『消費社会』の言葉とモノ
いまや、我々の幸福というものは、パノプリ=パッケージとしてのモノ同士の相互関係のうちに凝集している。
かつてオルテガは、(例えば都市における)大衆の密集、充満を指摘した。ながらく特定の階級のみのものだった幾多の社会的リソースが、19世紀のうちに急増した盲目的な群衆により殺到され、蕩尽されるようになった、と。
オルテガが「満足したお坊っちゃんの時代」と呼ぶこの時代の大衆の精神性のうちに、すでにして現実的な社会的関係による権利規定から商品的な効能の実体化への離陸の兆候が見られる。
理想が現実になり、欲望は無意識へと滑落する。無意識の次元に蠢く主体化の作用と(権利への)欲望の原理は、マルクスの社会理論において外面的にはモノ同士の相互作用として倒錯的に現れる。普遍的な貨幣価値を帯びて屹立する物神としての商品が、現代における相続の対象なのである。
フロイト/ラカンを経て、無意識のうちに、あるいは現実界と接して抑圧されているものに、焦点があたるようになる。我々がうちに密かに抱えている根源的な欲動は、決して充足し得ないがゆえにその代わりに現実的でささやかな享楽を完璧に組織する。永遠に到来し得ない"幸福"を現実的に待望し、その権利へと自ら奉じさえしながら、一方で安心安全な日常性に埋没しつつ享楽的・暴力的なものを消費する大衆。ボードリヤールはその矛盾を悲哀とともに描いてみせた。モノ=商品がここでの消費の対象であり、商品価値(への素朴な信仰)として経験される幻想こそが、われわれの愉快で華々しい消費者ライフを織りなす生の裂け目である。
のちにS・ジジェクは、ラカン派の用語を借りてこうした矛盾を「外傷的なもの」と呼ぶことになる。
総合デパートにおいて、あるいはドラッグストアにおいて、パッケージとして語られる”幸福”は、消費者個々人の欲動が〈他者〉へと転移した姿であり、その現実を象徴化作用から遠ざけつつ、同時に現実を構成する枠的なものとして働く。そうであるがゆえに常に「意味」を問い得ないものとしての裂け目は、現代では認知的不協和、神経症、笑い、依存症、希死念慮、双極性障害、心理的安全性、シニシズムなど様々な形を取って現れ、生の各場面を条件づけている。
ボードリヤールに言わせれば、カウンターカルチャーもまた一つの"幸福"神話に過ぎないだろうが、ポスト・ポスト構造主義の時代を生きる我々は、満足しきってもいないし、自身の純朴さにすがってもいず、冷笑的な構えの包囲網のうちにただ漫然と憂鬱である。
とすると、心の臓に重低音で響く煮えたぎった言葉ぐらいしか、もう残されていないじゃないか。正解がないこと=端的な理解不可能性そのままを、ストレートに唄う=怒るしか。
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