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新月夜会

          酒場

 扉を開けて店主の親父と目が合うと、奴はちょっと困った眼差しで俺を迎えた。
「いらっしゃい」「混んでるようだな」「珍しいよ。今日は、この時間から混んでるんだ」「まだ夕方の6時前なのにな」「こんな事、滅多にない」「そうだな」「親父。ビール2本」「はいよ」「親父。出直すわ」「あァ。ちょっと待て、待て」「また来るよ」「まぁ待てって」
 縄暖簾越しの町は夕陽で深紅に染まる。
 それとは対照的にビルの陰は闇に霞む。
「今さ、席を用意してるから」「でも、いっぱいだろ」「隅の二人席を開けっから」「いいの?」「大丈夫。その代り、お客さん来たら相席をお願いするかもしれんが良いか?」「良いよ」

          深酒

 店の客たちの会話に聞き耳を立てながら、俺は熱燗を飲み続ける。
 時折、彼らの話に加わりたい衝動に駆られることもあるが、そんな時は酒を追加する。
 独りが好い。
 不用意に他人と関わりたくない。
 関わったがために仕事が増え、不満や鬱積が悪口となって噴き出すことは珍しくない。
 そんな彼らや彼女たちが仮面を脱ぎ捨て、素の自分となって暴れる姿は清々しい。
 置かれる酒が美味いと思ったことは無かったが、酔えれば良い。
 客たちの話を耳にするうち、俺は睡魔に抱かれる。
 そして瞼が自然と閉じて、眠りに落ちていく。

          相席

 目が覚めて、俺は相席の見知らぬ男の顔を見てギョッとした。
 男は左半分の顔が潰れ、眼球が飛び出ている。
「目が覚めたかい。あんた。ちょっと飲みすぎだぞ」
 眼神経束に繋がってぶら下がった左眼球が俺の目前で揺れる。
 …俺は酔っぱらって幻覚を見ているのか…
 その男。顔の右半分はまともと思っていたが、右側頭部に穴が空いている。
「親父。カシラ2本とネギ味噌貰える」「へーい。お待ちを」「あたし。レモンサワーね」
 周りの酔客の注文はちゃんと聞き取れている。
「あんた。大丈夫か?」
 俺は混乱している。
それは目の前に居る男の異形だからではなく、単なる酔っ払いでしかない俺がどう見ても俺より大丈夫じゃない男に心配されたからだった。
「親父。おれたち酎ハイ二つね」「へーい」「あと、厚揚げ焼き一つね」「へーい」
 男は小首を傾げ、俺を心配そうに眺め続けている。
「うーん。ちょっと顔色が戻ったようだな」「…」「真っ青だったぞ。水。少し飲むか?」「ありがとう」「いびき、かいてたしな」「いびき?」「脳卒中かと思ったよ。疲れてんな」
 俺の目の前で眼球が振り子のように揺れている。
 水を飲むのに邪魔だったから俺は、目の前の男を押し戻した。
「ほい、カシラ。厚揚げ、少し待ってね」「(嬌声)」「レモンサワーとチューハイ、二つ」
 水を飲んで人心地つくと俺は、異形の男に話し掛けた。
「俺より、あんたこそ大丈夫か?」「俺か?」「顔、潰れてるぞ。目玉も飛びしてるしな」「あぁ。これか」「うぉっ。触るな。神経切れるぞ」「大丈夫。大丈夫」「今すぐ病院行けよ」
 男、プッと吹き出して笑う。
「笑うなよ。あんたの顔、一段と不気味になる」「ひどいねぇ。その言い方」「悪かった」「病院。現在の俺には必要ないよ」「必要だろ」「?」「あんた。自分の大怪我、わかってる?」「もちろん。わかってるよ」「痛いだろ」「いいや」「痛いわけないだろ」「そうでもないよ」「?」「つまり俺は、もう死んじまってるから」「嘘つけ」「本当さ。血、流れてないだろ」「…」「死んだから痛くない」「あんた幽霊か?」「少し違うな」「?」「俺、亡者なんだよ」
 飛び出た眼球を震わせながら男は、屈託なく笑う。
 …なんで俺が、こんな奴と相席なんだ…
 そう思いながら俺は、酔いざめに遭遇した不条理を嘆いた。
            *
 店は相変わらず混んでいて、他に移れる席は見当たらない。
「あんた。酒、飲まないのか?」
 俺は、すっかり酒のことを忘れていた。
「あんた。ビール飲むか?」
「あんた、日本酒飲んでたんじゃなかったのか?」
「喉が渇いたんだ。取り敢えずビールにする。あんたも飲むだろ」
「いいや。俺は…」
 頭に穴の空いた男の返事を待たずに、俺は瓶ビール二本とグラス二つを頼んだ。
「俺は飲まないよ」
「飲めないのか?」
「いいや。むしろ大酒飲みだ」
「じゃあ、ビールが嫌いとか?」
「いいや。むしろ大好きだよ」
「じゃあ、好いじゃないか。付き合えよ」
 バイトの店員は、俺を怪訝目つきで見ながらビールとグラスを置いて行った。
「好きなんだろ。遠慮するなよ」
 頭に穴の空いた亡者は、俺が注いだグラスのビールをジッと見つめている。
「乾杯しようぜ」
「…」
「どうしたんだ?」
「飲んでも、酔えなくてね」
「一、 二杯のビールじゃ酔えないだろ」
「そじゃなくて。いくら飲んでも酔えなくてね」
「あんた。酒豪なのか?」
「いいや」
「?」
「飲んで見せた方が早いな」
 そういってグラスを手に取ると、頭に穴の空いた亡者はビールを一気に飲み干した。
「飲めるじゃないか」
 俺がそう言い終えるより先、頭に空いた穴から泡混じりのビールが溢れ出した。
「そうか。漏れるのか」
「あぁ。だから飲まないことにしてる」
 俺は、おしぼりを手にするとそれを丸めて男の頭の穴に押し込んだ。
「おい。何する?」
「ビール。飲んでみろよ」
 俺がビールを注いだグラスを恐る恐る手にすると、頭に穴の空いた亡者はそれを飲んだ。
「えっ…」
 それまで強張っていた亡者の表情が、みるみる和らぎ笑みへと変わる。
「漏れ。止まったようだな」
 頭に穴の空いた亡者は嬉しさの余り、瓶を握るやビールをラッパ飲みした。

          投合

「お前。好い奴だ」「お前って好い奴だ」「お前、本当に好い奴だ」「お前は、好い奴だよ」「お前って好い奴だ」「お前は、好い奴だよ」「お前、本当に好い奴だ」「お前。好い奴だ」「お前、本当に好い奴だ」「お前。好い奴だ」「お前は、好い奴だよ」「お前って好い奴だ」「お前は、好い奴だよ」「お前って好い奴だ」「お前。好い奴だ」「お前、本当に好い奴だ」「お前。マジで好い奴だ」「なんて好い奴なんだ、お前」「お前みたいな好い奴、初めてだ」
 次に『好い奴だ』と言われたら、24回目となる。
 これまでの人生で、他人からこんなに感謝されたのは初めだ。
 酔っぱらって赤ら顔の頭に穴の空いた亡者。
 おしぼりで塞いだ穴はユーモラスだが、ガン見されるとかなり不気味。
 だが奴とは、妙に馬が合った。
 人生でかなり嫌な目に遭って、絶望の果てに駅のホームから飛び込み自殺。
 当然ながら成仏できず。
 異形の顔でこの世を彷徨っているいるらしい。
「何年くらい亡者をやってるんだ?」
「さぁな。分からん」
「長そうだな」
「死ぬと時間の流れは関係なくなる」
「止まるってことか?」
「ちょっと違うな。どちらかと言うと『無意味』の方が合ってる」
「無意味?」
「生きていると時間に縛られるだろ」
「うん」
「それは『死』という『終わり』が必ず来るからなんだ」
「終わりと時間が関係するのか?」
「現在から死までの長さが分からないと、終われないだろ」
「そうなのか?」
「俺は死んでる」
「そうだな」
「死んでるから終りが来ない」
「うん…」
「身に起こることがあるとすれば『消滅』だけだ。でも、それが起きる分からない」
「…」
「つまり消滅は死と違って、不確実なものだってことさ。だから時間が無意味なんだよ」
            *
「あんたにお礼をしなきゃな」「お礼って何のだよ?」「俺が酒に酔えるようになった礼さ」
「そんな大袈裟な」「本当に嬉しいんだよ。さぁ、言ってくれ。何が良い?」「それなら…」「それなら?」「ここの飲み代を払ってくれれば良いよ」「飲み代か?」「うん」「困ったな」「どうした?」「金。持ってないんだ」「えっ」「亡者だからな」「良いんだ。気にするなよ」「…」「あんたのお礼をしたいって気持ちで充分だ」「だがなぁ…」「まぁ。飲めよ」「あっ」「どうした?」「夜会に行かないか?」「夜会?」「今夜は新月だろ?」「新月の夜なのか?」「新月の夜。鳥女の屋敷で夜会が開かれるんだ。旨いメシと酒がタダで食える」「鳥女?」「亡者を集めて振る舞うんだ」「金持ちなのか?」「デカい屋敷に住んでる」「金持ちの女か」「なぁ。行こうぜ」「亡者の集い。俺みたいな生身の人間が行って良いのか?」「楽しいぞ」「…」「心配するな。俺がついてる」「だがなぁ…」「滅多に経験できない機会だぞ」「…」

          夜会

 鳥女。
 その名の通り鳥の頭に女の身体を持つ人物。
「彼女は、黒い鳥女と呼ばれている」
 頭に穴の空いた亡者は、俺の耳元で囁いた。
 彼女は何故か、横を向いている。
 そのくせ鋭い眼差しで俺を観察し続けた。
「生きた人間なの?」
 鳥女が喋った。
「はい。マダム」
「何故、ここに連れて来たの?」
「恩返しです。大変世話になりました」
 もう一度、黒い鳥女は俺を見直していった。
「あなたを歓迎しましょう。間もなく、晩餐が始まるわ」

          晩餐

 果てなく広がるダイニングルーム。
 両端の見えない長テーブルが延々と並び、無数の亡者たちが集っている。
「二人とも座って。晩餐は、もう始まっているから」
 俺と頭に穴の空いた亡者は席に着いた。
「ここのメシと酒は旨いぞ」「本当に美味いのか?」「ここのシェフ、腕は超一級だぜ」「…」「変な物を出される思ってる?」「いやぁ…」「心配するな。ちゃんとした食い物が出る」
 そう言われても、周りに居る亡者たちは例外なく異形の者たちはがりだった。
「俺にも慣れたろ」「まぁな」「最初は、不気味だったろ」「確かにな」「正直な奴だ」「…」「だから黒い鳥女は、あんたを受け入れたんだ」「えっ?」「異形でも亡者は、人間だから」
 前菜が運ばれて来た。
「美味いなぁ…」「だろ」「こんな旨いもの初めて食べたよ」「五つ星のシェフだったからな」「そうなのか?」「人は誰でも旨い物には目が無い。そしてここに集うのは全員、人だよ」
            *
 俺は、寛ぎと安らぎに包まれていた。
「ここ。最高だな」「気に入ったか?」「居心地が好い」「そうか」「メシも酒も最高だしな」「あっという間に馴染んだな」「自分でも不思議なんだ」「?」「誰も彼も、普通じゃないし」「亡者だからな」「俺、人が苦手なんだ」「嫌いなのか?」「いや。合せ方が上手くないんだ」「なるほど」「一人が好い」「寂しく無いか?」「人の中に居ると疲れる」「会話もしない?」「直接は苦手。だから仕事は家に居て一人でやれるのを選んでる」「交わるのが嫌なんだな」「そう。だから一人で好い」「それで本当に満足か?」「不満はないよ」「満足でもないか」「実は時折、無性に人恋しくなる」「そうか」「だから、あの居酒屋に行って酒を飲むんだ」「酒が好きで通っていのではないのか?」「酒は好きだが、人の感覚を触れに行っている」
 頭に穴の空いた亡者は、クスッと笑った。
「何が可笑しい?」「お前って生きてるに亡者みたいだな」「俺が亡者?」「あぁ」「どこが?」「人嫌いで孤独なところ」「人嫌い。孤独」「亡者はこの世に恨みや未練を残して死ぬだろ」「あぁ」「拭えぬ思いを抱えて、誰にも気づかれることなく今生を彷徨うのさ」「そうだな」「亡者同士が出くわす事も稀だ」「…」「でも誰も彼も、元は人間だった」「人恋しくなる?」「だから新月の夜、ここに集って恨みや未練を洗う」「洗う?」「本来の自分に戻るんだよ」「何で新月の夜なんだ?」「闇が一番濃く、光が最も薄い」「つまり一番暗いってことか?」「ほど良く暗いってことさ。それは子宮の暗さに近い。人間にとって一番安らぐ暗さだよ」
 亡者たちは、飲んで、食べて騒ぐ。
そんな彼らに、俺は懐かしさと親近感を覚えた。
「ここは、俺が通う居酒屋と居心地が似ているよ」「だから俺は、あの店に誘われのかな」
 二人、笑う。
「お前、異形の俺たちが怖くないのか?」「怖くないよ」「嫌悪も抱かないな」「それも無い」「不思議な奴だ」「そうか?」「うん」「見かけが違うだけじゃないか。酔っ払いでしかない」「…」「亡者でも、人間でも。本音を晒している奴は安心できる。ここの連中もそうだよ」
「黒い鳥女が、お前を受け入れた理由が解った気がする」
 そう言って頭に穴の空いた亡者はクスッと笑い、眼球が揺れた。
 俺は、困惑の眼差しで頭に穴の空いた亡者を見つめた。
「どうした?」
「一つ、言っても良いか?」
「何だ?」
「気を悪くするなよ」
「あぁ」
「垂れ下がってるお前の目玉、元の場所に収まらないのか?」
「…」
「不気味だし」
 頭に穴の空いた亡者、ポカン顔。
「ちょっと、気持ち悪い…」
 腹を抱えて、頭に穴の空いた亡者は爆笑しながら言った。
「お前のそう言う所が、黒い鳥女に気に入られたんだな」

          余興

 純白の平皿に載せられた蓮の花がデザートとして配られた。
 すると突然、黒い鳥女が激しくテーブルを叩いて立ち上がった。
「何ですかッ。このデザートは?」
 怒り心頭の黒い鳥女。
「シェフはどこ?」
 彼女にかしづく白い鳥女たちは、狼狽して周りでオロオロする。
「直ぐここに呼びなさいッ」
            *
 シェフがやって来た。
 苦みばしったイイ男だが、額の真ん中に銀のフォークが刺さっている。
「額のフォーク。痛そうだ」
「あれか。まぁ、あれがあいつの死因だがな」
「あれで死んだのか?」
「痴話喧嘩。逆上した愛人に突き立てられたらしい」
「あそこ。太った金持ちそうなオヤジと親し気に話している女」
「美人だな」
「あれが、その愛人さ」
「彼女も死んだのか?」
「シェフが死んだ直後にな」
「後を追ったのか?」
「ロマンチックだねぇ」
「えっ?」
「シェフに盛られた毒で死んだのさ」
            *
「この蓮の花は何ですかッ?」
「デザートでございます」
「あたくしが、この花を嫌っていると承知で出したのですか?」
「はい」
 シェフに向けられた抗議の低く濁った声がダイニングルームに響く。
「黒い鳥女とシェフ。実は、犬猿の仲なんだ」
「そうなの?」
「夜会にシェフは不可欠。あのシェフが消滅ない限り代わりのシェフは現れない」
「シェフくらい幾らでも居そうだけど?」
「そう運命付けられている。だから黒い鳥女は、あのシェフを使い続けるしかない」
 黒い鳥女は、抗議を示す客たちを制止した。
「使用の意味を尋ねましょうか?」
「使用の意味?」
「無いという答えもあってよ」
 黒い鳥女の瞳は、皮肉と憎しみに満ちている。
「時刻。本日のディナーには、その演出が不可欠だったからです」
 再び、ブーイングの嵐。
「ここに居合わす全員に『時刻』が無意味であることを知らないのですか?」
「そうでしょうか?」
「…」
「本日のゲストに『時刻』に関われる方がいる。あの方です」
 シェフは、俺を指さす。
 無数の亡者達の視線が俺に集まった。
「さぁ。こちらへ」
 シェフは、俺を手招きする。
「行くしかないさ。生身の人間さん」
 俺は、頭に穴の空いた亡者に背中を押されて席を立った。
            *
「スマホ。お持ちですね?」
 シェフは、俺に尋ねた。
「えぇ。持っていますよ」
 失望と嫉妬のブーイング。
「現在、何時ですか?」
「23時54分」
「時刻に何の意味があるというのですか?」
 苛立つ、黒い鳥女。
「現在ではありません。やがて間もなく迎える時刻に意味があるのです」
「その時刻とは?」
「午前0時」
 シェフの傍らに時刻が浮かび上がった。
 午後23時59分34秒。
 時は動く。
 午後23時59分44秒。
 午後23時59分45秒。
 午後23時59分49秒。
 午後23時59分50秒。
 9、8、7、6、5。
 自然と沸き起こるカウントダウン。
 3、2、1、…。
 ゼロ。
 照明が完全に消える。
 同時に、テーブルに置かれた無数の蓮の花が輝き、ポンッと弾ける音と共に咲いた。
 芳香がダイニングルームを彩る。
 再び照明が灯り、開いた蓮の花の中の七色のジェラートに亡者たちは歓喜の声を上げた。

          舞踏

 ダンスホール。
 亡者たちは陶酔に身を任せて踊り狂う。
 思考を破壊する音。
 点滅し続けるライト、ライト、ライト。
            *
 五色に点滅する闇の中で、俺に身を寄せる女がいた。
 …あっ。シェフの愛人…
 俺は彼女と二人、無人のトイレの個室に入った。
            *
 貪り合う何度かの抱擁の後、彼女は俺の耳元で囁いた。
「キスはダメよ」
 俺は、彼女を見つめた。
「あたし、あのシェフに毒殺されたの」
「知ってる」
「薄紫色の唇。毒よ」
 彼女の口臭は生臭かったが、それが俺を一層興奮させた。
「あなた、死ぬわよ」
 俺が彼女にキスをしようとした時、彼女は俺の唇を日本の指で遮って言った。
「構わない」
 俺は彼女の両腕の自由を奪うと、彼女の唇を貪った。
 ザラザラとして蛇肌のような舌ざわり。
 甘くも、苦くもある唾液の味。
 体が痺れる。
 …これが毒の味わい…
ぶっ跳びかける意識を何度も振り払い、俺は彼女を求め続けた。
「あなたも、亡者となるのね」
 耳元で囁く彼女の声。
 その後のことは、覚えていない。

          吟遊

「ギャァーっ」
 俺は悲鳴で目を覚ました。
目を覚まして最初に見た物は、頭に穴の空いた亡者の眼球だった。
「あんた。大丈夫みたいだな」
 心配そうに俺を覗き込む、頭に穴の空いた亡者。
 俺は、奴の腕を噛んでいた。
 俺の歯は奴の腕の肉に喰い込み、噛み痕から滲み出る奴の血を必死で啜る。
「もう、これ以上はあんたの身体に障る」「どうしたんだ?」「あの女に殺されかけたのさ」「どうして俺は、あんたの腕を噛んでる?」「解毒さ」「あんたの血が?」「毒には毒だよ」「亡者になり損ねたか」「残念そうだが」「ちょっと」「まだ、その時ではないのさ」「…」「あんた。立てるか?」「まだ、ちょっとフラつく」「俺の肩に掴まれ。ゆっくりで良いぞ」
            *
 ダンスホール。
 舞台の中央に三線を奏でながら吟じている亡者がいた。
 無数の亡者たちは、誰もがその旋律と吟詠に耳を傾ける。
            *
「彼は?」
「吟遊の亡者。三線を奏でる。今日の夜会のクライマックスさ」
 彼の旋律は、何故か俺の心に沁みた。
 そんな俺を見て、頭に穴の空いた亡者は俺の耳元で囁いた。
「泣くなよ」
「えっ?」
「消滅しちまうぞ」
 頭に穴の空いた亡者はニヒルな笑みを俺に向けた。
「今日泣いた連中は、この後船出して『消滅の淵』に行く」
「そこで消滅するのか?」
「うん」
「それにしても聞き入ると涙しそうだ」
「人間の方が亡者よりも感じやすい」
「元は同じ人間なのに?」
「あの亡者は耳が聞こえない。だから心の情景を弾き歌いする」
「心の情景かよ」
「亡者は恨みや未練で、その辺の感覚が鈍くなってる。人はその点で素直なんだ」
 二人、笑う。
「彼は、永遠に奏で続けるのか?」
「耳が聞こえないからか?」
「うん」
「吟遊の亡者は、自らの心に震える瞬間があるという」
「それが彼にとっての消滅の時?」
「そうだ。でも、誰もそれを見た者は居ない」
「あんたは今日、泣かないのか?」
「今日は違う」
「そうか」
「泣く時は、涙せずには居られないそうだ。だから今日は、きっと違う」

          船出

 船着き場は中庭の大池に連なると聞いていたが、大池は海原のように広く涯が見えない。
「随分と広い池だな。海じゃないのか?」「中庭にあるから池だよ」「やっぱり世界が違う」
 白い鳥女たちに連れられた亡者たちが、次々と船に乗り込んでいく。
「白い鳥女たちも一緒に行くのか?」「漕ぎ手だからな」「戻って来るんだろ」「戻らないよ」「えっ?」「船出をしたら誰も戻らない」「どうして?」「消滅の涯で、船ごと沈むらしい」「白い鳥女たちも泣いたのか?」「鳥女たちは泣かないよ」「だったら何故一緒に消滅する?」「知らん」「…」「でも、それが白い鳥女たちに決められたことなんだ」「不条理なんだな」
 頭に穴の空いた亡者は答えることなく、無言で黒い鳥女を見た。
「だから見送りをするんじゃないかな」「黒い鳥女か?」「毎回、必ず船出を見送りに来る」
 船に乗り込む亡者たちの喧騒は続いている。
「何故、泣くと消滅の涯へ行けるんだ?」「浄化されるからさ」「恨みや未練が消えるのか?」
 乗り込む亡者たちの中に、俺はシェフの愛人の姿を見た。
「あの愛人も船出するんだな」「お前で浄化されたんだよ」「止せよ。俺は殺されかけたぞ」「あの女とキスをした者は全て死んだが、お前は生き残った」「俺は、あんたに救われた」「でも生き残れたろ」「まぁな」「死のキスの呪縛から解放されたのさ」「それが浄化なのか?」
 頭に穴の空いた亡者は頷いた。
「あそこを見てみろ。シェフが居るぞ」「えっ。どこどこ?」「三階の灯りのついた部屋だ」
 頭に穴の空いた亡者の指さす先に、シェフの姿があった。
「次は、あのシェフも船出かな」「何で分るんだ?」「あいつ、あの女を愛していたからな」
 船出を告げるラッパが鳴り響く。
 オンショアの生温かい風が吹き始めた。
 白い鳥女たちは櫂を握り、消滅の涯へ向けて船出して行った。
 黒い鳥女は、船をいつまでも見送り続けた。

          一期

「ここでお別れだ」
 頭に穴の空いた亡者は、俺にポツリと言った。
 そこはビルの陰の路地と車道との境界のような場所だった。
 東の空が白み始めていた。
 路地は闇に包まれているが、車道のアスファルトは白く輝き始めていた。
「もう間もなく、夜が明けるんだな」
「そうだ。俺たちは逢魔が時に出会って、夜明け前に別れるんだ」
「何だか少し寂しいよ」
「楽しかった証拠さ」
「あんたはどうだ?」
「寂しいさ」
 不気味で仕方なかった男の顔が、味わい深く目に映るから不思議だ。
「新月の夜。俺は、あの酒場に顔を出す。たまには会いに来てくれ」
「そうだな。約束はしないが、気が向いたら行くかもしれない」
 俺は、頭に穴の空いた亡者を抱いた。
 身体は冷たかった。
 少し力を抜いて奴の頭を何気なく見ると、穴に詰め込んだおしぼりが見えた。
 身体を話すと、奴は俺の顔をジッと見つめてから言った。
「お前は『生』を楽しめ」
「お前は?」
「俺は、消滅の手前まで『亡』を味わうさ。さぁ、もう行け」
 頭に穴の空いた亡者は、俺の背中を押した。
 俺はその勢いで車道に歩み出る。
 振り返って路地を見た時、もうそこには奴の姿は無かった。

          一会

 幾度目かの新月の夜をここで迎えただろう。
 頭に穴の空いた亡者と酒を飲んだ隅の席で、俺は酔っぱらっている。
 …奴はもう、消滅してしまっただろうか…
 でもあの時のように、ふらりと飲みに現れるかもしれない。
 あやふやな期待を肴に酒を飲むのも悪くなかった。
 …俺は、あいつの言った通り『生』を楽しんでいるのだろうか…
 それは判らないが、あの日を境に劇的に変わったことがある。
 酒が美味くなったと、感じられるようになった。
 今日も酔った。
睡魔が俺を抱く。
 瞼が閉じて微睡む意識の中で俺は、いつも思う。
 目覚めた時、振り子のように揺れる眼球を目に出来る期待を抱いて。


(END)
(次回アップ予定:2021.7.17)

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