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『会って、話すこと。』と『だんまり、つぶやき、語らい』

田中泰延さんの『会って、話すこと。』は、誠実な言葉への回帰をやさしく促すと同時に、変わってしまった人間関係の再生に向けた祈りに満ちた本である。

出発点が同じところにあると感じた本がある。いま世に出さなければという出版者側の使命感が、伝わってくる本が。


『だんまり、つぶやき、語らい』。哲学者の鷲田清一先生による、高校生に向けた講演の記録である。目次を除けば実質80ページほどしかなく、字は大きめで読みやすい。ひらがなが多いところも『会って、話すこと。』と共通する。

『だんまり、つぶやき、語らい』から、あとがきの言葉を拾ってみる。

ことばがこのところ、なにかひどくアンバランスになっている、間をつなぐことができないくらいに二極化しているように思われてなりません。
(中略)
そういう言葉の荒れと枯れからもういちど恢復する途をていねいにたどっておきたいという思いで(後略)(『だんまり~』P92-93)

『会って、話すこと。』では明記されていないが、姉妹本『読みたいことを、書けばいい。』の「暗澹たる気持ち」(P25)を彷彿とさせる。『会って、話すこと。』が重視する「誠実に接するということ」(P20)と問題意識は同じところにあると感じたのだ。


そして、『だんまり~』はこのように始まる。

きょうは、ことばのお話をしようと思っていました。とくにひととひとが語らうということについてお話をしようと。(『だんまり~』P10)

語らうことはわたしにとってどういう意味をもつことなのか。そのテーマは、『会って、話すこと。』と同じである。


そして、読み進めるうちに、鷲田先生の話に既視感を覚えるのであった。

この「だんまり」、ことばを呑みこむ部分がものすごく浅くなっているんじゃないか......。寺山修司はそのことを言おうとしたんです。(『だんまり~』P34)

『会って、話すこと。』でも、何を言うかより「なにを言わないか」(P221)が重要であると書かれている。


「つぶやき」とはいきなり議論を吹っかけるとか質問するとかではない。本来だれにも向けられていないことばで、ぼそっと、じぶんで漏らすのです。(『だんまり~』P42)

『会って、話すこと。』では「黙って想い、考えたすえ、どうしてもこぼれ落ち、相手に伝わることばが「話す」である」(P222)という記載がある。


でも、公正な基準のある会話じゃなしに、日常のわたしたちが、ひととひととが出会って何かを話す、そういうときの語らいとか話しあいでは、傷つくことがすごく多いですね。(P49)

『会って話す』には「人間は会話すると、必ず傷つく」(P136)とある。


むしろちょっとはずしてたり、ズラしたり、かわしたりして、それでも見てくれている、聴き流すだけにしてくれる、そういう聴きかたをするひとがいてくれることが、じつはいちばん助かるんですね。(P60)

『会って、話すこと。』では「話を逸らす力が会話の力である」(P89)とある。


私は『会って、話すこと。』を先に読んでいたので、どうしてもそこからの目線になってしまうのはお許しいただきたい。林修さんの帯文「この本には、人を原点に引き戻す強烈な力がある。」が本質を突いていることに改めて気付かされる。


なお、鷲田先生はここからさらに、「なぜ傷つく」のか、という問いを立て、さらにその先の自己形成に話が深まっていく。この部分は講演のクライマックスでもあり、読みごたえがあった。平易な言葉のなかに深い人間への洞察がある。どれだけの知識と知恵に基づく言葉なのかと。だがしかし、これ以上のネタバレは差し控える。

似ているところばかりピックアップしたが、語り口や表現、話の展開はまるで違うのでご安心を。鷲田先生の言葉は美しく、凜々しく、心地よかった。『会って、話すこと。』とあわせて大事にしたい。


公演後の質疑応答で、鷲田先生がこんなことを話している。

むかし友人が言っていました。大学に入って、先生、研究者の実力を測るときにね、「言っていることとは辻褄が合って、すごく首尾一貫して、わかりやすいんだけど、なんか嘘くさい先生」と「言っていることはさっぱりわからないんだけれども、なんかすごいといったタイプの先生」がいたら絶対に後者につけって。(P86)


『会って、話すこと。』を振り返る。

カワウソが成長したらラッコになる。ラッコが成長して、一定の大きさを超えたらビーバーになる(P97)

「言っていることはさっぱりわからないんだけれども、なんかすごい」って、こういうことかもしれない。





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