日向守に相対する。
「蛻吉と申したか?」
「はい。蛻吉にございます」
「隣は、あさりであったな」
 蛻吉、伊織に見とれるあさりを小突く。
「えっ?」
「あさり殿か?」
 あさり、慌てて平伏する。
「二人に足を運んでもらったのは他でもない。頼みたいことがあってな」
 無言の二人に日向守は続けて言う。
「包み隠さず申そう。実は、父上が御乱心召された」
 呆気に取られる、二人。
「蟲魂と申したか。どうやら、それに心を奪われたようじゃ」
 二人は顔を引き攣らせ、慌てて平身低頭に平伏する。
「お、お許し下さいませ」
「良い。二人を咎めるつもりはない。頭を上げよ」
 それでも平伏し続ける二人を見兼ねて、伊織が言った。
「お二人。殿には咎めだてされるお積りはありません。面をお上げ下さい」
 二人は、恐る恐る顔を上げた。
「蟲魂集めは、父上に始まった道楽ではない。祖父と父上の二代。屋敷に出入りする蟲魂売りも、二人に限らぬ。咎める積りなら、その者たち全員に対して、それなりの手立てを講じるまでのこと」
「…」
「…」
「先程も申した通り、たっての願いがあって二人を呼んだのだ」
「それは、どのようなことでございましょうか?」
 蛻吉、腹を据えて尋ねる。
「蟲魂は人の心の闇が作る妖と聞いておる。また蟲魂取りは、その蟲魂を抜くことによって人の心の闇を取り払って心の病を治すそうな。その力により父上を救ってもらえぬか」
「何故、手前たち二人を?」
「泉州屋からの推挙よ。腕か立ち、口が堅く、父上と昵懇故、適任じゃと」
 蛻吉、心の中で舌打ち。
 …ちぇッ。徳兵衛のやつ…
 思わず顔を見合わせたあさりの表情も、蛻吉の心情と同じようだった。
「あっしらは医者じゃございません。蟲魂を取るのは商いのため。人の心の病が治るのは偶々そうなったに過ぎやせん。場合によっちゃあ、御前様を無事にお救いできるとは限らねえし、最悪は御前がお命を落とされることも」
 腕組みして天井を見つめ、息を漏らしてから日向守は答えた。
「それでも構わぬ」
「えっ?」
「…」
「万一、父上の身に何かあってお命を落とされようとも、人として救われることになるのであれば、それを受け入れよう」
「…」
「…」
「願いを受けてくれぬか?」
「承知致しやした」
「礼を申す。お頼み申ますぞ。蛻吉殿。あさり殿」
 日向守と伊織は、二人に頭を下げた。
「滅相もねえ…」
 二人、平伏。
「足手まといとならぬと思うが、ここに控える沼辺をお二人に加勢致そう」
「…」
「えっ。本当ですか?」
 あさり、ウキウキ。
 伊織、頭を下げる。
            *
 日向守が立ち去った居室。
 難しい表情の蛻吉。
 何となく伊織に寄り添う、あさり。
 にこやかな伊織。
「あっ。そう言えば、ガザミの奴はどこへ行きやがった」
「居なくなっちゃったの?」
「まったく…」
 そこへ、奥女中が伊織を呼んだ。
「如何された?」
「大刀自様が、沼辺さまに至急お越し頂きたいと申されております」
「左様か。ではこれより参ろう」
 腰を上げかけた伊織に奥女中は更に言った。
「沼辺様だけではなく、ご一緒の皆様もと申されております」
 伊織、首を傾げながら二人を見る。
「相分かった。お二人をお連れして直ぐに参ると、大刀自様にお伝え願いたい」
 奥女中は去った。
「大刀自様とは?」
「御前様の乳母様にあらせられ、伊予守様、御前様、殿の三代にお仕えなされておられるそうな。殿のご家族同様の方で離れの間で生活されておいでです」
「伊織さま。その大刀自様は幾つくらいの方なんでございますか?」
 伊織は笑いながら答えた。
「齢、九十を超えられるようです。頭も身体もご壮健で、そのお歳には見えませんがね」
            *
 離れに通された二人、我が目を疑って呆然とした。
「ガザミ…」
 ガザミが、大刀自の前で甘えるように懐いていた。
「大刀自様。お二人をお連れ申しました」
「あぁ。これは、これは。中へお入り下さい」
 大刀自は総白髪ながら肌艶も良く、気品を備えた老嬢に見えた。
 挨拶を終えると、蛻吉はガザミを呼んだ。
「ガザミ。こっちにおいで」
 モジモジして大刀自の傍を離れ難そうにしていたが、ガザミは蛻吉の懐に飛び込んだ。
「可愛らしい妖ですね」
「大刀自様は、蟲魂をご存知でいらっしゃいますか?」
「似たような妖を、先々代、先代さまに見せて頂いたことがございますよ」
「左様でございましたか」
「触ると気が触れるとか。ですから触りたい気持ちを我慢しました」
 大刀自、屈託なく笑う。
「大刀自と呼ばれております。お二人、お名前は?」
「あっしは蛻吉でございます。隣りに居るのは…」
「あさりでございます」
「蛻吉さんと、あさりさんですね」
 ガザミは退屈なのか、蛻吉の懐の中でモゾモゾしている。
「根津屋敷のこと。宜しく願い致します」
「滅相もねぇ」
「お二人の助けになることが出来ると良いのですが…」
「大刀自様。お気持ちだけで充分でございますから、ねぇ蛻吉」
「一つ。お伺いしたいのですが宜しいでしょうか?」
「蛻吉ッ」
「はい。何でしょう?」
「春之介とお名に心当たりはございませんか?」
 大刀自は無表情に答えた。
「春之介。さて。その名は覚えにございませんが、何か?」
「夢で聞いた名前です」
「夢で?」
「はい」
「どのような夢でしたか?」
「母親に抱かれて眠る童子を見ました」
 瞬時間が空いて、大刀自は言った。
「童子は幸せそうでしたか?」
「幸せ。そう言うのかも知れませんが、あっしにはとんと分らなくて」
「わからない?」
「あっしはね、子供の頃の記憶が無いんでさぁ。ですから親子の情とか、愛とか、今ひとつ解らずじまいでこの歳になっちまいました。でもねぇ、その童子ですが、お袋さんの胸の中で何だか気持ちよさそうに眠ってましたぜ」
「そうですか。それは良かった」
            *
 大刀自との歓談を終えて部屋を出ようとする蛻吉を大刀自が呼び止めた。
「?」
 蛻吉の手を取ると大刀自は、匂い袋を彼に渡した。
「きっと役立つ時があります。肌身離さずこれをお持ちなさい」
「はい…」
 蛻吉は、懐にしまう前にその匂いを嗅いだ。
 …この匂いは…
 日向守を待つ間、一瞬彼の鼻をくすぐった香りだった。
「ご武運を」
 そう言い残して、大刀自は居室に戻って行った。
 匂い袋を懐に入れた。
 それまで蛻吉の懐の中で落ち着きなく動き回っていたガザミだったが、いつの間にかおとなしくなった。
 …眠っちまったか…
 蛻吉は、畳廊下を先へ行くあさりと伊織の後を追った。


(中編へ続く)
(次回アップ予定:2021.8.7)

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眠れない夜に

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