【翻訳記事】パレスチナはすべての人のために語っている
2024年4月9日、Verso Blog「Palestine speaks for everyone」より
翻訳 安藤 歴
10月7日にイスラエル軍の防空網をくぐり抜けたパラグライダーの姿は、私たちの多くにとって爽快なものだった。そこには、占領と封じ込めへの服従というシオニストたちの予想を打ち砕く自由の瞬間があった。そこには、その後に惨状が待ち受けている(イスラエルが非対称戦争を実践し、不釣り合いな武力で対応することは周知の事実である)ことを知りながら、不可能と思えるような勇気と不屈の精神で挑んだ行為があった。抑圧されている人々が、自分たちを囲んでいるフェンスを打ち破り、脱出のために飛び立ち、自由に空を飛ぶ姿を見て、元気を感じない人がいるだろうか。何が可能なのかについての集団的な感覚が打ち砕かれることで、誰でも自由になれるかのように、帝国主義、占領、圧制を打倒できるかのように、そしてそれらが打倒されるであろうと思えるようになったのだ。パレスチナの闘士、レイラ・カレドは回顧録『わが同胞は生きん』の中で、ハイジャックの成功についてこう書いている。 「行動が壮観であればあるほど、民衆の士気は高まるように思えた」。このような行動は予想に穴を開け、新たな可能性の感覚を生み出し、人々を希望なき絶望から解放する。
そのような行動を目撃したとき、私たちの多くもまた、この開放感を感じる。こうした私たちの反応は、その行為がもたらす主体の効果を示している。ある主体が与えられた状況にズレを刻みつけたことで、世界の何かが変化したのだ。アラン・バディウのアイデアを使えば、私たちは、その行為がある主体によって引き起こされ、その結果、その主体が、それを引き起こした行為の遡及的効果として生み出されたことを知るのである。帝国主義は、こうした感情が大きく広がる前に封じ込めようとして、それを非難し、締め出すのである。
私たちが帝国主義的な環境で目にするパレスチナ人の姿は、たいてい惨状、死別、死の描写である。パレスチナ人の人間性は、彼らが苦しんでいること、失ってしまったもの、そして彼らが耐えていることを条件としている。パレスチナ人は同情を得られるが、解放は得られない。解放とは、同情をかき消してしまうものだからだ。このような犠牲者のイメージは、「善良な」パレスチナ人を民間人として、さらには子どもや女性、高齢者として作り上げる。反撃する人々、特に組織化された集団の一員として反撃する人々は悪であり、退治されなければならない怪物のような敵である。 けれども、誰もが標的になっているのだ。「良き」パレスチナ人が標的にされた落ち度は、こうして「悪しき」パレスチナ人に押し付けられ、彼らの根絶がさらに正当化される。情動を取り締まることで、自由なパレスチナ人という可能性が狭められてしまうのだ。
情動の取り締まりは、政治的闘争の一部をなしている。被抑圧者が自由になり占領や封鎖が終わるという気持ちに火をつけるものは、すべて消し去らなければならない。帝国主義者とシオニストは、10月7日を数々の惨劇のリストの中に落とし込むが、それは単に植民地主義、占領、包囲の歴史と現実を見えなくするためではない。彼らは、その崩壊の間隙から、その崩壊自体を引き起こした主体が生み出されるのを阻止するために、そうするのである。
1987年、第一次インティファーダは「グライダーの夜」から始まった。11月25日と26日、PFLP(パレスチナ解放人民戦線・総司令部)の2人のパレスチナ人ゲリラ戦闘員がイスラエル占領地に上陸した。いずれも殺害された。一人はイスラエル兵6人を殺害し、死ぬ前に7人を負傷させた。その後、このゲリラは民族的英雄となり、ガザの人々は壁に「6対1」と書いてイスラエル軍をあざ笑った。PLOのヤセル・アラファト議長でさえ、この戦闘員を賞賛した。「この攻撃は、殉教者になることを決意したゲリラを阻む障壁や障害物が存在しないことを証明した。彼らに飛ぶ意志がある限り、誰も彼らを制止したり、進入を阻んだりすることはできない」。「グライダーたちの夜」は、1967年6月のアラブ側の敗北に続くパレスチナ革命の情熱的なエネルギーに再び火をつけ、1968年3月のカラマの戦い後のゲリラ運動の成長を促した。「グライダーズの夜」以来、第一次インティファーダに至るまで、パレスチナ人であることは、二級市民としての権利や難民としての地位に甘んじることではなく、反逆と抵抗を意味した。
2018 年の「帰還の大行進」では、ガザの人々が凧や風船を使ってイスラエルの防空網をかいくぐり、イスラエル領内に火を放った。最初に火凧を送り始めたのはパレスチナの若者だったらしい。その後、ハマスが関与し、焼夷凧や風船を作り、打ち上げることに特化したアル・ズアリ部隊を創設した。凧や風船はガザの士気を高めると同時に、イスラエル経済にダメージを与え、ガザ国境付近に住むイスラエル人を苛立たせた。象徴的な新兵器が「イスラエルを狂わせる」と、イタリアのあるジャーナリストが発言したことに対して、ハマスの指導者ヤヒヤ・シンワルはこう説明した、 「凧は武器ではない。せいぜい切り株に火をつける程度だ。消火器で消せば終わる。凧は武器ではなく、メッセージだ。アイアンドームのバッテリーが1個1億ドルもするのに対して、凧は麻ひもや紙、油を染み込ませた布切れでしかないのだから。凧が言っているのだ。「お前たちははるかに強力だ。しかし、お前たちは決して勝てない。本当に。絶対に。」」。
ガザの凧を、屈服することを拒む民衆からのメッセージとして読み取るには、さらなる背景がある。2011年、ガザの浜辺で1万5千人のパレスチナの子どもたちが、同時に揚げられた凧の数で世界記録を更新した。凧の多くには、パレスチナの国旗やシンボルとともに、平和と希望への願いが描かれていた。パレスチナ国旗の色で凧を作った11歳のラウィアは、「凧を上げると、自分の国と国旗を空に掲げているような気分になる 」と語った。ニティン・ソーニーとロジャー・ヒルが監督を務めた2013年のドキュメンタリー映画『フライング・ペーパー』では、若い凧揚げ人たちの物語が描かれている。「凧を揚げていると、自分たちが空を飛んでいるような気分になる。自由があると感じるんだ。ガザは封鎖されていない。凧を揚げるときに、私たちは自由が存在すると分かる」。今年に入り、世界各地で行われた連帯デモでは凧が揚げられ、パレスチナの自由への希望と意志が表現され、高まっていった。
リファート・アラレアの遺作の詩 "If I Must Die "は、凧と希望を結びつけている。ブライアン・コックスがこの詩を朗読した動画は、IDFがアラレアの建物を空爆で破壊して殺害した後、ネット上に拡散された。
もし私が死ななければならないなら
あなたは生きなければならない
私の物語を語るために
私のものを売るために
一枚の布と
糸を買うために、
(白くて尾の長いものをね)
ガザのどこかの子供が
天を見つめながら
炎に包まれながら去っていった父親を待っている。
誰にも別れを告げず
肉体にさえも
自分自身にさえ
あなたが作った私の凧が上空を舞っているのを見た、
一瞬、天使がそこにいると思った。
天使が愛を取り戻してくれたのだと。
もし私が死ななければならないなら
希望をもたらすように、
物語になるように。
凧は愛のメッセージだ。凧は飛ぶために作られ、そして飛ぶことによって希望を生み出す。アラレアの言葉は、凧を作ること、布と糸で作ること、そして凧を揚げることを意識している。凧を作ることは、喪に服すことなどではない。実践的な楽観主義へ与することであり、政治の主体、凧を作り、自分の物語を語るように指示された 「あなたたち」を確立する主体的なプロセスの要素なのだ。
1998年、パレスチナ人はヤセル・アラファト国際空港を建設した。2001年、第二次インティファーダの最中、イスラエルのブルドーザーはそれを破壊した。ヒンド・クーダリーが説明したように、空港はパレスチナ国家樹立[statehood]という夢と深く結びついていた。彼女は、瓦礫と砂に消えてしまった滑走路を建設した労働者たちにインタビューした。クダリーが書くように、「ガザ空港は単なるプロジェクトではなかった。パレスチナ人にとって自由の象徴だった。パレスチナ国旗を空に掲げることは、すべてのパレスチナ人の夢だった」。
10月7日にイスラエルに飛来したパラグライダーたちは、解放と飛行の革命的関連性を継承している。帝国主義勢力とシオニスト勢力は、この行動をハマスのテロというただひとつの形象に収斂させようとし、あらゆる証拠に反して、ハマスの抹殺によってパレスチナによる抵抗は消滅するだろうと主張しているが、パレスチナの自由のために闘う意志は、それに優先し、それを凌駕している。ハマスは10月7日の行動の主体ではなかった。それは、その行動の効果として主体が現れることを望む行為主体であり、パレスチナ革命の直近の具体化であった。
レイラ・ハレドがPFLPのハイジャック戦術の正当性を擁護するために使った言葉は、10月7日にも同様に当てはまる。ハレドはこう書いている。「ある同志が言ったように、敵が無敵ではないことを証明するために、我々はこの卑劣な世界で英雄的に行動する。我々は、耳の聞こえない西側自由主義者の耳垢を吹き飛ばし、彼らの視界を遮る藁を取り除くために「暴力的に」行動する。我々は革命家として大衆を鼓舞し、反革命の時代に革命的変動を引き起こすために行動するのだ」。
抑圧された民衆は、どうすれば変革が可能だと信じることができるのか。何十年にもわたり敗北を経験してきた運動は、どうすれば自分たちに勝利する力があると思えるのだろうか。サラ・ロイは、10月7日以前にガザと西岸に蔓延していた絶望を記録に残している。派閥主義と、イスラエルに過度に協力しているのはファタハだけでなくハマスも同じだという意識が、民族的統一のプロジェクトに対する自信をほつれさせていた。友人はロイに言った、 「私たちのこれまでの要求は無意味になってしまった。誰もエルサレムや帰還権などとは口にしない。私たちが求めているのは、食料の確保と通行路の開放でしかない」。その絶望感をアル・アクサの洪水が襲った。ハマスとPIJ(パレスチナ・イスラム聖戦)が率いる抵抗勢力による連合体は、敗北を受け入れず、ゆるやかな死という屈辱に服することを拒んだ。彼らの行動は、革命の主体がその効果として現れるように作られていた。
イスラエルによるパレスチナへのジェノサイド(大量虐殺)戦争が始まってからこの半年間、パレスチナに対する世界的な連帯が急激に高まっている。これは、1970年代と1980年代にかけて起こったかつてのうねりを彷彿とさせるものである。エドワード・サイードが我々に語ったように、70年代の末までには、「パレスチナ運動と同調しない進歩的な政治的大義は存在しなかった」。パレスチナへの連帯は左翼を団結させ、解放闘争を世界的な反帝国主義戦線につなぎ合わせた。歴史家のロビン・D・G・ケリーが言うように、「我々急進派はPLOを、発展への「非資本主義的な道」を進む自決のためのグローバルな第三世界の闘争の前衛とみなした」。パレスチナの闘いの戦闘性とひたむきさによって、その革命的戦闘員は左翼の模範となった。
今日のパレスチナ解放のための闘いは、イスラム抵抗運動ーーハマスーーが主導している。ハマスは、組織化されたパレスチナ左翼の全体によって支持されている。帝国主義中枢に位置する左翼は、パレスチナ左翼の指導に従ってハマス支持に回るだろうと予想されたかもしれない。しかし、往々にして左派知識人は、帝国主義国家がパレスチナについて語る上での条件にしているような非難に呼応している。そうすることで、彼らはパレスチナ革命に反対する側に立ち、パレスチナの政治プロジェクトに対する抑圧に進歩的な顔つきを与えるとともに、前世代の反帝国主義の願いを裏切ることになる。
『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』誌に掲載されたジュディス・バトラーの10月19日付エッセイは、その最たる例である。バトラーは、75年にわたるナクバとパレスチナの抵抗を分析の中心に据えるのではなく、ハマスの醜悪な殺戮を免責したハーバードの学生たちを批判している。ハーバードのパレスチナ連帯グループは、イスラエル体制に「すべての進行中の暴力に全面的な責任がある」とする声明を発表した。バトラーのエッセイは、コロンビア大学、コーネル大学、ペンシルバニア大学、ハーバード大学、ロチェスター大学などで起こったように、まもなく学術界を覆うことになる態度を先取りしていた。それは、ガザにおけるジェノサイド的暴力の現実から、安全で特権的なアメリカの大学の情動的環境へと注意をそらすものであった。バトラーが標的にしたのは、学生たちの言葉遣いや感じ方、自己表現の仕方などであり、これはハーバードとペンシルベニア両大学の学長辞任につながった議会公聴会の模範を前もって示していた。
ハーバード大学の学生に対して、バトラーは「ハマスによって行われた暴力を無条件に」非難した。バトラーは、このような非難が政治の終わりであるとか、この地域の歴史を学ぶことを妨げるなどとは考えてもいない。それどころか逆にバトラーは、非難には道徳的なビジョンが伴わなければならないと主張する。そうしたヴィジョンには、平等な悲嘆と追悼の権利、そして「新しい形の政治的自由と正義」が含まれ、あるいは含まれるかもしれない。ただし、バトラーにとって、このビジョンはハマスを除外するものである。バトラーはハマスだけに10月7日の責任があるものとして扱い、多数のパレスチナ人グループの武装勢力がこの行動に参加したという事実を無視している。さらにバトラーは、「ハマスのようなグループを消滅させる」ような 平等を求めて、「想像し、闘争する」一員になりたいと考えている。バトラーにとって、何をもって「ハマスのような」集団とみなすのか、また、いかなる特徴がある集団を消滅させる対象となるのか、明らかではない。例えば、もし問題なのが武力の暴力的行使だとすれば、植民地化され、占領され、抑圧された人々の解放闘争はあらかじめ除外されてしまう。70年代末まで進歩的勢力を結束させていた政治的地平は遠のいてしまう。
ハマスのようなグループを「強制的に消滅させる」ことを望むバトラーの立場は、ジョー・バイデンやベンヤミン・ネタニヤフと重なる。もっとも、彼らとは異なり、バトラーは占領を名指しで否定している。しかし、バトラーは彼らの立場と、ハマスとパレスチナを切り離し、この切り離しをパレスチナの解放の条件とする彼らの戦術に共鳴している。ハマスが自由なパレスチナへの闘争の主導者として広く認められ、受け入れられている以上、その解体を望むことは国際連帯の失敗である。それは帝国主義への抵抗で団結した戦線に一撃を加え、くさびを打ち込むことになる。ハマスの擁護は、ほとんど話題に上らないほど不謹慎なものだ。それは、すでに閉ざされ、鍵のかかったドアを塞ぐかのように、前もって非難することにより遮断される。「ハマス側につく」 ことは、告発され非難されるべきことであり、根本的な対立における自分の立ち位置を認識することではないのだ、と。
バトラーは、ハマスには、入植者植民地支配が終わった後にどのような世界が可能かという問いに対する「恐ろしく、ぞっとするようなひとつの答え」があると言う。バトラーは、ハマスのその答えが何なのかを教えてはくれない。同グループが2017年に発表した政治文書についても言及されていない。この文書では、「1967年の境界線上にパレスチナ国家を創設すること、帰還の権利に関する国連決議194号、国際法の範囲内で武力闘争を制限するという考え方を受け入れた」とある。この文書は、私には、恐ろしいともぞっとするとも思えない。たとえ、ヨルダン川西岸にイスラエルの違法入植地が広がっていることを考えると、それを想像するのは難しいとしても。12月13日、バトラーはハーバード大学の学生たちに謝罪した。彼女は、ハマスが「武装抵抗のための運動」であり、武力闘争の長い歴史の中に位置づけられる可能性があること、少なくともこれらは「重要な問い」であることを認めた。だが、パレスチナ解放運動の主導者を擁護することは、依然として議論の対象外であった。2024年3月11日、バトラーは「あらゆる形態の「抵抗」が正当化されるわけではない」と述べた。
抑圧された人民は、必要なあらゆる手段を使って抑圧者に反撃する。彼らは、解放闘争が行われる環境に応じて、勝利に必要な戦略と戦術を選択し、また選択せざるを得ない。抑圧者はどれだけの異議申し立てを容認するのか?抑圧者は反乱を鎮圧するためにどれだけの力を行使するのか?抑圧者は被抑圧者の従順さにどれほど依存しているのか。抑圧者はどれほどの道義的非難を浴びても構わないのか。抑圧者に抵抗する権利、民族自決権を認めるということは、抑圧者に反撃する意志を持ち、反撃できる人々を擁護することを意味する。こうした擁護は、無批判である必要などない。しばしば、個人、グループ、国家は、自分が意見を異にする人々を擁護するという政治的立場に身を置くことになる。しかし、この擁護は、抑圧者からでもなく、抑圧を可能にし、正当化するより大きな帝国主義秩序からでもなく、被抑圧者による解放闘争からその方針をとらなければならない。ロビン・ケリーの表現を借りれば、「抑圧という共通点」ではなく「抵抗という共通点」に連帯を根付かせなければならない。この考え方は新しいものではなく、反帝国主義闘争や民族解放闘争において長い歴史を持っている。
バトラーの立場に見られるような反帝国主義的連帯の衰退は、より広範な脱政治化、つまり、さまざまな、萎縮した想定を映し出している。昨今では(少なくとも10月7日までは)、人々は左翼が存在しないと不満を漏らすか、不満を漏らさないとしても、左翼政治を多種多様な特異性、すなわちあらゆる具体的な選択肢や感覚を持つ無数の個人という観点から想像している。交差性に訴えかけることで、40年にわたる新自由主義的な分断化がばらばらにしようとしてきた諸問題の間につながりを作ろうとしても、この概念の自由主義的な法的基盤は、個人を交差点と位置づけ、諸問題をアイデンティティの問いに位置づけることがあまりにも多い。組織のレベルで脱政治化された諸問題は、個人の中で、また個人として再政治化される。ある個人が何を考えているのか?それを表現することに居心地よさを感じているのだろうか?どのような表現がこの居心地の良さを脅かし、その人の安心感を損なうのか。個人の不安を管理することに政治が制約されることで、大学のキャンパスであれ、市民の抗議行動を規制する地域においてであれ、自己を中心に据えること[self-centeredness]が道徳的なものとして再定義される。この制約は、戦闘的な政治組織を援助活動に代替させ、闘争を行政に代替させ、NGOやCSOを革命党に代替させることで、より一般的で体系的な道徳主義による政治の置き換えのほんの一瞬にすぎないものとなる。
私たちが直面しているのは脱政治化ではなく、敗北である。政治は続いているが、この敗北によって構造化された形をとっている。帝国主義との闘いにおいて、我々は首尾一貫した立場として自らを構成することができず、自分たちがどちらの側にいるのかも分からない。どちらの側につくかを認識することさえ、二元論的思考や、複雑さや曖昧さを受け入れることのできない稚拙な無力さとして退けられてしまうのだ。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の1969年の戦略文書は、サイードとケリーが想い起こさせた政治的世界を垣間見せてくれる。それは、バトラーの道徳主義が封殺するのみならず、発言に対するシオニズムと帝国主義からの条件づけを維持することで積極的に対立する世界である。6月戦争でのアラブの敗北を受けて1967年に起草されたこのテキストは、PFLPの創設文書である。この文書の中心は帝国主義の問題である。第二次世界大戦後、植民地資本主義勢力はアメリカ資本を筆頭とするひとつの陣営に結集し、社会主義諸国と解放闘争はそれに対抗する革命陣営を築いたと、この文書は述べている。民族解放闘争を封じ込める新植民地主義的手法によって、アメリカは自国の利益を実現しようとした。それ以上に、アメリカのベトナム、キューバ、ドミニカ共和国への侵攻が証明したように、アメリカは武力行使もいとわないというのが同党の見解であった。アメリカは、アラブ運動が「世界革命陣営と」合流するのを阻止できなかったため、アメリカ帝国主義はイスラエルに軍事的支援を投入した。このことは、PFLPにとって、パレスチナの闘いが帝国主義の巨大な権力と技術的優位との対決を避けられないことを意味した。戦略上の問題として、パレスチナは「世界全体のすべての革命勢力と全面的に同盟する」以外に選択肢はなかったのである。
文書にはこうある。
アフリカ、アジア、ラテンアメリカの人民は、植民地主義と帝国主義の結果としてもたらされた生活の悲惨さ、貧困、無知、後進性に日々苦しめられている。今日の世界が経験している主要な対立は、一方に搾取する世界帝国主義があり、他方にこれらの人民と社会主義陣営があるという対立である。パレスチナとアラブの民族解放運動とベトナムの解放運動、キューバと朝鮮民主主義人民共和国の革命的状況、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの民族解放運動との同盟は、帝国主義陣営に立ち向かい勝利することができる陣営をつくる唯一の方法である。
したがって、パレスチナ問題の政治的解決は、必然的に帝国主義に対抗するグローバルな闘いとして展開される。「われわれはすべてのパレスチナ人である」の「われわれ」とは、われわれすべてのために戦う側の名前である。2017 年の文書の序文に引用されている、1972 年にイスラエルによって暗殺された小説家、詩人、PFLP 創設メンバーであるガッサン・カナファニの言葉を借りれば、「パレスチナの大義はパレスチナ人だけの大義ではなく、どこにいようとも、すべての革命家の大義であり、我々の時代の搾取され抑圧された大衆の大義である」。
多くの大学キャンパスでは、「川から海まで、パレスチナは自由になる」というスローガンが禁止されている。このスローガンをめぐっては国際的な議論まで起きているが、これもまたパレスチナとの連帯の感覚を生み出す10月7日が引き起こした主体的なプロセスを消滅させようとする戦争の一端をなすものである。帝国主義者を本当に怒らせるに違いないのは、もうひとつ別のスローガンである。「何千人であっても、何百万人であっても、われわれはみなパレスチナ人である」。これは分断を否定し、反帝国主義の主体をパレスチナの大義の効果として認識するものである。このスローガンは、新自由主義的な管理主義や人道主義の前提にある個人化を、反帝国主義という分割線を引く普遍主義に入れ替えるものである。
私たちは、ハマスを擁護をすることでパレスチナの抵抗の側に立ち、革命的主体ーー占領と抑圧と闘う主体ーーに応え、この主体を競合する開かれたプロセスの効果として認識している。あなたはどちらの立場なのか?解放か、それともシオニズムと帝国主義か?そこにあるのは2つの立場であり、そこに代替案はなく、抑圧者と被抑圧者の関係について話し合う余地もない。抑圧は、許容される言論の規範への気弱な譲歩によって管理されるのではなく、覆されるものだ。政治的なものを構成する分割線がその厳然たる残虐性をもって現れるにつれ、中間派、マルチチュードという幻想は消え去っていく。
これは、カール・シュミットの古典的な「敵味方の関係の緊張化」という政治的定式化を想起させるかもしれない。しかし、ここで異なるのは、ヒエラルキーの認識である。植民地主義的な占領と帝国主義的な搾取は敵対性を生み出すが、敵対性は対立する対等な者同士のあいだでの情動的な場に設定されるものではない。 それは万人の万人に対する戦争ではない。抑圧された者が抑圧した者に対抗する戦争であり、自決権を否定された者が否定した者に対抗する反乱なのだ。
両者の間には、根本的に異なる意味の秩序がある。一方からすれば、他方は気違いじみた怪物のように見え、まったくもって馬鹿げている。状況を評価する第3の視点など存在しておらず、どちらかに片寄らない中立的な主権や合法性のシステムも存在しない。死者を集計して、すべてが均等になるタイミングを保証するような計算を差し込むことなどできない。歴史は問題を決定づけるものではない。私たちが一連の出来事を語り始める日付は、単に選択できるようなものではないのだ。政治的なものを構成する分割線はどこまでも続く。
パレスチナを、国際法や人権体制、あるいはグローバル化した新自由主義の円滑な世界といった、より大きな失敗の兆候として扱いたい誘惑に駆られるかもしれない。この場合、パレスチナは、これらの体制がそれ自身と矛盾し、構成的に排除されている地点を示すことになる。このような誘惑には抵抗しなければならない。法は常に、困難な事例やその実施における試練に直面しても、崩れ去ることはない。グローバル化した新自由主義は、政治空間を断片化し、分離し、無数の個別的な領域に分解する。クイン・スロボディアンが示したように、地方分権は資本主義階級の利益を確保するための主要なメカニズムのひとつである。パレスチナは、一つの兆候を示すものではなく、帝国主義との闘いにおける一つの立場を示す名である。パレスチナの抵抗が、占領と抑圧の舞台を劇的に突き崩したとき、この側面が事実として再浮上した。それは、それを無視しようとする秩序に 対して、不正義を正し、奪われたものを取り戻し、人民として、民族として、自決権を持つ国家として承認されようとする意志が継続しているという事実を突きつけるのである。パレスチナは、ある政治的な主体に付けられた名なのだ。
パレスチナの政治的主体性という考えを深めるために、充実した文献を挙げることができる。重要な論点は、ナクバ後のナショナル・アイデンティティを想像する上での抵抗の中心性、パレスチナの宗教的多様性についての特殊性(イスラム教、キリスト教、ユダヤ教)、イスラエル、占領地、ディアスポラにまたがるパレスチナ人の分散などであろう。さらに強い説得力を持つのは、「私たちはみなパレスチナ人である」という挑発的な主張だ。この主張は、あらゆる苦しみは同じ苦しみの多様な現れのひとつであり、だから私たちは皆仲良くすべきだ、というようなセンチメンタルな同調と理解されるべきではない。むしろ、パレスチナの大義がもたらす結果としての主体に応える、急進的で普遍的な解放の政治的スローガンなのだ。すべての人がパレスチナのために語っているのではなく、パレスチナがすべての人のために語っているのだ。
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