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廣瀬神社のご由緒


コンビニエンス厳島神社

 令和六年三月二十九日の広島市は春雨があがり快晴の一日でした。雨の前と比べて急に暖かくなり、上着を一枚多く着て出た形になってしまって無駄な手荷物が一つ増えました。

 そんな中でこの日は広島市中区広瀬町におわします廣瀬神社へお参りしました。

 廣瀬神社には安芸の宮島におわします厳島神社の主祭神である宗像三女神といわれる三柱(日本の神様は一柱、二柱…と数えます)の女神さまが祀られております。室町時代までにはこの辺りに廣瀬荘という集落が営まれていたようです。当時としてはほど遠い厳島神社へのご参詣、近くの厳島神社で日々のお祈りができるようにと生活に密着した神社だったのでしょう。ページトップの画像では見切れてしまっていますが、ご神紋が厳島神社のものであることからもそれが読み取れます。
 われわれ日本人のご先祖さまである中世庶民の生活についての空想が膨らみます。

廣瀬神社のご由緒

 それでは由緒書きを読んでいきたいと思います。

広島市中区 廣瀬神社の由緒書き

廣瀬神社由緒
 当社は、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)を祀り、相殿に天照皇大神(あまてらすこうたいしん)、須佐之男命(すさのおのみこと)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれびこのみこと)を配祀する。
 天正年間、此所に廣瀬辨財天(べんざいてん)という社あり、毛利輝元この地に苦提寺、洞春寺をおくに及んで、これを鎮守社とし、廣瀬市杵島大明神(ひろせいちきしまだいみょうじん)と称して信仰厚く。社領を寄せられたという。
 享保八年。社号を廣瀬大明神と改称。
 旧藩時代は、廣瀬、十日市より天満、観音、福島に至る広島西部一円の氏神として崇敬せられ、毎年九月十九日の大祭は盛大な賑いを呈したという。
 明治五年、社号を廣瀬神社、社格を村社と定められ。十月十九日を例祭日とし、広い境内には樹齢三百年以上という大樹、森をなし、諸々の社殿甍を連ね、宏大を誇る社であったが、昭和二十年八月六日原子爆弾のため烏有に帰した。
 戦後、市街地区画整理の結果、境内は狭隘となったが、昭和二十二年復興、假殿を営み。同二十四年拝殿を、同五十年秋本殿を造営し、翌五十一年秋にかけて境内の整備を実施した。
以上

廣瀬神社由緒書きより

 神名など読みづらいと思われる固有名詞にはふりがなを追記しておきました。
 ちなみに神名は漢字が入ってくる以前から音のみが存在していたため漢字はあて字です。そのため同じ神様でも古典書物(古事記、日本書紀ほか)によって漢字が異なります。各神社の由緒書きも同様です。

 それでは解説に入ります。

宗像三女神について

 まず主祭神の『いちきしまひめ』『たぎりびめ』『たぎつひめ』の三柱の女神様について。この三女神は福岡県宗像市田島にございます宗像大社が本宗です。古代、大陸へ渡る航海の安全を守護したり豊漁を司る神様です。
 日本全国にある厳島神社は宗像三女神をお祀りしています。(※安芸の宮島以外にも厳島神社は日本全国に約500社あるそうです)

三女神は誓約(うけい)により爆誕

 宗像三女神の誕生については記紀神話に記されています。かいつまんで説明すると、スサノオさまが姉上のアマテラスさまの誤解を受けてこっぴどく怒られ、身の潔白を示すために呪術比べ(誓約:うけい)を挑みます。お互いの宝物(剣・勾玉)を交換し互いにそれをガリガリ噛み砕いてフーっと吹き出すとあら不思議、男神と女神がいく柱かお生まれになりました。勝敗のつけ方は記紀の記述によりパターンがいろいろあるのでここでは省きますが、宗像三女神はこの時にお生まれになった女神さまです。尚、この時にカムヤマトイワレビコ(神武天皇)さまの高祖父(おじいさんのおじいさん)であるアメノオシホミミさまもお生まれになっております。

 ちなみに誓約というのは日本のおみくじや占いの起源とも言われていたと思います。あることが起こるように呪言を発し、その通りになるかどうかで吉凶を占う行為です。

弁財天=いちきしまひめ

 いちきしまひめさまはいわゆる弁天さま(弁財天)と同一視される信仰がございます。それで廣瀬辨財天と呼ばれていたのでしょう。
 ところで弁財天はいわゆる仏教の天女さまです。いちきしまひめ様は日本古来の神様です。なぜに同一視されるようになったのか、よく分かりません。
 聖徳太子が四天王寺や法隆寺などの仏教寺院を建立した頃から飛鳥、奈良、平安と時代が進むにつれお寺と神社は渾然一体となっていきました。いわゆる神仏習合というものですが鎌倉時代の頃にはもういろんな創作(説話)なども出回ってシッチャカメッチャカになってしまったように感じています。
 今のように神社とお寺がきちんと分けられるようになったのは明治初期の頃。割と最近ですね。
 千五百年ほどもの間、仏教と神道は日本人の間で『神仏』として同様に大切にされてきた信仰の風習があるので、現代人の私達がお寺と神社の違いをあまり意識しなかったりするのも自然なことなのだろうと思います。

カムヤマトイワレビコ=初代天皇

 現在の天皇陛下(徳仁天皇)が第何代の天皇かご存知でしょうか。なんと第百二十六代です。百二十六代目がおられるということは初代も当然おられたわけで、その初代がカムヤマトイワレビコこと神武天皇です。
 いずれ記事にしようと思っておりますが神武天皇と広島(安芸)は実はなかなかのつながりがあり廣瀬神社に祀られていることも私としては浪漫を感じるところであります。

安芸の国といえば毛利家

 やはり安芸の国といえば毛利家です。輝元公は砂州や沼地だった今の広島市を埋め立てて広島城を建設したことはあまりにも有名です。今は山口県にある菩提寺の洞春寺は廣瀬神社の一角にあったとのことです。
 幼い頃から篤く神仏を敬っていた元就公は神の島である厳島を合戦により血で汚してしまったことを悔やみ、終生まで厳島神社を厚く崇敬していたとのことです。その孫の輝元公がここに洞春寺を置いていたこと、しっくりきます。

毛利家の当代

 いわゆる戦国大名の中で今でも当代がおられる家は片手で数えられる程だったと思いますが毛利家はそのうちのひとつです。江戸幕府により長州へ移された毛利家は三家に分かれ、そのうちの徳山毛利家第14代当主が毛利就慶(なりよし)氏で、YouTubeちゃんねる『毛利家歴史チャンネル』を立ち上げておられます。私もしばしば鑑賞して勉強させていただいてます。

まとめ

 廣瀬神社は縁起の良い神社でした。縁起◎ポイントは以下の通り。

  • 電車と船を乗り継がずとも気軽に厳島神社の御祭神(宗像三女神)にお祈りできる

  • 天神のボス(アマテラス)と地上の神のドン(スサノオ)に一度にお参りできる

  • 日本を建国した初代天皇(カムヤマトイワレビコ:神武天皇)にもお参りできる

  • 広島を今の姿に導いてくださった毛利家ともご縁が深い

 神社マニアの私は由緒書きを読んだときに正直ワクワクしました。自宅からは少し遠いのですが時々お参りに来たい神社でした。ちなみにアイコンにしている狛犬さんは廣瀬神社の狛犬です。
 最後までお読みいただき誠にありがとうございました!

廣瀬神社の狛犬さん

参考

書籍

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