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『消費社会』の言葉とモノ

夢の国の幻覚に取り囲まれ、繰り返される広告に説得されて、自分たちには豊かさへの正当な、譲渡できない権利があるのだと思いこんでいるにかかわらず、消費者大衆は豊かさを自然の結果として受けとっているのではないだろうか。消費への素朴な信仰は新しい要素であり、今後は新しい世代がその相続人である。彼らは財産だけでなく、豊かさへの自然権をも相続する。

『消費社会の神話と構造』ボードリヤール,紀伊國屋書店,p. 28

いまや、我々の幸福というものは、パノプリ=パッケージとしてのモノ同士の相互関係のうちに凝集している。

かつてオルテガは、(例えば都市における)大衆の密集、充満を指摘した。ながらく特定の階級のみのものだった幾多の社会的リソースが、19世紀のうちに急増した盲目的な群衆により殺到され、蕩尽されるようになった、と。

かつては特別な資質を持たない個人、つまり普遍一般の人間個人の主権に関する理念や法的理想だったものが、いまや平均人を構成する一つの心理状態へと移行したのだ。気をつけていただきたいのは、かつては理想であったものが現実の要素となったときには、もはや皮肉なことに理想ではないということなのである。理想の属性でもあり人間に及ぼすその効果でもあった権威と魔力ともいうべき効力が、雲散霧消してしまうのだ。あの寛大で民主主義的な霊感から発した平等への権利は、熱望や理想ではなくなり、欲求や無意識の前提へと変化してしまった。

『大衆の反逆』オルテガ,岩波文庫,Kindle版位置番号. 886

現在そこら中を歩き回り、ところ構わず自分の内なる野蛮性を押し付けているこのような人物は、実のところ人類史の中の甘やかされた子供なのだ。甘やかされた子供はひとえに相続することしかしない相続人である。そして現在でいう遺産とは文明──快適さ、安全などの便益──である。

同書,Kindle版位置番号. 2,077

オルテガが「満足したお坊っちゃんの時代」と呼ぶこの時代の大衆の精神性のうちに、すでにして現実的な社会的関係による権利規定から商品的な効能の実体化への離陸の兆候が見られる。

理想が現実になり、欲望は無意識へと滑落する。無意識の次元に蠢く主体化の作用と(権利への)欲望の原理は、マルクスの社会理論において外面的にはモノ同士の相互作用として倒錯的に現れる。普遍的な貨幣価値を帯びて屹立する物神としての商品が、現代における相続の対象なのである。

フロイト/ラカンを経て、無意識のうちに、あるいは現実界と接して抑圧されているものに、焦点があたるようになる。我々がうちに密かに抱えている根源的な欲動は、決して充足し得ないがゆえにその代わりに現実的でささやかな享楽を完璧に組織する。永遠に到来し得ない"幸福"を現実的に待望し、その権利へと自ら奉じさえしながら、一方で安心安全な日常性に埋没しつつ享楽的・暴力的なものを消費する大衆。ボードリヤールはその矛盾を悲哀とともに描いてみせた。モノ=商品がここでの消費の対象であり、商品価値(への素朴な信仰)として経験される幻想こそが、われわれの愉快で華々しい消費者ライフを織りなす生の裂け目である。

のちにS・ジジェクは、ラカン派の用語を借りてこうした矛盾を「外傷的なもの」と呼ぶことになる。

イデオロギーは、われわれの現実の社会的諸関係を構造化し、それによって、ある堪えがたい、 現実の、あってはならない核(エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによって「アンタゴニズム」、すなわちけっして象徴化されえない外傷的な社会的分離、として概念化されたもの)を覆い隠す「幻覚」なのである。

『イデオロギーの崇高な対象』S・ジジェク,河出文庫,Kindle版位置番号. 1,099

総合デパートにおいて、あるいはドラッグストアにおいて、パッケージとして語られる”幸福”は、消費者個々人の欲動が〈他者〉へと転移した姿であり、その現実を象徴化作用から遠ざけつつ、同時に現実を構成する枠的なものとして働く。そうであるがゆえに常に「意味」を問い得ないものとしての裂け目は、現代では認知的不協和、神経症、笑い、依存症、希死念慮、双極性障害、心理的安全性、シニシズムなど様々な形を取って現れ、生の各場面を条件づけている。

なぁ、リーマン。教えてくれや。
「いつか報われた」から、お前はそんなに楽しそうなんか?
生まれなんか、言いわけにならんくて、
人はみんな、「普通」にやれば幸せになれるんか?

正解はどれやったん?
…俺らがアホなだけで、方法はあったんかな。
運が悪いだけなんやったら、そんなんしんどすぎるやんか。


あぁ…そうか…

だから詩が、いるんか。

大路雪人,『スーパースターを唄って』薄場圭,小学館

ボードリヤールに言わせれば、カウンターカルチャーもまた一つの"幸福"神話に過ぎないだろうが、ポスト・ポスト構造主義の時代を生きる我々は、満足しきってもいないし、自身の純朴さにすがってもいず、冷笑的な構えの包囲網のうちにただ漫然と憂鬱である。

とすると、心の臓に重低音で響く煮えたぎった言葉ぐらいしか、もう残されていないじゃないか。正解がないこと=端的な理解不可能性そのままを、ストレートに唄う=怒るしか。

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