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男性原理と女性原理(2):なにかを信じることは思考停止するということ

フリーメイソンがアメリカ建国やフランス革命に深く関わっているという歴史上の事実が教科書に載らず、歴史学者の口からも語られない理由。それは単純にキリスト教への忖度です。

インターネットの普及もあって、ここ20年ほどでその辺りの大人の事情に気付いている人は世界的に急増しています。そしてそれに比例するかの様にキリスト教信者が激減しています。

一方日本では某オカルト誌や都市伝説系ユーチューバーがいまだに「フリーメイソンが悪の秘密結社で世界を裏から支配している」というガセネタをせっせと流布して正しい歴史認識の普及を妨害しています(笑)

そして世界の流れに逆行して日本ではキリスト教系新興宗教の信者が増え続けています。統一教会もその一つです。

テレビではここ数年ぱったりとフリーメイソンネタを扱わなくなりましたね。フリーメイソン系スポンサー企業から「ガセネタを流さないでくれ」と注意があったんだと思われます。おそらく悪の秘密結社論を事実だと信じ込んだ人による脅迫などが、寛容なフリーメイソンでも無視できない程多くなったのだと推測します。
行方不明の女の子を母親が殺したというデマを信じ込んでその母親を脅迫するような人が実際にいますからね。情報は一旦全て疑って、それが本当に正しいのかどうか自分の頭で考えるというのは本当に大切な事だと思います。

信じるという行為は思考を他者に委ねるという事

「信じる」の対義語は「疑う」ではなく「考える」です。何も考えずただ信じることが崇高な行為だという幻想は宗教によって気がつかないうちに誘導された思想です。まずすべてを疑ってみる事が健全な思考の第一歩で、これは他人を疑うだけでなく自分自身の考えも常に疑う必要があるということです。「自分を信じる」というのは「思考停止」を耳障りの良い言葉に置き換えただけです。

議論が喧嘩になってしまうのも日本人にありがちなことです。自分の意見こそ正しいと「信じて」いるからそうなってしまうんですね。正しいと信じているものを否定されたから感情的になる。
正しい議論は、はじめに全員が「自分の考えは正しくない」という前提に立ち、意見を出し合って一致する結論を導くことです。誰も正しくないという前提に立つ限り喧嘩にはなるはずがないんです。議論の前に「私の考えは正しくない」と全員が宣誓するようにすれば目的意識が明確になるかもしれないですね。

ディベートと議論の違いを理解している人も日本人には少ないですね。ディベートは勝敗を決することが目的の知的競技です。議論とは違い、結論を導く事が目的なのではありません。競技だから審判もいるし、目的は勝つ事だけです。
欧米ではディベートを学校で教わります。もちろんディベートと議論(ディスカッション)の違いも。これらの本当に重要なことは日本の学校では教わらないので、議論=ディベートという勘違いが本当に多いです。それがGHQや日教組による、日本人を骨抜きにすることが目的の戦後教育のせいなのかどうかはわかりませんが。

本物の議論の手法を学ぶ機会がないので、男性原理の利点が働かず、日本の組織は停滞し腐敗する一方です。優秀な学者や技術者ほど日本に愛想を尽かして海外に拠点を移すという流れが何十年も続いています。日本から世界に通用する企業や組織がここ30年ほどまったく生まれていないのはその影響もあるんでしょうね。

議論を避ける日本の若者

日本で議論を避けたがる10代の若者が増えています。なぜ若者が議論したくないのかというと「相手の意見を否定して争いになりたくない」というのが理由です。若者は、議論討論とは名ばかりの口喧嘩でマウントを取って自分は賢いと思い込む愚かな大人の姿ばかり見させられているので、彼らのような人間になりたくないという思いから議論を避ける、その気持ちは僕もよくわかります。

では議論しないでどうやって結論を出すのかと問うと「多数決で決めればいい」と言います。多数決は議論を交わした上で初めて成立するものであるという基本的な事すら、若者は誰からも教わっていないんです。議論を経ない多数決はほとんどあみだくじで物事を決めるのと同じで、結果うまく行ったとすればそれは単に運が良かっただけです。

フリーメイソンが理想とする社会は実現可能か

最近よく聞く言説に「資本主義と物質至上主義が人間や地球をダメにしている」というものがあります。
現在の資本主義が多くの問題を抱えていることは事実です。ただその資本主義も、これはこれで人類が封建社会などいろいろな社会の仕組みを実践して失敗しながら辿り着いた進化形であることもまた事実なんですよね。
資本主義を否定するなら、代わりにどんな社会体制が理想的なのか。

フリーメイソンが理想とするような自由と平等の社会は、ユダヤ系ドイツ人のマルクスやエンゲルスらによって体系化され、富は国が一括して管理・分配する理論が作られました。その理論をベースとして生まれたのが共産主義です。マルクスの理論では、共産主義に移行する前段階として社会主義が必要でした。よく知られているように社会主義国家は構造的な問題があり、共産主義を実現した国は未だ世界に一つもありません。

縄文時代は自由・平等・博愛を絵に描いたような時代でした。フリーメイソンが望むものが全てありました。ただしそれは食べるものと水に困らない国土だったから実現できたことで、このような国土は世界的に見ると極めて希少です。さらに死亡率の高さも重要で、人口密度が一定程度に抑えられ、食べ物の奪い合いが起こり得ないことも縄文時代が長く続いた理由の一つです。
医療が飛躍的に発達し、長生きすることが良いことだとされる現代人の価値観を維持するなら、人口密度の問題を根本的に解決しなければ、行き着くところは食料や土地をめぐるいざこざで、最後には結局殺し合いになるはずです。
中国のように一人っ子政策などで人口をコントロールするとか、いざこざを裁判で解決するなら平和を持続可能…。なのですが、当然それらの政策を着実に遂行する中央政府が必要になり、それはつまり社会主義国家なのです。
日本人が社会主義国家を営んだらどうなるかは興味があるところですが・・・。その社会は「平等」かもしれませんが「自由」ではないことは確かです。

人類が自由・平等・博愛を全て同時に手に入れるのはそんなに単純な話ではないということがこれだけでわかりますね。

最近の一部のスピリチュアル系の本では、縄文時代のように人々から所有という概念が無くなれば人類は良い方向に進むと書いているものもあり、賛同する人も増えている気がします。
その背景にはフランスの「美しき緑の星」という映画の影響もあるようです。捨てなければいけないのは所有という概念の他に何があるのか、ちゃんと議論してみたいところです。



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