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未熟と成熟(9/24)

うたた寝から目を覚ますと、左右に田んぼとポツリと家が立っていた。宮古ではない景色に2秒ほど考えた後にようやっと思い出した。
ああそうだ、今日は友人とフェスに行ったのだと思い出した。運転してもらっているのにどうやら後部座席で眠りこくってしまったらしい。

とりあえず、運転してくれている友人に眠ってしまった非礼を詫びようと思った。しかし、どうやら友人は助手席のこれまた友人と話しているようであったので、どこか良いタイミングがあるか伺いながら、少し聞き耳を立てていた。

彼ら2人は写真家と絵画作家の活動をしていて、木々のさざめきが人の顔に見える瞬間があってその表情を作りたいとか、音楽は見えないエネルギーとして体に作用し続けているのではないかという話をしていた。

よく考えることがある。自分自身が彼らと違う部分は何なのだろうかと。また未熟と成熟とは何なのだろうかと。

僕は彼らより世の中の物事や、仕組みについて知っているつもりである。明文化されたもの、そうでないものに関わらず、役所の仕事というのは多少なりともそう言った物事を知らねばならないし、知っていなければ調べたり、知ったふりをしながら懸命に勉強するような仕事だからである。
彼らの話していた事柄については原理も、どういう状況下で起こる現象なのかも知っていた。しかし彼らの、事象を自分なりに理解し毎回新鮮な感動を持って知見を得て、自分の血肉として筆やシャッターを通してアウトプットを重ねていくという仕事について、少しの憧れと奇妙な眺望を持って聞き耳を立て続けていた。

作家の三島由紀夫は、文壇に登場する際に

「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」

との最大級の賛辞を受けた。改めて未熟と成熟とは何なのだろうか。三島の社会や摂理に関する知識、それを文章に表現する能力は中等部の時点で一線を画していた。それ自体を誉められた言葉なのだろうか?いや決してそうではないはずである。作文の技術においては成熟している方がいいが、この成熟という言葉は技術だけでなく、彼の審美性という視点にも言及しているからである。

我々は未熟であることは成熟しているよりも劣っている。あるいは未熟なものは成熟するまで何かの制約を課すべきだということを常に社会通念として胸の内に秘めている。しかし稚児がおままごとをする中で、普遍的な社会性を「遊び」の中に落とし込んだ時、我々は改めて感動を覚える。これは赤子が寝返りを打った時の「未熟なものが成熟していく喜び」とは違った「未熟なものが自分自身で成熟したものを理解し血肉や娯楽に変えた」ことへの驚きと畏怖の入り混じったような感覚であろう。社会的な営みや自然の無意識の行いに、無垢な解釈が加わることで我々が発見し得なかったものを新鮮な喜びと感動を与えてくれる。未熟は成熟より劣るものではなく、成熟に先立つものとして存在している。そして未熟から成熟への成長の中で我々は思っているよりも多くのことを見落とし、それを拾い上げてくれるのはまた別の人間の無垢な魂と知的好奇心であるということを改めて感じ、文章に認めなければと思い返すようなとても良い時間であった。
結局聴くのに夢中になっていて、後部座席での非礼を詫びるのは、車が到着してからであった。この点については私も早く成熟しなければならないのかもしれない。

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