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哲学、その始原の海から~熊野純彦『西洋哲学史-古代から中世へ』

高台にのぼれば、視界の全面に海原がひろがる。空の蒼さを映して、水はどこまでも青く、けれどもふと青空のほうこそが、かえって海の色を移しているように思われてくる。
下方では、あわ立つ波があくことなく海岸をあらう。遥かな水平線上では、大海と大空とが番い、水面とおぼしき協会はあわくかすみがかって、空と海のさかいをあいまいにする。風が吹き、雲が白くかたちをあらわして、やがて大地に雨が降りそそぐとき、驟雨すら丘によせる波頭のように感じられる。海が大地を侵し、地は大河に浮かぶちいさな陸地のようだ。
...
タレスが「水」という一語を発し、のちに「哲学の祖」と呼ばれることになったのは、まちがいなく、ギリシア世界のそうした風景と、その風土が生み出した神話を背景としてのことである。
ミレトスの港町は地中海に開けていた。来る日も来る日も、昼も夜も、海は波をつくり、波をよせる。ひとがつくり上げたものなど、まだほんのささやかであった時代にも、海は無限に波浪をあげて、際限もなく波頭をつくりつづける。...反復は、ちいさな反復を無限にうちにふくんで、それ自身として循環し、おわることがない。世の移ろいと、自然の生成変化は、すべて海の中に写しだされているのである。「水」という一語の中には、なにかそうした悠久の存在感覚がある。滅びてゆくものを超えて、滅びてはゆかないもの、死すべきもののかなたに在りつづけるものへの感覚がある。そこには、果てのないもの、無限なるものへの視線がつらぬかれ、世界のとらえがたさに、思わず息を飲む感覚が脈打っている。

本書は、こうして始まる。

大学の哲学科で教養課程のテクストとしてよく使われている本のようだが、古代ギリシアの、素朴にして雄大な自然風景を読者の眼前に立ち上げる、なによりもまず、美しく詩的情緒あふれる文が紙面を踊っている。

著者の熊野純彦という人は、とにかく守備範囲が広い。カント、マルクス等の近代哲学が専門ながら、古代、中世に関する造詣も深く、国学関連の著書があったりもする。本書は、西洋哲学史の全体を、新書という体裁において全2巻500p超でその射程に収める試みである。

コンパクトにまとまった哲学史としては、かなりことの細部まで立ち入っている。たとえば古代では、メリッソスやメガラ派~アカデメイア派の展開、プロティノス、プロクロスあたりまで紙面を割き、中世ではポエティウスにまるまる1章を配する充実ぶりである。他方、一人ひとりの描写としてはそれなりに切り落としており、取り上げている側面にも一定の傾斜があるのは否めない。

本書においては、大きく2つの特徴がある。

ひとつには、哲学者たちの各思想を史実として単に列挙・解説するのでなく、哲学者その人にもしっかりとスポットライトを当て、その生活史や時代背景などからも、思想の起源を読み解くスタイルを取っている点がある。

冒頭で引用した第1章の始まりにおいて、「万物の根源は水である」と説いたタレスを、彼が住まう世界の風土や生活感覚からとらえているのも、この好例である。

もうひとつには、原文テキストの引用にこだわる点がある。著者によると、原文の魅力をつぶさに味わうことが哲学の醍醐味であり、自身の手による抄訳や訳書の抜粋などがふんだんに盛り込まれている。

これらの特徴と柔らかく美しい文体によって、本書は哲学史の入門書としてはかなり独特な雰囲気を帯びている。じっさい、このスタイルが奏功している箇所と失敗している箇所がかなり明確だし、本書を読んだときの好き嫌いも、だいぶくっきりと分かれるのではないかと思う。

新書という点で、ターゲットは必ずしも哲学を専門的にこなしている人ではないながら、原テクストが頻出する構成上、必ずしも初学者が理解できる部分ばかりではない。

たとえば、中世神学における「一なるもの」「一者」の概念把握に必要な説明は足りているとは言えず、中世全体がそれなりに苦痛だったりした。プラトン-アリストテレスのイデア/形相辺りも、原典や概説書を読んでいない読者は理解に窮するであろうと思う。

しかし、にもかかわらず、著者の語り口そのものは常にとてもなめらかで、艶やかでもある。ときに何も分からず頭を抱えるが、またときに、著者と哲学者のことばに運良く共鳴し、その思想の鋭さと鮮やかな描写に膝を打つ。

つまるところ、前もって広く初歩的な知識を頭に入れた読者が、その後の自身の興味の方向性を定めるために、自身に刺さるポイントを探すというのが本書の有効な使い方であるのだ。そのための深い共鳴点となりうるような素材が、本書には多く散りばめられている。

西洋哲学の基本概念を1から10まで頭に入れたい読者にとって、これは悪書にもなろう。それでも、その一歩先へすすむ志向性をもつ学習者にとって、本書は独特で濃厚で、とても有用なポスト入門書であると感じている。

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