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蟲魂2 -ガザミ(中編「座敷牢」)-

「まだ、屋敷から出て居らぬ筈じゃ。くまなく探せッ」
 殺気だった伊予守の家臣数人が、繁みに身を潜めるあたりと横嶋の方の前を駆け去っていった。
「やれやれ」
 あさり、呟き。
 肩の力を抜くとあさりは、背中にしがみつく横嶋の方を自分から引き剥がして言った。
「気持ちは解るけど、しがみつかないで」
 横嶋の方はガタガタ震えている。
 …厄介なことになっちゃったなぁ…

 半刻ほど前。
 伊織とはぐれて屋敷内の迷路を彷徨っていた時、突然、障子が開くと打掛姿の女性が彼女の目の前に現れた。
 …えっ。この女性は、横嶋の方…
 彼女はあさりを見るなり、助けてと繰り返し言いながら身体にしがみついた。
「ちょっと。どうしたの?」
「助けてたもれ…」
 殺気だった声。
「あなた。追われているの?」
 横嶋の方、何度も頷く。
「あっ。居たぞッ」
 近づく数人の家臣たち。
「逃げるわよ」
 あさり、懐から出した玉を彼らに投げつける。
 爆音。
 煙。

 人の気配が消えた。
「さあ。今の内に逃げるわよ」
 横嶋の方を抱えながら立ち上がった時、あさりの首筋を冷たい感触が走った。
「動くな」
「…」
「さもなくば、お前の首が胴より離れることになる」
 あさり、脱力。
 横嶋の方は、二人の家臣たちによって身柄を押さえられた。
 肩に激痛。
 そして、あさりは気を失った。
            *
 気がついた時、あさりは後ろ手に縛られて寝かされているのを知った。
 …座敷牢…
 岩が剝き出しとなった壁から水滴が滴り落ちている。
 牢屋は四つ。
 横嶋の方は、あさりとは斜向かいの牢にいる。
 他の二部屋に入牢中の者は居なかった。
 辺りは薄暗くてはっきりとは見えなかったが、横嶋の方は生きているようだった。
 人の気配。
 あさりは眠ったふりを装った。
 …伊予守…
 自分が居る牢の前を過ぎ、横嶋の方が居る座敷牢の前で止まると彼は言った。
「義母上(ははうえ)。心配致しましたぞ」
「嫌じゃ。来るでない」
 伊予守は鍵を開け、中へ入って行った。
「さあ。義母上。酒と薬をお持ち致しました」
「嫌じゃ。嫌じゃッ」
 突然、牢屋の出入り口に横嶋の方の半身が現れた。
「誰か。助けてたもれ」
 伊予守は横嶋の方の襟を掴むと抱き起す。
「義母上。我が儘はなりませぬぞ」
 抗う横嶋の方。
「お静まりなされ」
 一喝に怯む彼女。
伊予守、空かさず彼女に伊予守は薬の入った酒を飲ませる。
「お体の為。それで宜しゅう御座います。間もなく、お心が緩やかになりましょう」
 突然、彼女が苦しみ悶え始める。
 表情一つ変えることなく、伊予守は彼女を見下ろした。
「ああ。あうッ」
「…」
「うぅうう。あっ、あぁーーーッ」
 絶叫とも呻きともつかない声を上げるや、横嶋の方は群青色の玉を吐出した。
 …あれって蛟色の蟲魂…
 あさりは思わず、目を開けそうになったが堪えた。
 伊予守は横嶋の方を座敷牢の中へ入れ、自分は外に出て鍵を閉めると言った。
「義母上。それでは、ゆるりとお休みなされませ」
 そう言うと彼は彼女に背を向け、蛟色の蟲魂を拾い上げた。
 それを蝋燭の灯りに照らしてじっくりと見つめた後、不機嫌な表情で言った。
「今日も今一つじゃな。これでは毒にしか使えぬ」
 彼は袋に蛟色の蟲魂を入れ、それを懐に収めた。
 戻る途中で伊予守は、あさりが居る座敷牢の前で止まった。
「まだ、意識が戻らぬか」
 彼はジッとあさりを見つめた後、冷たい眼差しで呟いた。
「ゆっくり休み、元気な身体となってもらわねば困る」
 そして伊予守はニヤリと口元で笑いながら言った。
「血魍魎を手に入れるための蛟への生け贄。大切に致そうぞ」
 あさりは、伊予守の背中を見送った。
            *
 泉州屋の書庫。
 徳兵衛は父、清兵衛の日記を呼んでいた。
 その中にある日本書紀の一節が目に留まった。

『於吉備中國川嶋河派、有大蛟、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。縣守、為人勇悍而強力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屡吐毒冷苦路人、余殺汝蛟。汝沈是瓠則余避之、不能沈者乃斬汝身」時、水蛟化鹿、以引入瓠、瓠不沈、即挙剣入水斬蛟。更求蛟之党類、乃諸蛟族、満淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故号其水曰縣守淵也。當比時、妖気稍動、叛者一二始起』

 その書き写しに続いて清兵衛は書き添えていた。

『古の備中国の故事に候。滅ぼされし大蛟が眷属のうち難を逃れ、大和国日向の庄に隠れ住む。里人、淵の大蛟が子孫成り。是、日向の庄縁起にあり』

 清兵衛の追書きは更に続く。

『里人たち平穏に暮らせど、その中に大和の朝廷と結ぶ者あり。川嶋の故郷を回帰せんと試みるも、同心致さぬ里人たちとに諍い生じ候。回帰を望む輩破れ、丹後の閖舞が地に逃れ候。逃れし者たち毒を得意と致し候。閖舞、毒をよく産する地なれば、勝ちし里人たち報復を恐れ、閖舞の地へ追手差し遣わし候。再び破れ、多くの者たち月生の神滝に追いつめられし候。僅かなる者、密かに山を越え月影の谷へ逃れ候。神滝へ逃れし一党、彼の地にて悉く斬り捨てられし候。神滝が壷、血に染まり滝を穢し候。それ、川嶋が禍に同じ。追手、山へ逃れし残党を追捕致さんと欲す。神、これを許さず大いに怒り候。追手の者ども神の怒りを恐れ、追捕を停止し神剣あおぎりを滝壺に献じ候。神鎮まり。然されど月生、月影が者どもへ、以後諍わず、我敬い仕えと約束させし候。五百年の間、諍い起こらず。然れども人の心に宿りし深き恨み容易に消えず、今の世に至り候』

 徳兵衛、ふっと溜息を洩らす。
 …諍いは千年も続いていたのだねぇ…
 そして彼の表情は、険しく曇った。
 …大和国。日向の里と言えば、あさりや蛻吉の故郷じゃないか…
 彼は、日記を閉じた。
「旦那様」
 大番頭の声。
「何だい?」
「お客様がお見えに御座います」
「どなたかな?」
「名を申されません。ただ、どことなく高貴なご老人に御座います」
「お一人かな?」
「いいえ。若く、美しい娘子が付き添われておられます」
「杖をお持ちかな?」
「はい。紫檀の杖をお持ちに御座います」
「道安先生のようだね」
「はい」
「大切なお方だ。直ぐにお迎えに上がるとお伝えしなさい」
            *
「ここは、昔と変わってない」
 道安は、書庫を懐かし気に見ながら言った。
「この辺は昔のままです。奥は、少し建て増しをしました。蟲魂や書、それに父や私の書置きがかなり増えましたから」
「三十年も過ぎてしまったら増えもするだろうね」
「はい」
 徳兵衛、道安をジッと見つめる。
「昨日別れ、今日もまた。意外だったかな?」
「正直、お気がこのように早く変わられると思っておりませんでした」
「気のなったのだよ。昨日、徳兵衛さんが言われていたことがね」
「何か申しましたか?」
「根津の御前が血魍魎の蟲魂にご執心だと」
「あぁ、その事でしたか。それが何か?」
「集めた蟲魂を屋敷内で共喰いさせているそうな」
「そのようです」
「血魍魎の蟲魂について、私の蟲捕りの師匠から聞いたことを思い出してな」
「はい」
「その蟲魂を作るには蛟色の蟲魂が必要なのだそうだ」
「蛟色とは珍しい色で御座いますな」
「確かに珍しい。だが単なる蛟色では駄目でな、限りなく深い蛟色の蟲魂でなければならぬらしい」
「ほう。しかしながら道安先生、そのような色の蟲魂はあるので御座いますか?」
「万に一つであろう。だが師匠によれば、その蟲魂を作り出すことが可能なそうな」
「作り出せる?」
「左様。数多の蟲魂たちによる共喰いで生き残った一匹を心の闇が深い者に喰わせると、その者が蛟色の蟲魂を産出す身体となるのじゃそうな」
「蟲魂産みの巫女のような話ですな」
「正にそれよ。穢れの罪を犯した巫女が受ける罰。呪術に必要な毒を死ぬまでは喫告げなければならぬ惨い刑よ。その刑の内、最も強い毒を持って吐き出されるのが蛟色の蟲魂」
「では、吐き出された蛟色の蟲魂のうちで偶然その色の物が出るのでしょうか?」
 道安は首を振って否定すると言った。
「宿主の体内で生まれた蛟が生贄を食べた時、求める色の蟲魂が生まれるそうな」
「生贄?」
「備の中国の川嶋の淵で滅ぼされた大蛟かその眷属の末裔が生贄に相応しいとされる。あの屋敷の中で、それに該当する者は二人。一人は眷属の横嶋の方。そしてもう一人は…」
「あさり…」
            *
 あさりが目覚めると、牢屋の格子に張り付くように寄り掛かって自分を見つめている横嶋の方と目が合った。
 …なに…
 横嶋の方は無言で、あさりを見つめ続ける。
 …えっ。この人。生きたいと思ってる…
 彼女の眼差しに、あさりは動揺した。
 …こんな目に遭って、蟲魂を産む道具にさせられて、絶望していない…
 あさりは、忘れていた何かを思い出した。
 …彼女は、あたしと同じ…
            *
 あさりが蟲捕りから戻った時、家から出て来る山上家の当主の姿が見えた。当主の後ろを歩く跡取りが彼女に気づくと、にっこり笑って手を振って見せた。
 そんな彼の仕草にあさりは嫌悪し、顔を背けた。
 彼はあさりが生まれた時に決められた許嫁で、年が明けたら二人の祝言を挙げることになっている。
彼はゾッコンだったが、あさりは親が勝手に決めた許婚を嫌悪していた。
 …どうしてよ…
 あさりと話したそうにしていた許婚だったが、山上家の当主である父親に急かされるようにその場から去って行った。
 遠ざかる許婚の後ろ姿を見ながら、あさりはホッと胸を撫で下ろした。

「あさり」
 濡れ縁で仁王立ちした父が、庭を横切ろうとする彼女を呼び止めた。
「どこに行っておった?」
 あさりは振り向き、無言で父を見つめる。
「山上殿が御子息を連れて来ておられたのだぞ」
「外で見掛けました」
「家に居れと申した筈。何故、出掛けた?」
 父の前に立ったあさりは、キッパリと言った。
「お会いしたくありませんでしたので」
 父、あさりの頬を叩く。
「我が儘は許さぬ」
 あさり、怒りに満ちた上目遣いで父を見上げる。
「何故、許婚殿を嫌う」
「何故、許婚を好かねばならぬのです」
「お前の為だ」
 自分を無視して立ち去ろうとする娘へ、父は言った。
「今後、祝言を挙げるまで屋敷より出る事罷りならぬ」
            *
「ここから逃げたい」
 それまで無言だった横嶋の方が、突然言った。
「えっ?」
「ここは嫌じゃ。横嶋の家へ帰しておくれ」
 彼女は涙を流す。
 あさりは、そんな横嶋の方に過去の自分を重ね合わせていた。
「あなたは、あたしと同じ…」
「同じ?」
 あさり、穏やかに微笑む。
「あたしも家に囲われていたの。だから逃げた」
「…」
「だから、あなたも逃がしてあげたかった。でも叶えられなくて御免なさい」
            *
 夜更け。
 泉州屋の表に面した木戸を叩く音がした。
「どちら様で御座いますか?」
 手代、手明かりを片手に身構えながら尋ねる。
「あさりと申します。徳兵衛様にお取次ぎ願います」
「生憎、主人は休んでおります。明日、今一度お越し願います」
「お待ちください。決して怪しい者ではありません。お取次ぎを」
「もう夜更けで御座いますから」
 立ち去ろうとする手代の前に徳兵衛が現れた。
「あっ。旦那様」
「どうしたんだい?」
「それが。旦那様に会いたいと…」
 木戸を叩く音が響く。
「お、お願いで御座います。どうか旦那様にお取次ぎ下さい」
 木戸を叩く音、激しさを増す。
「大和国。日向の里のあさりが訪ねて来たと、お取次ぎ願います」
「旦那様。如何致しましょうか?」
 手代は不安気な面持ちで徳兵衛の顔を伺う。
「そんなお人は、知らないよ。お引き取り願いなさい」

 首を項垂れ、悄然とした面持ちで歩くあさりの前に数人の覆面男が現れ、彼女の行く手を阻んだ。
「あさり様。お迎えに参りました」
 一人が、彼女の腕を掴んだ。
「放してッ」
 あさり、大声を上げながら抗う。
「さぁ。里に戻りましょう」
「嫌―――ッ」
 男たちと揉み合う、あさり。
「ううッ」
 一人が呻き声を上げて蹲る。
 あさりは天水桶の影で蹲り、男たちを睨みつけながら身構える。
「手荒な真似はしたくなかったのですが。こうなっては仕方ない」
 頭目らしい男が合図をすると、残りの男たちが彼女を押さえに掛かった。
「泥棒―――ッ」
 突然のことに、男たちの気勢が殺がれる。
「泥棒ッ。盗人だぁ」
 互いの顔を見合わせる男たち。
「ちぇッ」
 頭目は舌打ちする。
「引き上げるぞ」
 男たちは去って行った。

 手明かりで照らされたあさりの顔は手負いで追いつめられた狼のようだった。
「情けない面だねぇ。まったく、お前さんらしくもないよ」
「…」
「恋しいあたしの声を忘れたのかい。徳兵衛だよ」
 徳兵衛は、柔和に微笑みながら手明かりで自分の顔を照らした。
「と、徳兵衛―――ッ」
            *
「そうか。その方、許嫁から逃げて恋しき男の許へ走ったのか」
「まぁ。そんなところね」
「我と似ておるな」
「そうね」
「相手を嫌いであったのか?」
「どうかな。よく解からない。でも、生まれた時から結婚する相手を親同士が勝手に決めてるってことが嫌だったの」
「そのような物ではないのか?」
「珍しいことではないけど、あたしは無性に嫌だった。お方様はどうだったの?」
「好悪の問題ではなかろう。従うより他に手立ては無かった」
「そう言うところってお武家様は偉いわよね。あたしなんか町民だから、もっと気儘が許される筈なのに、ウチは違ってて。それも嫌だった」
「何故嫌なのじゃ?」
「自分で決めたいじゃない」
「?」
「自分が決めた事なら辛くても我慢できるけど、他人に決められたら我慢がきかなくなるというか他人のせいにして逃げちゃいそうで。自分に噓つけない気性だから、嫌になると歯止めが効かないのよ。だから里から逃げちゃったのよ」
「…」
「お方様は嫌じゃなかったの?」
            *
 泉州屋。
徳兵衛、お勢、あさりの三人は離れの座敷にいた。
「紹介するよ。恋女房のお勢だよ」
 あさりの苦笑を気にする風でもなく、お勢は口を開いた。
「お勢と申します。以後、お見知り置き下さい」
 次に徳兵衛は、お勢にあさりを紹介した」
「こちらは、あさりさんだ。大和国、日向の里の幼馴染だよ」
「大和国。それは遠い所からお越しになられました」
「あさりにはね、国許に生まれた時から決められた許婚が居てね。でも、そのお人のことが気に入らないんだよ。それで、あたしの店に逃げて来たってわけさ」
「あら。それは大変で御座いましたね」
「うん」
「でも旦那様。どうしてウチへ」
「お勢。好い質問だね。それはね…」
 ちょっと、あさりの顔を見てから徳兵衛は言った。
「あさりがね、あたしのことを恋しくてたまらないからなんだよ」
「ちょっ、ちょっと。徳兵衛。あんた何言ってるのよ」
「へぇー。そうで御座いましたか。旦那様とあさりさんが…」
「いいえ。ちょっと。そんなことは…」
 必死に否定しようにも言葉が出ず、あさりは顔を真っ赤するばかり。
「旦那様は美男でいらっしゃいますから。おもてになるのですね」
 お勢、ちょっと拗ね顔。
「そうだよ。美男だからねぇ。昔から、みんなが放って置かないのさ。子供の時だって、兄弟三人の中で、あたしは店の女中たちの一番人気だったしね。今だって、吉原へ行くと皆が良くしてくれるんだよ。でも、お勢。気に病むことはないよ。あたしは、お勢にゾッコンだから。あたしの世界には、お勢しか居ないんだよ。お勢、愛してるよ」
「まぁ、旦那様ったら」
 あさりは二人のやり取りに呆れ、呆然と見守るしかなかった。
だがそれもあってか彼女の心のモヤモヤや蟠り、不安の全てが消えてしまっていた。
「あさり。聞いておくれよ」
「えっ」
「あたしがこんなに惚れているのにね、お勢の心には別の人が居るんだよ」
「ええっ?」
「誰だと思う?」
「知らないわよ」
「蛻吉なんだよ」
 お勢、その名を聞いて仄かにうっとり。
「妬けるよね」
 あさり、答えようが無い。
「でも良いんだよ。お勢がそれで幸せなら、あたしも幸せさ」
「徳兵衛」
「何だい?」
「あんたたち夫婦、本当にうまくいってるの?」
「いってるさ。なぁ?」
「はい」
「…」
「だって夫婦だからね。あたしがお勢を好きなんだから良いのさ。それに、お勢のお腹の中にはさ…」
 徳兵衛、お勢のお腹を優しく摩りながら続けて言った。
「あしたち二人のやや子が育っているからね」
            *
 あさりと横嶋の方に供される食事は贅沢を尽くした内容だった。
「さぁ。二人とも。遠慮なく召し上がられよ」
 そう言い置くと、伊予守は上機嫌で座敷牢を後にした。
 牢屋の格子越しにあさりを見つめる横嶋の方は、目が合うと言った。
「残さず食べられよ」
「全部?」
 あさりは、自分の前に置かれた三膳に乗った食事を不安に思った。
 …こんなに沢山、食べられるかしら…
「残すと酷い折檻を受けることになりますぞ」
 横嶋の方は、そう言って顔を引っ込めた。
 その直後、箸と食器が慌しくぶつかる音が響く。
 …味わず呑み込んでいる感じね…
 そう思いつつ、あさりもまた膳の食事を呑み込むように食べ始めた。
            *
 深夜。
 横嶋の方があさりに話し掛けて来た。
「もし。眠っておられますか?」
「いいえ。起きていますよ」
「良かった」
「眠れないのですか?」
「その方の話。続きを聞かせて貰えぬか」
「どこまで話しましたっけ?」
「その方が恋しき男の許へ出奔したが、その男に子供が授かったと聞いた」
 あさり、苦笑い。
 横嶋の方の言葉に悪意を感じないが、あさりの心を妙に突き刺さる。
「それで、その後どうなったのじゃ?」
            *
 銚子と盃を携えた徳兵衛が、あさりの居る離れの座敷に現れた。
「起きていたね」
「まだ寝ないわよ。どうしたの?」
「久しぶりに一献どうだい?」
「お勢さんは?」
「先に休んだよ。楽しんでたよ。あさりのことも気に入ったようだしね」
「そう」
「でも、ちょっと疲れた様だったから休ませたよ」
「良いの。傍に居てあげなくて?」
「何でだい?」
「お腹に子供が居るんでしょ。大事にしてあげなくちゃ」
「婆やも居るし、身の回りの世話を焼く人は沢山いるから心配ないよ」
「それに、あたしだって一応女だよ」
「そうだね」
「離れで二人きり。お酒なんか飲んで良いの?」
「お勢には二人でお酒を飲むよと言ってあるがね」
「まったく。女心、無視だね」
「おやおや。ご機嫌斜めかい。それなら出直すよ」
「もう。良いから。お酒付き合うわよ」
「そうかい。良かった、良かった」
 あさり、徳兵衛の顔をジッと見つめる。
「どうしたんだい?」
「どうして、あんたなんかに惚れちまったんだろう?」
 徳兵衛、苦笑。
「何よ。笑ったりして」
 少し真顔で、彼は尋ねた。
「本当に惚れていたのかい?」
「惚れてたわよ」
「本気じゃなかったろ」
「そんなことない…」
「あたしは里以外の人間だったからね」
「そうじゃない。徳兵衛が好きなの」
「里の外にしか、自分が好きになれる人がいないと思っていたろ」
「違う。そんなことない…」
「自分が好きになる人は、自分が選びたいって思っていたろ」
「そうよ。でも、そう思っちゃいけないの。徳兵衛が好きじゃいけないの?」
「あさりは間違っちゃいないよ。でもね、あたしへの想いが本気だと、胸を張って自分に言う事ができるかい?」
「…」
「自分だって誰かを好きになれると確かめたかったんだろ?」
 あさりの目から涙が溢れ出した。
「そうでも思わないと、自分の居場所を実感できなかったんだよね」
 あさりは徳兵衛の胸に顔を埋めて泣いた。
「好きなだけお泣き。泣いて、泣き終えたら自分を偽るのは、もうお止め」
 泣きながら、あさりは何度も頷いた。
 …誰にも愛され守られているのにあさりにとって、それが大きな仇となったね…
 自分の胸の中で泣きじゃくる彼女見ながら、徳兵衛は思った。
            *
「道安先生。あさりの家の嫡流は、男女の別なく狙われ続けたので御座いましょう?」
 徳兵衛の問いに道安は無言で頷いた。
「月谷へ追われた者たちは川嶋の地へ戻る事に執着した。日向の庄で諍いが生じたのも彼の一党が川嶋復帰を目論んだことが原因だったそうな。千年後、彼の一党は大刀自を除いて滅ぼされてしまったから、その恨みも相まって復帰に対する想いは怨念に等しい」
「恨む気持ちは解らなくもありませんが、血魍魎の蟲魂がどう関係しているのですか?」
「大蛟があさりの家の嫡流を喰らうと、限りなく深い蛟色の蟲魂が生じるのだよ。その蟲魂を蛟に喰らわせさえすれば血魍魎の蟲魂を手に入れることができる。だからこの千年の間、あさりの代々の先祖たちは嫡流の子孫を守り続けて来た。里から出すことをせず、茶嫡流の血を守るために山深き日向の庄に籠り続けた。生まれて直ぐに婚姻相手を決めてしまうのも、守りたい子が外へ目を向けないようにするため」
「あさりは、このあたしに出会ってしまった」
「そう。守り続けた掟が泉州屋さんの登場で崩れてしまったのさ」
「うーん…」
「まぁ、沈んでばかりもいられない。あさりさんを助ける算段を講じないと」
「蛻吉たちに頼る他はありませんね」
「良い手があるかね?」
「蛻吉たちが、あさりを見つけられればの話しになりますが」
            *
 食事の膳が下げられた後、あさりや横嶋の方に睡魔が必ず襲った。
 …眠り薬のようね…
 それに気づいてから、あさりは常備している毒消しを飲み続けた。
 薬で横嶋の方が深い眠りに就いてしまうと、牢内は物音一つしない静寂に包まれる。
 牢の格子越しに横嶋の方の寝顔が見えた。
 …考えて見れば、あのお方も可哀そうな人だ…
 政略の一環でこの家に嫁いで跡継ぎを産む道具となった。懐妊し、あと少しで子を産もうかという時期に伊予守の手によって子供を失う。そればかりではなく、二度と子供を生めない身体となった。
 …その時に実家へ戻っていれば…
 だがそれは政略の解消を意味し、横嶋の方が如何に望んだところで叶わなかっただろう。ましてその時、横嶋の一族は先代の伊予守の命を受けた大刀自の呪術によって操り人形とされてしまっている。だから横嶋の方は、死ぬまで里帰りなど出来ないのだ。
 …伊予守は横嶋の方が留まることに飽き足らず、彼女話蟲産みの道具に変えた…
 酷い話だと、あさりは思った。
 決して抜け出す事の出来ない地獄で生き続けなければならない横嶋の方に比べれば、自分の境遇は遥かにマシに思えた。
 …どうしても助け出しいあげたい…
 眉間に皺を寄せて眠る横嶋の方の寝顔を見ながら、あさりは思った。
 その時、指先に何かが触れた。
 …雌の蜈蚣…
 掌に載せ、そこで忙しく動き回る蜈蚣を見て、あさりは笑った。
 …この子。ひょっとして徳兵衛のつがい蜈蚣…
 ふと、彼の顔があさりの脳裏を過った。
 …徳兵衛の奴。可愛い援軍を寄越すじゃない…
 あさりは指先で蜈蚣の牙を撫でると言った。
「頼りにしているわよ。でも、それまでの間、あたしの耳の中で遊んでいて」
 蜈蚣は彼女の言いつけに従うかのように掌から身体を登り、彼女の耳に達するとその穴の中へ身を隠した。
            *
「蛻吉さん。さっきから同じところをグルグル回っていませんか?」
「その通りでございますよ、伊織の旦那」
「伊織っちか、伊織さんで良いですよ」
 蛻吉、苦笑。
「それにしても、このお屋敷の迷路は不思議ですね」
「ここは蟲魂が作り出した別の世界、いいや異空間で御座います。あっしたちは、ここを作り出した奴の意のままに動かされているんでさぁ」
「異空間。それで腹が一向に減らないってことですか?」
「腹が空かないか。そう言えば、飯のことをすっかり忘れてましたぜ」
 二人、笑う。
 そこへ、徳兵衛が告げ口虫を介して蛻吉に話し掛けた。
『蛻吉よ』
『うん?』
『聞こえるかい』
『あぁ。うっとおしいくらい良く聞こえてるよ』
『嬉しいねぇ』
『俺は、全然嬉しかねぇーけどな』
『そうかい』
『お前の言う通り、煙草の小箱の引き出しに入っていたつがい蜈蚣。雌の奴にあさりの臭いを嗅がせて放したぜ』
「蛻吉さん。蜈蚣の雄雌の区別が出来るんですか?」
『まぁ、身体の大きい方が雌のことが多いんでさ。それから尻尾の先を摘んで何も出てこなきゃ、それが雌ですよ』
「へぇー。それと、あさりさんの臭い。持ち歩いているんですか?」
「旦那。あっしは、そんな変態じゃ御座いませんよ」
「じゃあ、どこで臭いを?」
 蛻吉は、伊織の袖を握って見せた。
「?」
「あさりの奴。旦那にご執心で抱き着いていたじゃありませんか。あいつの臭いなら旦那の着物にたっぷり付いて御座いますよ」
 伊織、苦笑。
『蛻吉。そろそろ頃合いが良いんじゃ無いかねぇ』
『そうだな。雄を放すか』
 蛻吉、つがい蜈蚣の雄を畳の上に放す。
 すると雄の蜈蚣は雌を求めるように前進する。
『どうだい?』
『大丈夫そうだぜ。雄の奴、雌が恋しくて必至だ』
『じゃあ、あさりのこと頼んだよ』
『あぁ。わかった』
 …蛻吉。あさりを必ず無事に救い出しておくれよ…
 徳兵衛は心の中で祈った。
           *
 食事を終えたあさりは普段通り大欠伸をして、湿った岩壁に寄り掛かって眠った。
 座敷牢の鍵を開けて中に入って来た伊予守の家臣が膳を片付け始めた。
 …さあ蜈蚣ちゃん。今よ…
 あさりの耳から這い出た蜈蚣は膳の片づけに忙しい家臣の腰から背中へと這い登り、やがて男の首に達すると毒牙で噛みついた。
「うっ」
 微かな呻き声を上げただけで家臣は絶命した。
 横嶋の方の膳を片付け終えて座敷牢の外へ出たもう一人の家臣が、あさりの居る座敷牢での異変に気づいて駆け寄る。
「あっ。マズい…」
 異変を知らせようと口を開けた男の表情が止まった。
 家臣はそのまま前のめりに倒れる。
 彼の襟足から這い出てもどっと来た蜈蚣を、あさりは掌に載せて掬い上げる
と牙を指先で撫でながら言った。
「ご苦労さん。ありがとうね」
 あさり、微笑む。
 蜈蚣はあさりの耳の中へ戻って行った。

「ああ。やっと出られた」
 あさりは座敷牢の外で大きく身体を伸ばした。
 そして家臣から鍵を奪うと、あさりは横嶋の方がいる座敷牢の鍵を開けた。
「さぁ。早く出て。ここから逃げるわよ」
 薬が回っているらしく、横嶋の方はぐっすり眠っている。
「もう。目を覚ましてよ」
 反応なし。
「お方様。起きて。早く目を覚まして。ここから逃げるのよ」
 反応なし。
 あさりは忌々し気に舌打ちした。
「仕方ない。取り敢えず座敷牢から出さないと」
 あさり、横嶋の方を抱き起す。
「何なのよ、このおばさん。身体、重過ぎよ」

 座敷牢の外へ出すと、あさりは横嶋の方に話し掛けた。
「ねぇ。お願いだから本当に目を覚まして」
 横嶋の方はブツブツと何かを言うだけで目覚める兆しがない。
 …一刻も早く、ここから逃げ出さないと…
 一向に目を覚まそうとしない横嶋の方に業を煮やしたあさりは、彼女を背負ってここから逃げる決心をした。
「何で。この人、なんでこんなに思いのかしら…」
 あさりは、一歩一歩を踏み出すように出口へと向かった。
           *
 蛻吉との話を終え、厳しい表情の徳兵衛に道安が話し掛けた。
「徳兵衛さん。私達は最善を尽くしたよ」
 徳兵衛、複雑な面持ちで道安を見つめる。
「蛻吉さんたちを信じるとしようじゃないか」
 道安、徳兵衛の肩に手を置く。
「あっちは彼らに任せてこちらは、あるお人に会いに行かねばなりませんな」
「あるお人?」
 徳兵衛は、わざと惚けた顔つきで言った。
 そんな彼をニヤニヤ笑って見ながら、道安は言った。
「そのあるお人とは、他ならぬ大刀自様ですよ」
            *
 横嶋の方を背負って歩くあさりだったが、背中に感じた気配の急変に警戒した。
「あさり殿」
 それまでの『その方』から『殿』と呼ばれるに至り、彼女の警戒は強まる。
「お方様。お目覚めですか?」
「何故、わらわは背負われておるのじゃ?」
「ここから逃げるためです」
「何故、逃げるのじゃ?」
「お方様が逃げたいと言われたからですよ」
「では、あさり殿は逃げぬのか?」
「いいえ。あたしも一緒に逃げますよ」
「あさり殿は逃げることが出来て良かったのう」
「お方様も一緒に逃げるのですよ」
「あさり殿は、どうして逃げるのじゃ?」
「ですから、ここは危険な場所なのですよ」
「守られておるのに何が危険なのじゃ?」
「このままここに居たら二人とも殺されてしまうのですよ」
「わらわとあさり殿の二人、どうして殺されるのじゃ?」
「それは…」
「あさり殿は常に守られておられる」
「お方様。さっきから何を言っているの?」
「常に誰かから気遣ってもらえる」
「違うわよ」
「違わぬ。違わぬ」
「誰にも守れてなんていない」
「良いのう。守られている人間は」
「誰が守るって言うのよ」
「気づかぬ者は愚かよ」
「常に誰かが傍に居たではないか」
「それは見張られているの。どこかへ逃げないように」
「わらわは違った」
「違う?」
「お家の為に来た。でも、本当は我を誰も求めぬ」
「お方様。それは違うわ」
「もう、子を産めぬ身体なのに里へ戻してもらえぬ」
「…」
「我の話など誰も聞いてくれぬ。あさり殿のように耳を傾け、わらわの悲哀、孤独、悲しみ、痛み、辛さ、苦悩、絶望を誰一人聞いてくれぬ。いいや、耳を塞ぐ」
 …背中の人はきっと、横嶋の方ではない…
「何故じゃ。何故じゃ、何故じゃ。皆がわらわを無視するのは何故じゃ?」
 あさり、歩みを止める。
「わらわの子が流れたからか。役立たずと何故罵られなければなりぬ。身を削って数え切れぬほどの魂を吐出したではないか」
「だから、人らしく暮らせる場所へ逃げましょう」
「嫌じゃ」
「どうして?」
「夫に棄てられ。夫を殺され。里を奪われ。一族を奪われ。われの身体すら奪われようとされているわらわに逃げ、落ち延びて、幸せに暮らせる場所などあろうか」
「あるわよ」
 横嶋の方は、あさりに侮蔑をにじませた高笑いを贈る。
「うぬが昔語りなど、反吐が出たぞ」
 あさり、身体を強張らせた。
「うぬは、与えられるだけ。その幸せに満足できず。それを幸せとも感じることもできず。己の意志で選びたいなどと申す。それを苦しいと申す。では聞こう。うぬは誰かに求められたことが一度でもあったか。うぬは誰かに一度でも分け与えた事があったか」
「煩いわよ」
「うぬは一度でも誰かを愛したことがあるのか。うぬは一度でも身を投げうって人を助けたことがあるのか」
 あさりは、思わず耳を塞いだ。
「うぬは、うぬは、うぬは。なんでこの世に生まれて来たのだ」
「知らない」
「うぬがこの世で存在する意味は何だ」
「いや。イヤ、嫌ッ」
「うぬが、今ここに居るうぬなど」
「嫌だ。もう、それ以上言わないで」
「聞かせてやろう」
「聞かない」
「聞くのだ」
「聞きたくない」
「さぁ聞け」
「嫌ッ。嫌々ッ」
「聞けッ」
「…」
「お前など不要なのだ」
 あさりの心が際限のない虚ろと化した。
「だから、救いが欲しく無いか?」
 あさり、頷く。
「救いが何かを教えて欲しいか?」
 あさり、頷く。
「それでは教えてやろう」
 あさり、頷く。
「我の贄となれ。我の血肉となり、役立つ存在となれ」
 大蛟は口を大きく開け、あさりの頭を呑み込まんとする。
            *
「あさり」
「誰?」
「あさり」
「あさきの婆っちゃま?」
「あさり」
「母さま?」
「あさり」
「父様?」
「あさり」
「伊織っち?」
「あさり」
「蛻吉?」
「あさり」
「お勢さん?」
「あさり」
「…?」
「あさり」
「…?」
「あさり」
「…」
「あさり」
「…」
「あさり」
 …
 …
 …
「あさり」
「徳兵衛」
「さぁ。こっちにおいで」
 躊躇う、あさり。
「お前さんに会いたいというお人が居るんだよ」
「誰?」
「あさりさん」
「あなたは、山上の…」
「こちらに来てもらえないと困ります」
「佐平治さんが、どうして困るの?」
 あさりの問いに答えず、彼は右手を彼女へ差し出した。
「さぁ。わたしの手を握って下さい」
「…」
「だって、わたしのことを何一つ、あなたに知ってもらえてないじゃないですか」
「許嫁だから?」
「好きなんです」
「好き?」
「ずっと好きなんです」
「えっ…」
「だから、あなたに…」
「…」
「わたくしのことを、もっと知ってもらいたい」
 更に彼女の方へ、自分の手を差し出して言った。
「あなたのことも、もっと知りたい」
 恐る恐る手を伸ばす。
彼女の手は嬉しさと不安で少し震えている。
佐平治は、あさりの手を両手で包むように握って言った。
「あさりさん。ありがとう」
            *
 大蛟が彼女の頭を呑み込むのに気を取られている隙を突いて、あさりの耳から蜈蚣ではい出した。
 そして蜈蚣は大蛟の首に渡る強か噛みつき、その体内に毒を送り込んだ。
 余りの激痛に大蛟は、あさりと蜈蚣を撥ね退けた。
            *
「ねぇ。徳兵衛。一つ聞いて良い?」
 あさりは、徳兵衛の盃に酒を注ぎながら言った。
「何だい?」
「恋をするって、どんな感じなの?」
「何だよ、急に」
「徳兵衛の時はどうだったの?」
「そうだねぇ。自分が変わったよ」
 そう言われて、あさりは腑に落ちたように笑顔になった。
「あたしは、舌が肥えているだろう」
「そうね」
「お勢の手料理。美味しいとは言えなくてね」
「へぇー。そうなんだ」
「山城屋のお嬢様だから、自分で料理なんか作ってことないんだよ。でもね、ウチに嫁いでから、一生懸命に作ってくれるんだよ。それが愛おしくて堪らないのさ。昔の自分からすれば絶対にあり得ない事なんだけどね。それが楽しくて仕方ない。お勢のお陰で自分も随分と、イイ感じに変わったよ。だからね、幸せなんだよ」
「厭だ、イヤだ。惚気じゃない。聞かなきゃ良かった」
「でもね、あたしはまだまだ修行が足らないんだよ」
「何で?」
「蛻吉の奴。あいつ、味音痴だろ」
「そうね」
「お勢の料理を本当に美味しそうに食べるんだよ。見習わなきゃと思うけどね」
「今度は、蛻吉に嫉妬ね」
「恋をすると、愛せるようになるんだろうね。だから恋から始めると好いよ」
「愛するなんて随分と遠くにありそう。辿り着けるのかなぁ」
「あさりなら大丈夫さ」
「何だか無責任な言い草ね」
「気づいて居ないかもしれないけど、あさりは皆に愛されているからね」
「えっ」
「だから愛せるよ」
 徳兵衛は懐から手紙を出して見せた。
「あさきの婆っちゃからの手紙?」
「あさり宛だよ。後でゆっくりお読み」
            *
 のたうち回り大蛟の絶叫で、あさりは我に返る。
 彼女の傍らに裏返して落ちた蜈蚣は、慌てて身を表に返すとあさりの耳の中へと戻って行った。
 …大蛟…
 あさりは身構えた。
            *
 十五年前。
 大和国、日向の庄近くの山谷。
 樹林から突然、あさりの目の前に大鹿が現れた。
 …蟲魂の変化…
 大鹿がまき散らす毒臭から彼女は判断した。
 猛烈な殺気が彼女を包む。
 刹那、大鹿は角を前に彼女へと突進する。
『あさり。落ち着いていつも通り対処すれば平気だよ』
 祖母で師匠のあさきの声が、彼女の脳裏を過る。
 大鹿の一撃を彼女は難なく躱す。
『三蟲瓠(さんちゅうこ)の技は打込み時の見極めが肝要だよ。躱して見極めるんだよ』
 二撃目、三撃目と躱す。
 …殺気が消えた…
「游蟲瓠ッ(ゆうちゅうこ)」
 言い放つに合わせて、彼女は燃えるように赤い蟲魂を大鹿の前に投げ落とす。
 すると、それは赤い瓢へと変化する。
 警戒していた大鹿だったが、その瓢を前脚で転がし始めた。
 蹄が瓢に当たる度、瓢は二つと別れ、さらに別れて増えていく。
 大鹿は蹄で踏みつける度に増える瓢を夢中で蹴り続けた。
 あさり、ニヤリと笑う。
「鎮蟲瓠(しずめのちゅうこ)」
 苛立ち、荒ぶる大鹿へ、あさりはそう言って薄紫色の蟲玉を大鹿へ投げつけた。
 それは薄紫色の瓢に変化し、大鹿の身体に纏わりながら紫色の方向を放ち続けた。
 大鹿の雄叫び。
 激しく舞うように游蟲瓠を蹴り続けた大鹿の猛々しい動きが次第に鈍り始める。
 大鹿が酔ったような動きへと変わると、無数に細かく分裂した游蟲瓠が爪先から競り上がるように大鹿の身体に群がり、やがて全身が游蟲瓠によって覆われる。
 そして彼女は静かに言った。
「伏蟲瓠(ぶくちゅうこ)」
 彼女が投げ放った金色の蟲玉は、黄金に輝く瓢箪へと変化し大鹿の額に落ちた。
 それは形を大きくしながら真っ二つに分かれる。
 それに合わせるかのように游蟲瓠は大鹿の身体からボロボロと剥がれ落ちた。
 鎮蟲瓠は蟲魂へ戻ると、あさりの掌中へ戻った。
 地面に剥がれ落ちて水のように広がった游蟲瓠は一か所に集まり、やがで元の蟲魂の姿に戻ると、鎮蟲瓠同様にあさりの掌中へと戻った。
 最後の抗いを見せる大鹿だったが、やがてその前身は二つに分かれた黄金色の瓢によって呑み込まれていった。
 あさりが近づくにつれ、大鹿を呑み込んだ鎮蟲瓠は小さくなっていく。
 彼女がしゃがんで指先で黄金色の瓢を触ると、それは二つに割れる。
その中に鹿毛斑の蟲魂があった。
二つの蟲魂を拾い上げたあさりへ、あさきが声を掛けた。
「見事だったよ。あさり」
 振り向いたあさりは、にっこり笑う。
「これで、あさりも一人前だね」
 あさきは孫娘の三蟲瓠を取り、引き換えに自分の三蟲瓠をあさりの掌に置いた。
「…」
「あんたも知っての通り、これがウチに代々受け継がれてきた三蟲瓠だよ。川嶋の大蛟を倒した瓢の蟲魂。これからは、あさりがお持ち」
「でも、あたしは…」
「里の外の世界を見ておいで。心配しなくて良いよ。あとは、あたしが全部仕切るから」
「婆っちゃま…」
「代々の跡継ぎたちの誰もが心の中て望んでいたんだよ。でも、誰一人としてその願いを叶えた者はいなかった」
「婆っちゃまも出たかったのを我慢したの?」
「お前と同じ。あたしも、若い時に好きになったお人が里の外に居たからね」
「…」
「でもね、今日は晴れ晴れしく、とても嬉しいんだよ。だって、あたしの一番可愛い孫娘のお前が、ご先祖が望みながらも叶えられなかったことを成し遂げるんだからね。これより以上に嬉しいことなんて他にあるかい?」
「本当に好いの?」
「行っといで。だけど、これだけ忘れないでおくれ」
 あさきは、あさりの両頬に手を当てながら言った。
「あさりは一人じゃないし、帰ることができる場所があるんだよ」
「うん」
「決して忘れないんだよ。良いね。わかったかい?」
「わかった。忘れない」
「よし。それじゃぁ、行っといで」
            *
 毒を吐く大蛟。
 激しく動き、あさりを執拗に襲う。
 一撃、二撃。
 あさりは、大蛟の攻撃を躱した。
 …どうしよう…
 今の彼女に武器や毒はなく、大蛟の攻撃を躱すので精一杯だった。
 唯一、隠し持っているは三蟲瓠魂の蟲魂。
 でもこれは、今は使えない。
 …だけど、愈々ダメなら使うしかないけど…
 その時、大蛟の動きが一瞬止まった。
 …どうしたのかしら…
 大蛟の変化が始まる。
 頭から角が生え、四肢が伸び、全身が鹿毛に覆われる。
 …鹿への変化が始まった…
 あさり、懐内で三蟲瓠の蟲魂を握る。
 変化が終わり、全身から毒を発する大鹿が現れた。
 …大毒鹿(おおどくが)…
 変化が終わると、大毒鹿は前足を上げながら雄叫びを叫んだ。
 前脚が地に着くや、首を低く角を身構え、あさりへ向けて突進する。
 脇を大毒鹿の巨体が過ると、微かな毒臭があさりの鼻を突いた。
 …こんなに希薄な臭いなのに毒が強い…
 毒慣れしているあさりでも、それは恐怖を感じるほどの強さだった。

『三蟲瓠の扱いは変幻自在。だから相手に合わせて使うんだよ』

 …そう。臨機応変に考えるしかない…
 二撃目を躱し。
 三撃目を躱すと、あさりは大毒鹿と対峙した。
 …どうしたら良いの…
 その一瞬の隙を、大毒鹿は見逃さなかった。
 大きく息を吸い込むや、体中の毒を吐き出すかのように息を吐出した。
 あさりはその時、袋小路のような場所に追いつめられていたから迫りくる毒煙を目の当たりにして死を覚悟した。
 両腕で顔を覆い、目を閉じた。
 …あぁ。もう死ぬ…
 あさりが目を開けた時に見たものは、ガザミ色の壁だった。
 …えっ。ひょっとしてガザミちゃん…
 ガザミは、あさりの全身を覆った。
            *
 追い詰めていたあさりが突然目の前から消えてしまったので、大毒鹿は戸惑った。
 彼女を探して、大毒鹿は牢内を歩き回った。
            *
 …あたしのことが見えていないのかしら…
 直ぐ目の前を通り過ぎる大毒鹿を見送りながら、あさりは思った。
すると突然、目の前に見知らぬ色白の童子が現れた。
『えっ。誰?』
 童子はニッコリ笑うと、彼女に言った。
『ぼく。ガザミ。お姉ちゃんは、あさりさんでしょ』
『ガザミって。蛻吉が持っていた蟲魂?』
『そうだよ』
『あなたが、あたしを守ってくれたの?』
 ガザミは、こっくり頷くと言った。
『危機一髪だったね』
 あさり、苦笑。
『ねぇ。ガサミちゃんに一つ聞いて良い?』
『なぁーに?』
『あの大毒鹿は、あたしたちのことが見えていないの?』
『うん。見えてないよ。保護色』
『周りの景色と区別がついてないないのね?』
『そうだよ』
 再び、大毒鹿があさりたちのすぐ前を通り過ぎたが、不思議な事にその発散される毒を感じることなくやり過ごせた。
『毒も防いでくれているの?』
『うん。でも、長い時間は無理かな』
 あさりは、一つの作戦を思いついた。
『ガザミちゃん。お願いがあるんだけど』
『なぁーに?』
『あの大毒鹿に近づくことはできるかしら?』
『ちょっとの時間だったらできるよ。何で?』
『あいつの身体から発散している毒を防ぐ手立てを思いついたの』
『へぇー。どうやるの?』
 あさりは薄紫色の蟲魂をガザミの掌に載せた。
『なぁーに、これ?』
『鎮蟲魂という蟲魂なの。あいつの身体に、これを置くの』
『置くとどうなるの?』
『この子が毒臭を吸い取って良い香りを出してくれるのよ』
『あいつ臭いから丁度良いや』
『協力してくれる?』
『やる。やるやるッ』
 あさりは、一旦歩みを止めた大毒鹿の傍らに立った。
 …頼むわ。沢山吸って、沢山良い香りを出してね…
 指先で鎮蟲魂を優しく撫で、それを大毒鹿の額に置くやその場を離れた。
 鎮蟲魂が薄紫色の瓢箪へと変化すると、大毒鹿も異変に気づき雄叫びを上げる。
 瓢箪は次第に大きくさせながら大毒鹿の体表で舞うように動き回った。
 大毒鹿は鎮蟲魂を振り払おうとするが上手くいかない。むしろ、そうすればする程、動きは激しくなり、毒を吸い取り、変化した蟲魂を鎮める芳香をまき散らした。
 抗うような激しい雄叫びが二度、三度。
 繰り返されるうちに声から獰猛さは失われ、酔ったような足取りとなった。
『ガザミちゃん。もう大丈夫。外に出して』
『もう、イイのぉーーー』
 ガザミも酔っぱらったらしく答える声は眠そうだった。
 あさりが姿を現すと、ガザミは蟲魂に戻り彼女の足元で転がった。
 ガザミを拾い上げて懐にしまったあさりは、游蟲魂を手にして大毒鹿の前に立った。
「游蟲魂ッ」
 そう言って彼女は、游蟲魂を大毒鹿の足元に投げた。
 たじろぎ、二、三歩後退りした大毒鹿だったが、本能に抗えず蟲魂を蹄で戯れ始める。
 みるみるうちにそれは数を増し、無数の蟻が壁を登るように游蟲魂が大毒鹿の全身を覆い埋め尽くした。
「さてと。仕上げね」
 役目を終えた鎮蟲魂を懐にしまい、代わりに取り出した伏蟲魂を大毒鹿の額に載せる。
 游蟲魂は張り付いている大毒鹿の身体からボロボロと剥がれ落ち、一つの蟲魂に戻るとそれをあさりは拾い上げる。
 大毒鹿の居た場所を見ると、横嶋の方の亡骸とその隣に黄金色の瓢箪があった。
「やれやれ。終わったわね」
 あさり、黄金色の瓢箪を手にしてホッとする。
「あさり」
 振り向くと、そこに蛻吉の姿。
「あさりーーーーっ」
 蛻吉の隣に伊織と青斬り。
 青斬りは、あさりに駆け寄ると抱き着いて言った。
「心配したーーーーッ。大丈夫。怪我してない」
「大丈夫だって」
「本当に大丈夫なのね。もう、伊織がぽぉーとしてるから。知らない間に姿消えちゃうし。あたし、死ぬほど心配したんだから。もう、あたしから離れちゃダメ。なんなら、あたしをあさりの腰に差したって良いんだからね」
「あ、青斬りさん。それは無いですよ」
「何でよ。あさりが可愛いんだもん。守ってあげなきゃ」
「だったら、僕も守って下さいよ」
「伊織は良いの。刀だって、そこらに転がってるのを使えば好いのよ。どれを使ったって奥義の技を出せるでしょ」
「ひどいなぁ。そんなこと言わないで、僕にも優しくして下さいよ」
「ダメ。あんたには厳しく。あさりには無限に優しくなの」
「そ、そんなぁ…」
 あさりは二人のやり取りを見ながら微笑み、気分が軽くなった。
「意外と大丈夫そうじゃねーか。心配して損しちまったぜ」
「心配って何よ?」
「徳兵衛の奴がよ、お前が本当にヤバいって。泣きそうなくらい心配しやがってさ。だからよ。つがい蜈蚣。こいつに俺たちを案内させたってわけ」
「徳兵衛が?」
「あぁ。声も強張ってたしな。あんな風なあいつ、久々だったな」
 あさりの耳から蜈蚣が顔を覗かせる。
 それに気づいたのか蛻吉の掌の雄蜈蚣がモゾモゾと動き出す。
 そして二匹は、あさりの肩の上で再会した。
「やれやれ。恋女房と無事に再会できたか」
 蛻吉は二匹を手にすると、それを徳兵衛の小箱の引き出しに戻した。
「おい。あさり。お前、懐に何を入れてるんだ。ゴロゴロ動いてんぞ」
「えっ」
 彼女が答えるより先にガザミが外に出る。
「ガザミ。こんな所に居やがったか」
 ガザミは蛻吉の身体に飛び移り、彼の懐に入った。
「ところで。あさりさん、手に持っている綺麗な色の瓢箪は何ですか?」
「あら、これ。伏蟲魂。中に大蛟の蟲魂を封じてあるわ」
「へぇー。この中に大蛟かよ。今回は先を越されちまったな。おい、あさり。早く見せてくれよ」
 蛻吉の軽口をよそに、伊織は黄金色の瓢箪を見つめた。
「伊織っち。どうかした?」
「あさりさん。瓢箪に罅が入ってますよ」
「まさか。これ、そんなに軟じゃないわよ。第一、あたし以外開けられない…」
 広がり始めた瓢箪の亀裂にあさりは言葉を失った。
「あっ、危ないッ」
 伊織は柄頭で瓢箪を突き飛ばし、あさりを自分の後ろに下がらせた。
 転がりながら瓢箪は割れ、中から限れなく深い蛟色の蟲魂が転がり出る。それはそのまま横嶋の方の亡骸へ向けて転がり続けた。
「ゲッ。何だよ、あれは…」
 三人は同時に横嶋の方の亡骸を見て絶句した。
 身体から八匹の蛟が半身を現し、横嶋の方の亡骸を貪り喰っていた。
            *
 大刀自に会うため日向守の屋敷に向かった徳兵衛と道安だったが、道安が籠に酔ってしまい途中の茶屋で休息していた。
「やれやれ。歳には勝てないねぇ」
「いやいや。道安先生、お歳にしてはお元気ですよ」
「そうかね」
「齢九十で御座いましょう。健脚。ご壮健。辻駕籠に乗ってこの程度の酔いで済んでおられる。中々そうは参りません」
 道安、苦笑い。
 具合が良くなってきた道安にホッとしながら、徳兵衛は蛻吉に話し掛けた。
『蛻吉。聞こえるかい?』
 様子は分らないが、何やら騒々しい。
『あぁ。聞こえてるぜ』
「何だか騒がしいけど、あさりは大丈夫なんだろうねぇ」
『あぁ。ピンピンしてるぜ。それより、ちょっとばかりヤバい感じだぜ』
『どうしたんだい?』
『大蛟はあさりが封じたんだが、伏蟲魂が勝手に割れて大蛟の蟲魂が逃げやがった』
『伏蟲魂。破れた。あさりのかい?』
『信じられないけどな』
『でも、あれは、太古の大蛟を封じた最強の瓠だろ』
『そうだよ。でも、罅が入って真っ二つよ』
 徳兵衛、道安と顔を見合わせる。
『しかも、もとっとヤバいのは横嶋の方の亡骸よ』
『亡骸。横嶋の方は死んだのかい?』
『あぁ、死んだ。だがその身体から八匹の蛟が出て来やがった』

『…蛟之党類、乃諸蛟族、満淵底之岫穴…』

 父、清兵衛の日記に書かれた日本書紀の一節が徳兵衛の頭を過る。
 …横嶋の方の心の闇が、蛟の棲む淵の底穴ということか…
「いかん。いかんぞ、それは…」
「道安先生。どうなさいました?」
「限りなく深い蛟色の蟲魂が滅んだ一族の眷属である横嶋の方を食べた蛟たちを喰らうと、血魍魎の蟲魂が生まれるぞ」
「蛻吉。大蛟の蟲魂を早く取り戻せッ」
            *
「えっ。大蛟の蟲魂。早く取り戻せだと?」
 だが時すでに遅く、横嶋の方の亡骸を喰い尽した八匹の蛟が蠢く中心で限りなく深い蛟色の蟲魂が怪しく光っていた。
「徳兵衛。もう遅えよ…」
 蟲魂から八本の腕が延び、それらは周りの八匹の蛟を次々に捕まえ喰らい始める。
            *
徳兵衛は、父の日記の違う一節を思い出す。

『…悉斬之、河水變血、故号其水曰縣守淵也…』

『蛻吉。伊織様は居られるか?』
『ああ、隣にいるぜ』
『今すぐ、蟲魂ごと蛟を斬り殺すようお願いしてくれ』
『蟲魂ごとぶった斬っちまうんだな』
『そうだ。早くッ』
            *
「伊織様。あいたらをぶった斬ってくだせぇ」
 伊織、頷く。
「下がって」
 伊織、正眼に構えた。
 八匹、全部の蛟が喰い尽された。
 鈍く、妖しく、海の底を思わせる蒼色に輝く大蛟の蟲魂の変化か始まった。
 それは、横嶋の方の顔となって現れた。
「ホッホッホッホ。わらわは甦れり。力を得たり。誰も要らぬ」
 伊織は斬り捨てることを逡巡する。
「わらわは神仏と変われり」
 横嶋の方は勝ち誇っていた。
「その方たちも食べて遣わそうぞ」
 構えたまま動こうとしない伊織に青斬りが言った。
「伊織。斬り捨てる運命なの」
「しかし…」
「人間じゃないわよ。人間にも戻れない。何よりも横嶋の方はもう存在しない」
「でも顔は…」
「あんたも、ああなりたいの?」
 伊織、首を振って否定した。
「あいつに喰われたら、あんたたちも、あそこに首が並ぶことになるよ」
 伊織、横目で蛻吉とあさりを見た。
 異形の姿と化した横嶋の方が、伊織を襲う。
 青斬りが宙を舞い、横嶋の方は後退する。
「わかったよ。斬り捨てる」
「賢明よ。やつには奥義しか効かないわよ」
「奥義の技。どれが有効だ?」
「乱水雹」
「着物。びしょびしょに濡れませんか?」
「諦めて。だってここは、川嶋の淵の底と同じだから」
 伊織、正眼の構え。
「無雹。乱水雹」
 濁流の渦と鋭い切っ先を持った雹が大蛟の蟲魂に襲い掛かる。
 そして伊織は、高々と青斬りを頭上に上げるや一気に振り下ろし、横嶋の方の姿に変化しようとする蟲魂を一刀両断した。
 鮮血が噴き出し、雹や水しぶきに混じり、床に溜る水は血の赤で染まった。
 伊織、蟲魂へ止めを刺す。
 横嶋の方の断末魔の悲鳴。
変化は消えたが、溶けた溶岩の如き赤と漆黒が斑にくねる肌を持った蟲魂が床に落ち、石畳の地面にぶつかって跳ね続けた。
 …血魍魎の蟲魂かよ…
 蛻吉は、朱色の虫籠を構えた。
 だが、蛻吉たちの目の前に黒い打掛姿の大刀自が現れる。
 血魍魎の蟲魂は跳ね回るも、大刀自に近づいて行った。
「待てよッ」
 蛻吉は叫んだ。
 彼の絶叫も空しく血魍魎の蟲魂は大刀自の掌中に納まった。
 勝ち誇ったように高笑う、大刀自。
 座敷牢に響く笑い声だけを残して、大刀自の姿は消えた。


(後編へ続く)
(次回アップ予定:2021.9.17)

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