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蟲魂(むしだま)

「蟲。おらんかねぇ…」
 それは、鈴の音を鳴らしながら道を行く虫籠売りの男の声だった。
 風変りな様相の男だった。
 編み笠を被ってるいるので顔は見えないが、声の感じからすると三十前後と思われた。背は高いようだが痩せた体つき。歩く姿は案山子に思えた。
「蟲。蟲はおらんかねぇ…。虫籠も沢山あるよ。籠に入れる蟲、おらんかねぇ…」
 何とも珍妙な商い口上である。
「虫。虫って。籠なんて売らないで虫売りとなれば良いのに…」
 彼女は通りに面した二階家の窓辺に腰を下ろし、眼下を過る虫籠売りを見て笑いながらそういった。
 彼女の名前は、お梅。
 日本橋に店を出す呉服商の近江屋の娘である。
 近江屋の主人である与平は、お梅が六歳の時に遠縁から養女として迎えた。
 ここは、向島にある近江屋の寮。
 寮というと町から少し離れた自然豊かな場所にある別宅という感じだが近江屋の寮は町中にあって、お梅は婆やと二人で住んでいた。
 盛夏の昼。
 照り返しの強い表通りを、虫籠売りは商い口上と共にゆっくり歩いている。次第に遠ざかろうとする彼の姿を目で追う内に、お梅は彼に会いたいと思った。
「ねぇ。婆や。虫籠売りを連れて来て」
 団扇を扇いでお梅に涼を送りながら、眠たそうにしていた彼女の顔がハッと目覚めた。
「まぁ。虫籠売りなんて。いけません」
「どうして?」
「いけません」
「蟲。蟲はおらんかねぇ…」
「欲しいの、虫籠」
「虫なんて。どこにも居ないじゃありませんか」
「それでも欲しいの」
 お梅が言い出すと聞かないことを、婆やはよく心得ている。
「わかりました。婆やが虫籠を買って参ります」
「ダメなの。虫籠。自分で選びたいの」
「いけません。お嬢様に何かあったら旦那様に叱られます」
「選びたいの」
 結局、お梅に負けて婆やは虫籠売りを呼びに行った。
            *
 お勝手に隣合せにある座敷。
 そこでお梅は、婆やと一緒に虫籠を見ている。
 それにしても風変わりな男だった。
 男は色や形の様々な虫籠を二人の前に並べると、商いをするでも愛想を言うでもなく三和土に腰を下ろして黙って煙草を吸っている。
 二人は虫籠選びに夢中だった。
 蝉しぐれが障子を微かに震わせる。
 仄かに暗く、しんみりと涼しい土間。
 開けっ放しの勝手口から覗いている外は、強い日差しで乾いて輝いていた。
 余程楽しいのか、二人の会話が途切れがちとなる。
 男が燻らせる煙管口から静かに立ち上る煙草の香り。
 お梅は相変わらず夢中に虫籠を選んでいたが、婆やは厭きたのか居眠りを始めた。
 船をこぎ始めた婆やを横目で見て、お梅はクスッと笑う。
 そして虫籠選びに目を戻そうとした時、虫籠売りと目が合った。
 怜悧な眼差しで、それを少し怖いと感じたけれども、お梅は惹かれた。
「嬢様。気に入った虫籠はあったかね」
 お梅は首を左右振って見せる。
「そうかね。それでは取っておきの虫籠を見せてあげようか?」
 お梅は、素直に頷いて見せた。
「そこじゃ遠いから、こっちに来てもらえんかね」
 お梅は、男の言いつけに従って上がり框に腰を下ろした。
 二人は一瞬、見つめ合った。
 蝉しぐれ。
 ほんのわずかの間、二人を包む空気が妖艶に澱むようだった。
「これだよ」
 男が差し出したのは、朱色の鮮やかな虫籠だった。
「きれいなこと…」
 笑って見つめ合う二人。
 男は、お梅の透き通るように白く小さな手を優しく触れ、掌を上に向けさせた。
 そして、その上に虫籠を置いた。
「綺麗…」
 虫籠に見とれる内、お梅の意識は段々と虚ろになり始める。
 意識が飛ぶ直前、彼女が感じたのは足袋越しに伝わる男の手の感触だった。
            *
「お梅や。寝たのかい?」
 蚊帳の中。
 眠ったふりをして薄目を開けると、実の父親の顔があった。
「眠ってしまったのだね」
 実父は、優しい眼差しで彼女を見ていた。
「お梅は、本当に可愛い子だ」
 そう言うと実父は、六歳になったばかりのお梅の頬を優しく撫でた。
「本当に可愛い…」
 そう言いながら実父は、お梅の身体を触り始めた。
 お梅は眠ったふりをしながら、薄目でその様子を見守った。
 毎夜、繰り返される行為だったが嫌だった。
 蚊帳に蛍がとまっていた。
 灯されては消える蛍の光。
 点滅を数えながら、お梅は実父に身を任せた。
            *
 ふと、眼を開けると朱色の鮮やかな虫籠が目に入る。
 お梅は、ずっと忘れていた甘美と嫌悪の綯交ぜとなった気分に酔いしれる。
「さぁ。もう、直に心の蟲が姿を現すよ」
 耳元で囁かられた男の声に、お梅は恐怖とすがる思いで身体をビクッと震わせる。
 そして彼女は、再び目を閉じた。
            *
 お梅が目覚めた時、蚊帳の外に蛍の姿は無かった。
 実父は、彼女の隣でいびきをかいて眠っている。
 いびきが途切れると、秋虫たちの鳴声が聞こえる。
 暗い天井を見ながらお梅は、次の夏までの季節を思った。
 秋も、冬も、春も、きっと長いに違いない。
 考えるのを止めようと目を閉じるお梅だったが、眠ることができず再び目を開けた。
 ふと、部屋の隅に置かれた行灯が目に留まった。
 実父が消し忘れたのか、その燈明は尽きることなくぼんやりと輝いている。
 涼のため僅かに開けた雨戸の隙間から時折、気まぐれに流れ込む風で燈明が揺れた。それはまるで蛍の輝きのようでもあった。
 お梅は実父を起さないように床を抜け、蚊帳の外に出ると行燈の前に立った。
 しばらくの間、彼女は行燈を見つめ続けた。
 そして彼女は、無表情に行燈を蹴倒した。
 アッと言う間に火が燃え上がる。
 お梅はウキウキさなから小走りにその場を離れ、部屋を出て、雨戸を空けて裸足で庭に下りた。雨戸を完全に閉めてしまうと、カチッと閂の掛かる音がする。
 池の縁石に腰を下ろしたお梅は、母屋を見つめた。
 燃え上がる炎を見ながら、お梅は呟いた。
「ほたる…」
            *
 目覚めて見た朱色の鮮やかな虫籠の中に丸い虫のようなものが居た。それは赤と黒が交じり合った形容しがたい色に身を包んでいたが、お梅はそれを見る内に嫌悪で顔を歪めた。
「おやおや。お前さんの中にはもう一匹、蟲魂が居るようだねぇ。一匹だけじゃ可哀そうだから、籠に入れてやろうか」
            *
 近江屋の養女となって一年が過ぎた頃、養父の与平がお梅の添い寝をするようになった。
 その頃、お梅の記憶から父親に関する想い出がすっきり消え去っていた。どうしても思い出せない実父恋しさと淋しさからか、お梅は与平の添い寝が嬉しかった。
 与平の添い寝は、ひと月、半年、一年と続いたが、やがて与平と養母との間で諍いが始まった。
 そんな矢先、与平が商いの都合で長く家を空けている間に養母は、お梅と婆やの二人を向島にある近江屋の寮へ移した。
 与平が商いから戻って間もなく、与平と養母との間に子が授かった。そしてそれを境として与平は、お梅の元に現れることは殆ど無くなった。
            *
 お梅が目覚めた時、虫籠売りの男は居なくなっていた。
 隣りで婆やが寝息を立てて眠っている。
 お梅は上体を起こすと、開けっ放しの勝手口の先に外を見つめた。
 夏の日差しに照らされた木々の葉は目に眩しかったけれども、その活き活きとした枝葉の緑は心の使えを洗い流すかのように彼女の目に映った。
 蝉しぐれ。
 勝手口からサァーッと吹き込んだ一陣の風が少し汗ばんだ彼女のうなじに触れて、思わず笑みを浮かべてしまうほど彼女は心地よく感じた。
            *
「ほぉう。これがお前さんの言っていた蟲魂というものかね」
近江屋与平は、虫籠売りの男が自分の前に置いた朱色の鮮やかな虫籠の中で丸まっている二匹の得体のしれない蟲たちを見ながら感心して言った。
「虫と聞いていたが、手足はおろか頭も無い丸い玉だね。これは本当に虫なのかね?」
「人の業が作り出した蟲でございます。普段、手前どもが目にする虫とは違います」
「ほう。そうかい」
 与平は両手で虫籠を持ち上げると、顔の前に上げて二匹を熱心に眺めた。
「色がそれぞれ違うねぇ?」
「臙脂色の方は、お嬢様がご養女に入られる以前の業が作り出した蟲魂。青みかかった黒い蟲はご養女に入られて以降の業でございますよ」
「ふーん。それで色に違いがあるのかね?」
「臙脂色は憎悪、嫌悪、炎が作り出した業の色。青み掛かった黒は嫉妬でございますよ」
「おやおや。何だか怖い話だねぇ…」
 感心する与平の目の前で、青みかかった黒い蟲魂から角と六本の手足が現れて虫籠の中を歩き始める。やがてそれは、虫籠を持つ与平の指先に近づくと角で指を刺した。
「うっ。痛ッ」
 顔を歪めた与平は籠を落としそうになったが、なんとか堪えてそれを畳の上に置いた。
 虫籠売りの男は、与平を心配する風も無く煙管で煙草をくゆらせながら怜悧な眼差しで見ていた。
「この虫は刺すんだねぇ」
 苦笑混じりに言った与平だったが、額からは汗が滲み始めていた。
「憎悪と嫌悪。それらが業と関わるのは解るが、炎とは何だい?」
「それはお嬢様が目にした記憶でございますよ」
「炎をかい?」
 虫籠売りの男は答える風でもなく、素知らぬ様子で煙管をくゆらせている。
「あぁ。お梅の父親が死んだ時のことだね。火事で亡くなったから」
「火事?」
「消し忘れた行燈か倒れて、その火が蚊帳に燃え移ったそうだ。盛夏の蒸し暑い夜でね。お梅は寝苦しさで目を覚まし、雨戸を空けて外に出て池の畔で涼んでいたそうだ。すると突然、涼しく強い風が吹いたそうだ。その風で行燈が倒れて火が燃え広がった」
「随分と詳しいのですね?」
 与平の額から汗がダラダラと止めどなく流れ落ちる。
「火事を調べたお役人様や家人たちから聞いた話だ」
「六歳の子が、一人で雨戸を開けて庭に下りるなんて不自然じゃありませんか?」
「さて。不自然、かね?」
「まぁ。はなっから開いていたのなら、不自然でもありゃしませんがね」
 与平の脳裏にある光景が過る。
 僅かに開いた雨戸。
 その隙間から見えるお梅と添い寝をする実の父親。
「雨戸を締め切るなら、蚊帳なんか吊るさなくて良い」
 与平の視線が虚ろ混じりとなる。
 実の父親がお梅にする淫らな秘め事。
 その光景が与平の脳裏に思い出され、あの夜の恍惚、羨望、嫉妬が身体に呼び覚まされて思わずゾクっと身体を震わせた。
「吹き抜けた風は、さぞ涼しかったでしょうね?」
 風など吹かなかった。
 行燈は、お梅が蹴とばしたのだ。
 振り向いたお梅と目が合った時、与平は金縛りで身体の自由を奪われる。
 ガラッと開け放たれた雨戸。
 与平の目の前で仁王立ちするお梅は、自分を仰ぎ見る与平を菩薩のような眼差しで見下ろした。彼女の背後で燃え上がる炎は菩薩の光背のようで、与平は神々しいお梅を手を合わせて拝んだのだった。
 火の手は一層強まり爆音が轟いた時、与平はお梅を池の畔まで抱えて逃げた。
 池を囲う石組みに与平とお梅は並んで座り、燃え上がる炎を見つめた。
 やがて火事に気付いた家人たちの足音を耳にするに及んで、与平はお梅をその場に置いて一人逃げた。
「与平さん。あんたは、お嬢様から二度逃げた」
 与平の意識は朦朧とし始める。
「一度目は、あの火事の夜」
「…」
「そして二度目は商いで家を空けて戻って来た、あんたとお梅さんとのただならぬ関係に気づいた御内儀がお嬢様と婆やを向島の寮に映したと知った、あの日ですよ」
            *
「お前様ッ」
 お梅を連れ戻そうと立った与平の裾を握った内儀が、彼を見上げて言った。
「何をする?」
「行かせませぬ」
 内儀を振りほどこうとする、与平。
 彼女は与平の腰にしがみつき、彼を倒す。
 そして仰向けの与平に馬乗ると、内儀は彼の両手を畳に押し付けて彼を見つめた。
「諦めなさいませ」
「…」
「お梅のこと。もう忘れるのです」
 二人は押し黙ったまま、互いの顔を見合わせた。
 やがて内儀が与平の右手を掴むと、彼の掌を自分の腹に当てて言った。
「あなた様のやや子が宿っているのですよ」
 与平の全身から力が抜けた。
            *
 カンッ、カンッ。
 虫籠売りの男が煙管の雁首を灰吹き竹の縁に強く打ち付ける音が響く。
与平は、その激しい音で我に戻った。
「与平さん。大丈夫ですかい?」
「えっ?」
「顔色が真っ青だ。少し休んだ方が良くありませんか?」
「いいや。大丈夫よ。それより何の話だったかな?」
「お内儀を亡くされた話をされておられましたよ。息子さんか六歳の時、亡くなられたそうで。お悔やみ申し上げます」
「ありがとう。だが、もう十年も前の話ですよ」
「息子さん。十六におなりだ」
「お陰様で。嫁を迎えられる歳になりましたよ」
「そうですか。目出度い話ですねぇ。それでお相手の方は、もうお決まりで?」
「お梅をね。息子に添わせることに決めましたよ」
「えっ。お梅さんを。でもご養女だったんじゃ?」
「息子が生まれてね。跡継ぎの心配もなくなったんで、女房が死んだ翌年に養女から外しましてね。ゆくゆくは息子に添わせようとの算段があってのことですよ」
「ほう。そうでしたか」
「お梅には時折気、鬱の病がありましたから。どんなお医者様に見せても直らない。困った矢先にお前様の噂を聞いてね。悪さをしていた虫が二つも居たなんてねぇ。取り除いてからというもの、お梅の気鬱も治って明るくなりましたよ。息子とお梅の仲も睦まじくてねぇ。来年の春には祝言を挙げられそうだ」
「それは良うございました。お役に立てて何よりでございます」
「これは約束の礼金だ」
「ありがとうございます」
 虫籠売りの男が礼金を確認していると、手代が与平に声を掛けた。
「旦那様」
「何だい?」
「お約束の山形屋さんがお越しになられました」
「あぁ。そうかい。直ぐに行くよ」
 礼金を確認し終えた虫籠売りが顔を上げると、彼は与平に言った。
「確かに頂戴致しました。ありがとうございます」
「そうかい。次の約束があってね。お見送りできないが許しておくれ」
「いえいえ。手前なんぞにお見送りなど。お気遣いなく。行って下さいまし」
「それじゃあ、そうさせて貰うよ」
 独り残った座敷で虫籠売りの男は朱色の鮮やかな虫籠を見た。
 その中には、それまで二つだけだった蟲魂が三つに増えていた。
            *
 近江屋のことがあってから三ヶ月が過ぎた。
 虫籠売りの男は、朱色の鮮やかな虫籠を持って根津のある屋敷を訪れていた。
「ほうぉ。蟲魂が三つとはのう」
 屋敷の主は、自身の前に置いた脇息に腕組みした両腕を置いた格好で盆栽を置く台に載せた虫籠を繁々と眺めた。
「臙脂色と青みかかった黒色の蟲魂が娘の、黒地に黄斑の蟲魂が近江屋の業にございます」
「どれを見ても不気味ながら興味深い」
「御前様。虫籠に手を近づけなさいませぬようお願い致します」
「虫籠に触るのもダメか?」
「刺されて、お気が触れても宜しければどうぞ」
 御前は苦笑しながら手を引っ込めた。
「近江屋のことだが病に臥せって、近頃では人に会うのを避けておるらしい」
「それはお気の毒なことにございます」
「人の噂じゃが、気が触れて座敷牢に囲われておるとも聞く。蟲に刺されたのではないか?」
 虫籠売りは、素知らぬ風情で煙草を吸い始めた。
「養女であったお梅と息子との祝言が来年の春に控えておるというのに、誠に気の毒なことじゃ。父親の気が触れていてくれた方が、息子にとっては好都合かもしれんがな」
「好都合?」
「養女の縁を解消したのに向島の寮に住まわせておったろ。それで、近江屋はお梅に懸想しているのだと噂が流れておったのだよ」
「近江屋さんは、息子の嫁にと手元で養育したと言っておられましたが?」
 御前は鼻で笑って言った。
「懸想の云々はともかく。お梅を手放せぬ事情が近江屋にはあったのよ」
「手放せない?」
「近江屋の身代は、お梅の父親が火事で死んだのを境に大きくなった。お梅が相続した実家の身代と財産が飛躍の切っ掛けよ。その影響は未だに続いておってな、お梅が他家に嫁いでしまったら失う。だから息子に添わせたかったのだよ」
「欲得でございましたか?」
「己が築き上げた身代に対する執着かも知れぬ」
「執着…」
 続く言葉を口にしかけて虫籠売りの男は、口をつぐんだ。
 …その中には、お梅に対する禍々しい想いも含まれていたに違いない…
「近江屋さんが臥せっているとなると商いに差し障りがあるのではございませんか?」
「それがな。そうでもないらしい」
「?」
「お梅に商才があるらしく、許嫁の息子を支えて切り盛りしておるようじゃ」
「それならば、近江屋さんもご安心でございましょう」
「これ。誠にそう思ってのことか?」
 二人は笑った。
「ところで御前にお願いしておりましたギヤマンの箱はございますでしょうか?」
「あぁ。それならば、そこの棚に置いてあるが」
 虫籠売りの男は立ち上がると、御前が指さす棚に置かれたギヤマンの箱を持って虫籠の前に座った。の
 ギヤマンの箱を虫籠の脇に置くと彼は天板を外し、虫籠を両手で持ち上げる。
 三匹の蟲魂から角と足が生え、虫籠売りの男の手に近づくや彼の掌を角で刺して回るのだが、彼は動じることなく虫籠をギヤマンの箱に収めると天板を閉じた。
「かなり刺されておったが、大丈夫ななのか?」
 半ば呆れ気味に尋ねる御前に、男は表情も変えずに答えた。
「手前は蟲魂の毒に慣らされて毒が効かぬ身体となっております故、大事ありませぬ」
「毒で死なない身体になっておると申すか?」
「全ての毒に耐性が備わっているわけではありません」
 話しながら虫籠売りの男は、ギヤマンの箱の天板に封印を掛けた。
「この三匹は、そのうち共食いを始めますよ。最初に一匹が二匹に喰われ。最後には一匹だけが生き残る。そいつの毒はかなり強烈ですから、あたしでも刺されたらどうなるか判らない。ギヤマンの箱ならその様子を安全に見られますよ」
「それでこんな箱を私に作らせたのかね?」
「左様です」
「それ程まで強力な蟲魂だとすると、こんなギヤマンの囲いなど容易に打ち破って出て来るんじゃないのかね?」
「だから封印を施したんでさぁ。コイツならちょっとやそっとのことで破られるようなことはありませんからご安心を」
 御前は、虫籠売りの男の顔をジッと見つめてから言った。
「どの蟲魂が生き残ると思うかね?」
「恐らく、臙脂色のやつでしょう。そいつの業が一番深いですからねぇ」
「最初に喰われるのは?」
「青みかかった黒い色のやつ。次は、黒地に黄斑のやつ」
「どうして分かるんだい?」
「お梅の業から生まれちゃあいますけどね、青みかかった黒い蟲魂の正体は近江屋与平なんでさぁ。でも、近江屋さんの気は触れちまってるってお話しからすると、もう長いことはない。年を越せるかどうか。命が尽きる時が、蟲魂が喰われる時なんでさぁ」
「それじゃあ、黒地の黄斑のやつが与平の息子かい?」
「恐らく。でも祝言を挙げるまでは、喰われることはありませんや。問題は、その後あの臙脂色のやつがどのくらい喰うのを我慢できるでしょうね」
「それはいつの事なんだね?」
「さぁ。そればっかりは、あたしにも見通しが立ちませんや」
 虫籠売りの男は、煙管の雁首を灰吹きの縁で威勢よく売って煙草の灰を落とした。
「それじゃあ、あたしはこれでお暇させて頂きます」
「行くかね?」
「へい」
「珍しい蟲魂が入ったら、いつでも届けておくれ。金は弾む」
「へい。御前にお届けいたしましょう。あぁ、一つ言い忘れておりやした」
「何かね?」
「御前は『蟲魂変わり』という現象を知っておられますかい?」
「何だね、その、蟲魂変わりと?」
「蟲魂ってやつは共喰いをすると色が変わるんでさぁ。どんな色になるかは誰にも見当がつかないですけどね」
「するとこの三匹も、その内に色が変わるのかね?」
「恐らくそうでしょう」
 普段、あまり感情を表に出さない御前の顔が、少し気色ばんでいる。それを見た虫籠売りの男は、余計な知恵をつけてしまったと少し後悔した。
「共喰いを重ねると、いつか『血魍魎の色』の蟲魂に辿り着くということかね」
「御前様」
「うん?」
「これまで集めてこられた蟲魂たちを共喰いさせようなんて決してお考えになっちゃいけませんぜ。素人衆には危ねえ真似だ。下手すらゃ、ご自身が破滅なさいますからねぇ」
            *
蟲魂を売って得た金子を懐にした虫籠売りの男は御前様の屋敷の門を出た。
界隈はひっそり静まり往来を行き交う人もいない。
最初の辻を左に回ろうして男は立ち止まり、振り返って御前様の屋敷を見た。
…御前様の蟲魂は、一体どんな色をしてるんだろうね…
虫籠売りの男は苦笑いを浮かべ、再び歩き出した。
            *
 年の瀬、近江屋与平が亡くなった。
 翌年の春、お梅と与平の息子の祝言が挙げられた。
 二人には娘と息子が授かったが、息子が生まれた年の暮れに与平の息子が亡くなった。
 近江屋の主人はお梅へと変わり、その身代は日増しに大きくなっていった。
            *
「蟲。おらんかねぇ…」
 鈴の音と共に虫籠売りの男の声が、今日も界隈に流れている。


(END)
(次回アップ予定:2021.7.24)

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