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カメラと祖母の死

 カメラを買った。
 新しいカメラを買うのは10年ぶりくらいだろうか。
 去年の秋頃、ちょっとした臨時収入があったので、日々の生活費ですり減らすのももったいないな、なにか形に残るものを買いたいなと思っていた。だが、とりたてて欲しいものもなく、家電や日用品などの故障などもなく、どうしようかと思っていたときに、たまたま電器店に立ち寄った。
 ちょうどNikonZfの発売日直後だったので、大幅に展示がされていた。
 残念ながら半年待ちとのことで、そのときは諦めた。
 10年前の古いものとはいえ、既にデジタル一眼レフを持っていたし、日常的にはスマホのカメラが一番使いやすい。こだわりがないなら、もうカメラよりスマホの方が良い写真を撮れる。
 そのときは、そう考えたのだ。

 しかし、しばらくして、ふとしたおりにNikonZfでX検索してみたら、納期が短くなっており、店舗によってはその場で持ち帰れるようになっているという情報が入ってきた。
「桜の季節にも間に合いますよ」そんな惹句が踊っていた。
 買いたい。
 買わねば。
 電話で在庫状況を確認して、都会の家電量販店に行った。
 あった。
 臨時収入の額より高かったが、45分程悩んだすえ、買うことにした。

古民家カフェの庭

 私の初めてのカメラは、小学校のときに買ってもらったオバQの形をしたトイカメラだった。あとからわかったが、父はわりとガジェット好きで、若かりし頃カメラに凝ったことがあったらしいから、それで買ってくれたのだろうか。
 次に初めて自分で買ったのは高校のころ。
 好きになったサッカー選手が日本にやってくると知って、その姿を収めるために、近所のカメラ店で置いてあったレンズ一体型のカメラを買った。たしかオリンパスだった。150mmくらいのレンズがついていただろうか。サッカーの写真を撮るにはまったく足らないが、日常写真には十分だった。
 その後大学くらいにHIROMIXや蜷川実花の写真のブームがあって、かぶれた私はそれからいくつかのカメラを買った。Canonだったり、Nikonだったり、フィルムカメラだったりデジタルカメラだったりした。
 私はサッカー選手追っかけのためにメキシコに行ったり東京に住んだりしていたが、そのころは当然の如くフィルムカメラだったので、X線検査をとおりぬけるために防護袋に入れて持っていっていた。
 ある日残念ながらフィルムが尽きてしまい、買おうとしたら輸入ものの富士フイルムのフィルムで、日本で買うより三倍の値段が付いていた…なんてこともあった。
 フィルムカメラだったので、デジタル全盛の今ほど気軽に写真は撮れなかった。メキシコは美しい街だらけだったので、どこもかしこも撮りたくてしょうがなかったのだが、治安の悪かったころで、でかい一眼レフを持ち歩く勇気はなかった。
 思い返せば、もっと撮っておけばよかったと思う。マフィアや治安の悪さで有名になってしまったが、美しい街なのだ。

 そうこうしているうちに自分は鬱状態になり、数ヶ月かけてそれから回復したあと、ひとつのカメラを買った。RICOHのGRである。
 まだデジタルカメラは主流ではなく、携帯のカメラは付いていたがまだ貧弱だった。私は同人誌イベントで会うオタク友達の写真を撮りたいと友人たちに泣きついた。
 鬱で死にかけた私は、そういえば友達の写真を一枚も持っていないことに気づいた。追いかけたサッカー選手たちの写真とともに、彼女たちの写真も欲しかった。様子のおかしい私にも、彼女らは応じてくれた。そのときの写真はもう残っていないが、私がカメラを欲するとき、そこにはいつもひとつの思いがあった。
 「喪失」だ。正しくは、「喪失への恐怖」だ。

モノクロモードでとると何でも美しい

 私の母方の祖父はとある地方都市に住むカメラマンだった。
 新聞社などに所属していたわけではなかったそうだが、フリーランスで新聞社や地元の媒体に写真を提供していたらしい。残念ながら離れて住んでいた祖父からその話を聞くことはなかった。死んだとき見せてもらった写真はすべてきっちりアルバムに整理してあり、その几帳面さが伺えた。
 祖父の写真を使ったテレホンカードなどもたくさんもらったことがある。
 私がカメラや写真に興味を持ち始めた頃には祖父はボケてしまっていて、祖父が死んだあと、祖母からいくつかのカメラをもらった。売れそうな高価なカメラはもう既に売ってしまっていたらしくて、どんな風にしてとるのかわからないくらいのボロいカメラだった。
 結局それで私が写真をとることはなかった。写し方もわからず、フィルムもないカメラだったので、処分してしまった。

同カフェにて

 鬱病(その後診断が変わって双極性障害いわゆる躁鬱病であったことがはっきりするが)を経て、逃げるように都落ちして実家に帰ってきた私は、同人誌作成以外の、人に胸はって言える趣味を持ちたくて、もう一度カメラを買った。
 それがNikonDfだ。
 デジカメなのにクラシックな外見をしたカメラで、その頃はまだめずらしいフルサイズだった。
 ちょうど近くで写真教室をやっている写真家がいて、二年ほど通った。通う前と比べれば、良い写真を撮れるようになったとは思う。
 しかし私は次第に興味をなくしてしまった。
 ただ美しいだけの写真には興味がなかったことがわかった。
 カメラというガジェットは好きだったのだけれど。

 写真は、その場にいないと撮れない。
 その表情を引き出せる相手でないと撮れない。
 そしてその場にカメラを持ってきていないと撮れない。
 好きな選手たちが引退し、スマホが発達し、その身近さが普及し始めて、私はたちまち写真教室への興味を失い、教室をやめた。
 私にとってはカメラは愛おしい人々を撮るものであり、愛おしい人々と同じ時間を過ごした証拠だった。

 私がカメラを買いたいと思うとき、そこにはいつも「喪失」があった。
 去年から、九十半ばの祖母がからだを壊し、入退院をくりかえすようになった。本人は認知症もなく、耳が少し遠い以外は何の支障もなく、トイレも自分で行き、風呂だけ私たちが介助する程度の状態だった。
 しかし一年に五回もの入退院をくりかえすうちに、祖母のからだは徐々に限界に近づいていったらしい。
 カメラを買わねばならない。そしてそれで祖母を撮らねば。
 思わず応対してくれたカメラ屋の店員さんに「祖母が死ぬんですよ」と言いそうになったが、やめた。
 やめてよかった。そこまでいくと不審者だ。

 年度末の春の日、まだ桜が本格的に咲き始める前に、祖母は逝ってしまった。カメラを買って、4日ほどしか経っていなかった。祖母は入院していて、最期の2日間は面会もできず、結局このカメラで祖母の姿を撮ることはなかった。

同カフェにて

 祖母が死んで、家族がいろいろな身辺整理や書類提出、葬儀の準備を行っている間、私は祖母の映っている写真のスライドショーを作ろうと、祖母の持っていた写真を見ることにした。
 その量に驚いた。小さめではあるがコンテナに5箱。そしてそれからあふれるように特に大事な写真が1箱ほどダンボールに入っていた。
 祖母の写真、祖母の兄弟の写真、祖母の父との写真、33年前になくなった伴侶である私の祖父の写真、祖父の会社の旅行の写真。それらが、まったく分類されずに、突っ込まれていた。アルバムに入れてあるものもあったが、途中で飽きたのかただ無造作に挟んでいるだけのものもあった。
 最近のデジカメプリント写真の横に30年前の写真がある…といった状況で、まるで圧力で歪んでまじってしまった地層を見るかのようだった。
 それを1枚1枚見て、葬儀に参列してくれる人との写真や、祖母の茶目っ気が出た写真などを集め、現像してある写真はデジカメで写し、姉や家族がデジカメで撮った写真も集め、大きめのiPadに入れた。
 姉からもらったデジカメ写真だけで、1200枚ほどあった。1500枚くらいの写真に目を通し、それを250枚くらいまで減らし、それを葬儀会場に持っていった。
 それはわりとみんなにウケて、作った甲斐があった。
 何よりも、それは私の心を慰撫してくれた。

庭が綺麗だ

 膨大な量を整理して思ったのは、写真というのは愛おしい人と一緒に居た証拠だから素晴らしいのだということだ。
 プロの写真家が撮る、貴重な風景写真であっても、人物写真であっても、その写真はそのときその場にいたから、そしてその腕があったから撮れたもので、何よりも自分が、撮りたいと思った人やものと一対一で対峙した証拠だからこそ、美しいのだ。
 iPhone時代になって、写真は身近になった。
 昔のように突っ立ってすました顔の証明写真や集合写真だけでなく、ふとした際に見せた思わぬ表情を逃さず、連写も簡単にできるようになった。
 2024年冬ドラマ『不適切にもほどがある』の主人公でシングルファーザーの市郎は亡き妻と娘の幼い頃の写真を巾着に入れて持ち歩いていた。
 することなすこと不適切な市郎が現代人がスマホに何でも入れるのを見て「この中に全部入ってんだ、大事にしないとね」と言うシーンがある。それは現代人のスマホ依存を笑うセリフではなく、大事なものをひとつに集約できるスマホに純粋に感動したからなのだ。

ケーキも美味しい

 祖母はなくなる数年前、母と同じタイミングでスマホを持ち始めた。もちろん通話に使うためなのだが、祖母は「あんたらが持ってるパラパラ写真を見られるのが欲しい」と言いだしたからだ。姉や私が撮る旅先の写真や、親戚からもらった写真を入れ、暇なときにそれを見ていた。
 そういえば祖母もカメラが好きな人だった。
二度ほど家電量販店に一緒にカメラを買いに行ったことがある。姉や私が山ほど写真を撮っているのに、必ず「私も撮る」とおぼつかぬ手で写真を撮っていた。旅行に行く前には必ず「充電してくれ」と私たちに渡して準備していた。
 絞りやシャッター速度など、祖母は知るよしもなかった。いつもオートで、でも写真を撮っていた。
 祖母が膨大な写真を捨てられなかったのは、きっと今はもういない愛しい人たちを大切に思っていたからだろう。
 そういえば祖母の財布には33年も前に死んだ祖父の証明写真がいつも入っていた。そして、20歳で交通事故で死んだ孫(私たちの従兄弟のひとりだった)の写真が写真立てにあった。

三代目の猫、銀太

 発見したいくつかの写真を、葬儀に来てくれた人に渡した。
 ここ数年になくなってしまった人の、若い頃の写真。若くして逝った親戚の幼い頃の写真。こっそり祖母が写した、愛しい誰かの写真。
 誰もが、喜んでくれた。
 そしてそれこそが、写真の力なのだと思う。
 絵にはない、写真の力。
 私とあなたが一緒にいた、確かな、たったひとつの証拠。

近所

 残された買ったばかりのカメラで、私は何を撮ろう。
 好きなもの、美しいと思うもの、愛しい人たち、そして愛しいあなたに見せたい風景。
 カメラとは、愛を写す機械だったのだ。
 私が死に瀕したときいつもカメラを欲しいと思ったのは、自分が見たもの、好きなものを遺したいと思ったからだ。死にたいと思いながら、何かを遺したいと思う、鬱の中のかそけき生への欲求が、私のカメラ欲の正体だった。

 写真を探していて、一枚の写真を見つけた。
 初代の飼い猫、梵天丸を祖母が抱っこしている写真である。梵天丸を飼っていた頃はまだデジカメを持っておらず、二代目・三代目の猫たちと比べてほとんど写真が残っていなかったのだが、偶然二人(一人と一匹)が一緒になっていた写真があったのだ。撮ったことも忘れていた。
 その写真を見つけたことを初代猫を知る獣医さんに伝えると先生は言った。
「写真はあの世とこの世の窓だって言いますよ」
「きっとぼんちゃんとおばあさんは、その窓から見ててくれますよ」

 祖母のスマホを見ていたら、数枚の写真が残っていた。
 画角もちゃんとしておらず、ボケた写真。おそらく電話をかけようとしているときに間違ってシャッターを押してしまったのだろう。ベッドの上で横になった、祖母の初の自撮り写真だった。

つまらない日常もいつか愛しいものに変わるときが来るのだろうか。

 写真を撮ってください。
 そしてそれを愛しい誰かに見せてください。
 私のように後悔しないように。

 祖母の死の一週間後、親友が花見という名目で私を慰めに来てくれた。
 私は彼女と桜を撮った。
 たとえ一緒に写っていなくても、それは私とあなたが一緒に居た証拠だから。

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