満たされていいる人と満たされていたい人どちらが他者に対して優しさを発揮しやすい?

SDGsについての談話


友人とSDGsについて談話していた。
テーマは「あなたは持続可能な生活ができているといえますか?」
その中で一人の女性が話してくれる
「私は、持続可能な生活ができていると思えない。今、子育てでいっぱいいっぱいで、自分のやりたいことが全然できていない。今の生活がずっと続くのは想像できない。」

また別の女性「今の収入と、特に家賃だけど支出のバランスが悪い。収入に対しての支出が多すぎる。これを続けていくのはきっと無理だ。だから何とかしたい。」

私はビックリした。
もう20年以上有機農業に関わってきた私は、何が持続可能なのかずっと考えてきた。できる範囲で、自分のできる範囲で実行してきた。自然との気持ち良い共存方法。自分の欲求の満たし方を消費行動に依存しすぎないこと。便利であってもそれが自分を幸せにしないのなら不便さを受け入れそれを楽しむこと。
我が家では食のほとんどを自分の田畑で作り、それを頂く。山から木を切り出し、または近所から廃材を集めて、それを薪にして煮炊きをして、風呂を沸かして、暖もとる。電気は使うし、車も使う、スマホもパソコンも使う。トラクターも使う。迷いながら、自分や家族の感情と共存も踏まえた自然との共存を実践し考え、それを繰り返し、今の我が家の暮らしがある。
この暮らしが持続可能かと改めて問われると考えこんでしまう。
この暮らしを次の代、その次の代、その次・・・・。と続けていけるだろうか?自給自足という観点からは、比較的にはかなり高い水準かもしれない。ただ、私の知人の中にはもっと高いレベルで自給自足の生活を実現している人はたくさんいる。
精神的にはどうだろう?私たち夫婦はこの生活が理想に近いと思って実践している。が、以降の世代の人間がそれを選択するほどの魅力を伝えているだろうか?自分が持続可能と思っても、もし私たち以外誰もそれを選択しなければ、その持続性は私たちの代で終わる。それは、持続可能ではなかったということだろう。
こんなところが、私の中での持続可能な生活ができているかという対する答えというか、思いの告白だ。

冒頭の友人2人の答えは、私にショックを与えた。私が考えていた持続可能性の時間的長さや視野の範囲に比べて、2人のそれらががあまりにも短く狭いと思った。彼女らが違う話をしたように感じた。

でも、今、それを同じ話として考え、そこから教訓を得ることができた。
それをここに残したい。それが今回のタイトル

精神的に満たされている人とそうでない人、他人に対して優しさを発揮できるのはどちらだろう?

問いの形ではあるけれど、この問いは私に対する救いのメッセージだ。
この問いに対する直感的な私の答えは満たされている人のほうが優しさを発揮しやすい、だ。そして、満たされいない人は、優しさを発揮しにくい、だ。
今に悩みを抱え、必死な人が、自分の未来や次世代の理想を考えるのは難しいだろうと容易に想像がつく。自分に当てはめてもそう言える。社会が本当に持続可能性を目指すなら、今、生きている人に、生きている人の感情に視点持つことが重要そうだ。

「利他的行動の前に自分を満たす利己的な精神の充足が土台にある」というわたしの飛躍ある仮説。
他人にやさしくできない自分を責める前に、自分を満たすこと、自分に優しくすること。自分に優しい感情抱くこと。自分には荷が重すぎると思った時は誰かに助けを求めること。そうすることで、いつか誰かにやさしさを発揮しやすくなる。
自分を犠牲にして誰かに尽くすことから逃げ出したいと思いながら逃げ出せない人。そのような人は、こう思おう。
まず自分を満たすことで、それが誰かの救いにつながる。


私が自分の視野を次の世代、次の世代と広げている間に、隣で友人が、子育てのことや経済的なことで悩んでいたのだ。それらの人を視野が狭いと言い切り捨てることはできる。一方その悩みを少しでも和らげるようにかかわることもできる。私にはどちらもできる。
未来に視野を向けることは大事。今に視野を向けることも大事。行動も大事。感情も大事。目に見えるものも見えないものも大切で。どちらかに偏らない、バランスが大切ということかな。なんだか、当たり障りのない一般論みたいなオチになってしまった。


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