そのまま読むか代わりに読むか
昨年の秋、『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)と『『百年の孤独』を代わりに読む』(友田とん、以下『代わりに読む』)をほぼ同時期に入手した。
どちらから読むべきか、ひと月ほど迷ったが(迷った末に忘れていたが)、ページ数の少ない方というヨコシマな理由でまず『代わりに読む』を読み始めた。
そこでは『百年の孤独』本編のあらすじをガッツリ紹介しながらたっぷりの連想と妄想が展開されていた。ああ、これはしっかり『百年の孤独』のネタバレじゃないか。そりゃ当たり前か。
方針撤回。未読小説のネタバレをおそれる私は、『代わりに読む』を数ページで閉じ、本編『百年の孤独』を先に読み進めることにした。
読み始めたはよいが、なかなか進まなかった。
なんか、変なのだ。細かい描写が省かれ、ポンポンおかしなことが起こってポンポン展開する。そして出てくる人物がみんな変。この文体に既視感があると思い出したのは聖書や神話だった。情景を脳内に浮かべるには時間と経験が必要な感じなのだ。
『代わりに読む』の著者は、『百年の孤独』を最初に読んだ時から驚きと感激があったと前書きに書いている。う~ん、その境地には残念ながら容易に至れなさそうだ。
夢中でグイグイ読み進める状態ではなく、途中何度も中断しては、別の本に手を伸ばしていた。
その後、再び『百年の孤独』に戻ったときには、当然あらすじがわからなくなる。
ここで実に助けられたのが『代わりに読む』だった。
中断していた章まで『代わりに読む』であらすじを思い出した上で、『百年の孤独』の続きに違和感なく入っていった。『代わりに読む』のおかげで、アレはそういう情景だったのかと理解できたことも数なくなかった。
しばらくすると、また中断。再開時には改めて『代わりに読む』で振り返ってから『百年の孤独』に。
そんなことを何度か繰り返し、いつの間にか3ヶ月がたった。ようやく『百年の孤独』も最終盤にさしかかった。
この間、『百年の孤独』を追い越さないよう、常に慎重に『代わりに読む』を読んでいた。
今日、遂に禁を破って『百年の孤独』未読域まで『代わりに読む』を読み進めてしまった。『代わりに読む』が面白かったのだ。そして『代わりに読む』で追っていた『百年の孤独』の要約が面白かったのだ。
『代わりに読む』を読むことで『百年の孤独』を読む代わりにしていたのだ。
世界の名著と言われているのだから、読み進めれば何かがあるに違いない。そういう信頼感はあった。結局、最後までたどり着いて、なんだかスゴいモノを読んだ感じがある。
ひとつの街とその中心にいた家族の、開拓と繁栄、そして没落の物語。もう一度最初から読めば違った風景が広がりそうだ。
あれ、この構造はもしや最近読んだ『地図と拳』と一緒じゃないか。そう気づいてググってみたら、著者自身が『百年の孤独』を意識していたという記事があった。おお、なるほど。
こういうことに、自分で気づけるのは嬉しい。
などとエラそうに感想を語ってしまったが、勘違いしてはいけない。さっき読み終えたのは『代わりに読む』だ。
まだ本編は読み終えていない。