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モンロー主義200年:歴史と現在

ーー西半球の米支配を狙ったモンロー主義から「歴史の終わり」(フクヤマ)のパックス・アメリカーナとなり、それを維持せんとする最後のあがきのウクライナ戦争、及び可能性としての台湾戦。すべては19世紀のモンロー主義から始まっている (訳者 脇浜義明)

エリア―・ラミレス・カニェード(キューバの政治家・歴史研究者)
Resumen: Latinoamericano and the Third World(レジュメ:ラテンアメリカと第三世界)2023年7月20日

 1823年12月、ジェームズ・モンロー米国大統領は議会への教書の中で、ラテンアメリカとカリブ海地域に対する米国の外交政策を規定するドクトリンを発表した。「南アメリカとカリブ海地域を守る米合衆国」という発想でまとめたドクトリンである。ヨーロッパがアメリカ大陸へ統治を延長したり介入することは北米の「平和と安全」を脅かすものとして排除するドクトリンである。米合衆国のアメリカ大陸南、とりわけ当時としてはキューバとメキシコに対する米国の拡張的政策を隠蔽するものであった。
 これが米国の国際舞台での行動を今日まで特徴づけてきた伝統の始まりであった。米指導者の言葉は真の意図を隠すばかりでなく、多くの場合、その言葉と真逆の意図を内包していた。解放闘士シモン・ボリバルは、1829年に米国は我々に自由を教える使命を神から授かったと称してアメリカ大陸に不幸と悲惨をばら撒いたと言ったが、その言葉は今日でも通用する。ボリバルの時代は米国の政治・経済的政策の基礎がモンロー主義であった。モンロー主義は、米政府がアメリカ大陸の守護者、アメリカ大陸が米政府の影響力と支配力の下にあり、他の国が手出ししてはならない、それが神の意志であるかの如く、世界に宣言した。
 しかし、モンロー主義発表後の3年間、地域の国々は独立と領土保全に対する脅威に悩まされ、「守護国」米国に援助を訴えたが、米国は何もしなかった。やがて時の経過の中で、モンロー主義はアメリカ大陸の守護ではなくてアメリカ大陸に関する米国の権益を守ることであることが、明らかになっていった。
歴代米政権はモンロー主義をそれぞれご都合主的に解釈したが、共通一貫したのは米国以外の国際勢力や当該地域の政府がモンロー主義の本来の意図に反する行動をすることを防ぐことであった。2~3例を挙げる。1848年の「ポークの帰結」(ポーク大統領のモンロー主義への帰結)は、ヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化を阻止するだけでなく、地域の国がヨーロッパの大国に援助を要請することや提携を結ぶ自由を禁じた。またヨーロッパの国が地域の国の米国の仲間入りする意志に干渉してはならないとはっきり述べた。1880年の「ヘイズの帰結」は、カリブ海域と中央アメリカを米国の排他的影響力圏とし、ヨーロッパ帝国主義勢力のアメリカ大陸への接近を阻止するために、大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設は米国が独占的に管理支配するとした。1904年の「ルーズベルトの帰結」は、ラテンアメリカとカリブ海域の国々が地域外の国ともめたり、あるいは借金をしたりするときに、米国が国際的調停者または国際的警察として介入する義務と権利を述べたものである。1950年の「ケナンの帰結」は、反共主義を掲げるラテンアメリカ地域の独裁政権を「国家安全保障独裁主義」と呼んで、米国が支持することを正当化した。
米国の政治的指導者は誰一人として、モンロー主義が南の隣人への利他主義あるいは友情だと考えた者はいなかった ― 長年。熱心にそう思っていたラテンアメリカ政権は多くあったが。まして、モンロー主義はアメリカ大陸の国が外国から攻撃されたとき米国が救援介入する義務を意味していると解釈した政治家も一人もいなかった。米国政治家とってモンロー主義が意味するのは、米国の地域支配に大きく影響を与える事態が起きたときに介入するということであった。
モンロー大統領の下で陸軍長官を務めたジョン C. カルフーンは次のように言った。「如何なる場合でも我々に向かって言った大統領の一般的宣言を字句通りに受け取るべきではない。むしろ我々の望むように解釈すればよいと思う。場合によっては悲惨な結果を伴う戦争という突飛な行いに訴える介入をしなければならないこともある。私はそういう介入をすることを求められているのだろうか。答えはキューバの件です。キューバがわが国の脅威にならない友好国スペインの影響下に入る限り(訳注:当時ラテンアメリカの革命勢力はスペインの支配と戦った)、わが国はキューバをそっとしておく政策をとる。これはどの政府でもそうする当たり前のことです。しかし、出来ればそういう事態になって欲しくないが、もしキューバがスペイン支配から離れてわが国以外の外国の支配下にはいるような事態になれば、米政府は容赦しないということを、キューバ人に明確に示さなければならない。同じことがテキサスについても言える。(訳注:テキサスを最初に領有権を主張したのはスペイン。その後短期間フランスの植民地になり、続いてメキシコが領有した。1835年にテキサス共和国として独立、1846年米国の州となり、米・メキシコ戦争が勃発した)必要であったならわが国は外国との戦争を辞さなかったであろう。」
1825年~26年に、モンロー主義は「平和と安全」と何の関係もないこと、ましてや「南の兄弟たち」の独立を私欲なく支援する政策でもないことが事実によって確認された。キューバとプエルトリコの独立を目指したコロンビア・メキシコの遠征軍を防止するために米国は厳しい外交手段と恫喝で以てそれに反対したからだ。この遠征計画はシモン・ボリバルと後にメキシコ大統領となったグアダルーペ・ビクトリアが考えたものだった。強力な米の反対圧力に直面して、コロンビアとメキシコの政府は、1826年に予定されているアンフィクティオン・パナマ会議で判断されるまではスペイン領西インド諸島に対する大規模な作戦を実施させないと答えた。
米政府は懸念を持ち続け、外交的影響力をフルに活用してコロンビアとメキシコ政府に不快感を伝えた。数年後、ホセ・マルティは有名な演説の中で、モンロー主義の反映であるこの米国史の一コマに言及した。「ボリバルはすでに馬の鐙に片足をのせて出陣の構えだったが、そこへ英語を喋り、政府の文書を持った北の人物がやってきて、馬の手綱を掴んで、『私もあんたも自由人だが、あんたが助けようとしている連中はわが国が支配している。わが国は彼らの支配が必要なので、自由にしてはいけないのだ』と言った」と、演説の中で述べた。米国の利益になる現状は、ラテンアメリカ以外の外国だけでなく、ラテンアメリカの兄弟国も、変化させてはいけないのであった。1827年、1828年、2829年、コロンビア、メキシコ、ハイチが兄弟国をスペイン支配からの解放を試みようとしたとき、米国はこの姿勢を維持して妨害した。
米国が相変わらずキューバに憑りつかれている今日の状況と同じである。モンロー主義においては、カリブ海域の大アンティル諸島が米国にとってとりわけ重要で、常に米国の影響下に置きたいのだ。また1823年にジョン・クィンシー・アダムズが考案したいわゆる「熟した果実理論」(theory of the Ripe Fruit)がモンロー主義の補完となった。これは、キューバを樹に実っている果物に喩えて、物理的な重力の法則と同じように政治的な重力の法則があり、果物が熟して樹から落ちるように、キューバはスペインから離れても自立できず、必然的に北米連合に入るので、米国は果物が熟すのを待つだけでよい、という説である。
その待っている間は ― アダムズは1823年4月28日にマドリッドの米大使館に送った文書の中で書いた ― 果物がスパインより強力な米国の手に落ちるまではスペインの手に委ねている方がよいとした。だから、英国外務大臣ジョン・クィンシー・アダムズが米政府にスペインのラテンアメリカ支配力を保持復元させようとする神聖同盟(ロシア、オーストリア、プロイセン)とフランスの外交攻勢を拒否する共同声明を出そうと提案したとき、米政府はモンロー主義宣言という独自の宣言を行うという離れ業をやったのである。それは、ラテンアメリカを米国だけの庭とし、英国も含む外国の手出しを禁じる宣言であった。これから分かるように、モンロー主義の根底には、米国の政治階級が喉から手を出すほど欲しがっているキューバがあった。そしてさらにメキシコがあった。メキシコの領土の半分以上が1846~1848戦争で米国に奪われた。

1.

1830年、スペイン領及びスペインの影響力下のラテンアメリカの独立と団結に闘争を闘っていたシモン・ボリバルは、米国の妨害を永遠の脅威と感じ、南アメリカで進行中の解放運動に関して慎重で冷静な態度 ― 彼の言葉では算術的行動 ― を取り、それは長くかかると思った。解放者ボリバルと彼のスペイン支配下のラテンアメリカ人の団結と統合計画に対し、米国は広範な共謀ネットワークを作って監視・妨害した。このネットワークは今日から見てもその正確さに驚かされる。当時は現代米国帝国主義の通信と諜報手段がなかったにもかかわらず。しかし、ウィリアム・テューダー、ウィリアム・ハリソン、ジョエル・ポインセットなどの米港外交官らは、ボリバルの人格、モンロー主義に敵対する彼の思想を破壊する汚い工作活動を効果的に行った。彼の先駆的な反帝国主義思想、スペインの殖民主義のくびきからラテンアメリカの人々を解放し、団結し、統合して、奴隷制を廃止し、最も差別・抑圧された階級やキューバとプエルトリコの独立のために闘う彼の思想は、当時の米国の拡張と支配と権益にとって、最大の脅威であった。だから、彼を「略奪者」「独裁者」「コロンビアの狂人」等の悪名を広範に流し、彼の信用と評判を破壊しようとしたのだ。

2.

 19世紀後半にボルバル思想はキューバ独立の主導者で、ボリバルの優れた門弟であったホセ・マルティに引き継がれた。彼は他のだれよりも巨大怪物米国の腹の中と見抜いていて、ラテンアメリカの独立と世界の均衡にとって危険な存在であることを警告していた。米国が帝国主義段階へと移転し、モンロー主義が汎アメリカ主義を通じて近代化しているときに、マルティはモンロー主義と対決した。汎アメリカ主義は、神が米国に南北両大陸を支配する権利を与えたする聖書由来の「マフェスト・デスティニー」(訳注:「明確な使命」。もともと西部開拓時代に先住民を虐殺し土地を奪うことを正当化する思想)という談話に基づいて、米国を軸に南北アメリカ大陸を統括する思想である。米国は国際的法律手段によって米国の西半球支配を確立しようとして、モンロー主義の主張を制度下しようとした。
マルティは20以上のスペイン系アメリカの新聞の記事を纏めて年代記を作り、1889~1890年にワシントンで開催された米州国際会議で米国のジェームズ・ブレイン国務長官が提起した単一通貨、米国の調整権、関税同盟などを覆す激しい反帝国主義論文を書いた。さらに、彼は1891年にウルグアイ領事としてアメリカ共和国通貨会議に参加し、米提案を批判した。 
 「売れない製品をいっぱいかかえ、それをさばくたえにラテンアメリカ支配を拡大したがっている巨大で強力な米国が、ヨーロッパと自由で有益な貿易で繋がっているラテンアメリカの弱小諸国に、反ヨーロッパ同盟を結成せよ、米国以外の世界と取引をするなと言っているのである。それこそが我々が知恵と警戒心で以て綿密に調査すべき問題で、それは独立から現在までの米国の変わらない姿勢である。スペイン領アメリカはスペインの圧政から抜け出す術を知っていた。しかし、今度は米国支配の実例、その原因や要因を知った今、我々スペイン領アメリカにとって、第二の独立を宣言すべき時期となったと言わねばならない」と書いた。
 マルティは1895年5月19日にドス・リオスで暗殺されたが、その少し前にメキシコ人友人マヌエル・メルカドへの未完の手紙の中で、彼の生涯の意図の証言を残している。米国がキューバ独立を妨害することに合わせて、支配力をアンティル諸島全域に拡大し、その力に乗ってラテンアメリカの支配に向かっていることを指摘し、それと闘う意図である。
 彼の先見の明は、米政府のキューバとラテンアメリカ諸国に対する貪欲な帝国主義的食欲の危険を見、玖馬とプエルトリコの独立は一刻も早く次元することと、世界の国々の平等な力の均衡の大切さを力説した。
 『キューバ革命党3年目』の中でマルティは、「アメリカに忠実なアンティル諸島」と書き、国際舞台で展開される地政学的権益に関する分析を行った。国際舞台は、一つの強大な共和国の、奴隷とは言わないが、他の敵対する強国に対する戦いの浮橋である ― 米国というローマ帝国の要塞である。ラテンアメリカ人民が解放を獲得したとしても、苦労して自由を手に入れたとしても、大陸内で力の均衡の保証、今もなおスペインの脅威からの独立の保証があっても、それは北の巨大な共和国の名誉の保証になるだけである。北の大国は、不幸なことにまだ封建的で、敵対しあうバラバラな部分に分裂している南を「文明化」開発することで、南の弱小隣人を征服したり、世界の強国と非人道的な争いで南の国々への支配権を獲得するよりは、名誉と偉大性を示すかもしれない、と書いた。しかし、同書の先の方で「我々は世界を平等で力の均衡のとれた社会にする闘いを行っている。我々が解放したのはキューバとプエルトリコの2島だけではない」と書いた。

3.

1898年米国はキューバのスペインからの独立闘争に介入して、キューバを新植民地主義の試験管とする米西戦争を起こして、モンロー主義の完成という歴史的局面を見せた。西半球の支配力を固め、外国勢、とりわけ英国を西半球から駆逐したのだ。米国はキューバとプエルトリコに加えて、非常に重要な地理的戦略地域であるパナマ地峡の支配権を手に入れた。
 ドミニカ共和国、パナマ、グアテマラ、エルサルバドル、キューバ、ホンジュラス、ニカラグア、ハイチは米の棍棒政策とルーズベルトのモンロー主義帰結によって、内政干渉と米海兵隊による占領で、直接的な被害を被った。キューバの場合はモンロー主義がキューバの法律となった。米西戦争の終わりに米国が押し付けた不平等な支配関係であるプラット修正条項を、米の強制によって、1901年の改正憲法の中に入れてしまったからだ。プラット修正条項は米国にいつでもキューバの内政と外交に介入する権限を与え、米海軍基地や石炭発掘場のために土地を提供する義務をキューバに負わせた。これが今日まで続いている不法なグアンタナモ基地施設の始まりであった。プラット修正条項はキューバを守るためでもキューバの利益になるものでなく、モンロー主義のあからさまな表現であった。
ルーズベルトの次の大統領のウィリアム・タフトは軍事介入と金融的・政治的支配を結合したドル・砲艦外交で、中央アメリカとカリブ海域の米国支配を広げ強化した。「北極、パナマ運河、南極の3つの等距離にある3つの星条旗が我々の領土の範囲を定める日はそれほど遠くない。我々の人種的優秀性のかげで、西半球全体は我々のものとなるであろう。現実に精神的にすでにそうなっているように」と、タフトは臆面もなく言った。その後のウッドロー・ウィルソン、ウォーレン・ハーディング、カルウィン・クーリッジ、ハバード・フーヴァー、フランクリン D ルーズベルトの諸政権も、南の地の利益のために政治的介入や軍事的恫喝などの様々な形でモンロー主義を実行した。メキシコ革命もモンロー主義の攻撃を受け、1926から1933年にかけてニカラグアも米軍に占領された。アウグスト・セザール・サンディーノは人民反乱軍を率いて、ニカラグアを占領した米海兵隊と戦った。1933年1月3日、米軍は敗北して中央アメリカの小国ニカラグアから撤退した。しかし、ラテンアメリカとカリブ海域諸国に対して善隣外交を表明したフランクリンD. ルーズベルト政権は黙っていないで、サンディーノへいろいろ陰謀を企て、ついにサンディーノ暗殺に成功、その後に、ルーズベルト自身が「クソ野郎」と罵ったアナスタシオ・ソモサ独裁政権が誕生した。

4.

  第二次大戦勃発は米国にとって西半球支配を拡大する絶好の機会となった。西半球にある米軍基地を増やし、ラテンアメリカとカリブ海域の国々を「(西)半球安全保障」プロジェクトに入れ、それらの国々を米帝国主義の戦略地政学的目的に従属させた。1947年ラテンアメリカとカリブ海域の20ヶ国が米州相互援助条約に署名した。そこから、1948年に米国の同地域の支配を近代化し制度下する手段として米州機構(OAS)が誕生した。まさにモンローとアダムズが墓の中で大喜びしたことであろう。OASの誕生は、コロンビアの進歩的指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンの暗殺が引き金となって起こった民衆蜂起の弾圧で流れたコロンビア人民の血で先例を受けた。蜂起の後米政府が押し付けたコロンビア政府は米政府にへつらうばかりで、朝鮮戦争のとき米国に従って軍を派遣したラテンアメリカで唯一の国であった。
 OASの目的が地域共通の課題や地域外の国からの脅威に対して「米州大陸が団結・連帯」するという謳い文句とは何の関係もなく、米国の権力エリートの覇権的利益を満足させるために作られた新世界システムの一部にすぎないことが、すぐに明らかになった。いわゆる米州システムの実態は支配システムの一環である。OASは「国際共産主義の危険」に対処するために地域の国々全部を提携させようとして、モンロー主義を第二次大戦後のシナリオに適合させたものである。従って、OASがラテンアメリカとカリブ海域の人民の利益を表すというのはまったく無意味である ― むしろそれを米帝国主義の陰謀と批判する声が真実を表現している。
OASの歴史は、南の寡頭政権が破廉恥にも北の政府の権益を支持した歴史、あるいは、南の人民が両アメリカ間の共同行動という嘘に気付いて、自分たちの立場に反対したとき、その人民の意図を軽視し見下す米政府の態度に盲従して人民を弾圧した歴史以外の何者でもない。米政府自体がOAS憲章に違反し地域コンセンサスを無視した例はたくさんある。それは間違いなくヤンキーの「植民地省」として考案され、そのように実施されてきた。その根底にあるのがモンロー主義である。
 第二二次世界大戦が終わったとき、米国の西半球に対する絶対的覇権が完成し、建国の父アダムズやモンロー、そして彼らの続く歴代大統領たちの意図が実現したのであった。彼らが米国の裏庭と思ってきた地域への覇権が実現したので、米国帝国主義の権力エリートはその覇権を世界的に拡大できると感じ、1823年にモンロー主義が対象とした範囲を超えるようになった。

5.

 1960年代、キューバ革命の成功と西半球への共産主義浸透という現実に直面したモンロー主義は新しい形を取った。米政府はキューバ革命に対する敵対的態度を取り、キューバを西半球世界から孤立させる政策を採った。1962年キューバをOASから排除し、ケネディは記者会見で次のように言った。

  モンロー主義はモンロー大統領とジョン・クィンシー・アダムズがそれを宣言して以来ずっと意味してきたこと、つまり外国勢力の影響が西半球に拡大することを防ぐことです。だから、わが国は現在キューバで起こっていることに反対するのです。だからわが国はキューバとの通商関係を断ったのです。だからわが国は米州機構やその他のところで、キューバ共産主義の脅威を隔離するようにするのです。」

 抵抗とキューバ革命の成功、米帝国の門前で独立と主権を実現したこと、これはモンロー主義が意図してきた米覇権目的にとって、とても許されないことであった。米が拡大と卓越性を追求する道程の出発点であった地点、帝国としてデビューした地点で、北の巨人は南の周辺的小さな島国から挑戦を受けたのである。その挑戦はこれまで直面した中でも最も強力で持続的な挑戦で、しかも小さいとはいえ世界にとって政治的倫理面では大きな意味を持つ挑戦であった。
 フィデル・カストロ・ルスはボリバル、マルティ、反植民地主義者、反帝国主義者、国際主義者、マルクス主義者の理想を自らの理想とし、それを実現する偉大な異端者となった。その実現の闘いはその時から現在そして未来にかけて続いている人民の闘いである。カストロの実践と思想はキューバ人民と世界の革命家の中で生き続けている。
 米国のキューバに対する多面的戦争は現在も続いているが、それに加えてキューバの例が他の国で起きるのを防ぐために、歴代米政権は暴力的で反動的政策を行った。共産主義脅威との闘いという名目で、軍事介入、政権交替、クーデター、独裁政権支援などの政治的攻勢が続いた。
 1829年にボリバルが警告したように、米政府は自由 ― そして人権 ― という偽りの美名の下で、リオ・ブラボーの南方の人々に対して恐ろしい犯罪を繰り返した。数百万人の人が行方不明になり、拷問され、殺害された。19世紀のモンロー主義の犠牲者の数を含めると、その数は数え切れない。モンロー主義は200年続いているのだ。我々はモンロー主義の犠牲者のことを忘れてはならない。ラテンアメリカから共産主義、社会主義、ソ連の影響を根絶しようと米とラテンアメリカ軍事独裁政権が協力して行ったコンドル作戦を忘れることはできない。1975~1983年の間に数千人の行方不明者と死者を出した。米政府とCIAがチリ、アルゼンチン、ベネズエラ、パラグアイ、ウルグアイ、ブラジル、ボリビアの軍事独裁政権、及びマイアミに拠点を置く亡命キューバ人テロ・グループと組んで、進歩派や革命運動家を抹殺した作戦である。
 50年前、ニクソン・キッシンジャー米政府はチリのサルバドール・アジェンデ人民統一政府に対して陰謀をめぐらした。その結果、1973年9月11日にクーデターとなり、アジェンデは死亡、米大陸で最も残忍な独裁政権が誕生した。この影響は今もチリに残っている。また、40年前、ロナルド・レーガン共和党政権は、1983年10月25日に、カリブ海の島国グレナダに軍を侵攻させた。グレナダではモーリス・ビショップ指導の革命運動が進行していたからである。歴史は教師として現在へ教訓を教えてくれる。1971年12月12日にカストロがチリの人々に言った言葉、それは米政府の支援を受けた右翼ファシストの革命運動に対する脅威を警告したものであったが、現在の状況にもしっかり当て嵌まると言える。
 ところで、搾取者は自分たちの制度や機構がもはや自分たちの支配を保証しないことを知ったとき、彼らはどうするのだろう? 彼らが作った支配メカニズムが彼らの権益を擁護しなくなったとき、彼らはどう反応するのだろう? 答えはファシズムである。憲法も法律も議会も無視し、抑圧的で暴力的で犯罪的なファシズムである。
 ファシズムは暴力を使って気に入らないものすべてを「粛正」する。大学を攻撃、閉鎖、破壊する。知識人を攻撃、弾圧、迫害する。政党を攻撃し、労働組合を攻撃し、大衆団体や文化団体を攻撃する。
 暴力的、逆行的で、不法そのもののファシズムに依存して搾取体制を維持しようとする。

6.

 ソ連邦崩壊は米政界に勝利者感が漂い、「パックス・アメリカーナ」が登場した。もはや「南北アメリカのための米国」ではなく、世界全体が冷戦勝利者米国の足元に跪く「歴史の終わり」(フクヤマ)になったのだ。しかし、彼らは自分たちに抵抗し自分たちの靴の中の大きな石となって歩行を妨害するキューバを一掃できなかったばかりか、米国が自国の裏庭と思ってきたところで反乱と抵抗が次々と興り始めた。もはや米国の権力エリートはキューバを支配できる米国帝国主義体制の復活を想像することもできないのではないか。反対にボリバル思想が復活し、進歩派や左翼の政府が誕生し、モンロー主義を疑問視し、ボリバルの理想を21世紀向けに更新する復活の時代へ」向かうことを認めざるを得なくなったのではないか。
 ボリバル的革命を主導したベネズエラのウゴ・ラファエル・チャベス・フリアス大統領が、ラテンアメリカとカリブ海域の歴史をその方向へ向けた人物であったのは明らかである。アルゼンチンのネストル・キルチネル政府、ニカラグアのダリエル・オルテガ政府、ブラジルのルーラ・ダ・シルヴィア政府、エクアドルのラファエル・コレア政府、キューバのフィデルとラウルの政府と協力し合って、「私たちメリカ人のための地域プロジェクト」が形成され始めた。ALBA-TCP(米州ボリバル同盟)、UNASUR(南米諸国連合)、CELAC(ラテンアメリカ諸国共同体)、TELESUR(南のテレビ・ネットワーク)、PETROCARIBE(ペトロカリベ。ベネズエラとカリブ海域諸国と地域石油調達協定)、その他これまで北の大国から押し付けられた支配からの脱却を目指すメカニズムが作られた。2005年11月米国は米州自由貿易地域(FTAA)で起死回生を図ったが、アルゼンチンのマル・デル・プラタで開催された第4回アメリカ大陸サミットで、ホスト国のネストル・キルチネル大統領やチャベスやルーラを筆頭に数か国の大統領が反対して、米提案は否定された。米国は、第二次大戦以降西半球でこのような不名誉な打撃を受けたことがなかった。クリントン、ブッシュ、オバマと続く米政権は自国の軍と同盟国の軍を使って威嚇、南の抵抗運動を抑え込もうとした ― 暴力的クーデター、議会クーデター、石油クーデター、経済制裁、封鎖、文化的・心理的戦争、第4世代戦争(訳注:軍行動と政治の区別や戦闘員と民間人の区別をしない、何でもありの戦争)、破壊工作、スパイ活動、内政干渉、反乱や分裂の扇動、進歩派や左翼の指導者をでっち上げの罪で起訴、外交的・経済的恫喝、軍事演習の見せつけ、第4艦隊の恫喝的動き、その他帝国主義、寡占資本、右翼による様々な攻撃を地域内の国々で展開した。
 2013年バラク・オバマ大統領がOAS演説でモンロー主義は終わったと、硬軟組み合わせた「協調」路線を表明した。それに基づいてジョン・ケリー国務長官は、米国とラテンアメリカの関係は平等なパートナー関係であるべきで、米政府は外交政策ではなく共通の利益と価値観に基づく関係を構築すると言った。しかし、わずか二年後にこの宣言が嘘であることが判明した。米国の内政干渉でボリバル革命を妨害するクーデター未遂事件が起きた。クーデター未遂の数週間後、米政府はベネズエラを米国の国家安全に対する大きな脅威だと宣言した。
 キューバの場合、オバマ政権は、2014年12月17日に外交関係の再構築といわゆる新しい政策を宣言したにもかかわらず、キューバの政権交替とキューバ革命の転覆をあきらめなかった。当時の諸事実、声明、公文書がそれを証明している。
 オバマの後のドナルド・トランプと彼の外交政策顧問たちは恥ずかしげもなくモンロー主義へと戻った。新聞の見出しを飾った声明の一つは、ラテンアメリカ訪問中に放ったレックス・ティラーソンの発言である。彼は「モンロー主義はそれが発せられた当時と同様現在でも重要である」と言ったのだ。トランプ政府のモンロー主義帰結はラテンアメリカ地域に中国とロシアの存在感が大きくなっていくことへの反応であったばかりでなく、キューバとベネズエラが推進している「異質イデオロギー」認めないという反応であった。しかし、我々が理解する事の核心は、米国の本当の懸念は、キューバやボリバル革命が意図している米帝国主義システムからの脱却である。

7.

 現在、世界が地政学的に変化し、米国覇権が急速に衰退していくことを目の当たりにしている。その情勢の中で米国の権力エリートはますますモンロー主義にしがみつく。帝国版図が大きくなりすぎて地理的に遠方 ― 例えばアフリカや中東 ― の地で管理・支配を維持するのが困難になった状態に直面したので、重点を過去200年間再生産と覇権拡大の重要な場としてきたところへ移すのは、論理的に当然と言える。帝国の論理から言えば、中国、ロシア、進歩的・左翼的国々が前進する情勢の中で、何より大切なことは巻き返しを図ることだ。だから、ラテンアメリカとカリブ海域が米外交政策の最優先事項となる。そのことは、米南方軍司令官のローラ・リチャードソンがシンクタンク「アトランティック・カウンシル」とのインタビューの中で、はっきりと確認している。

  この地におけるナンバー2の敵とするロシアについて話しますが、言うまでもなくロシアとキューバ、ベネズエラ、ニカラグアとの関係です。何故この地がじゅうようなのでしょうか。それは、豊かな天然資源やレア・アース元素があるからです。現代テクノロジーに欠かせないリチウムがあります。世界のリチウムの60%がアルゼンチン、ボリビア、チリの国境に囲まれたリチウム・トライアングルに埋蔵しています。1年ほど前にはガイアナ共和国沖合で軽質スィート原油埋蔵が発見されました。ベネズエラには石油、銅、金があります。アマゾンは世界の肺として酸素の供給源で、世界の淡水の31%がこの地域にあります。資源が並外れて多い地域なのです。だからこの地域が重要で、わが国の安全保障にも関わるので、この地への関与を強化しなければならないのです。

 ここで見られるナリオは、帝国システムの弱点が露呈する前の機会と、それが露呈した後でもなおも旧帝国システムに固守し、南の人々にそれ代わるプロジェクトを提供しない姿で、それに追従する南の右翼の誤りである。また、それは各地で徐々に姿を現しつつあるネオ・ファシズム、とりわけヨーロッパで顕著に見られるネオ・ファシズムの危険を表現している。帝国主義そのものも暴力的・退行的な反応をしている。もはや資本蓄積体制を維持する力が衰弱し、他方で世界の周辺部ばかりか帝国主義中心部の中でも帝国主義に対する反乱が増加している。その結果、世界はこれまでの米国一極支配体制から多元的世界へ向かっている。この過程でラテンアメリカとカリブ海域の左翼勢力は自分たちが結合し団結する方向へ向かう機会に恵まれた。この機会は非常に短くて変わり易く、先延ばしする機会を失うことのいなりかねない。団結し統合することによってのみ、我々は自由と独立と主権を獲得し、人類史において影響力を発揮するインターナショナル・アクターとなり得るのだ。文明のパラダイムの変革に向かって早急に行動しないといけない。ぐずぐずしていると、米国が再び乗り込んできて、せっかくの多元的世界へ向かいかけている勢いを逆転させるかもしれない。周辺部の尊厳と主権と独立を確立するばかりでなく、人類を危機から救い出す歴史的機会を失うことになる。
 キューバ革命指導者フィデル・カストロ・ルスが1991年7月18日にメキシコのグアダハラで開催された第一回イベロ・アメリカ・サミット(訳注:アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エクアドル、エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグア、パナマ、パラグアイ、ペルー、ポルトガル、スペイン、ウルグアイ、ベネズエラが参加)で次のように言った。

  我々人民のために、いつか世界的な認識と敬意に値するコモン・ホームの実現を夢見た先人たちの意志を、言葉でなく行動で実現すべき時がきた。

 21世紀となった現在でも、モンロー主義は1823年に誕生した時と同じように、生きている。しかし、同時に、それと闘う人民の理想もまた生きている。「私たちのアメリカ」の独立と統一のために命を賭けて闘ったラテンアメリカとカリブ海域の先人の理想は現在もいきいきと生きている。
 今年2023年は、人類史で永遠の革命家として名を残したエルネスト・チェ・ゲバラの誕生95周年である。彼は手国主義支配が強い中で、ラテンアメリカとカリブ海域の人々、アフリカの人々、そしてグローバル南の人々に解放のために命を捧げた先人の一人だ。我々の任務はゲバラを引き継いで、解放の妨害になる独断や先祖返り的反動を廃し、社会正義、人民の連帯・団結・統合を目指す闘いを続けることだ。

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