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転勤はある日突然に。

突然やってきたその日。車に乗せられた僕が、湯けむりの街「別府」を離れ、九州の小京都といわれる「日田」に引っ越したのは4歳頃のことだ。住んでいたマンションのベランダの格子の合間から見える、海の青色に映える湯けむりが上がる景色に硫黄の匂いがする街は、かつて天領と呼ばれた古い城下町の塀を一歩曲がると、緑色の田んぼや畑に囲まれた町になった。

別府の記憶がうっすらとしかない僕にとって、日田は記憶のスタートと言って良い。少しずつ歳を重ね、大きくなるにつれ、遊び場は近所の田んぼや小川になり、フナやタガメ、みどりの虫をとってくるようになった。夏はカブトムシやクワガタムシをとってきては家で飼い、小さな橋の上から小川に飛び込んでは、水浴びをするようになった。田んぼの水面を蛇がうねり、川に潜むすっぽんも見た。

自然だけでもなかった。約300年の伝統を誇る「日田祇園祭」は、古いトタン屋根の借家から一歩通りに入った豆田の町を、絢爛豪華な山鉾が祭りの音色と人々の歓声で盛り上げた。家の2階よりはるかに高い山鉾は、子どもの背丈でも十分に見え、つるされた提灯の明るさで多くの観客の顔色を赤色で染めあげた。

たまに行く古い蔵を改装した壁が白色とも灰色ともとれる駄菓子屋は、木箱のようなケースに並べられた5円から100円もいかない金額幅の中で、子どもを夢中にさせるには十分な量のお宝と、夏の水分補給にはもってこいな水色の宝石入りのサイダー瓶を並べていた。水あめを練りながら舐めていたら、歯がとれた友達を見た記憶もこの頃だ。その友達が誰なのか全く覚えていないけど、きっとあの時抜けた歯はあの蔵の上に投げられたに違いない。

僕が住んでいた当時、日田市は大分県にあって大分市よりも隣県の大都市福岡市のほうが時間的に近く感じたし(高速道路が大分ー日田間で開通したのは、僕が小学校に入ってしばらく経った後だったと記憶している)、福岡のおかげでテレビ番組は大分より1週間早く放送しているものがあることを、小学校4年を機に引っ越した大分市で、当時流行っていたポケットモンスターの放送が先週と同じであることで気づかされた。

これが僕の人生初の転勤による記憶の一部だ。警察官だった親父の転勤で、僕の生活はガラリと変わった。が、それ以上に長男の僕と次男を連れて引っ越し、直後に三男が産まれた両親はさらに大変だったに違いない。(ちなみその後、僕の二度目となる大分市への引っ越し直後に四番目となる長女が生まれるのだけど、、)。でも、僕の中での転勤への記憶は濃く、彩り豊かなものになったし、その頃の出会いで今の自分に続くものが沢山ある。

転勤自体の善し悪しは、会社やチームにもよるし、その人自身の現状のバックグラウンドや想い描く未来によっても判断はわかれるだろう。何より理不尽な変化は減っていくべきだ。ただ、住む場所の変化によって、生まれるものがきっとあり、どうせ転勤するなら主体者として、意図して、その変化をつくり楽しめるようになりたいと思う。

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