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月に癒やされる

ヒグチユウコさんのイラストに惹かれたのと、「月」に興味があったのとで、年末に本屋で見かけて直ちに購入していた『月の文学館』(和田博文編)。積ん読、熟成を経て、少しずつ読み始めている。

「月」の物語に引きずり込まれたのは『残月記』(小田雅久仁)のせいだ。帯に書かれた「もう以前と同じように月を見上げることはできない」。まったくそのままの感想で、月を見るとザワっとするようになり、心霊番組を見た後にひとりでトイレに行けなくなった幼い頃を思い出した。あと、月のモチーフが幾重にも含まれている気がして、他の小説での月の描かれ方に興味をもったのだ。


『月の文学館』には、月をモチーフにした短編小説や詩、随筆、計43編が納められている。永井荷風、堀口大學、伊藤整、谷崎潤一郎、中原中也など、文学史に残るそうそうたる名前から、現代の大御所、浅田次郎、川上弘美まで、そうそうたる顔ぶれである。国内文学での月の描かれ方についてまとめられた、編者の巻末エッセイが、またよい。こういうのが読みたかったのだ。

まだ、気になった作家さんからつまみ食いのように読みはじめたばかりだが、正岡子規と瀬戸内寂聴のエッセイがすごく良かったので、是非紹介したい。

なお、盛大なネタバレを含むので、未読の方はご注意いただきたい。




まず正岡子規「区合の月」。青空文庫でも読めるようだ。

月をテーマにした句合(くあわせ)に向けて、俳句を練る、その思考の過程を随筆として記している。室内から月明かりのもれる小道、かと思えばまた自宅の庭にもどったり、木々を抜けて田の脇にでたり、いつしか大河のほとりにいる。あーでもない、これはうまくない、などと情景ごとに句を構想していく。

既にカリエスに侵され、歩くのもままならなくなっている時期だ。実はこれ、いま流行りの「やってみた」系のエッセイを、思考だけで書いているのだ。なんと自由、なんと豊かな発想であることか。そして、身体のツラさなどみじんも感じない、行間からユーモアがにじみ出る文章。

回り回って、考えに考えてひねり出した俳句に「月がなかった」。ときて、可笑しくて声が出た。あー正岡子規、すごいや。


そして、瀬戸内寂聴「湖上の名月」。

日が暮れて鉄路で移動中、琵琶湖と月があまりにきれいで、乗客に聞こえるように「きれいな月」と声を出す。そこから、乗客達の会話が次々に広がる様子があたたかい。

そして、会話の中身がすごく良いのだ。

「わしら子供の時は、人は死んだら魂は天に上ってお月さんの中に行くんやと、よう年寄りに聞かされたもんや、そう思うて月を眺めると、ほんまに人の魂がいっぱい住んでいるように思えたもんやった」
(中略)
「わしらもそうでしたなぁ、ロケットが月に行ってしもうて、なあんにもない月は炭酸ガスでできてるんやと言われたときは、妙にがっかりしたもんでしたわ」(『月の文学館』P352-353)

ほんの数十年前のこと、人類が月にまで到着したとき、真実と引き換えにいろんなものが失われたのかもしれない。科学知識のなかった時代の方が、想像力は深く広かった。なんだか、忘れていたものを思い出させてくれるような、心持ちになった。

この話で、『残月記』の見方も少し変わった。怖いだけではない、無限の想像力で描いた幻想の世界なのだ。瀬戸内寂聴さんのおかげで、こわい月が、やさしい月に塗り替えられた。


いゃ〜、読書っていいですね。


あれ? 『残月記』のこと書こうと思っていた気がするんだけど、まあいいか。



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